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彼女との生活

「名前が分からない?」


 俺は思わず声を高くしてそう聞き返していた。

 

 自宅へ着くと、まず彼女に暖かい飲み物をと思い、先日村長の奥さんからもらった紅茶を淹れた。四人掛け用の机にカップを置いたところで向かいに座る彼女に名前を問うたら、なんと彼女は何も覚えていないという。


「なら…何処から来たとかは…?」

「ごめんなさい。分からないの…」


 何ということだ。

 おそらく、彼女は寒さから記憶が飛んでしまったらしい。それもそのはずだ。あんなに寒い中眠っていたなら、体調の一つや二つ、悪くなるものである。


 俺は俯いたまま黙り込む彼女に安心させるように問いかけた。


「それじゃ、自分が覚えていることでいいから教えてくれないか?…嫌だったら、無理に言わなくていいから」


 そう言えば、彼女は困惑した様子で顔をあげると…何かを絞り込むかのように考えてから、やがて口を開いた。


「私には…両親がいたんだけど、事故で亡くなったの。あと…」

「あと?」


 そう言いかけて言葉を濁した彼女に、焦れて続きを問えば、彼女は「ううん。何でもない」と小さく首を横に振ったっきりまた黙り込んでしまった。沈黙が痛い。窓から差し込む陽の光が、もう昼ご飯の時間を告げていた。


 俺は小さく息を吐くと、すっかり冷めてしまったカップを手に取って立ち上がった。


 びくりと動いた彼女の肩。


 その様子に苦笑し、俺は不安げに見つめてくる彼女に微笑んだ。


「なら…、今日からお前は『スノウ』だな」

「え?」

「名前…分からないんだろう?なら、雪のように白くて儚げだから…お前のことを『スノウ』って呼ぶことにする」

「スノウ…」


 ポツリと呟き、彼女の顔に笑みが浮かぶ。

 ぱあっと明るくなった顔を見て、ドキリと心臓が跳ねた。染まった頬が可愛い。


「なら、あなたはなんて呼べばいい?」


 スノウが俺に問いかけてきた。

 小首を傾げる様子がまた可愛い。俺は先ほどから煩いくらいに鳴っている自身の鼓動を気づかれないように注意しながら、見上げる彼女から視線を逸らした。−−−絶対、今顔が赤い。


「ギル。俺の名だ」

「ギル、ギル…ギル」


 告げると、何度かスノウが繰り返してから、再び笑みを浮かべた。嬉しそうに笑う彼女に、視線が集中してしまう。せっかく見られないようにした赤い顔も、きっともう見られてしまった。


 だけど、花のように微笑む彼女は本当にきれいで。


 俺はその弧を描いた黒曜石入りの目にただ見入っていた。


「ありがとう。ギル!」


 名前を付けたことに対してか、これ以上何も聞かないことに対してなのか。


 彼女が何に対して礼を言ったのか分からないが、余程嬉しかったのだろう。満開の花が咲いた。


 そんな眩しいくらいの彼女を直視できなくて、俺は曖昧に「ああ」と頷くだけしか出来なかった。





 それから、スノウと昼食をとった。


 彼女は記憶が無いものの、一般的な知識は忘れていないらしい。自分が作ると言い張ると、みるみる内に質素な材料からおいしそうな料理を作ってくれた。


 メニューはいたってシンプルなのに、味は俺が作るよりも最高だった。「うまい!」と言うと、彼女は少し恥ずかしそうに頬を染めてから「ありがとう」とはにかんだ。



 だけど、記憶が無いということは心配だ。

 俺は急いで医者に行った方がいいと言ったが、彼女は頑なにそれを拒んだ。医者は町にしかおらず、診察代や治療費がかかるからいいという彼女に、俺は自分が出すから遠慮するなと告げた。それでも彼女はいらないと拒んだため、医者へ診せるのは諦めた。



 彼女とももう会えないかもしれない。記憶が戻らなくても、こんなむさい男の元にいるのは嫌がるだろう。−−−だから、彼女には陽が昇ってから村長の家に案内することにした。彼女は目を見張るくらいきれいだ。きっと、町や都会の貴族の家で働かせてもらえるかもしれない。


