第647話 おうどんと婚約
食堂にリズと一緒にアーシーネをぶら下げて向かうと、皆が既に席に着いていた。竜の皆も和やかに会話している。ノーウェとゆっくり話をした事によって、自分の考えを出せた事に喜びを感じているのか、いつもより積極的だ。席に着いてすぐにノーウェも顔を出す。にこりと微笑み、席に向かうと、竜達が温かくこくりと小さくお辞儀する。竜の皆に関しては、独特の障壁と言うか、知らない人間に対して遠慮と言うか怯えに近い感情を持っていると感じる事がある。ただ、話してしまえばそれも解消される。そういう意味では、それを見抜いて、すかさず個人面談を実施してしまったノーウェの人物眼は慧眼といって良いだろう。
「さて、些か品は無いけど、やはり『リザティア』の食事は楽しみでね。特に夕食だよね。何が出るのだろう」
少し子供っぽい顔で冗談を飛ばし場を和ませる姿は、やはり歴戦の為政者だろう。本当ならホストのこちらがやらなくてはならない事をさらりと嫌味無くやってしまうのだから、本当に頭が下がる。
「本日は夏と言う事で少し趣向を凝らしました。楽しんで頂ければ幸いです」
そう告げると、皆が期待したように微笑む。軽く歓談をする間に、侍女達が給仕を済ませてくれる。
「これは……うどん……かい?」
「はい。本日は鹿肉のつけうどんです。この場では酒は無しと言う事で。また後でゆっくりとお出しします」
木工屋に竹細工を教えて作ってもらったザルの上には氷水で締めたうどんがきらきらとその艶やかな肌を蝋燭の明かりにこれでもかとさらけ出し、その白さを浮き立たせている。元々はセイロを作るために教えたザルだが、水きりに重宝すると言う事で『リザティア』の庶民、歓楽街の飲食店で瞬く間に流行っている。
つけ汁にはイノシシとシカの骨を低温でじっくりと長い時間をかけて煮出した濃くて甘い出汁を昆布出汁で適度に割った物をベースにしている。そこにたまりを入れて味を調えた。具には少し早めに出回っている太いネギをシカの脂で焼いた物。そして夏の萌え出た新芽をたっぷりと食した瑞々しくも繊細なシカのロースを強火で焼き固め、マヨネーズで和えた物をみっしりと分厚いダッチオーブンに入れて低温で熱をゆっくりと加えた。暫く冷まし、肉汁を落ち着かせた後には、そのシカ本来の濃く赤い肉が肉汁を湛え切った端から、ふくりと切り口が膨らむように見えるようだ。深いスープ皿に並ぶ艶めかしいワインレッドとネギの妖艶なまでの白さと切り口付近の濃い緑が美しいコントラストを表現している。立ち上る湯気すらも濃く味わい深さを感じさせる。
「うどん……は冷えているのか。でも、つけ汁と言う事は、ここに浸けるんだよね。温くならないかい?」
「はい。その温度の変化も楽しんで頂ければと思います。最初は冷水で締めたうどんがつけ汁で花開き、ふわりとした食感と汁の香りの高さを味わって頂きます。後には冷えたうどんのこしとつけ汁の味を歯応えと共に長く味わって頂けると思いますよ」
「そうかい。と言う事は早く食べないと、台無しになりそうだね。頂くとしようか」
そう言って、ノーウェが木のフォークでうどんを巻いた瞬間に、皆が食べ始める。私も箸は封印して、フォークで巻いて、つけ汁に浸ける。はくりと口にした瞬間、温かいシカの甘い香りが強く鼻を刺激する。その後に舌に感じるイノシシの骨のコクと昆布の爽やかで自己主張しない、それでも全体を調和させる美味さが舌の上で踊る。はむりと噛むとうどんの表面が熱とつゆでふわりと戻り、そこを抜けた瞬間しこりと歯応えを残し、ぷつりと切れる。その官能的な繰り返しに自然と顎が動き、その悦楽を欠片も逃がさないようにと自覚無く、無意識に咀嚼を繰り返す。
