110・誘う波
「最低限の目的は果たした。行くぞ」
「おいおい、幻十朗の最期を見ていかねぇのかよ!?」
迫り来る波を背に、何も答えず森に向かって走り出した八助を追って、轟之助も仕方なしに慌てて森の中に入っていく。それに気付いたロインは二人を追わず、ノイドに走りよる。八助の言う殺生状態があまり良いものではないと理解はしていたが、迷わずノイドの肩に手を置いていた。
「大丈夫? 父さん!」
「ああ、なんとかな」
いつも通りの反応が返ってきた事に、「良かった」とロインは安堵した。誰にも止められないと聞かされたが、ちゃんと元の状態に戻ったようだ。ただ今の状況もすぐに思い出し、「急いで早く逃げなきゃ」と慌てふためくロインを前に、ノイドは非常に落ち着いていた。
「冷静になれロイン。これはお前なら対処できる」
「いや、でも……」
「まず肩を貸してくれ、ユーティー殿の所まで行くぞ」
「うん」
ロインの手を借り、ユーティーの傍まで来る頃には波は目と鼻の先まで迫っていた。波に飲み込まれるまで一分も無い、二人だけで全力で逃げたとしても逃げ切る事は不可能だ。
ロインの背中に隠れていた姿のまま、固まっているユーティーを無視し、「よく聞け、轟之助の誘波を破る方法は一つ、奈落を使え、穴を掘れ、海面より下に深く、私達はもちろん馬が入れるだけの大きな穴だ」と落ち着いた口調でノイドが応える。この時ノイドだけではなく、人間より危険察知能力の高いはずの動物、二頭の馬も巨大な波を前に穏やかにしている姿を見て、不思議とロインも落ち着きを取り戻していた。
「はい! ココ、馬をお願い! 土遁、奈落」
忍術の奈落を使用した瞬間、ロイン自身が驚く。道の真ん中に十メートル以上の円柱状の深い穴、馬が二頭いてもまだ余裕があるほど広めの穴が出来たのだが、それは自分が考えていた以上の深さと速さで出来ていた。まるでその穴が最初から地下に存在していたかのように。しかし考えるより先に、手荒だと承知で動かないユーティーを突き落とし、ノイドに肩を貸し一緒に穴に落ちる。ココと一緒にフワフワとゆっくりと降りてくる馬は、この危機状況においても安心しきっているのか、とても大人しくしている。ただ「ふぎゃっ!」と悲鳴を上げたユーティーは、落ちた時に顔を打ち付けたか、鼻の辺りを両手で押さえ「うううう」と唸り声を上げながら、右に左にまた右にと、ゴロゴロ転がり続けている。
ちなみに頭に噛み付き眠っていたはずのホイップは、突き落とされた時には自分だけしっかりと避難しており、馬の背中から転がるユーティーの姿を一度だけ見た後、ぴぃ~ぴぃ~と小さく頭を左右に振りながら鳴いている姿は、歌っていると言うよりのた打ち回る姿を見て、楽しんでいるように見えた。
その直後、巨大な波は砂浜を、道とロインが開けた穴を飲み込み、森さえも沈んだように波の底に消えていった。
「あのー……これは一体どうゆー事なんでしょうか?」
頭上を恐ろしい勢いで流れていく波を、そして見えない壁があるように四メートルくらいの高さから入ってこない水を、ユーティーは鼻を押さえたまま不思議そうに見つめている。
一切濁りの無い、透き通った透明の美しい水は光りを遮らず、青い空と陽の光りを映し込み、非常に美しい幻想的な水の空を見せていた。
穴の壁に背を預け、疲れたように座り込んでいるノイドが「ケツアルクアトルと同じ現象です」と答えた。
「ケツアルクアトルと同じ現象?」
「ええ、自然に発生した雷と魔法で作られた雷は違うように、自然に発生した津波と魔法のそれとは全く別物、と言う事です。魔法により作られた波なので重力を受け付けない、だから海水面より下にある穴に水が浸入しない。しかも森にも一切の被害は受けていませんから、後ほど穴から出て森を調べて見て下さい。水が流れ込んだ形跡すら発見できないでしょうから。もっともこれらは魔法を使用した者のある意図があっての結果ですが」
言われてよく見てみれば、確かに壁になった地面からも水が溢れ出し、流れ反対側の壁に吸い込まれるように消えていく。
「じゃぁ今上に上がっても波に飲まれないって事ですか?」そう言って壁に手を伸ばし、壁に足までかけて登っていこうとする。
『登りたければ ホイップを洗ってあげてたみたいに飛べば良いのに、て言うか痛いなら穴へ落ちる時に浮かべば良いのに』、そう言いそうになったロインだったが、いきなり突き落とした手前、心の中だけに押しとどめた。ただノイドはそんなユーティーに「波に手を触れない方が良い」と注意を促した。
