第649話 空のような果ての無さ
この世界の人間にとっては、夜が更けたというにも遅い時間になって、やっとノーウェがぐいっと伸びをする。
「あぁ、遊んだ、遊んだ。なんだろうね……。兄ぃに連れて行ってもらった時に海を見て、あぁ、果てが無いなって思ったよ。チェスを始めて遊んだ時は、そんな気分に近かった……。この将棋と言うものは、あれだね。空を眺めて、どこまでも広がる青さに敬意や畏怖を感じる、そんな広さを感じるよ……。何だろう、チェスでは君に勝ったからと言う訳ではないけど……。まだ勝つまでの筋というのを見通す事が出来そうなのだけれどね。将棋に関しては全く無理だ。限りなく最適解に近いというのはあるのだろうけど、思惑が少しずれただけで、全く想像と違う結果になる。面白い。苦しいけど、面白い」
んー。昔、将棋のアプリを作るのに、奨励会にお邪魔して色々教わった事がある。相手をしてくれた人に少し話が出来たけど、似たような事を言っていた。プロとしてやっていくには本当に苦しい。人生のほぼ全てをただ将棋に対して投げ出しても、結果が伴うのは本当に僅かな人だけだって。その僅かとの差が何か、悶え苦しみながら日々自問自答している。そんな話を聞いた時に、自分よりも余程、頭の良い人達がこれほどまでに苦しみながらも先が見えない世界なのだなと感じた。
ノーウェはその苦しさを感じ取りながらも、面白さをなによりも感じている。面白くなければ、誰もやらないだろう。その苦しさと面白さを感じられるんだから、どれだけ感受性が高いのだろう。
「苦しい……ですか。遊戯に苦しさというのも向かないですが……。少し考えた方が良いですか?」
「いや、そういう意味ではないよ。すまない、言葉が足りなかったかもしれない。あー、あれだ。絵師が自分の描きたい絵を描き切れない時に感じる、もどかしさとかそういう感情に近いのだろうね。道筋を考えるという創作の喜びかもしれない」
ノーウェがそう告げると、温み、甘やかな香りを立たせ始めたビールをくいと飲み干す。
「さて、本当は状況確認にもう少し時間がかかると思っていたけど、竜の方々から詳細な話は聞けたので、用事が無くなってしまったね。兵の手前、休ませる必要もあるしね……。アーシーネちゃんが言っていた、保育所の視察は可能かな?」
「はい、大丈夫です。工場の方もまだ見ておられないですよね? そちらも合わせて視察なさってはいかがですか?」
「うーん、嬉しいけど、申し訳ないと言う気分が込み上げてくるね……。いや、いい。折角の君の言葉だ。素直に受けるよ」
「では、調整をしておきます。他に何か気になる点はありますか?」
「いや、君にも仕事があるだろう? 急に訪問したのは私だしね。歓楽街の視察と温泉宿の調査かな。公衆浴場も稼働を始めたし、それよりも早く稼働している温泉宿の様子も改めて確認したいとは考えている」
「分かりました。ありがたく思います。工場の件は調整しますし、歓楽街と温泉宿に関しては自由にして頂ければと思います。その旨通達しておきますので」
そう告げると、部屋の外で待機していた執事が離れていくのが『警戒』で分かる。ちょっと夜は遅いけど、カビアと調整してくれるかな。
「助かるよ。ふぁぁ。流石に少し、眠いね。ちょっと頑張り過ぎたよ」
「頭を使う遊びなのに、集中しすぎです」
「はは。今夜は本当に楽しかった。ありがとう」
そう言うと、さっぱりした顔のノーウェが応接間を後にする。やれやれと苦笑が込み上げてくるのに逆らわず、席を立ち、部屋に戻る事にした。
部屋に戻ると、既に灯りは消えている。あの後もアーシーネが夢中になったのか、リズのお腹の辺りで丸くなって眠っている。燭台をテーブルに置き、静かにベッドに潜り込むと、リズがふわりと目を覚ます。
「ごめん。起こしたかな?」
「ううん。待っていようかと思ったけど、寝ちゃった。ノーウェ様は?」
「うん。少し心労はあったけど、大丈夫みたい。もう、部屋に戻られたよ」
「そっか……。ふふ、良かった」
微笑みを浮かべこくりと頷くリズにそっと口付け、蝋燭の灯りを消す。明日は朝から、工場に寄って視察かな。そんな事を考えていると、酔いと共に眠気が襲ってきたので、抵抗せずに寝入る事にした。
ふと熱気を感じて目を覚ます。窓の隙間から差し込む強い光。窓を開けると、まだ朝だと言うのに、すでにじりじりと焼き尽くすような光が大地を照らし出す。七月二十三日は晴れか。昨日から続く陽気はまだ朝だと言うのに、暑さを主張し始めている。今朝はお酒を飲んだせいか、少し寝坊したなとタロとヒメの食事を取りに行く。使用人の話を聞くとノーウェも移動の疲れ、それと昨日の夜更かしとお酒のせいでまだ眠っているらしい。朝ご飯は少し遅めにしようと伝えた。
部屋に戻り、二匹に朝ご飯を上げる。普通なら食休みとなるのだが、ててーっとベッドの方に向かって、てしっと前脚だけをベッドにかける。二匹的にはここまではセーフらしい。ベッドで眠るアーシーネの匂いに反応するのか、しっぽを緩やかに振りながら、じっと眺めているのが可愛い。
『あそぶの? おきたら、あそぶの』
『そうちょうからゆうぎ!!』
ハフハフしながら二匹から期待の目で見られている当の本人は暑さと体温で汗でべしょべしょになっている。昨日もそうだったが、今朝は暑かったのか、ちょっと酷い。リズももう下着も関係なく透けるぐらい汗をかいているので、相当だ。朝が遅いのならと、一緒にお風呂に入ってしまおうかなと。他の皆も起き出しているだろうし、ノーウェが起きたら朝風呂と言うのも嬉しいだろう。
「起きて、リズ……。リズ、起きて」
ゆらゆらと揺らすと、眉根に皺が寄り、ふわっと目を覚ます。
「おはよう、ヒロ。どうしたの?」
「昨日の晩、暑かったよね。お風呂に入ろうかと思うけど、どう?」
「んー。うわぁ……。凄い汗……。あぁあぁ、アーシーネもびしょびしょ風邪引いちゃうかも……」
「そうだね。ほら、アーシーネ、起きて。起きて」
そう告げて揺らすが、ころりんと転がって逃げる。しょうがなく、わしゃわしゃとくすぐって起こして、昨日お風呂に入っていない、タロとヒメも連れて皆で朝風呂を楽しむ事にした。




