彼との距離
途中から過去の話に入ります。
目覚めてから知ったこと。それは、世界には色が溢れているということ。
私はギルと出会ってから、この世界にはどれほど沢山の色が満ちているのかを知った。
初めて会った色は、きれいな金色。透き通る金と青色。その二つの色に私は目を奪われた。真っ暗な世界に白い色の記憶たち。それだけしか持たなかった私が新たに知ったのは、大好きなあなたの色でした。
「スノウがいつ眠るのか分からない。だけど、俺はお前を一人に何てしたくないし、怖い思いをさせたくない」
そう言って、ギルは私を抱きしめた。ギルに私の持つ『性質』を明かした夜の次の朝。彼は畑にいく直前に、振り返りつつも告げる。
「ギル…」
思わず、ハンナを抱く腕に力が籠る。昨晩からずっと泣き続けていたことがばれているのか、ギルのその言葉の中には私を労わる色が滲んでいた。不安そうに見上げる瞳の先に、神妙な中にも決して揺らがない意志が見える。透き通るような青色の瞳は、私を捕えて逸らさない。
「だから、一緒にいよう」
ずっと、ずっと。スノウが、不安にならないように。
そう続けたギルは、ハンナを抱く私ごとその腕に抱いた。ぎゅっと、優しい力とあたたかい熱に包まれて、私の心が揺らいだ。強張っていた身体から力が抜け、大好きな彼の香りにじわじわと胸が解れていく。気が付けば視界は歪み、涙腺が決壊していた。
ボロボロと、ハンナが不思議そうに見上げているにも関わらず、大きな声で泣く。不安と恐怖に押し付けられていた心ごと弛緩し、私は抱きしめてくれるギルの温もりに身を委ねて泣いた。
傍に居たい。記憶を無くしたくない。本当はずっとずっと覚えていたい。
そう叫ぶ私を、ギルはただ無言で抱きしめてくれた。
ギルとまだ結婚する前。私は村の女の子の話を偶然耳にしてしまった。
『やっぱり夫にするならギルだよね。一人暮らしが長いから何でも出来るし、なによりこの村じゃ一番いい男だし』
『それ分かるー!』
数人の女の子たちは、皆私と同い年か少し幼く見えた。村の中央…、だけど、ギルの家からは少し遠い場所にある小さな噴水の前で洗濯をする彼女たちは、その作業を終えおしゃべりに花を咲かしていた。
まだ雪の残る季節だったから、当然空気は冷たい。なのに、彼女たちは嬉しそうに頬を染め、気になる異性の話で盛り上がっていた。きゃっきゃと話す彼女たちの口から白色の吐息が零れ、青く澄んだ空に溶けていく。
ギルを名指しされて、少し心臓が跳ねた。偶々村長の奥さんと一緒に買い物に出ていたから、気になっても足を止めることなんて出来ない。だけど、やっぱり気になるから、必死で耳を澄まして数メートルの距離にいる彼女たちの会話を聴いた。
『あーあ、私もギルと一緒になりたいなー』
『ねー! 狙っていたのに、最近一緒に住んでいる女がいるって噂じゃん?』
『あ、それ私も聴いた! なんかね、すんごい美人さんだって!』
一緒に住んでいる女。それはきっと自分のこと。突然出てきた自分にドキリとした。だけど声をあげる訳にもいかず、ただ黙って奥さんの買い物が終わるのを待っていた。村の中央に出店している町からの市があちこちにあって、奥さんは市で町で流行りの柄の布を買うのが好きなのだそうだ。店の前でうんうん悩む奥さんを見守りながらも、意識は完全に背後にいる彼女たちの会話へと向かっている。
やはり、ギルは異性から人気があるようだ。
目覚めてから何となく気が付いていたが、こうして他人から改めて言われると胸に刺さるものがある。知らず内に受けていた見えない槍が心臓を抉り、じくじくとした痛みを生じさせた。
それは紛れもない不快感。−−−彼は、自分のものという嫉妬心。誰にも渡したくない。ギルを好きなのは、私。だから、あなたたちには渡せない。
浅ましくも卑しい独占欲に駆られ、胸が黒く染まっていくかのようだ。いやだ。ギルを捕らないで。そう叫んでしまいたい衝動を必死で飲み込んで、手にした籠を力一杯抱きしめた。
『スノウちゃん、お待たせ! −−−大丈夫? なんか、顔色悪いよ?』
いつの間にか買い物を終えていた奥さんにそう声をかけられるまで、私は悶々とした思いを抱えながら俯いていた。
ギルは優しくて誠実な人。私の微細な変化にでさえ気が付いて、いつも心配してくれる。
女の子たちの会話を聞いてから顔色が悪くなってしまった私を最後まで案じていた奥さんと別れてすぐ、まだ雪が残る畑の様子を見に行っていたギルと会った。
