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プロローグ

 この世はあらゆる事に発展を遂げ、文明は進化を続けている。

 とある偉人によってあらゆる経済社会を改善、発展させ、この国の―――いや、世界各国の金銭の大きな循環を生み出した。

 そしてその経済を支えるあらゆる技術や知識から、新たな発見による発展で、この世の経済社会は歩み進んでる。

 実に良い事だ。

 それは人の生活が、豊かに()るという事なのだから。

 特に食事に関しては大きな発展と改善がされ、食べる事に困る事が無くなったのが大きいだろう。

 昔の時代と比べ、味の質が良くなった。そして味だけではなく、まるで芸術品を作るかの様な技術もが発展し、そして進歩する。

 今の世の中は、不便な事が殆ど無く、あらゆる事に満足出来る幸せな世界に違いない。



 ――――だが、それは表向き。

 全ての人が幸せに恵まれているのは、夢幻(ゆめまぼろし)と言えるだろう。



 人間は善と悪、2つの潜在意識を持つ混沌の存在だ。

 この世にはあらゆる所に善人の行いを、喰い物にする悪人が存在する。

 その人の積み重ねてきた成果を横から()(さら)い、まるで自分がしてきたかの様な我が物顔をする者。

 人の苦労を見向きもせず、自身の重荷を勝手に背負わす者。

 (また)はそれを見て嘲笑(あざわら)い、己の失敗は全て他人の所為(せい)にする薄っぺらな傲慢(プライド)を有す(おろ)か者。

 権力に(おぼ)れ、人を物として損得で見る冷酷な金の欲望者。

 (だま)し、(うば)い、暴行し、挙句(あげく)には殺してしまう。

 貧しき者は簡単に淘汰(とうた)され、持つ者には抵抗出来ずに、苦しみ息絶えるだけだ。


 これが現実――――。

 本当の世の中――――。

 これが世の裏側に存在する真実だ。



 少し広大な平野の土地。周りを見渡す限りの平野。

 この平野の土地に訪れる者は、決して1人も居ない。

 その土地は山に(おお)われる様に囲われた殆ど無い少し小さな平野であり――――いや、その土地に古びた木製の家が建っていた。

 家と言うよりは小屋と言うべきだ。今の時代には余りにも古く、(ひど)くボロボロで(さび)れている。

 ()ずこんな所に住む所か、何も無いこの土地に来ようとする者は決して誰も居ないだろう。

 何よりも、その土地は殆どが()せこけていた。

 所々の大地は旱魃(かんばつ)しており、雑草すら殆ど生えてもいない。

 これでは農業をする以前に作物自体が育たない。人が生きていく為の自給自足が出来る筈が無い。

 そんな土地で、その寂れた小屋から1人出て来る者が居た。


 そう、此処(ここ)に住む者は――――たった1人だけ居た。


 青年が小屋から出て来た。

 身長は男性平均値より少し高く、体軀(たいく)の方は痩せこけてはおらず、ある程度しっかりと引き締まっている身体をしていた。髪の毛は男とは思えない程にかなり伸びており、手入れをしていない為ボサボサな状態になっている。髪の毛を手入れする道具等は当然持っていない為、しようにも出来ないのだ。

「ふぅ……今日も寒いな」

 その青年―――白石大地(しらいしだいち)は殆ど何も無い平野をゆっくりと見渡し、大きく深呼吸を一回して直ぐに脚を動かし、小屋から一番近い山の方へ歩み始めた。

 一番近い山と言っても、此処から歩いて行く距離にしては余りにも遠い所で、何時(いつ)もおよそ3時間程の長距離を毎日毎日往復し続けるのが日課になっていた。日課と言うよりは、もはや習慣と言うべきだろう。

 しかも今は冬の時期に入っている為、とても寒い。

 そんな寒気の時期にも関わらず、白石大地は防寒具を1つも持っていない。何時(いつ)もの何も特徴が無い長袖のシャツ一着と長ズボン一着。唯一(ゆいいつ)特徴があるのは上下の色が灰色なぐらいだけ。靴もかなりボロボロの状態であるが、無いよりかは充分に良い方だ。もしこの時期に裸足で歩くものなら、寒さの余り痛い思いを冬の間味わい続けなければならなくなる。下手をすれば足が凍傷に為り、歩く事が(まま)ならなくなってしまう。

