89・クレオの激怒
「ホイップ! 何をしているの!」
その声を聞いた竜、ホイップと呼ばれた竜はビクッと身を震わせると、翼を大きく広げ頭を地に着け、そして広げた翼で頭を隠した。身を縮こまらせながら「ピィィィ~」と、声も身体も震えさせ怯えるホイップ。もはやその姿に竜らしい、強者の威厳も尊厳もどこにも無い。
物静かに二人の横をすり抜け、ニーナに近づくとスカートのポケットからハンカチを取り出し、苦笑いを浮べながら涎で濡れた頭を拭いていく。頭を拭いてもらっているニーナは大人しく、だがその行為も嬉しいのか笑顔を見せていた。
ニーナは妹だと言っていた。実際に背もクレオが少しだけ高い程度だが、そんな二人の姿はどちらかと言えば母と幼い娘のようだ。
この時ロインは、ホイップの隣でユーティーが白い顔を真っ青にし、少し怯えているのを見た。
「本当にしょうがない子ね。ニーナ、あなたも喜ぶからホイップが図に乗るよ」
「……♪」
優しくたしなめるクレオに、人前で叱られる事が少し恥ずかしかったのだろう、腕に抱いた人形で口元を隠し、はにかんだ笑顔で小さく頷いた。
ある程度拭くも小さなハンカチでは追いつかず、「これじゃ駄目ね。ちょっと待ってね。申し訳ありませんがノイドさんもロインさんも、少しだけお待ちください」と微笑み、ユーティーにも顔を向けてその名を呼ぶ。
「ユーティー様」
「は、はい!」
「拭くもの、タオルをお願いします」
「はい! ただいま!」
クレオは変わらず微笑んでいたが、その鋭く冷たい目は笑ってはいない。それを証明するように姿勢を正し、震える声で返事をしたユーティーは完全に弱気だ。
ユーティーはデッキブラシを持った右手から先程見た翼と同じ闇を出した。闇がブラシを包み込むとブラシは消え、代わりに真っ白なタオルが握られていた。
「おおっ! さすが天使様」とロインは絶賛し、ノイドは顔色を変えずジッと見ている。
神族の力で無から作られたタオルを手に、硬い動きでクレオに両手で丁寧に「どうぞ」とタオルを差し出した。「ありがとうございます」と受け取ったクレオは、そのタオルでニーナの髪を再び拭いていく。
「今はこんなものかしら。後でちゃんと洗いましょうね」
コクリと頷いたニーナの髪をすくいながら頭を撫でた後、「さてと」と呟いたクレオは、未だ翼で頭を隠し怯え続ける竜に近付く。ホイップの前に立ったクレオの顔に笑顔は無い。
「ねぇホイップ、その甘噛みは止めてって、何度も何度も言っているのに何故聞いてくれないのかしら。ユーティー様はどうでも良いけど、ニーナや他の人にされると『涎まみれのまま』って訳にはいかないのよ。判るかしら、判るわよね? 何しろ最古の種族と言われた偉大な竜族ですもの、判らないわけがないわ。幸いお客様に口をだしてない事は評価しないわ、だってそれは当たり前、当然の事ですものね」
「神族なのに天使様はどうでも良いんだ」
聞こえぬよう小さく呟いたつもりだったが、辺りが静かだった為に全員の耳にロインの声は届いていた。何気に焦ったロインと、「うっ」と突っ込みを受けたクレオの二人は、一時固まる。その隙を突いた、かどうかは不明だが「あ、あの~、クレオ?」と、ユーティーは恐る恐る声をかけ、「コホン」と軽く喉を整えたクレオは冷たく対応した。
「何でしょうか?」
「えっとね、ホイップはまだまだ赤ちゃんみたいなものだから、ただ好きな人達に甘えたいだけなんだよ」
「ええ、知っています、何度も聞きましたから。それで?」
「だからほら、そう! 今はね、お客様もいるし、今回は大目に……」
「それで?」
続く言葉はクレオの冷たい言葉に遮られ、ユーティーは完全に凍りつく。しばらく待って「それで?」と再び尋ねられるが、ユーティーは顔を蒼白にし恐怖に震えている。声のトーンを落とし、蔑むような目で「それで?」と続けた時、ユーティーはホイップの隣で両膝と両手をつき、頭突きの勢いで頭を地面に叩きつけた。
「ホイップ共々申し訳ありませんでしたぁっ!」
『このやりとり、どこかで見た気がするな~』と、ロインはどこだっけ? としばらく考え、『あーサジさんとサラさんに似てるんだ』と思い出す。
