第493話 嫁ぐと言う事、そして母娘の絆
返事をするとリズだったので、どうぞと伝えると、そっと扉が開かれる。おずおずとリズが俯き加減の上目遣いで部屋に入ってくる。
「リズ、なんて顔しているのよ」
ティーシアが苦笑を浮かべながら、ちょいちょいと手招きする。リズがそれを見てじわじわとティーシアに近付く。
じれたのか、ティーシアがソファーから立って、リズの元に向かう。リズが少し怯えた顔で後退ると、苦笑を深め、そっと抱きしめる。
「リーズ。何を怯えているの?」
「お母さん、怒らないの?」
顔を上げてリズがティーシアに問う。
「何を怒るのよ」
「でも、家を出るまでずっと怒っていた……」
リズがそう言うと、ティーシアが苦笑を深めて、抱きしめる腕を強くする。ぎゅっと抱きしめた後に開放し、ぽんぽんと頭を撫でる。リズが目を瞑り、気持ち良さそうにする。
「リズ……。人はね、理解出来る事にしか感謝出来ないの。分かる事しか尊敬出来ないの。貴方には、人に感謝出来る、人を尊敬出来る人間になって欲しかったの」
ティーシアが優しく微笑み、リズの頬を撫でる。
「貴方はもう大人よ。もう一人で生きていかないといけないわ。でもね、人は一人では生きられないの。私にアストや村の人がいたように、貴方も誰かと一緒に生きていかないといけないの」
「うん」
リズがこくんと首を縦に振る。
「人と一緒に生きていくのに大切なのは、何かをしてもらったら感謝をする事。素晴らしい相手なら、尊敬して学ぶ事。そうすれば貴方は好かれ、成長する事が出来るわ」
「うん……」
「貴方は子供の時からお父さんの後ばかりついていたものね。私もアテンの世話が有ったから、それに甘えていた部分は有るわ……。でもアキヒロさんと一緒に生きるには貴方は幼かったの。男爵……ううん、貴族の夫人として生きるには幼かったの。それは分かるかしら?」
「少し……だけ」
「そう。この地で色々学んだ事が有るのね。それはとても良い事だわ。リズ、私もねいつまでも傍にいられる訳じゃ無いの。いつかはいなくなるの。その前に貴方には学んで欲しかったの、私が持てるものを。私が貴方にあげられるのはそれだけなの」
「おかあ……さん……」
ティーシアが少し寂しそうな微笑みを浮かべ、言葉を継ぐ。
「貴方、アキヒロさんが来るまで料理も覚えなかったわよね。でも自分で料理を作ってどれだけ大変か分かったわよね? 布を一枚織るのに、どれだけの時間と労力が必要なのか、家を綺麗にするにはどれだけの時間と労力が必要なのか」
「うん」
「貴方はこれから、人を使うの。でもね、使われる人も一人一人生きているの。生きて、時間と労力をリズが快適に生きる為に努力して使ってくれるの。それは分かる?」
「うん……」
「使われる側がどんな苦労をしているか、理解出来なければ感謝も出来ない。どんな仕事をしているのかどんな工夫をしているのか分からなければ尊敬も出来ない。貴方は感謝も尊敬もしてくれない相手を好きになれるかしら?」
「ちょっと……嫌だ」
「そうね。私も他人だったら嫌だわ。だからリズ、貴方は多くの事を覚えて、人に感謝して、人を尊敬出来る人間にならなければ駄目なの。そうしなければ、人は貴方の事を嫌になるわ。そうなったら表面上は良い顔をしてくれても、本当に支えてくれるのか分からなくなる。そうなれば貴方はその相手を信じられなくなるの。私が舐められたらお終いって言っていたのは、相手に舐められるのを心配していたんじゃないの。貴方がそうなった時に人を信じられなくなるのを心配していたの。信じられない人間を貴方は大切に出来る? きちんと使えるかしら?」
「難しい……と思う」
リズが頷く。
「そうね。でも、使う人を決めるのは当主の役目よ。貴方は貴方自身の不勉強で人を信じられなくなったのに、アキヒロさんに人を辞めさせて欲しいなんて言えるかしら?」
「言えない!」
リズが顔を上げて叫ぶ。その叫びを聞き、ティーシアが微笑みを強くする。
「そう……そうね。それが人としての矜持よ、リズ。貴方はもう大人なの。愛する人と一緒に生き、愛する人と支え合わなければいけないの。貴方はアキヒロさんがどれだけ苦労しているか分かるかしら?」
「凄く沢山お仕事している」
「それは表面的な事だけね。お仕事一つ取っても、迷い苦しみ、そして決定しているわ。人がどう暮らしていくのが幸せか、迷い、そして決めている。それがどれほどに、辛い事か。でもね、アキヒロさんはそれを表には出せないの。心の中で抱え、噛み砕きながら飲み込んでいるの。それを支えられるのは、リズ。貴方だけなの。分かるかしら」
「うん……うん!」
「そう……。大きくなったわね、リズ。じゃあ、貴方は何をしなければいけないかしら?」