 だが彼は、そんな疲労や寒さの苦痛をものともしていなかった。

 永年(ながねん)この土地に住み続け、唯一少しながら食糧が()る山に長時間歩き、何度も往復し続け、灼熱の夏の時期と極寒の冬の時期を幾度無く経験し続けたからなのか、その永年の積み重ねで身体はその何方(どちら)にも適応していた。―――いや、感覚が麻痺(まひ)してしまったと言った方が正しいだろう。

 そんな彼は、嫌な顔を全く出さなかった。

 それどころか、何時も(おだ)やかな表情をし続ける。

 白石大地は、生まれながらの穏やかで優しい性格をしており、困っている()()()を見捨てる様な事をしない心を持った人間である。

「今日は妙に暗いなぁ。雲も随分と分厚いし…」

 曇天(どんてん)の暗い空を見上げながらのんびりと呟き、「何か食べれる物が在ると良いなぁ」と少し暢気(のんき)な事をぼそりと言いながら遠い目的地へと歩み続ける。

 

 長い長い道程(みちのり)を歩き続けて、(ようや)く目的の山に到着した。

 この平野を取り囲む山々の樹々(きぎ)はそこまで数が多い訳ではないが、1本1本が太い幹をしており、下から見上げて見ても立派な大きさである。

 そして平野と違い、山の大地には黒味掛かった緑の植物が(おお)(しげ)っている。

 この平野の周りを囲む山々は、まるで平野の恵みを吸い尽くそうと今も無数の長い根っこで(むさぼ)り吸い尽くそうとしているかの様だ。

 いや、実際にそうなのかもしれない。

 山と平野の恵みの差は余りにも、不公平――――いや、圧倒的不平等と言うべきなのだろう。

 この土地にたった1人住む、ちっぽけな人間が大自然を変えるどころか、抗う事も出来る訳が無い。

 

 受け入れるしかない。

 納得が出来ない、そんな思考は無意味だ。

 この不公平な世の中を。

 過酷な現実を。

 たった一人の力では変える事の出来ない事実を。

 受け入れなければ、進む事すら出来なくなるだろう。


 孤独な青年は山の恵みを拾う為に、彼方(あちら)此方(こちら)と、縦横無尽(じゅうおうむじん)に歩き、樹の実集めに没頭する。

 この山に実る樹の実は団栗(ドングリ)に似た名称が分からない物しかなく、味は非常に不味(まず)いと(まで)はいかないが、少しだけ独特の苦味がある為、味わって食べようなどと思いもしない。

 さっさと(かじ)って飲み込んで、ある程度の空腹と最低限の栄養を満たす。

 それでも物足りなさは感じてしまう。

 だが文句を言う事は出来ない。

 (わず)かな贅沢(ぜいたく)など、この土地では決して出来ない。

 食べる物が全く無いより、充分に良い方であったからだ。

流石(さすが)にこの時期は少ないなぁ。まぁ、何とかなると思うけど」

 彼は何時も通りの、少し楽観的な感覚と、穏やかな表情で食糧集めに(いそ)しんでいた。

 今日も大して変わり映えの無い毎日と大差が無い。


 ――――変わらぬ貧しい毎日だ。

 


 白石大地は元々、生まれた時から貧困生活を送っていた訳ではなく、人並みの生活をしていた事があるのだった。更には小学校、中学校までの最低限の教育を受けて卒業をしている。

 ただ、生まれた時から両親が居なかった。

 顔すら知らない。

 行方すら、誰も知らない。

 しかし、お金に困る事は無かった。

 そのお金はいったい何処(どこ)からの物なのだろうか。顔すら知らない両親の遺産なのか。

 この事については誰も解き明かす者は誰1人居らず、今もずっと謎のままである。

 御蔭(おかげ)で孤児院での生活で衣食住に困る事は無かった。それなりの美味しい食事で満足する事が出来ていた。更には小学校と中学校に通う為の学費も問題無く支払いが出来、無事に卒業する事が出来た。