「はぁぁ……。このようなたった一皿の食事だけど、華やかだね……。うん、花々が咲き乱れるように繊細で、かつ大胆にあらゆる味が、香りが、舌と鼻の奥で踊るよ……。これは面白い」
ノーウェが笑み崩れながら、呟く。元々繊細な舌の持ち主だったが、和食に由来するレシピと材料を送るようになってから、その傾向は強くなっている。
食べ進め、つけ汁が冷えてくると、香りの立ちが悪くはなるが、その代わりに味が濃く前面に出てくるようになる。シカの甘みとイノシシのコクが香りから味へと変わり、それをネギの香りと甘さが支える。インパクトとしてシカのローストを口にすると、噛んだ瞬間迸るように肉汁が口の中で爆発する。それはまさに水風船を彷彿とさせんばかりだ。噛み締めれば噛み締めるほどに、じゅわりとあふれ出すほのかに血合いの香りが漂う肉汁が汁に奥行きを与え、うどんを噛むたびに変化する小麦の甘さと交わり、先程とは違う動的な悦楽を舌に感じさせる。
汁が熱い時は額に汗を浮かばせんとしていたが、冷めるにつれて、それは引き、ただただ、噛み締める事を楽しむだけになっていく。この香りと味のグラデーションが美しく儚く愛おしい。
「あぁ……。言っていた事が分かったよ。華やぎから、奥行きのある味に変わる。そう、食べる事が快感になるんだね。これは面白い。麺なんて単純な物がここまで身体的な快楽を感じさせるなんて考えた事も無かったよ。美味しい、そして、気持ち良い。そう、食べる事が気持ち良いんだね……」
ノーウェの言葉に、皆が賛同する。最後に汁を飲み干し、ほっと息を吐くまで、その至極の時間は続いた。
食後にショウガを微かに混ぜたレモングラスがベースの冷えたハーブティーが出てくると、皆が夢から覚めたような顔になる。
「はは。夢のようななんてよく言うけど、本当にあっという間だったよ。ここに来る度に見た目に囚われないと戒めているにも拘らず、その質素な見た目に騙された。これは、贅沢だ。贅沢な時間の使い方だよ」
「楽しんで頂け幸いです」
そう告げると、夕ご飯の時間はお開きになった。
私とノーウェは応接間に移動して、ゆるりと落ち着いた雰囲気の中で杯を重ねる事にした。テーブルの上には新作のポークジャーキーとザワークラウトが並ぶ。
「では、再会に」
「再会に」
お互いに杯を掲げ、傾ける。流れ落ちる冷えた奔流が、喉を過ぎ、涼味を体全体に広げる。
「ぷはぁぁぁぁ……。はぁぁぁぁ、良いね……。夏の暑さに冷えたビール。その泡の刺激すらも愛おしいね。ビールはもらうけど、ノーウェティスカだと上流の川でしか冷やせないしね。持ち込む間に温くなるよ。水魔術士に氷を出してもらうのも中々機会を作らないと難しい。贅沢だよね……」
ノーウェが心底幸せそうに呟く。
「何か、心労の原因でもおありですか?」
今回の訪問の時点から少し気になっていたが、若干目元に疲れが出ている。政務が忙しいというより、何か心に原因があるのかと感じた。
「ん? 分かるかい? 駄目だね、隠しきれないとは……。そうだね、そろそろ伝えないといけないか」
ふぅと溜息を一つ、俯きながら吐き、すいと顔を上げる。
「正式に婚約をした」
「それは……おめでとうございます。お相手は?」
「君も知っているだろう? ラディアだよ」
「あぁ、あの斥候の方ですね。いつかはと思っていましたが……」
そう告げると、再び俯く。
「そうだね。結婚そのものは否定してはいなかったのだけど、金や地位に群がる人間を相手にするのは好きでは無かったんだよ。それに今となっては、君がいる」