「ヒロを支える為に……? せめてお仕事以外の事はしてあげたい……。あっ!! 家を守るって……」
「そう。家の事ぐらい、貴方が支えてあげなさい。貴方が出来る事をしてあげなさい。それが伴侶の務めよ。一緒に生きるんでしょ?」
「うん!!」
「貴方はもう家を出たの。もう貴方はアストの子では無く、アキヒロさんの伴侶なの。私が出来る事は無い。辛い時は泣きに来ても良い。でも、私達はもう貴方の戻るべき場所じゃ無いのよ」
「分かった……」
「それじゃ自信を持って。人に興味を持って、感謝して、尊敬の念を抱きなさい。その上で、人に生かされている自分を思いなさい。そうすれば、人は貴方の為に尽くしてくれるわ。私が教えられる最後の事ね」
「お母さん……」
「リズ、リザティア。私の可愛いリザティア。自由に生きなさい。でも自由に生きる為には為すべき事を為さなければいけない。それは分かるわね」
「ヒロを支えて、一緒に生きていく……」
「そう。お互いに支え合って生きていくの。もうその方法は教えたわ。だから、私が貴方を怒る事は無いの。リザティア、私はもう全てを託したわ。後は貴方が貴方自身としてアキヒロさんと生きていくの。良いわね?」
「うん……うん……お母さん……お母さん……」
リズが頷きながら、少しずつ顔を崩す。ティーシアの胸に顔を埋め、少しずつ嗚咽を漏らす。
「もう。いい大人なんだから泣かないの。貴方を支えてくれる人はいるでしょ」
「ヒロ……ヒロ」
リズが涙に濡れた顔を上げてこちらを向く。
「おいでリズ。私の可愛い奥様。だから言ったでしょ? 怒られないって」
「ヒロ……ヒロ!!」
立ち上がって腕を広げた私に、リズが走って飛びついてきて、強く泣き始める。
「私、分かってなかった!! お母さん、ずっといてくれるって……そう思ってた。頼って良いんだって……。でも違う……!!」
「そっか……。そうだね、うん、そうだ」
「ヒロにもいっぱい大変な思いさせた。なのにヒロ、笑ってた。でも、絶対に辛かった。ごめん、ヒロ、ごめん」
「良いよ。リズがいてくれるだけで幸せだよ」
「駄目!! 私だけがもらえない。一緒に頑張るって、一緒に生きるって、言った!! 守る!!」
「そっか……。うん、ありがとう、助かる。だから、一緒に生きよう。楽しい時も、辛い時も。リズが言ってくれたよね」
「うん!! きっと分かってなかった。ごめんなさい……。でも、分かるようにする。頑張るから」
「そんな事無いよ。リズはもう分かっていたよ。大丈夫。私が教えられたくらいだから。だから、一緒に頑張ろう」
その後は、大声で泣き続けるリズをあやし続けた。三十分程すると泣き疲れたのか、収まってくる。
「さぁ、折角久しぶりにお父さんお母さんに会えたんだから。話したい事もいっぱい有るよね?」
「うん……」
そっとリズの顔の涙を拭い、ソファーまでエスコートする。
向かいのソファーでは、アストとティーシアが優しい顔で微笑んでいる。
それを見て安心したのか、リズが口を開く。
「あのね、お父さん、お母さん。ここに来てから色んな事がいっぱい有ったの……」
親子の語らいに加わりながら、そっとリズの手を握る。その手がきゅっと握り返される。お互いの温もりが伝わり合う。
日が傾き雨の中でも赤味をほのかに感じる頃に、泣いてしゃべって疲れたのかリズがこくりこくりと舟を漕ぎだす。
その姿を三人で眺め、笑い合う。
「夕ご飯までまだ若干時間は有ります。その間に荷物の方を運びこみます。荷解きはどうなさいますか?」
「そこまでは構わん。詰めたのは自分達だからな。家具は使っても良いのかな?」
「はい。ご自由にお使い下さい。足りない物は用意させます」
「大丈夫よ。トルカの家より広いもの」
ティーシアが笑顔で言う。
「では、夕ご飯の際にまた。リズを寝かしてきます。うとうとしているだけなので、夕ご飯までには起きるでしょう」
「すまんが頼む」
アストが真剣な顔で、口を開く。
「はい。娘さんをお預かりした身です。この身に賭けて大切に致します」
「そうか……よろしくお願いする」
アストがそう言うと、微笑みを浮かべる。
「では、ゆるりとお過ごし下さい。先程の件は雨が止んでから考えましょう。旅の疲れも有るでしょうし。今日は風呂にでも浸かってゆっくりしましょう」
「そうか、風呂も有るか……。そうだな、アキヒロの館だからな」
「はは、そう言う事です。では後程」
そう言って、リズをお姫様抱っこでソファーから掬い上げる。扉を開けて、自分の部屋に向かう。
腕の中の確かな温もり、安心したような笑顔の寝顔。家族の絆って偉大だな。少しだけリズの温もりが心に移ったようにほっこりと温かなものを胸に感じた。