「え? 駄目なんですか?」
「ええ、恐らくは。私を殺せと、またそれを邪魔する者も殺せと言っていましたからね、私とそれを邪魔したロイン、もしかすると私達と係わった貴方もその対象人物に格上げされた可能性はあります」
「それただの口封じで絶対格上げって言いませんよね!?」
急いで足を下ろし、少しでも水から離れるように、ユーティーはうつ伏せに再び寝転がった。
そんな姿を見て微笑んだロインだが、改めて周りを見る。
(やっぱりこの穴、俺の奈落で出来た穴じゃない、初めからこの穴はあった。作ったのはあの八助って人……)
「どうやらこうなる事を見越して、わざわざ地面の下から来た者がいたようだな。あるいはこうなるように仕向けたか、どちらにせよこちらの手の内は完全に見抜かれていたらしい」
「うん……そうみたいだね」
ノイドの言葉に小さく頷く。
父親とは真逆の天才であり、天変地異その物のような自分より格上の忍術使いの轟之助。
まるで自分達がそう動くように操ったんじゃないだろうか、そう思わせる八助。
「これが忍術の天才、これが本物の忍者か」と、初めて父以外に敬意と恐れを抱いていた。
「おめぇ、なんで復讐を諦めた?」
森の中を八助を先頭に、そのすぐ後ろを轟之助は南に向かって、森の中を駆け抜けていた。
森に入った直後、そう語りかけるも八助は何も応えない。ただ暫くして後方から轟音と共に波が襲い掛かり、そして森ごと二人を飲み込んだ。しかし波に飲まれながらも流される事も溺れる事もなく、水の中を平然と走り続ける二人がそこにいた。
まるで海の底に沈む森、生い茂る葉の小さなすき間から突き刺す無数の光りの帯は美しくも、木の根元では薄暗く恐ろしげな雰囲気を作っていた。八助はそんな水の中、「相変わらず貴様には不釣合いな、美しくも不気味な忍術だ。対象人物を、それに係わる全てを屠る攻撃用の忍術と知らなければ、これはただの幻術としか思えぬだろうな」と質問の答えとは違う応えに、しかし「そうだろそうだろ」と自慢げに返した。
「んな事よりなんで諦めた? 弟の仇を討ちたかったんじゃねぇのかよ?」
「別に諦めてはいない。幻十朗はまだ生きている」
「はぁ? 俺の誘波は完璧だぜ、なんでそうなる? 大体諦めていなかったんなら、どうせおめぇの雷遁でまともに動けなかったんだ、さっさと止め刺しちまえば良かったんだ。」
木々を避けながら八助の真横まで前に出る。直後この大陸特有の動物だろう、尻尾と毛の長いトナカイのような生き物が目の前に出現したが、トナカイモドキが二人に気付いて逃げるよりも先に、轟之助はツノを掴み軽く乗り越えた。
「幻十朗は初めから堕ちてはいなかった、だから計画を続行した。元は小太郎の案、後で一々説教されるのもお前は嫌だろ?」
「それはそうだが、あれが堕ちてないって嘘だろ?」
「本当だ。奴の弟子、ロインとやらが刀を幻十朗に向かって投げようとした時、奴はお前ではなく弟子を狙った、下忍でも回避出来る程度の投擲でな。その理由は自ずと解かるだろ」
しばらく走りながら考え込んだ後、「あー、確かにそれはねぇな」と納得した。
「弟子が刀を投げて寄越そうとして、それが戦闘の邪魔になるはずがない。本当に堕ちていたならまず刀を受け取っていた、むしろ弟子を殺してでも奪うくらいの事をする男だ」
「だな。小僧に投げさせなかったのは、俺が小僧を攻撃しないように、つまり弟子を守りたかったってか」
「まぁそんな所だろう。今頃弟子が俺の作った穴に道を空けたか、あるいは海中に潜ったかのどちらかだろう。幻十朗ならお前が使ったこの術が、実は海面より下にいれば回避出来る術と知っているからな」
「幻十朗の奴、今までこの大陸で何をしていやがった、弟子といい糸術といい……」
「そうだ、糸術の事でお前に聞きたかった。奴が大蛇を破壊した術、あれは糸術か? それとも忍術か?」
「ありゃぁ忍術だ、糸術じゃねぇよ。もっともこっちは自分の術に集中してたんだ、どんな術かまでは知らねぇがな」と迷い無き即答に、八助は「やはりな、俺達も知らぬ忍術か」と納得していた。
