85・妖精の森の亡者
二台の馬車がすれ違うのに十分広い道、石などで舗装こそされていないが、土は固く問題なく歩く事が出来る。
しかし妖精の森の中、ロインとノイドは不思議な感覚で道を歩いていた。
暑いと思えば、汗が吹き出るほど暑さを感じた。
寒いと思えば、身が振るえ鳥肌が立つほど寒さを感じた。
明るいと思えば、森そのものが光り輝いているように見えた。
暗いと思えば、木々は黒く染まり、光が遮られた薄暗い森に見えた。
真っ直ぐな道だと思えば、ただ一直線に道は続く。
曲がりくねった道だと思えば、紆余曲折と道は続く。
しかし、道を進めば進むほど森は牙をむく。
この妖精の森は入る者に幻覚を見せる。
精霊がこの森にかけた魔法の一つ。
本来は種族関係なく効果のある魔法なのだが、些細な事に簡単に心が左右される人間に効果をもたらす守りの魔法で、人間の精神、感情の起伏に強く反応し幻覚を見せる。しかし、ただの幻覚で終わらない。
幻覚は肉体にも影響を与え、時には実際に命を落とす者もいると言う。
幻覚でありながら実際に傷を残すほどの力、だからこそ幻魔ではない、人間である二人は感情の起伏を抑えるよう、気を付けるようにとレネやペンダーから注意を受けていた。
「妖精の森についてあらかじめ聞いていなければ、対処出来ていたか難しいな。大丈夫か? ロイン」
「うん……大丈夫……無心……無心……ウフッフフフフッ」
「その笑いは無心と言うより、蛇とやりあった後に見せた現実逃避のようにも見えるが」
実際ロインの目には魔物のナーガとラミアを倒した後に見た、花が咲き乱れる高原のような景色が見えていた。ふんわりと穏やかな表情のロイン、しかし力強くしっかりと歩く姿にノイドは、「まぁそれならば大丈夫か」と、無表情に見つめ、ゆっくりと顔を前に向けた。
ロインとは対照にノイドの目の前にあるのは地獄。亡者達が本物の地獄に引き込もうと自分に襲い掛かる地獄が見えていた。
亡者達が着ている衣服はこの大陸とは異なる着物。その顔は一部ノイドに見覚えのある者達。そう、かつて幻十朗だった時代に殺した者達だ。
ある者達は手や足を切り落とされ、ある者達は首を切り落とされ、ある者達は心臓を一突きにされ、ある者は忍術にズタズタに引き裂かれ、ある者達は炎に包まれ燃えていた。
性別や年齢もバラバラだった。
鍛えぬかれた肉体を持つ熟練の侍。
ロインと変わらない修行中の若い剣客。
腰の曲がった老婆。
まだまだ若者に負けじと必死の翁。
死んだ赤子を抱きしめる母親。
若く美しい娘。
恋もまだ知らぬ遊び盛りの幼い少年少女。
過去に殺された彼らはノイドを逃がさぬよう、囲むように襲い掛かる。
中でも武器を持つ亡者は、ノイドを殺そうとその手に持った刀で、槍で、鎌でノイドを攻撃した。
刀は肩から袈裟斬りに、槍は腹を貫き、鎌は側頭部に振り下ろされた。
聞いたとおり幻でありながら激痛がノイドの身体を襲う。しかし顔色一つ変わらない。
両足が無い野武士が、低い位置からノイドの右足を切り裂く。
右足が地面に転がるが、ノイドは歩みを止めなかった。
まるで目に見えない透明の足がノイドの身体を支えていた。
武器を持たぬ亡者は、ノイドの動きを止めようと腕や足にしがみついたり、噛み付く者もいた。
炎に包まれ苦しみの声をあげる亡者達は、止まらないノイドの腕と腰にしがみつく。
その身を焼かれ腕の一部が黒く炭のようになり、キシキシと炭同士が擦れる音をたてているが、その歩みは止まらない。
しかし斬られても焼かれても、今まで無表情だった顔が少しだけ動く。
ノイドが進む方向、真正面に二本の剣を手に、首があらぬ方向に曲がっている男が立っていた。
男は両手に持っていた剣を二本とも放り投げた後、自由になった両手で曲がった首を無理矢理直した。
見えた顔はやはり見覚えのある顔、つい最近商人のふりをして助けを求め、襲ってきた賊で兄貴と呼ばれていた男。
兄貴は無言で走り近づき、その太い両手がノイドに掴もうと伸ばされた時、一本の刀がノイドの背中から胸まで貫く。
そこで初めてノイドの歩みは止まった。いや、止まったはずだった。
しかし止まったのは魔法が見せた偽りの肉体だけ、森の中を歩く本当の身体はいまだロインと一緒に歩き続けていた。
