86・森の中の幻魔の町
南アティセラ、妖精の森中央に存在する幻魔の町、シルケイト。
町に入り見渡す限り、二人が暮らすテノアと同じ幻魔族、建物、空気と気配がそこにあった。ふと帰ってきたのではないかと錯覚しそうだが、テノアと違いこの町は壁に守られていない。森の木々が壁代わりだった訳ではなく昔はあったらしいが、妖精族がこの森に住むようになってから不要となっていた。
この森には確かに数多くの動物が暮らしている。当然魔獣化する動物も多い。しかしそのほとんどが、妖精族に狩られていた。魔物に関しても同じだ、幻魔の町に直接出現しない限り、魔物は妖精達の手によって倒されていた。今や町を囲うこの森は幻魔よりも妖精達が知り尽くしていた。
町に入った二人は、近くにいた者に賢者がいる場所を聞くつもりだった。しかし町に入った直後、ノイドは歩くのを止めた。下を向いてマントの止め具を直していたロインは、千里視を解除していたのでぶつかりそうになるも、すぐに気が付き「どうしたの?」と、顔を上げたが、背中の妖刀ムラマサに触れているノイドを見て立ち止まった原因を知る。
「誰かに聞かずとも天使殿の所まで案内してくれるそうだ」
「さすがは白の竜王様様、地図いらずだね」
「行こう」
勝手知ったるなんとやら、入り口近くにある馬小屋から2頭の馬を借り、二人は町の中を進んでいく。
先頭を行くノイドの斜め後方で馬をゆっくりと進めながら、ロインは馬上から右左と町を見渡しテノアとの違いを探していた。と、言っても町の中はテノアとの大きな差はない。道を歩く人々もそれほど多くなく、人間族の町のような華、賑やかさは無い。せいぜい建物が一階の建物はほとんどなく、二階建ての建築物が占めている程度だ。これはテノアより人口が多く、町の広さが狭いからだ。実際一つの家に二~三つの家族が一軒の家に暮らしているのだが、この事実はノイドもロインも知らない。
そんな中、見つけたのは顔や腕に時おり見える紋様。テノアとサザイラの紋様は2種類、赤い炎のような紋様と緑の草木の蔓のような紋様だ。
だがこのシルケイトの幻魔族は青い紋様。見た目は蔓のような紋様にも少し似ているが流水、流れる水だと言われている。
赤い火、緑の風、青の水とまるで精霊の属性と、精霊と深い関係がありそうな幻魔族の紋様だが、どのような関係があるのか本人達も知らない。
ただいくつかの説はある。精霊の祝福、あるいは精霊の呪い。他にも竜族の次に作られた種族が幻魔族だった、妖精族のような火の妖精や風の妖精など、同じ種族でありながら異なる肉体と能力を持つ、同族異種とも言われているが本人達はその答えを知らない。
妖刀の意思に従い、迷う事無く進んでいくノイドだが、思っていた通り、黒ずくめに近い忍び装束は人目を集めるのに十分だった。更に見たことも無いよそ者の幻魔、ノイドに至っては十五年前、初めて一人でテノアの町を歩いた頃を思い出す程である。
とは言えそこは幻魔族、すれ違えば笑顔で「こんにちわ」と、気さくに挨拶するところは長所であり、警戒心の無さは短所である。
少なくとも二人にとっては、あれこれ聞かれずありがたいと言えよう。
「父さん、ここが天使様の?」
およそ十五分程で目的の場所に着き、馬から降りた二人は、簡素な柵に囲まれた一軒の家を見つめる。
二階建ての周りの家と、さほど大差の無い家、賢者の家と言えどもここもテノアと変わらない。庭もそれほど広くは無いが、自分達が食べる分の野菜などが育ててある。
本物の天使様が住むにはあまりにも質素ではあるが、神獣のココも自分達一般家庭の家で暮らしてるのだから、天使だからと言っても気にする程でもないのかもしれない。
「ムラマサの意思が正しければな。私は馬を見ている、ロイン、すまんがお前とココが代わりに挨拶を」
「……はい」
少し緊張した面持ちで歩き出し、敷地に入った瞬間足が止まり、家全体を見回す。
(何かいる……忍術を解除してるから気配でしか分からないけど、多分、話に聞く天使様なんだろうけど、ココと同じくらい凄いのがいる。この家にだけ、この気配が洩れないように魔法がかけてあるのか)
立ち止まったロインを心配するように、ココがロインの足に擦り寄ってきた。
「ごめんごめん、大丈夫だよ」