 卒業後は直ぐに仕事を探し始めた。

 その時は()だ金銭に余裕はあったが、高校の進学を止め、自分の先の未来を考えて生活費を稼ぐ事にしたのだ。

 少しばかり無理にアルバイトをこなす日々。

 学校に通うより早く起きなければならない為、眠気や身体に()()かる(だる)さは辛いものがあった。

 それでも充実感と言うものが其処に在った。

 特に、お互いを助け合う事に大きな充実感を得ていた。

「ありがとう」「助かるよ」。とても単純(シンプル)な言葉だが、感謝の込もった言葉が、白石大地の心に大きな充実感を与えてくれるのだ。

 そんな仕事仲間関係との生活を、彼は望んでいた。


 しかし、其処に大きな障害物が立ち塞がってきたのだ。

 それは余りにも不運な事に、アルバイトで勤めていた会社の上司が私利私欲の権力者であったという事だ。

 その上司は人を人と見ず、他者の感情など見向きもしない。使えないと判断すれば即切り捨てる。

 ひたすら私腹を肥やそうと、ただ利益のみを求め続ける。

 まさに強欲者と言うに相応しい人間だった。

 白石大地は穏やかで優しい性格の、世の中で数少ない善き人格者として他の社員達に人気があったが、その性格が気に入らないと言う理由で上司に目を付けられてしまい、職場権力による一方的な暴力を振るって来た。

 そしてアルバイトを始めてから数年後には、社長から仕事ぶりによる高い評価を貰い、正社員として正式に雇用された。そんな日を境に、上から正式に雇用された白石大地が気に入らなかったのか、上司のパワハラ行為は更に勢いを増した。

 在りもしない失敗の押し付け。

 大量の仕事を自分勝手な言い訳で社員に丸投げ。

 大人とは思えない陰湿な嫌がらせ。

 それを見ていた他の社員達は助ける事が出来なかった。逆らえば何をされるか恐ろしく、自分の身を護る事で精一杯だからだ。

 

 しかし、白石大地は違った。

 

 強欲権力者に真正面から迎え撃った。

 自分に色々と仕事の仕方を教えてくれた、そして時に助けてもくれた人達を護ろうと行動を起こした。

 方法はとても簡単だ。

 証拠映像を映せば良い。

 そして最高責任者である社長にそれを見せれば良いだけだ。

 その内容は3ヶ月分のパワハラ映像だ。

 これだけの証拠が有れば、社長だけでなく誰もが信じ納得する他ない。

 証拠映像提出の翌日、強欲者の上司は解雇(クビ)となった。それどころか、更には是迄(これまで)他の従業員に押し付けてきた自分の失敗による多額の賠償金、更には会社の金を横領していた事迄ボロボロと証拠が明るみに為り、会社に多額の損害賠償と横領した分の金額を支払う羽目になったのだ。

 その時の顔は怒りと絶望で歪み、社長の前で泣き崩れていたらしい。

 当然の報いだ。

 それだけの悪業を積み重ねるが如くしてきたのだから。

 

 社員達は権力的暴力から解放され、心の底からの笑顔を表す事が出来る様な仕事環境が出来上がった。上司が解雇(クビ)と為った事を知らされた時、喜びの余りに涙を流す者まで居た。

 何より、白石大地が元上司のパワハラ問題を解決した事が何よりも大きく、他の社員達からは救世主の様な存在と高評価を得たのだ。

 皆彼に感謝の言葉が殺到した。


 良かった。本当に良かった。

 皆が笑って過ごせる環境が出来て。


 彼にとっては助ける事が当たり前であるのだ。

 助け合う事で、お互いにより良い幸せを、共に分かち合えると信じて。

 助ける事が出来るだけで、その人の笑顔を見れるだけで、感謝されるだけで、とても満足だった。

 


 ――――だが、それで無事終わりとはいかなかった。

 

 