(まぁ、こいつが来るなら、お前がいてもおかしくは無いな)、そう心の中で後ろにいる女装した偽者のアニーに話しかけた。
伸びてきた兄貴の両手は首を掴む。憎悪で顔を醜く歪ませた兄貴は、喉を掴む両手に凄まじい力を込めた。
その力は尋常ではない。
喉に食い込んだ親指は、絞めるどころか刃のようにねじ込まれ、そこから普通ではありえないほど大量の血があふれ出し、胸と足と地面を真っ赤な血で濡らしていた。そして……。
兄貴も亡者達も消え、聞こえていた亡者達のうめき声は森の音に変わり、風に揺れる木の葉の音と鳥の声が聞こえてくる。
森に入った時と変わらない真っ直ぐな道を歩き続け、そしてすぐ目の前に目的である、幻魔の町の建物が見えた。
「着いた。……入り口からは思ったより近かったね、父さん」と、まだ夢心地状態のロインが、少し先を歩くノイドに声をかけた。だがノイドの目に光りは無く、無表情で淡々と歩き続けていたが、その目も表情も後方からでは見えていない。
まだぽーっとしており「おーい、父さーん」と、のんびりともう一度声をかけると、ノイドは立ち止まりため息が漏れた。
「大丈夫だ。大丈夫だがまた現実逃避している奴に、心配されるようでは私も忍びを引退か」
「いやー、えへへへっ……バレた? って首、二箇所も虫に刺されてるよ?」
振り返ったノイドの首に、森に入る時には無かった痣を見つけたが、森の守りの魔法に受けた傷の影響と思わず、森と言う場所から虫にやられたんだとロインは勘違いしていた。
ノイドは首にそっと触れ、それが幻に首を絞められた事による痣だとすぐに気が付く。
一瞬だけ考え込んだ後、小さく笑って「これは虫じゃなくてレネだよ」と、首を指で撫で続ける。
「ほへ? 母さん?」
「森が見せた幻に母さんが出てきたんだが、これが本物よりも情熱的でな、最初は色々と求めて来るんだが幻と分かっていたから何もしないでいたら、代わりに向こうからキスやらなにやら色々とな」
「……あぁー……うん、そうですか……おめでとう」
なんとなくその痣がキスによるものだと、父の言っている事が理解出来たが、まだ意識はハッキリしていないらしい。ロイン自身は仲睦まじい二人が嬉しいのか、恥ずかしいのか、そもそも何がおめでとうなのか口にした本人が一番分かっていない。
「あれ? 何がおめでとうなんだろう?」と、自問に首をかしげているロインをよそに、ノイドは首以外にも斬られた身体や足、また手足が問題なく動くか確認をしている。
武器によって傷付けられた箇所に傷後も違和感も無い。
焼かれ炭と化していたはずの腕も何も変わっていない。
にもかかわらず賊にやられた首と心臓に、僅かな痛みが残るのは最近の出来事だったからか、それとも幻魔達との暮らしの中で大きく変わってしまったからか。
「確かに体に残る疲労を考えれば、思ったほどたいした距離を歩いていないようだ。幻が見せた時間はかなり長かったが、実際に歩いた時間は一割にも満たないのかもしれん」
「ふと思ったんだけどさ、この森って入り口以外から入っても外に追い出されるでしょ。もしかして幻を見せてる間に、森の外へ飛ばしてるとか、町の入り口に飛ばしてるとかあるんじゃない?」
「飛ばす、か」
ふとガーレット山脈の迷路の事を思い出す。
地図で見る限り、一直線にしても一日で北から南に渡るのは不可能な距離だ。ましてや迷路は東西南北を行ったり来たり、更に行き止まりもあり限られた道を通らなければ、抜ける事の出来ない道など二日以上の日数を想定しても少ないくらいだ。
迷路内で見つけた遺体も何日も何週間も出られず、食糧が尽き飢え死にしたのだとノイドは見ていた、それほど大きな迷路だった。ところが夜明け前に入り、陽が暮れる前に迷路を脱出しているのだ。
竜王に翻弄されている間に、外まで飛ばされた可能性は十分にある。
そんな可能性を見出したノイドは「本当にそうなのかもしれんな」と、頷いた。
「それとお前だけでも町に入る前に着替えておいた方が良いだろう。二人とも忍び装束ではあまり良い印象は与えないだろう」
「はい」
ロインは近くにあったかなり太めの大木を見つけ、木の陰に隠れ貰ったチュニックとズボンへと着替えた。