第764話 収穫祭2日目 モツ煮込みは生姜が利いているのが好きです
並べられた深皿には菊の花を思わせる円形のお肉が鎮座している。骨身の塊に皆が首を傾げる。
「少しお腹を温めましょう」
素材は内緒にしたまま私が率先して匙を取り、白濁したスープを口に含む。臭み除けに入れた青ネギとショウガの香りが鼻に通り、その後に乳化したコクのあるスープが舌の上に広がる。まったりと形容して良い、ゼラチンを感じさせる液体は、骨から染み出した出汁と香草の香りを混然と保持し、口の中で躍る。ほぅっと熱い息を吐き、そっと骨から肉を剥がす。ほろりという言葉がぴったりな様子で抵抗も無く、やや繊維質な肉がスープの中を泳ぐ。炊き過ぎず、かといって硬くなりすぎない絶妙な火加減とタイミングで調理された肉は程良い弾力と瑞々しい肉質を保持しながらも、スポンジのように出汁の旨味を吸いながら口の中で解けるように広がっていく。
「ん……。柔らかい……」
ラディアが口に肉を一切れ入れた瞬間、驚いたように呟く。
「骨の周りの肉は硬かったり、筋張っているのが当たり前だが……。瑞々しいのに柔らかいな……。見覚えはあるのだが……。どこの肉だ。そもそも何の肉なんだ……」
ガレディアも不思議そうに咀嚼を進める。静かに味わっていたロスティーがピンと来たのか、ペルティアの方を振り向くと、こくりと優しい表情で頷きが返る。
「そうね……。これは牛の尻尾よね。捨てちゃうところなのに、こんなに美味しいなんて」
誇る事なく微笑みでペルティアも匙を動かす。
「尻尾? あの尻尾か? 筋肉質で、焼いても硬くて食べられないが……」
驚いた表情でテラクスタがペルティアと皿を交互に見返す。
「はい。ペルティア様の仰る通りです。牛の尻尾のスープです。出汁は骨から摂ったものとなります。牛を潰した際には尻尾は捨ててしまうと聞いたので、調理をしてみました。余さずに素材を使うというのも大事かなと思いまして」
潰した牛も皮と肉は使うが、内臓や尻尾など使いにくい部分は捨てられてしまう。モツ文化が発達した兵庫県民としては悲しかったので、折角の牛を大事にするのが今回の夕食のコンセプトだ。
「臭くて、硬くて、とてもじゃないけど食べられないと思っていたけど、これは上品だ」
ノーウェも満足したように食べ進める。これを境に牛をどう調理するのかみたいな話を各自が花咲かせていると、メインの皿が湯気を上げながら並べられる。
「さて、次も牛です。お気に召されましたら幸いです」
濃い味噌の香りが鼻腔をくすぐる、こげ茶に近い皿の中の湖。そこからはぽこりぽこりと具材が泳いでいる。
「ふむ……。スープと言う訳では無いのか……」
ロスティーがフォークでくにゅりと肉を刺し、口に頬張るのを見て、皆が動き始める。
「ん……ん? なんじゃ……これは……。何とも奇妙な……。肉なのは分かるが、このような食感は初めてだな」
問うようにペルティアの方を向くロスティーだが、ペルティアもそっと頭を振る。
「分からないわ……。初めて食べるお味。でも、柔らかいのに、奥の方は歯応えが残るの。力をいれるとぷつりと切れる。気持ち良いわね」
ペルティアの少し驚いた表情を眺めていたノーウェが一瞬訝し気な表情の後に、歯応えを確認するように咀嚼し、はっと何かに気付いたかのように首を上げる。
「君……これ。くにゅくにゅって、もしかして。牛の内臓かい?」
あぁ、ノーウェは油かすの経験があるから、ぴんと来るか。
「はい。ご名答です。私達は総称してモツと呼んでいますが、モツの味噌煮込みですね。ビールにも合いますが、こちらを試してもらえますか」