鎖鎌を破壊し八助の大蛇を破った術、実はサイクロプスを倒す際に使用した忍術、一本の髪の毛に施した閃風刃雷だった。閃風刃雷は元々攻撃の為の刃、そして推進と制動の為の疾風迅雷の三つがかけられた合遁術。ただ今回に至っては投擲の為の疾風迅雷ではなく、空中に留まり固定させた罠の為の術に使い方を変えられていた。
ロインの言うとおり、ノイドの忍術使用速度は轟之助達に劣っている。しかしノイドが使える忍術の中で唯一、一つの術でありながら三つの術を施されていたのが閃風刃雷だった。忍術合戦では圧倒的に不利ではあったが、これにより八助の大蛇を破る事が出来た。
また未完成でもある閃風刃雷は八助を勘違いさせる事にも、実は一役買っていた。
ロインが神滅雷獣咆哮に対して、ノイドに信仰系魔法を使ったのは精霊魔法耐性。これにより五感麻痺は、不完全ながら防がれていた。だからそ雷獣直撃後、動く事ができた。
押された後跪き動けなくなっていたのは、マナが大量に消費された事にある。
未完成とも言える閃風刃雷の使用は、決して少なくはないノイドのマナを大量に消費させていた。ロインが考え、ノイドが必死で習得した術は、偶然にも二人の忍者にとって謎の忍術となり、同格である二人を誤認させ、大蛇を打ち破ったのだ。
と、この時、自分達を包み込みながらも効果を与えない水は、先ほどまでとは逆に海に向かって流れ始めた。それは逆再生と言うより、陸の方から海に向かって津波が押し寄せているように見え、これこそ本当の幻術に見えた。
どんどんと消えていく水を眺めながら「おっと、誘波第二破の発動だ」と並走していた轟之助は少しだけ遅れる。
「第二破は対象者を海に引きずり込み、その全てを海が消し去り暗殺の証拠を隠滅、これこそがこの術の力、これこそが誘波の真の効果なんだがな、幻十朗が生きてるなら無意味だったか。なぁ、よく考えりゃぁ、ここまで本気出す必要なんて無かったんじゃねぇか?」
「そうかもな。だがこちらが手を抜いたところで、向こうは堕ちた振りを止めないだろう、お前が逃げないようにな。ならば本気でさっさと用件を済まして、去った方がよかろう。あの場所の近くに町が見えた、騒ぎを伸ばし続けて目撃者を増やしても碌な事が無い」
「まぁな、それはそうなんだが……ん? どうした八助?」
ずっと水の森の中を速度を落とさず走っていた八助だったが、突如速度を落とし、既に跡形も無く水が消えたその場所で完全に止まってしまった。
立ち止まった八助は何やら難しい顔つきをしており、同じように止まった轟之助は応えが帰ってくるまでジッと黙っている。
「轟之助、あの場所、あるいはあの者達に違和感、何か異様な空気を感じなかったか?」
「違和感? さあな、せいぜいたった一年で見た目も実力もあそこまで変わった幻十朗くらいだが……あっ、もしかして蜥蜴の事か?」
「蜥蜴?」
「そう、金色の髪の奴にしがみついていた羽の付いた蜥蜴だ」
「俺は最初は蝙蝠、後々魔獣か魔物の一種か、その系統の生き物だと思っていたがな」
「いやいやいや、絶対蜥蜴だって。世界は広いんだ、人よりでかい蜥蜴もいりゃぁ羽の付いた魚だっているんだぞ。羽の生えた蜥蜴だって探せば絶対いるって。おめぇの大蛇にも負けねぇ、馬や牛も丸呑み出来るほど馬鹿でかい蛇だって実際にいるって聞くだろ?」
「飛魚の事を言っているならあれは羽ではない、ましてや蜥蜴に羽が生えている時点でそれは別物の生き物だ。……あの場所で俺達は何かを見落としている気がするが……まぁ俺の勘違い、考えすぎなら良い、行くぞ」
再び走り出した八助だったが、確かに大きく変わっていた幻十朗を考えた時、同じように変わった小太郎の顔が思考を横切った。
(そうだ、一年といえば小太郎が変わったのも、一年以上帰還出来なかった任務から帰ってきてからだったな。幻十朗と違うのは逆に腕を鈍らせていた事、あとは半蔵と風幻太に対する態度がどこか演じていたような、口ではらしい事を言っているが、時折見下している節があった)
「おい、まだ何かあるのか?」その声に前を走っていた自分が、いつの間にか後ろにいて離されていた。「なんでもない」そうぶっきらぼうに返すと、走る速度を上げ前に出る、まるで苦虫を噛み潰したような歪んだ顔を見られぬように、そして恨み辛み全てを込めた前を睨む目を見られぬように、心の中で小さく呟いた。
(余計な事は考えるな、裏切りも全てはこの時の為、この手で幻十朗を殺す為、待っていろよ八代、もうすぐだ、もうすぐ、必ずお前の元に幻十朗を送ってやるからな)