90・黒竜ホイップ
「凄い本の量。確か表紙がしっかりした本って安くないんだよね?」
応接室で、ロインは入ってすぐ、壁一面に置かれた大量の本に見とれていた。
案内された部屋の作りは長方形で、部屋の間取りに合わせ長いテーブルとソファーが中央に配置されている。部屋に入って左側に大きな本棚、右側に本以外の物を置く棚と複数の絵画が壁に飾られていた。一番奥にはユーティーが、もしかするとクレオが使う仕事用の机が置いてあり、家具の目利きがあるわけではないので、実際どれ程の物かは不明だが、テノアで見る物よりもそれなりに高価そうには見える。
本棚に並ぶ、少なく見ても百冊以上の本は、大きさや分厚さはバラバラ。本の種類も英雄譚や冒険譚など架空の物語や御伽話。他にも歴史、宗教、医学の本など、一部とは言え背表紙に書かれた題名を見る限り、その内容はまるで統一性がない。
「そうだな」と応えたノイドは、その本棚を背に長い大きなソファーに背を預け、壁にかかる複数の絵画を見ていた。
だがロインにとってはどうしても、本の方に目が移る。元々、忍術の習得はノイドが所有する書物を読み漁り、自己流で覚え、父に確認してもらう手法だったので、本を読むことは意外と好きな方である。
しかし、幻魔族はあまり本を読む習慣は無い訳ではないが少ない為、このアティセラ大陸の本を読む機会はほとんどなかった。
それゆえ、目の前の本達はロインの好奇心を刺激するのに十分な存在だった。
それゆえ、この時ノイドがどんな絵画を見ていたのか、部屋を出た後もしばらく気づく事はなかった。
しばらくして部屋の外から、人の気配と足音でロインはノイドの隣に座る。それと同時に扉が開き、大きなカゴを持つクレオとニーナが入ってきた。
「待たせてしまってごめんなさいね。ユーティー様の用事が済み次第、妖精族の方々の所へ行かれるのでしょう? なら昼食にはまだ少し早いかもしれないけれど、簡単な食事を用意していましたのでよければどうぞ。お口に合うと良いのですが」
「お手数おかけします」
「有難うございます。実はちょっとお腹空いてたんだよね」
カゴを持つクレオと、カゴに入った料理を手際よく並べていくニーナに、二人は礼を言う。
料理を乗せる食器やコップは、綺麗な形で美しい花の絵などが描かれているなど、家具とは違い明らかに高価な物だと分かる。このシルケイトの町の住人が、どれ程の食器を使用しているのかは不明だが、テノアではかなり古い長く使い続けられた木製の食器が多く、陶器物も多少はあるが形が歪など全部が質素な作りだ。
料理とそんな食器を並べるニーナの髪から、ほのかに花の香りがしたのでちゃんと洗い流したようだ。
「フィアナ様の事では申し訳ありません」
「フィアナ殿?」
静かに四人一緒に食事し、食後のお茶を飲んでいたクレオはカップを置いた後、頭を下げ謝罪した。
突然の謝罪に、一緒にお茶を飲んでいたロインとノイドは『何のことだ?』と、言わんばかりに不思議そうな顔で見合わせる。
「半年前、フィアナ様が亡くなられてから一度もお墓参りに行っていないことです。あの方には十六年前から色々助けていただいていたのに……。それに大賢者を後継されたテノア様に挨拶もしていない事も。わざわざ御二人がこられたと言う事は、御二人ともテノア様の親族の方なのでしょ?」
「はい、そうです。俺の祖父に当たります」
空になったカップを置きながら頷くロインにノイドが続ける。
「それに関しては謝罪は不要。いくら人間族との争いがなくなったとは言え、魔獣や魔物がいるこの地での旅は安全とは言えない。天使殿なら大丈夫だろうが、それに百年前以前でも北と南間を行き来する幻魔族は数少なかったのだ、無理はすべきではない」
「そうですね……ありがとうございます」
そう言ったクレオは微笑みながら小さく頷いた。
「あ、そうだ、クレオさんにいくつか聞きたい事があるんですけど良いですか?」
「ええ、何でしょうか?」
「昔四~五十年ほど前、人間族の村で暮らしていた幻魔族の親子がいると聞いたんですけど、何かご存知ですか? 何でも当時、人間から逃げてきた後、この町には入らずに森の方で妖精達と暮らしていると聞いたんですが、何か知りませんか?」
クレオは俯いてしばらく考え込んでいたが、記憶にないのか小さく首を横に振った。
「いえ、多少こちら側が森に行く事も、妖精達が町の中に来られる事もありますが、少なくとも幻魔族の誰かが森で暮らす事も、逆に妖精族がこちらの町で暮らす事も聞いたことありません」
「そうですか……」
どうやらドルヴァンと出合った幻魔族の子供は、そのまま妖精達と暮らしているようだ。
最悪どちらか、あるいは両名が母親同様亡くなった可能性も無いとは言いきれない。
「町の方に来ないなんて、同族同士で何かあったのかな」
「さあな。ただ自分達の正体を隠してまで人間の村で暮らしていたんだ、この町に入って来れないほどの何か、理由があったのかもしれん。無事タダナリの話が聞ければ良いのだが」
「うん、無事会えると良いな」、そう呟いた。