 仕事場の環境が改善されてから数週間後、仕事からの帰り道で、突如(とつじょ)と誰かに後ろから金属棒で後頭部を殴り付けられてしまった。

 後頭部を思い切り殴られ強烈な脳震盪(のうしんとう)を起こし、意識が混濁(こんだく)した状態でその正体を視界に映し知った時にはもう遅過ぎた。

 解雇され多額の賠償金を会社に支払い、殆どの財産を失った強欲者。

 元パワハラ上司だ。

 清潔感の欠片は無く、汚い無精髭を生やした醜いおっさんへと成り果てていた姿を、少し霞んだ視界で捉える事が出来た。

 殴って来た相手が元上司の怒りが混じった歪んだ下卑(げび)た笑みを認識した直後、白石大地の混濁した意識が徐々に遠く為り、視界が真っ暗に為り、その先の出来事は()(よし)も無かった。

 

 そして意識を取り戻した後、この何も無い、荒れに荒れ、殆ど枯れ果てた平野の土地が目に映り込んだ。

 此処が何処(どこ)なのかは判らなかった。

 だが恐らくは、気絶している間に運ばれた事だけは確かだ。

 まさか殺さず、この様な逆恨みをするとは意外だった。

 いや、楽に殺してしまうより、少しでも永く苦しんで欲しいのだろう。

 何方(どっち)に向かえば元居た場所に帰れるのか、当然判らない。

 この様な所に人が来る訳も無い。

 助けを求めるのも無理だ。

 そしてあっさり悟ってしまった。

 此処で生きていくしかないと。



 ――――白石大地はすんなりと、現状を受け入れたのだ。



 そして今現在に(いた)る。

 漸く樹の実を集め終える事が出来た。量は少ないが生きていくには問題無い方だ。

「まぁ、こんな所かな?」

 樹の実が詰まった小袋を握り締め、帰宅の歩みを進め出す。

 時計が無い為正確な時間は判らないが、辺りが暗くなり始めていた。

 何より、今日は何時もと違い妙に暗い。

 雲がとても分厚いのは朝見て知っていたが、更に分厚く、更に暗くなっていた。

(やっぱり今日は変だ。何だか嫌な予感がするのは気の所為(せい)だろうか)

 今迄(いままで)の経験の中、この様な曇天は初めてだった。

 何だか気が重く感じる。

 湿気っぽい空気が鼻腔(びこう)を通り感じる。

 あの分厚い雲の塊は雨雲に違いない、と確信した。

(早くこの山から出よう。流石に雨でずぶ濡れになるのは勘弁だ)

 流石(さすが)の彼も、普段は少し楽観的でのほほんとしているが、本当に危険を感じれば悠長(ゆうちょう)な事などせず、自分の身はしっかり護る事が出来る人間でもあるのだ。元上司との件は不意を衝かれた為、流石に防ぐ事が出来なかったが。

 直ぐに帰宅しようと、山を(くだ)り、長い長い帰り道に向かおうと歩き始め――――。

 

 ――――数歩歩いた直後、いきなり大量の大雨粒が一気に降り注ぎ出したのだ。


(えっ!? 何だ!?)

 何かの予兆も無く急に雨が、まるで巨大なシャワーで大量の水を掛けられてるかの様な、今迄で経験した事が無い大豪雨が襲って来たのだ。

 大量に落ちて来る大雨粒は彼の身体を滅多打(めったう)ちに落ち続ける。

 服の上からでも分かる程の痛みが走る。

 余りの大量の雨粒の所為で視界が余り良くなく、(まぶた)を開けようとしても雨粒が目に入り、瞼を開ける邪魔をしてくる。

(やばいやばいやばいっ!! 何だこれ如何なってるの!!?)

