77・ガーレット山脈
楽しい夢でも見ているのか、幸せそうに椅子に座って眠るドルヴァンを起さぬよう静かに、二人は店を出た。
ドルヴァンの家で少しだけ仮眠をとらせてもらってから、夜のシャンバールの町を出たロインとノイドはゆっくりと町の中を歩く。ドルヴァンのようにこの町で活躍するドワーフは多い。魔物の出現で鉱山の仕事は減っていても各鍛冶屋、武具屋、酒場は大繁盛だ。
残念ながらドルヴァンから大陸全域地図の情報を手に入れる事は出来なかった。しかし、運良く南アティセラの地図だけは見せてもらう事は出来た。自分の知る限りの北アティセラと、モウガンから聞いた北アティセラ。そして今回、ドルヴァンから見せてもらった地図を組み合わせて、妖精の森にある幻魔の町に行く方法は二通りあった。
一つはシャンバールより南東、サーファン王国の南にある港町コルモナ。
コルモナから海を船で渡り南アティセラ、テンタルース王国の港町パトネートに行き、そこから街道を使って妖精の森まで行く。
もう一つはシャンバールの南西にある、唯一北と南、地続きで繋がるガーレット山脈。
町を出た二人は南西、ガーレット山脈と呼ばれる山へ向けて暗い山中を走り抜けていた。
ドルヴァンが言っていた馬と伝手を断り、船を使った移動ではなく、二つ目のルートである足だけで行ける道を選択した。
これにはドルヴァンは猛反対をした。ドルヴァンの話によれば、確かに船で北と南の移動が出来無かった大昔、人間族はこの山を利用していた。しかしこのガーレット山脈を無事越えられる人間は、一割いるかどうか、それ程危険な山だった。
それゆえ船が出来てからは、この山を越えて北南間を移動する者はいなくなっていた。だからこそドルヴァンは必死に止めたが、ロインとノイドは問題は無いと言い切り、反対を受け入れなかった。
ただ、『やってみたい』などの一か八かの挑戦ではなく、あまりにも『その程度ならば簡単』、そう思わせる態度で自信満々に答えるのでドルヴァンは納得するしかなかった。
もっとも納得した理由はタダナリの強さを知る事も理由の一つだったのかもしれない。
町からガーレット山脈の近くまで街道はちゃんと存在しており、通常馬を使っても山まで行くには、早朝から夕刻の時間はかかる距離だったが、その日の内に二人は山の麓まで来ていた。
普通ならばこの時点で山は登らずこのあたりで一泊する。それどころか二人は寂れた小さな村を偶然見つけ、昔ならば本来はここで一泊が一般人の定石だった。
しかし、ノイドと忍び装束に着替えたロインは、村に入ることもなく、真っ暗なガーレット山脈に足を踏み入れた。
ガーレット山脈、麓からしばらくは急斜面と言えど、大量の木々が生え普通の山登りと変わらない。しかし、途中からは木々は消え、多少草が生えている程度の岩山を登る事となる。
麓より四分の一を過ぎた辺りからほとんど垂直、絶壁の岩肌が普通であれば山への侵入者を拒んでいたのだが、今回は制限、鍛錬の類は無し、使える忍術、魔法、技術を駆使しロインが先頭に進んでいた。
垂直に切り立つ絶壁を二人は平地を走るように駆け登る。ただ、今回ばかりは脚力強化をロインから貰っているノイドは、しっかりと二本の足で立ち走っているのに対し、ロインは時折少々不恰好な前かがみ、両手を使い四本足のように走り登っている姿は、同じ条件でありながら、二人に開いた差を如実に表していた。ココに至っては言うまでもなく、九尾に戻らずとも普通に走っている。
途中大きな窪みを発見、休めるうちにと二人は休息に利用した。
二人にとって平地で休息無しで二十四時間も走り続けるより、この十数分絶壁を走る方が疲労は大きい。
垂直の壁を登るではなく、垂直の壁を走る為に疾風迅雷の風で絶壁側に自らを押さえつけていた、それゆえ両足に掛かる負担は大きい。
座り込んだロインは治癒魔法ではなく、回復魔法を両足中心にかけ続ける。治癒魔法は傷付いた肉体を癒す力があるが、体力を回復させる事は出来ない。逆に回復魔法は疲労を癒す力はあるが、怪我にはまるで効果が無い。
一度ここで仮眠をとって休んでも良かったが、回復魔法でほぼ万全状態だとロインを信じ、再び山を登りはじめた。
それ以降はその足を止める事無く、駆け登りながら何度も忍術と魔法をかけ直し、二度目の休息を挟む事無く登る二人は夜も明けぬ暗いうちに山頂だと思われる場所に到着していた。
「これは……どう言う事?」
絶壁を登りきった二人は目の前の光景に少し戸惑っていた。
まず目の前に現れたのは星の光のみで照らされた、暗く深い谷底、普通ならば進む事は出来ない。