深いため息をついたクレオは、軽く深呼吸をして感情的にならないよう、神族と竜族に可能な限り柔らかく注意を促した。
「ユーティー様が分け隔てなく優しい事は知っています。ですがあまり甘やかさないで下さい、ホイップは竜族です。いくら子竜とはいえ、その力は私達幻魔の遥か上にいる存在です。当然ペットなどと言うつもりはありませんが、それでも最低限の躾をして下さい」
「はい、仰るとおりです」
「ホイップ、あなたをほとんどこの町、この庭に縛り付けているような状態。本当は竜族と一緒に暮らせれば一番良いのでしょうけれど……誰かと遊びたい、誰かに甘えたい気持ちは理解できますが、まわりに迷惑をかけた時、一番困るのはあなたを庇うユーティー様です。ユーティー様が大好きなら、もう少し我慢する事を覚えなさい」
「ピッ! ピピピィ~ッ!」
ユーティーとホイップは頭を下げたまま、全てを納得、指示に従い同意すると返事を返した。もちろん先程、何度も何度も注意していると言ったように、そのうち同じ事が起こるだろうとクレオは分かっていて、諦めたようにため息をついていた。
「御二人にはお見苦しいところを見せてしまってごめんなさい」
「あ、いえ、お気になさらず……」
「有難うございます。それで、仕事の事はちゃんとお話されたのですか?」
「それだよクレオ、在庫の事で君に聞きたかったんだ」
ガバッと頭を上げ、受け取った手紙をクレオに手渡すと、代わりにタオルが返される。
「まぁそんな事だろうと思いました。本当の意味でも違う意味でも早く来て正解でした。あといい加減にその顔と髪をなんとかしてください。涎と土で酷い姿です、お客様に失礼ですよ」
「あ、はい」
手にしたタオルは使われることはなく消えた。足元から出現した闇は上に伸び、全身が包まれると一瞬で掻き消える。それはココが九尾から普通の狐に姿を変える時に似ていて、注意深く見ていたノイドも「拭くというより濡れてない姿に変えたのか」と見ていた。
「それでどうかな? 在庫は大丈夫かな?」
「お酒は分かりませんがミスリルならば問題はありません。むしろ仕入れてからまだ、パトネートの倉庫に全て保管したままです。王都に行くよりもパトネートに行った方が良いでしょう」
パトネートは王都の北にある港町。このテンタルース国とサーファン国を繋ぐ唯一の町で、この航路が出来てからは、危険なガーレット山脈を不要とした重要な町の一つだ。
「そっか~良かった、ロイン君、ノイドさん、ミスリルの方は手に入りそうですよ。ただお酒の方は、妖精族の誰かに聞かないと分かりませんので、今からいきま……」
ロインはミスリルの入手に問題が無いと知りホッとし、続けて妖精族の事を聞こうとしたのだが、聞くことは出来なかった。ホイップによりユーティーの頭の半分は口の中に消えていたからだ。「分かったから、先に洗ってあげるから離して」と、口にあたりを優しく叩いている。状況的に「妖精の所に行く前に、最後まで洗って!」と、言っているのがよくわかる。
『先に』、これで安心したのか、ホイップの口からユーティーの頭は解放される。先程のような甘噛みではなかったが案の定、綺麗になっていたサラサラ髪は再びべちょべちょになっていた。
「ごめんなさいロイン君、ノイドさん、少しだけ部屋で待っててもらえますか?」
「はい、わかりました」
「ユーティー様、私は鳥を飛ばしてミスリルの件、連絡しておきます。ユーティー様はそのまま続けてください」
「うん、よろしくね」
「ノイドさん、ロインさん、お部屋まで案内します。さぁニーナ、あなたも一緒に戻りましょ」
コクリと頷いたニーナの手をとり歩き出した二人。そんな二人を見たロインは何気に「姉と妹って言うより母と娘みたいだね」と、父に同意を求めるとノイドも「そうだな」と頷く。そんな会話が聞こえたのか、後について歩き出したノイドの耳に、応えと言うより独り言が聞こえた。
「親子か……」
「ピィ~」
あまりにも小さく千里聴を解除していた為、先に歩き出していたロインの耳には届かなかったが、ノイドには天使と竜のどこか悲しい声が僅かに届いていた。