 そうなれば、彼女はこの村から…俺の傍から出ていく。


 どのみちそうなるなら、別れは早い方がいい。


 俺はそう思い、彼女にベッドを貸して自分はソファで眠ることにした。彼女を想うと胸がキリキリと痛んだ気がしたが…きっと、気のせいだ。


 俺はたいして眠くなかったが、無理に目を瞑って考えることを止めた。




 翌朝。


 いつもより早くに目が覚めたのに、ベッドには彼女の姿がない。


 いなくなったのかと焦っていると、ふといい匂いが鼻をかすめた。嗅いだ途端に鳴りだす腹。抑えながら台所へ向かうと、既に起きていた彼女が鍋をかき混ぜていた。


「あ、おはよう。ギル」

「あ、ああ。おはよう、スノウ」


 俺に気が付いたスノウが振り返り満面の笑みで挨拶をしてくれた。それにつられて返事をし、椅子に座ったと同時にお椀にいれられたスープが差し出される。


 いい匂いの元が目の前に現れ、再び俺の腹が鳴った。


「あ…」

「ふふっ。さあ、召し上がれ!」


 可笑しそうにスノウが笑い、瞳が食べろ食べろと促してくる。−−−口に入れたスープは、やはり美味しかった。



「え…?村長さんのところに?」

「ああ。きっと、いい奉公先を見つけてくれる。奥さんもとてもいい方だし、スノウの力になってくれる」

「でも…」


 食事を終え、スノウに昨夜考えていたことを話すと、彼女は困惑した様子で俺を見つめた。瞳が動揺したかのように揺れている。切なげに濡れるそれに、こちらが彼女を苛めているかのような気分になった。


「いや、あのな。別にスノウが嫌いだから追い出したいんじゃなくてだな…。その、むさい俺と一緒にいる方がスノウは嫌だろう?」


 焦って思っていることを告げれば、それを聴いたスノウが大きく目を見開いた後、ぶんぶんと首を横に振った。長い髪がサラサラと揺れ、見上げる瞳からは雫がこぼれ落ちた。


 ポタポタと机に染みを作っていくそれを、俺はただ見つめる。−−−心臓が、ドクドクと大きな音を立てていた。


 彼女のこの反応は…期待をしてもいいのだろうか?


 ここを離れたくないと。

 ここにいたいと。


 そう考えてもいいのだろうか?


「スノウは…、嫌、じゃないのか?」


 逸る気持ちを抑えてすすり泣く彼女に問うた声は、情けないくらいに震えていた。目の前で細い肩を揺らして涙を零す彼女から言葉を聴きたくて、俺はじっと彼女が口を開くのを待った。



 やがて、か細い音が部屋に響いた。


「−−−え?スノウ、もう一回言ってくれ」


 本当は分かっていたくせに、俺は彼女から言葉をせがむ。−−−はっきりとした気持ちを確かめたかった。


 スノウから、『俺の傍にいたい』と言ってほしかった。


 だから、俺は俯く彼女の顔を覗き込むようにして見た。

 濡れた黒曜石と目があった時。


「ギルの…傍にいたいよ」



 震える声で、でも、はっきりとした言葉で。



 彼女からのその告白は…想像以上に俺を舞い上がらせた。






 こうして、俺はスノウと一緒に俺の家で暮らすことになった。


 村長には、身寄りがない彼女を一時的に俺があずかると言っておいた。二人で村長の家に挨拶に行ったとき、何故か村長と奥さんからニヤニヤとした笑みで迎え入れられ、帰り際に滋養強壮の乾燥した作物を渡されたが、俺は無言でそれを村長の家に置いてきた。


 ただでさえ、スノウと一緒にいると心臓が高鳴るのに、それを誘発するようなものを俺に渡さないで欲しい。逆も然りである。


 

「ギル?どうかしたの?」


 一人頭を抱えながら歩いていた俺に、少し前を歩いていたスノウが不思議そうに見つめてきた。振り返ったと同時に、風で黒髪がなびく。太陽に照らされたそれは艶々と輝いていた。


 そんな彼女に、俺は曖昧に頷き「何でもない」とだけ告げる。


 彼女が持っていたかご鞄を手に取り、スタスタと歩いた。ぶっきら棒になってしまったことを気にしたが、後ろから追いかけて来た彼女からはそれを気にした様子はない。


「変なギル」


 そう言ってクスクスと笑いながら、隣を歩く彼女。


 いつも通っていた道なのに、彼女と並んで歩くと途端に一変する。平坦な雪道でさえ、特別なもののように感じてしまう。


「腹減ったな」


 感傷的な物思いにふけっていたことを悟られたくなくて言えば、隣の彼女はまた笑って。


「なら、早く帰らなくちゃね。ギルがこの前好きって言ってくれたスープ、またつくるね!」


 なんて、楽しそうに言った。


 

 きれいなスノウ。可愛いスノウ。


 

 スノウは俺の胸くらいの高さしかないのに、俺の中ではその存在はとても大きくて。


 彼女にとって俺の存在が『親切で優しい人』でもいいから、ただ傍にいて欲しいと。



 そう願わずにはいられなかった。 




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