右側、西に目を向ければ、山道と呼んで良いのか、道幅は狭いものの普通の人でも左右に足を滑らさなければ十分歩ける場所だ。左側、東側も似たような道だが多少起伏が多いように見え、消耗し疲れきった一般人では厳しい道とも言える。
例えて言うならば、二人が登ってきたガーレット山脈の絶壁は町や城の壁、その内側に本当のガーレット山脈があるような地形だ。
二人の目にはそう映っているのだが、それは真実ではないとすぐに気が付く。
まず夜目が効いていない、星の光だけで見える範囲でしか見えていなかった。
そして何よりも、その目に映る景色と、千里視で見える景色が全く異なっていた。
「父さん、これってもしかして水遁術にある水鏡とか幻惑魔法みたいなものかな?」
水遁水鏡。、相手に嘘を見せ真実を見せないように出来る忍術。
基本は隠密用の忍術で、自分の姿を敵からは見えないように、あるいは異なる姿を見せる忍術で、ロインも使おうと思えば使える忍術だが、現時点ではまだ、正面にしか使えず横や後ろからは丸見えだと言う事。また使用中は行動制限があり、ゆっくりとしか動けない為に便利ではあるが使い勝手の悪い忍術だ。
言うなれば水鏡は自分にかけ術使用者を見た者全員に嘘を見せる忍術、それに対して幻惑魔法は相手にかけて、かけたその者だけに幻覚を見せる魔法だ。
「その可能性は高いが。ロイン、忍術や魔法のように何か感じるか?」
「言われてみれば何も感じないし、千里視と千里聴の風でも吹き飛ばせもしないし揺らぎもしない。だったら信仰系魔法の幻惑魔法って事か。でも、こんな広範囲の風景まで幻覚を見せる魔法じゃないから、幻魔族ですら知らない上位の幻惑魔法になるのかな」
「では、お前の千里視の範囲で、我ら以外の者はいるか?」
「いや、人影どころか鳥一匹もいない」
「だとすれば誰かの術にハマっている我らは今、危険な状態にいる、と言う事になるな」
「……だよね。絶壁を登ってきた俺達に気付いて千里視の範囲外、遠く離れた位置から幻惑魔法をかけた、て事になるもんね」
この山に何かがいる、そんな噂は聞いていないし、ドルヴァンからも聞いていない。しかし、こちらの視覚を奪う存在がいる、それは紛れも無い事実だった。
ノイドは左右を確認した。少なくとも歩く為の道は、目に見える地形と実際の地形が一致している。
しかし正面は別物。
幅四メートル、深さ十メートル以上の深い溝があり、もし左右の道を歩き足を滑らせて溝の方に落ちても、ゴツゴツした岩と高さで簡単に死ねるだろう。
ノイドは正面にある深い溝を飛び越える為に、深い谷に向かって跳ぶとロインとココもそれに続く。そして二人と一匹は谷底に落ちる事なく、見た目には何も無い空中に立ち真っ直ぐ歩き出した。
数十メートルほどしばらく真っ直ぐ歩き、そして立ち止まったノイドは左手を前に突き出すと目に見えない何かに触れる。
ノイドとロインは幻覚によって無効化され夜目が利かぬ目を閉じ、目の前に広がる本当の景色を見た。
地面から生えているのは巨大な、二十メートル近いつららのようなものが逆さになり、天に向けてそそり立っていた。
それらは一つや二つではない、逆つららが千里視の入る範囲でも何十何百と立っており、しかもそれらはバラバラに立っているのではなく、全てが数珠のように縦横と規則正しく繋がり、それはまるで侵入者を拒む壁のように立ちふさがっていた。
暫く壁の向こうがどうなっているのか、千里視で確認していたロインは思った事を口にする。
「父さん、この向こうにあるのは通路、もしかして迷路ってやつなんじゃ……」
もしも、二人に翼があり、風遁術で空を飛ぶことが出来たら、上空から幻覚ではなく本当の光景を見渡す事が出来れば、ロインの予想は当たっていた事が分かっただろう。
それはガーレット山脈の山頂、自然にある物ではない、誰かの手に作られた人工の建造物。見渡すほぼ全てが巨大な迷路だった。
普通ならば幻覚によって誰も入る事が出来ない迷路、もし入ったとしても今度は出る事を許さない迷路がそこにあった。
もっとも船が発達する前、人間族が北から南へ、南から北へ渡る際、この山を通るも一割程度しか越えられなかったのはこの迷路が原因ではない。
忍者にとっての近道、時間の短縮化を計り道無き道を通った二人は気が付いてはいないが、この遥か西にちゃんとした普通の、と言えないが道があった。あまりにも険しく、普通の人間にとっては死へ繋がる道でもあるのだが。
「まさに巨大迷路。しかも自然に出来たものじゃない。明らかに人為的な手が加えられている。土遁、いや地の魔法か、幻惑魔法と言いどうやら、この山にはとんでもない使い手、仙人か天狗の類いでも住んでいるらしい」
「ねえ父さん! この迷路、どっちが先に通り抜けられるか競争しない?」