 豪雨は彼を容赦無く滅多打ちにし続ける。

 更に分厚い雨雲から唸り声を上げているかの様な雷が鳴り響いた。


 ――――やはり異常だ。


 この時期にこの様な事は今迄無かった。

 何が何だかさっぱり分からない。

 異常な豪雨に思考が奪われ、ただ一刻も早くこの山から降る事しか考えられなかった。

 視界が(さえぎ)られても、脚を動かさなければ、歩かなければならない。

 腕を目頭(めがしら)辺りに被せる様に目から大豪雨を防ぎ、ゆっくりと歩みを進める。山の地面は異常な大豪雨の所為で1分もせず地面は泥濘(ぬかるみ)へと変わる。とても滑り易く為ってしまい、少しでも重心を崩してしまえば脚を取られ、滑りながら転んでしまうだろう。

 ゆっくりと、脚を動かす。

 ゆっくりと、歩み続ける。

 ずぶ濡れになりながら、寒さに(さら)されながら、必死に歩み続ける。

 


 そんな豪雨の中で、不吉な音を耳にした。

 地面に叩き付けられる煩い雨音の中で、小さいがはっきりと聞こえてきた。

 少しずつ、少しずつ、不吉な音が近付いて来ると同時に地鳴りの様な振動が内臓に伝わって来た。

 更に大きく、更に大きく、音が近付いて来る。



 

 ――――〝死〟の予感を、生まれて初めて実感した。




「ぁ……」 

 絶望が目の前に現れた。

 恐怖が己の心を塗り潰す。

 死の災害が迫り来る。

 

 土砂崩れだ。


 彼は走った。

 走らなければ為らなかった。

 ゆっくり歩く猶予(ゆうよ)など無くなった。

 足を滑らせ、転んでしまう事など気にする余裕など無くなった。

 死が後ろから迫り来るのだから。

 大量の土が流れ、岩を押しながら巻き込み、山の樹々を根の下から(えぐ)り取り、山に在る全ての存在(もの)を呑み込んでいく。

 走る。走る。走る。走る。走る――――。

 足が滑り、転んでしまいそうになっても、無理やり体勢を直し、走る。走る。走る。走る。ひたすら走る――――。

 何も考えられない。

 恐怖しか感じられない。

 逃げる事しか出来ない。

 強大な大自然の災害に抗う事が出来ない。

 無力でちっぽけな人間――――白石大地は走る。

 

 そして彼は途中で盛大に滑り、転んでしまった。

 急いで立とうとするが、脚に力が入らなかった。

(不味い! 脚を捻った!)

 脚から激痛が走った。

()ゥッ!」

 それでも無理やり立とうとした。

 しかし、脚は動こうとしなかった。

 いや、動かせないのだ。

 激痛が脚を動かす命令を邪魔をしてくる。

「動け! 動け! 動け――――っ!!」

 白石大地は自分の脚を掴み叫ぶ。

 叫びは豪雨と土砂崩れの鳴り響く音で搔き消される。

 だがその直後、彼の心の中にあった焦りと死の恐怖が、一瞬にして消え去った。

 

 死の災害は(すで)に目前に迫っていた。

 今から走れたとしても、もう逃げられないだろう。

 

 彼は悟ってしまったのだ。

 いや、開き直ったとも言えるのだろうか。



 自身に迫る死を――――受け入れたのだ。



 これが運命と言うやつなのだと。

 この大自然の抗えぬ災害を受け止めようと。

 納得出来る出来ないなど関係無い。

 考えても無意味なだけだから。

(僕の人生は、此処で終わりかぁ…)

 受け入れるしかないのだ。

 彼は焦りと恐怖が心の中から消え去ったからか、何時もの穏やかな表情に戻った。

 未練は無い。

 そこまで長くは生きていないが、正しい事を貫いた。

 辛い事も沢山経験した。

(満足だ……)

 思い残す事は――――何も無い。


 そして、視界は土砂と巨大な岩石とそれに呑まれた樹々で蔽い尽くされた。

 近くで見れば、まるで海の大波の様だ。

 そして彼は、土砂に飲み込まれようとして――――。

 岩石が頭蓋骨を砕き、首の骨が圧し折られた。

 一瞬の事だった所為か、不思議と痛みを感じなかった。

 直後、目の前が真っ暗になった。

(これが…、死ぬと……い…ぅ………)

 白石大地は、土砂崩れに呑み込まれる直前に――――死を遂げた。

 そして死者を呑み込み、荒々しく、大雑把に、豪快に土葬をした。



 誰にも知られる事無く、白石大地と言う青年は、この世界から消え去った。

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