ロインはその二人の無事と初代半蔵と思われる、正成の情報が聞ける事を強く祈っていた。
「そうだ、あとホイップでしたっけ? あの黒い竜って黒の竜王、じゃないですよね」
「ええ、あの子は十六年前、卵から生まれたどちらかの竜王の子供だと聞いています」
「どちらか?」
「今から四十五年前、『ロイン・ファイリス』と人間の手によって、白と黒の竜王が討伐されました。この辺りは一通りご存知だと思いますが……実はこの話には続きがあって、討伐された二体の竜王の遺体は跡形も無くなっていたそうです」
消えた巨大な遺体、それはドルヴァンが言っていた話だ。だがこの話には更に続きがあった。
「その後、人間族で結成された調査隊は、竜王が住む巨大な洞窟を隅々まで探したそうですが、結局二体とも遺体を発見できませんでした。ですが洞窟の一番奥、戦闘が行われた場所に大きな卵が発見されました。この時はどちらかの卵だろうと……回収された卵は王国のお城の地下に封印されていたと聞いています」
カップを手に取ったクレオは、お茶を一口だけ含み口を湿らす。
「その卵からホイップは生まれたんですね?」と、確認するとクレオは「ええ」と頷いた。
「でも、王国に回収された卵から生まれた竜が、何でここで暮らしてるんですか?」
「以前ユーティー様が人間族のお城に行った事があるのです。その時に二十年近くも沈黙、卵から孵る気配も無かったあの子が誕生したらしいのですが、その時真っ先にユーティー様の頭にかぶりついたとか。当然城内は大騒ぎで、必死であの子を引き剥がそうと、力ずく引っ張ったり、眠りの魔法や弱体化の魔法など、色々試したそうですが離れそうになくて……結局もう一人の竜王討伐者の言葉で落ち着いたものの、どうするか話し合っている最中……隙を見て外に逃げたそうです」
「うわぁ~、結構ずる賢い……」
人の頭を噛む癖は生まれた時からあったらしい。
軽く引いているロイン。ノイドは表情を変えず聞きに徹し、ニーナはとココはソファーに並んで座り、クレオは困ったように苦笑いを浮かべている。
「その後は多少問題もありましたが、なんとか開放されたユーティー様が城を出て、しばらくしたのちにホイップがユーティー様の下に再び姿を現して今に至ります」
「あぁー、なるほど。きっとその頃から大変だったんですね、クレオさんは」
ようは城から逃げた後、安全と確信してからユーティーの保護下に無理矢理入ったのだ。
クレオはきっとこの頃から振り回され、苦労していたのだろう。
「はい。まさか十六年にして、ご理解していただける方に出会えて恐縮です」
取り出したハンカチで目頭を拭く。だが涙はまったく出ていない。
ユーティーとホイップに怒っている姿を見せてしまったクレオは、彼女なりに少しでも楽しい雑談にしようとしていた。ちょっとお茶目なクレオを見て、『この辺りは父さんとは似てないな~』と比較。もしかすると自身がきつい目つきを気にしているのかもしれない。
そんな事を考えながら「いえいえ」と、笑顔を返す。
「ところで天使様は、竜と神獣様を連れていたって聞いていましたけど、神獣様はこの町にいないんですか?」
「神獣様はこの町にいません。以前ユーティー様に聞いた事がありますが……」
その時、扉が開きユーティーが入ってきた為に話は中断された。
「お待たせしてすみません。あ、食事をとったんですね。それでは今から、妖精族に会いに行きますか?」
「天使様は食事はとらなくて良いんですか?」
神獣のココには食事は不要。それを考えれば天使も、飲まず食わずでいられると考えられるのだが、幻魔や人間と変わらない姿にロインはつい聞いてしまう。そんな質問に、ユーティーは「えへん」と胸を張った。
「大丈夫! 何を隠そう僕は飲まず食わずでも生きていられるのです! もちろん食事だって出来ます!」
うん、知ってるっと心の中で呟くロイン。
「そうですか、それではよろしくお願いします、天使殿」
ほぼ聞きに徹していたノイドが代わりに返事をして、ソファーに立てかけていた二本の刀を手に立ち上がる。
「それじゃ御二人は外で待っていてください。妖精族の方々に会う為の鈴を取ってきますね。あ、それとクレオ、お酒があるかどうかまだ分からないけれど、お酒を運ぶ為の荷馬車の準備をしておいてくれるかな」
「分かりました」
二階から降りてきたユーティーの手に、金を素材に作られた魔具、細長い棒の先に鈴が付いたハンドベルが握られていた。
二人が家の外に出た事を確認した後、クレオが真剣な表情で階段からユーティーが降りてくるのをずっと待っていた。
「どうしたんですクレオ、またそんな怖い顔をして」
一番下まで降りてから、ユーティーは首を傾げながら聞くと、クレオは降りてきたユーティーに静かに答える。
「ユーティー様なら大丈夫だと信じてはいますが、あの二人には気をつけて下さい」
「……うん、君の言いたい事は分かってるよ」
先程まで見せていた気弱さは無く、瞳を更に強く輝かせ、まるで扉の向こうにいる二人が見えているかのように、玄関を睨んでいた。