第507話 術式を司る神
暫く書類仕事を片付けていると、扉が開き、ふんわりと湿った甘い香りが広がる。
「へへ。ヒーロ。お風呂、上がったよ」
髪の毛を湿らせたリズが、にこやかに向かってくる。椅子から立ち上がり、とすっと抱きとめる。濡れた髪からは濃い香油の香りが立ち上り、くらくらとさせる。あぁ、どうしてこんなに女の子って良い匂いがするんだろう……。なんとなく、首元をスンスンと嗅いでいると、ばっとリズが離れる。
「むー。なんかちょっとやだ。あんまり嗅がないで……。恥ずかしい……」
顔を赤らめながら首元を隠し、すすすっと下がっていく。
「良い匂いだよ?」
「そう言う問題じゃ無いの。あー、恥ずかしい!! もう、ヒロもお風呂に行ってくる!!」
びしっと扉を指さされたので、はいはいと苦笑を浮かべ、支度を整えてくてくと浴場に向かう。タロとヒメは後ろをついてきているが、『馴致』で尊敬の念がびしばしと背中に刺さる。うーん。実害が無いから良いかぁ。そう思いながら脱衣所で服を脱ぎ、タライにお湯を張るとタロとヒメがびしっとお座りして待っていた。リラックスすれば良いのにと、こしょこしょすると、タロが嬉しそうにふにゃっとなったので、そのままお湯に浸ける。プカプカスヤァとなったら、ヒメの番。もう慣れたので、手順を守り、さくっと撃沈させて、脱衣所にぽてんと転がす。無意識に丸まって寄り添うところが可愛い。
体を洗って、湯船に浸かりふぅっと息を吐くと、脱衣所が騒がしくなった。皆が来たかなと思ったら、ロット達が浴場に入ってくる。
「お疲れ様」
私が言うと、皆が苦笑を浮かべる。
「リーダーが一番疲れているだろ」
ドルが、体を洗いながら言ってくる。
「んー。指揮だけだしね。実際に体を動かしたのは最後だけだし」
「その指揮が一番大変かと思います。お疲れ様でした」
ロットが湯を浴びながら言う。
「そんなもんかなぁ……」
首を捻りながら言うと、笑いが上がる。ドル達が浸かり、湯船の湯が溢れ出し、湯気が立ち上る。
「つぅ……」
ドルが脇腹を押さえながら唸り、湯に浸かる。染みたのかな?
「ん? 怪我している? 治す?」
「いや、構わん。打撲だろう。盾で守っていても弾かれたのは何発か食らったのでな。しかし、何だあれは。あんな魔術初めて見たが……」
ドルが呟くとロットとカビアが頷く。んー。やっぱり人間側では知られていないか。狭い範囲だけど、色々な対象を『認識』先生に聞いてみたが、あんな魔術存在しなかった。
「土かと思ったけど、違うしね。サンプルの調査はネス次第かな」
「あぁ、物質化した鉱物か。しかし、土魔術かとも思ったが、根本的に違うな……」
「鉄の礫みたいな音が遠くまで響いていましたから。明らかに土魔術では無いでしょう」
ロットも微妙な顔で考え込む。
「まぁ、あまり考え込んでもしょうがないよ。術式を司る神様にでも今度聞いておく」
そう言うと、あっけに取られた顔を浮かべ、皆が大爆笑を始めた。
「あれ?」
「くく、神様に直接聞くなんてな、おい」
「男爵様、それは、あまりにも恐れ多い気もしますが……」
「でも、直接聞く事が出来るんですよね……」
三人が温かい眼差しでこちらを見つめてくる。
「何?」
「いや、リーダーがリーダーで良かったと思います」
ロットがそう言うと、皆が頷きながら笑い続ける。ちょっと憮然とした顔をすると、尚笑いが高まるので、諦めて溜息を吐きながら、縁に両腕を乗せて天井を見上げる。ふわふわと舞う湯気が、笑い声と一緒に震えていた。
風呂を上がって部屋に戻り、箱に二匹をそっと入れる。するりと腕から抜けると、ウナギのようににゅるりと丸まり、タロとヒメが寄り添い合う。
「お疲れ様」
屈んでいるとリズが後ろからしな垂れかかってくる。甘い香りにくんくんとすると、ぽかっと叩かれる。
「もう、それ、禁止」
「えー。良い匂いだよ?」
「本当に恥ずかしいから……」
そう呟く唇を塞ぎ、そっと抱き上げて、ベッドにぽすんと投げてみる。
「ヒロ?」
「んー。折角だから、いっぱい嗅ぎたいかも」
「あー、こら、開き直った!!」
スンスンと首元から、胸元にかけて嗅いでいくと、きゅっと頭を抱えられる。
「ほんと、ヒロ、タロとヒメみたい……」
ふふと微笑みを浮かべながら、呆れたようにリズが呟く。
「本当は狼だったのです。がおー」
悪ふざけをすると、ぽんと頭を叩かれる。
「こーら。夕ご飯、もうそろそろだよ。また……後でね」
潤んだ瞳で掠めるように額に口付けされる。
「そうだね。後で」
そっと、口付け、両手を掴み広げながら、その唇の柔らかさに溺れていると、ノックの音が聞こえる。返事をすると夕ご飯の支度が出来たようだ。二人きょとんと顔を見合わせて、次の瞬間笑い合う。
食事を終え、リズを先に部屋に戻らせる。夕ご飯? もう、フィアとティアナが呑んだ。うん、飲んだじゃない、呑んだ。わいわいとした戦後の解放感に呑まれたのか、もう、呑んで、呑んで、呑んだ。ロットとカビアが軟体動物みたいになった二人を部屋まで運んでいたけど、大丈夫かなと思う。度数そのものは低いのでアルコール中毒は心配していない。フィアの飲んでいる状況を見ていたけど指揮個体戦の時よりちょっと多い程度だ。問題が有りそうなら言ってくるようには伝えている。明日二日酔いになったら、神術かなと思いながら、執務室の内鍵をかける。
「アレクトア様、お時間よろしいでしょうか?」
その瞬間、執務室の中に黒い稲妻のようなものが幾条にも走る。世界が軋むようにぴきりと割れ、破片が落ちてはふわりと消えていく。ひときわ大きな割れ目から皮手袋に包まれた細い指が差し出され、ぱきりぱきりと割り砕いていく。やがて大きく口開いた漆黒の向こうから、燕尾服姿のアレクトアがシルクハットを小脇に抱え、するりと降り立つ。
「ふむ。ログを追う限りは私だろうな。久しいな、アキヒロ」
ふわっと手を払うと、世界の崩壊は一瞬でその姿を消し、ただアレクトアが初めから立っていたような錯覚すら感じさせる。
「話があるのだろう。聞こう」
ソファーの前で佇み、こちらを優しい目で見つめる神の姿にやや圧倒されながら、席を勧める。
テーブルを挟み、お互いにソファーにかけると、アレクトアがテーブルの上で腕を滑らせる。その後にはお茶とお菓子の山が生まれていた。
「構えるな。あの時と状況は変わらん。それに少し長い話になるやもしれぬからな」
そう告げながら、組んだ足の上に肘を置き、その上に頬を置きながらほんわりと微笑む。
こちらも神の派手な演出に溜息を吐きながら、いただきますと告げ、カップを傾ける。さぁ、真相はどうなのだろうか……。どこまで情報を引き出せるか……か。