「私……ですか?」
「悪い意味では無いよ。ただ、憧れと言う物は同時に容易く恐れに変わるものだよ。今まさに国の中で頭角を現している『リザティア』の主を子に持つという事がどういう意味を持つのか分かる人間は少ない。利用する相手では無く、愛し、守る事が出来る女傑など、早々にはいないさ」
ふーむ、そんなに大した人間とは思っていないのだが……。
「そんなものですか?」
「はは、出会った頃から変わらないよね。それは稀有な才能だし、ただ自己への評価が低すぎるという欠点でもあるんだろうね……。それでもラディアは良いと言ったよ」
「こんな可愛くない人間を子として扱う事を、ですか?」
「私には愛しい子だよ。ラディアにかかれば私だって子供扱いだよ。周りにそんな人間はいなかったしね……。子が結婚しているのに親が結婚していないというのも外聞が悪い。そろそろそういう時なのだろうね」
「おめでとうございます……とお伝えした方が良いですか?」
「この事に関してはね。ただ、将来を考え始めるとやはり色々と思う事はあるよ。父上も今は元気だが、将来そう遠くない時には引退を考えるだろう。そうなれば、開明派の地盤を何とか固める必要がある。しかし、今の面子は父上に恩義を感じて集まった者が殆どだ。侯爵となった時に、現状と同じ環境を作る事が出来るかと問われれば、即答は出来ないね……」
珍しくノーウェが弱音を吐く。初めてじゃないかな。頭は下げられたが、弱いところは見た事も無い。
「ノーウェ様。私は、短い間ですがノーウェ様と一緒に仕事をしておりました。ノーウェ様の将来を見据える姿は為政者として目指すべき目標と考えております。私はノーウェ様が開明派の領袖として、その辣腕を存分に振るう事が出来ると確信しております」
なんのてらいも無く言い切る。ロスティーの方針は若干硬直している分固いのだが、揺らされると弱い。ノーウェの方がやや未来に向かって現実的ではある。そういう意味では、ノーウェにも開明派の領袖は務まると見ている。ただ、開明派内でも考え方は大分変えないといけないだろうとは考える。
「確信!! 確信か……。君は……本当に……。そう……、そうだね。未来など誰にも分からない……か。いや、王都の襲撃の件から少し気が塞いでね。きちんと父上とも話すとしよう。君が信じてくれる。ならば私は親としての責務を果たさなければならないね。そう、開明派をまとめ上げる事を約束しよう。これは君と私で交わす約束だ」
「はい。それが果たされるために私も邁進致します」
そう告げると、やや暗かった表情が払拭される。
「しかし、結婚となるとお祝いをお渡ししないといけないですね」
そう告げて、執事を呼ぶ。すると、使用人を連れて、冷蔵箱を応接間に運んでくれる。
「何だい、この小さなタンスみたいな物は」
「こちら実際に現物で冷やしたのが、今お出ししたビールです。物を冷やして保存するための箱、冷蔵箱ですね」
ノーウェと共に立ち上がり、実際に扉を開けて構造を説明する。
「なるほど……。それで氷に近い温度まで冷えると……。小さな氷室なんだね。これは……便利だ」
「ラディアさん、いや、ラディア様にも喜ばれたならば望外ですが」
「気を遣う事は無いよ。まだ内々の話だし。婚約をした上で、国王陛下から許可を頂かなくてはならない。斥候隊は国王陛下直属の臣だからね」
「では、まぁ、政務回りも分かっているだろうラディアさんと遊ぶ物でも合わせてご紹介しましょう」
「遊ぶ物……と言う事は?」
「はい、新しい遊具です」
そう告げると、ノーウェが今回の訪問で一番の笑顔を見せた。