ココの頭に触れ、笑ったロインは玄関前まで行くと扉を上から下まで見る。扉の中央には来客を知らせる為の、俗に言うノッカーは無い。
「直接ドアを叩く自分の家と同じ?」、一瞬そうロインは思ったのだが、よくよく玄関左側を見てみると、鐘と木槌が上からぶら下がっていた。
ロインは手に取った木槌で一回、鐘の横を強く叩く。鐘は一度大きく音をたて、左右に揺れると中の玉とぶつかり数回の音が鳴る。しばらくして扉の向こうから人の気配がした。
鍵の開く音がして、ゆっくりと開く扉の向こうに一人の女性が姿を見せた。
幻魔としてみれば若い女だ。自分よりも年上、父や母より年下、十五年間幻魔として生きた目から見ると、三十は超えていないとロインの印象。
幻魔らしい黒髪は腰まで長く、前も横も後ろも毛先が綺麗な一直線に切りそろえられている。
顔立ちはかなりの美人ではあるが、切れ長でどこか冷たさを感じさせる目はノイドと非常に似ている。そのおかげでロインにとって、初対面でありながら逆に親しみさえ感じていた。
見える紋様は首のあたりだけで他は服で見えない。服装は黄色みがかった白のシャツと赤茶色の長いスカート、かなり地味で幻魔族としては自然で普通なのだが、人間族の着飾った艶やかな服装を見てしまうと、綺麗なのに服装で損していると思ってしまうロインは、それなりに人間族の影響を強く受けていた。
「どちらさまでしょうか?」
女は初めて見るロインに、訝しむように小さく首をかしげた。
同じ幻魔と言ってもこれは仕方なかった。限られた幻魔の町の中で暮らしていると、町で暮らす幻魔全員が顔見知りである。
幻魔の町から別の幻魔の町に行く幻魔は、ほぼ皆無といっていい。あるとすれば大賢者と呼ばれるほどの人物で、しかも幻魔の未来に、大きく関わるような出来事が起こる、重要な時くらいだ。
なので初対面のロインに警戒するのも無理は無い。女性を安心させる為に、ロインはいつもと変わらない、無邪気な笑顔を見せ早口で挨拶と目的を口にした。
「始めまして。俺は北アティセラのテノアから来ましたロイン・テノアと言います。向こうで馬を見てるのが父のノイド・テノアで、この子がココ。欲しい物がありましてシルケイト商会の会長でもある天使様に、一つ急ぎのお願いがありましてこの町にやってまいりました」
「そうですか、商会の事でテノアからわざわざ……長旅は大変だったでしょう、私はクレオ・バハロマと申します。よろしく」
クレオは手を差し出しながら、僅かに見せた微笑みで『警戒心が解けた、うまくいった」と、ロインは心の中で胸を撫で下ろしながらクレオの手を握る。
クレオは離れているノイドには胸に手を当て小さく会釈をし、ノイドもそれに応えるよう軽く会釈を返す。
「今ユーティー様は裏庭にいるのですが、しばらくは手が離せません。お茶を用意しますのでしばらくお部屋でお待ち頂いても良いのですが……お急ぎでしたら直接お会いになって、作業を見ながらお話されますか?」
ロインは後ろを振り返りノイドの顔を見る。
千里聴は解除してあるので、ノイドからでは二人の会話はハッキリとは聞こえない。ただ僅かに聞こえる声と読唇術で、内容はほぼ理解していたノイドは小さく頷きながら「会おう」と、口の動きを見せる。
理解したロインは、「是非お願いします」と、返事をするとクレオは小さく頷くと家の奥に向かって声をあげた。
「ニーナ! お客様なの、来て」
奥からパタパタと小さい影、可愛らしい女の子がやってきた。
見た目だけならばロインと同じ十五歳くらいの少女、ニーナと呼ばれた少女は、クレオと違い短い髪。ただの白っぽいワンピースだが、裾等にフリルが付いていて、たったそれだけでオシャレさんに見える。
袖も裾も長いので紋様は見えなかったが、その手に抱かれた女の子の人形が、目を除いてクレオにとても似ている。
ただロインが気になったのは「こんにちわ」と、口を動かしていたが声そのものが出ていなかった。そしてクレオに隠れて挨拶するニーナは、どこかロインに対して怯えているような態度だ。
ニーナにも挨拶を返しながら『喋れないのかな? 人見知り? それとも気が弱いだけ?』
そんな疑問を持ったロインは困った時の神頼み、その名の通りココを押しつけた。
「さぁココ、お前もニーナさんに挨拶をして」