陶器のデキャンタに入れられた液体を手元のぐい飲みに注いでいく。食堂に広がる、酒精と相まった馥郁たる香り。各々が香りを楽しみ、口を触れた瞬間、静かな衝撃が空気を揺らすように感じられる。
「これは? 水のようだが……。ん? 分からない。初めてだ……。花のようにも、蜜のようにも、水のようにも、穀物のようにも感じる。でも、知らない……。何だいこれは!?」
ノーウェが震えるようにぐい飲みを差し出しながら、問うてきた。
「新しいお酒、米酒です。私達は日本酒と呼んでいます」
そう答えた瞬間、ふわと熱気のような物を食堂全体に感じる。ビールの時もそうだったが、新しい物、特に酒を作り出すと言う事のインパクトは大きい。醸造術は難易度が高い。早々に新しい物を生み出すと言う訳にはいかない。通常は偶然の産物の研究から手法を見出し、味を極めていく。ワインがワインとして流通するまで何代の年月がかかったのか。それを思わせる沈黙が、食堂を包み込む。ただ、それは冷たい沈黙ではなく、温かな、そして熱い、将来の喜びの頌歌を予見させる熱量の篭った沈黙だった。
どぶろくから開発は進めてみたけど、やはり濾過をした方がインパクトは大きかったかな。上善は水のごとしなんていうけど、見た目の普通さに騙されるのが日本酒だよね。
「飲みやすいわ……。それに優しい。お水のような、でも、確とした芯を持っている。良いわね。お祝い事の場で喜ばれそうなお味。私、好きよ、このお酒」
沈黙を静かに破るように、ペルティアの優しい声が響く。
「光栄です。私の命の滴です」
やはり日本人なので日本酒は好きだ。夏の盛りと言う事もあり、食べる物もモツ煮込み。ならばここは花冷えの日本酒をぐいと傾けるのも乙だろう。
「ワインも嫌いでは無いですが……。これはするすると飲めてしまうんですね……」
ラディアがくいとぐい飲みを傾け、ほぅと息を吐く。
「かと言って弱い酒ではない。これは心して飲まなければ、危ないな」
若干の苦笑を帯びながら、ガレディアが言うと、テラクスタもこくりと頷く。
「しかし、癖が無いので止まらぬな。これは兵士に渡せば瞬く間に樽が空きそうだ。料理を選ばなそうな雰囲気を感じるな」
テラクスタも絶賛しながら、杯を重ねる。
「どうぞ、料理と一緒にお楽しみ下さい。濃い目の味付けも、日本酒に合わせての物です」
そう告げて、私も匙を口に含む。味噌の香ばしい香りと一瞬のモツの臭み。だが、噛み締めた瞬間溢れ出す油の甘みと相まって、全てが旨味へと変換されてしまう。くにゅりくにゅりとその小さな身にどれ程蓄えたのかと驚くばかりの出汁の旨味を楽しみながら、杯を傾けると、一気に様相が変化する。臭いと思っていた香りは米の香ばしさに包まれ、一つの旨味に変化してしまう。油のぽってりした重さも、その爽やかさと清々しさに流され、ただただ旨味だけを口の中に残し、嚥下させられる。ほぅと吐く息にも濃厚な香りがまとわりつき、それが次の匙と杯を求めてくる。
「これは……確かに止まらぬな」
ロスティーも望外という表情で、笑み崩し、モツを突く。
「前に置いておりますのはトウガラシを砕いたものです。軽くかけられても、目先が変わって面白いですよ」
その言葉にノーウェが思ったよりも多めにかけて、止める間もなくはくりと口に放り込む。
「ん!? 辛い……けど、ソースが甘いからそこまでは……。あぁぁぁ、残る、辛さが残るよ……」
そう言いながら、杯を傾け、こくりこくりと飲み干すと、至福の表情を浮かべる。
「これは……美味しいね。洗い流す……それでいて、そのものが残る。うん、美味しい」
ノーウェの言葉に、若干ハラハラしながら見守っていた周囲がぷっと噴き出したのは、言うまでもない。