ロインが言いたい事をココは理解し空気を読んだのか、家の中に入りニーナのそばに来ると可愛らしい動作で足元にちょこんと座り、尻尾をパタパタと振りながらニーナを見上げ首を傾げた。
これを見たニーナは恐る恐る、しかし期待を込めた目でロインを見た。
ロインが笑って頷くと、ニーナはしゃがんでそっとココの頭に触れる。と、ココはニーナの顔を何度も舐めはじめた。
やはり声こそ上げなかったものの、楽しげな笑みを浮かべたニーナ。そんなニーナを見たクレオも釣られて笑顔になる。
「それではユーティー様の所までご案内します。ニーナ、私は馬を繋いでおくから、あなたはココちゃんと、御二人を裏庭まで案内してくれるかしら、出来る?」
こくりと頷いたニーナは、外に出で少しだけ歩くと立ち止まり振り返る。ニーナの後ろを付いて歩くココの姿を見て、パッと笑顔になりまた歩き出す。またちょっとだけ歩いて振り返り、ちゃんとココが付いてくる姿にまたパッと笑顔になり、再び歩き出す。
それを何度も繰り返し、見た目にはまるで親鳥の後を追いかける、ひな鳥のような微笑ましい光景だが、肝心のロインとノイドはほうって置かれていて、クレオは苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、人と接する事が少し苦手なので……ニーナに付いて行っていただけますか?」
「はい、大丈夫です」
有難うございますと返事を返した後、今度はノイドに近づく。
「ノイド……さんでしたね、馬は私が繋いでおきます。妹のニーナがあのような調子で申し訳ありません。ロインさんとご一緒に後を付いて行っていただけますか?」
「ええ、有難う」
馬の引き綱を受け取りながら、同じ言葉を繰り返す。
ロインの後に続くノイドは敷地に入り、当然何かに気が付いたが、ロインのように立ち止まる事はなかった。
案内と言うより、ココと遊んでいるようなニーナの後ろを付いていく二人。気配のある方向に進んでいて、自分達だけで歩いた方が早いのだが、黙って付いていく。
大きい家でもないので、普通に歩けば一分もかからないはずだが、結局三分近くかけて裏庭にたどり着く。
玄関側、表の庭と違い、非常に広い庭だった。もう一軒同じ家を建てられるほど広い庭だったが、少なくとも表庭のように作物の類は全く育ておらず、一見広い庭を無駄にしているように見えるが、目に入った存在に決して無駄ではないと知り、ロインは「おおお」と感嘆の声を出した。
そこにいるのは一人の賢者、シルケイト商会の会長、そしてある者は天使と呼び、ある者は悪魔小僧と呼ぶ存在だが、普通の人間族とそう変わらない姿をしていた。
ロインより少し歳上、十八くらいの若者。金色の髪を肩の辺りで切り揃えており、人形のような異常に白い肌と細身の体躯、その外見は中性的で、天使と呼ぶに相応しい姿かもしれない。
服装はアクセサリーの類は一切付けておらず、上下とも白い、商人らしい仕立ての良いシャツとズボンだが、今現在、行われている作業をするのに着る服としては、あまりにもそぐわない高価な服装だ。何しろ袖を捲り上げられた、その細い両手には、一本のデッキブラシが握られているのだから。
その人物は三人と一匹に気が付き、顔をこちらに向ける。ニーナに負けない可愛らしい顔立ちで、本当に男なのか女なのか一瞬分からなかったが、聞こえた声で男性だと分かる。
「あれ? ニーナ、もしかして僕にお客さん?」
ニーナがココと並んで満面の笑みを浮かべた時、小さな声でノイドは半分困ったような、半分は納得したような声を出す。
「確かにな。昔に大賢者代理のフィアナ殿が言っておられた、本物の天使と言うのも事実であり、ドルヴァン殿が言っていた悪魔小僧と言うのも事実と言えるのか、これは……」
自分達に向けられた瞳はココと同じ、昼間にもかかわらず、金色に光り輝いているのがよく分かる。
何よりも驚くのはその背中に生えた大きな翼。天使と言えばだいたい白い羽を想像するだろう。しかし、目の前にあるのは闇だ。黒い羽でも黒い何かでもない、実体の無い、真っ黒な闇が翼となって背から生えていて、空中にふわりと浮んでいる
だが、そんな天使よりも二人を驚かせる者がいた。
もう一人、いや、もう一体、黒い翼の天使の目の前には、黒い怪物が大人しく鎮座していた。