帰り道が重なり、一緒に並んで帰路につく。家までまだ少し時間がかかるのに、それでも二人で並んで歩くとあっという間だから不思議。肩を寄せ合うにはギルの背は頭一つ分高くて、私は隣の彼を見上げながら籠の中身を説明した。
『これが今日奥さんと見に行った市で見つけた布だよ。今度、新しい布団とクッションカバーを縫うね』
『ありがとう。スノウが来てから、俺ん家は随分華やかになったよ』
まだ少し強張る顔で笑顔を浮かべると、こちらへと視線を向けたギルの目元がふわりと甘くなる。優しい眼差しに胸が跳ね、ぽっと染まる頬が気恥ずかしくて直ぐに視線を逸らせた。変に思われたのかもしれないけれど、ギルに見つめられると鼓動が速くなって仕方がない。
『ほら、スノウ。それ、重いだろ? かして』
『え? 大丈夫だよ…?』
『いいから』
私の言葉を遮ったギルは、そのまま手にしていた籠を攫ってしまう。少し強引な物言いとは裏腹に、彼の仕草はひどく優しい。こちらを労わるようにそっと持ち上げると、そのまま向こう側の手にしまってしまった。私とは反対の手で持たれたため、取り返すことなんて出来ない。
『もう、本当に大丈夫なのに…。でも、ありがとう』
『ん』
その態度に唇を尖らせつつも、長続きしなくて。気遣うような仕草と言葉に、ギルがいかに優しい人柄であるかを思い知る。お礼を言えば返ってくる言葉は素っ気ないのに、見上げた先にある顔が耳まで真っ赤だから、つい吹き出してしまった。
『なんで笑うんだよ?』
『ふふっ、ごめん。だって、ギルが可愛いから』
『はあ?』
目元まで赤く染まったギルが軽く睨んでくる。それでも、その声音は彼がそれほど怒っていないことを伝えてくるから、こちらもクスクスと漏れてしまうのは仕方がない。一向に止まる気配を見せない笑みに唇を尖らせつつ、彼は「おかしな奴だな」なんて言ってそっぽを向いた。
上目づかいで盗み見ると、ギルの顔はまだ赤く染まったまま。それが何だか無性にうれしくて、私は声に出さずに笑った。本当に、どうしてこうも満たされるのか。心があたたかくて堪らなくて、私は隣を歩くギルにほんの少しより添った。
ギルの腕と私の腕が、微かに触れ合う。だけど、その下に伸びる手が重なることは無い。それが私たちの距離だった。ほんの少し手を動かせば重なるのに。ほんの少し身体を動かせば、ぴったりと寄り添うのに。
伸びた腕の先にある手が宙を漕ぐ。ギルの左手との距離は僅かなのに、その距離を詰めてしまうことを恐れている。
本当は、願ってはいけない。ギルにとって私がどのような立場にあたるのか。それがはっきりしていないから、私から触れ合うことを求めていいのかが分からなかった。
何度か手を重ねたことはあっても、こうして何でもない時に自ら触れることに抵抗を覚える。−−−普通、恋人がするであろうことを私がしても、ギルは嫌がらないかな。
拒まれた時を想像するとやっぱり怖くて、私はもどかしい気持ちを抱えながらギルの横顔を見つめた。夕日に照らされた金色の髪が、少し橙色に見える。透き通るような青色に影が差しかかって見えないことが、また私に微かな不安を与えた。
もう春が来ていた。
まだ私たちが恋人でもなければ、夫婦にもなっていなかった頃。夕日が差し込む台所で、神妙な顔をしたギルが声をかけてきた。
振り返った私に彼はどこか遠くを見るかのような瞳を向けてきたけれど、それから意を決したかのようにごくりと咽喉を鳴らした。それは緊張した時の彼の様子そのもので、猟についていった時に一度だけ動物と対峙した時に見せていた仕草と同じだった。
何を想い詰めているのだろうと思っていたとき、不意にギルが口を開いた。
『俺の…嫁さんになってくれないか?』
『え…?』
その言葉に、私は不覚にも硬直した。何を言われ、どのような内容だったのかが理解できなくて、必死で脳内で彼が告げた言葉を反芻する。−−−嫁さん、お嫁さん。誰の…? ギルの…?
そこまで思考が纏まったあたりで、じわじわと視界が滲みだした。胸にポッと灯る熱が徐々に広がり、暖かな熱を全身へと運んでくれる。真っ先に生じた感情は、『嬉しい』だった。
本当の本当に、ギルは私をお嫁さんに望んだのだろうか。それが信じられなくて。でも、本当だったら幸せで。驚愕と歓喜がせめぎ合って胸がつかえた。本当は直ぐにでも返事をしたいのに、嗚咽で言葉にならない。
なかなか返事をしない私に、ギルは慌てて近づいた。それほど−−−泣くほど嫌だなんて知らなかったと謝る姿に、胸が締まる。違う。そうじゃないの。返したい言葉は否定なのに、涙が邪魔をして音を紡ぐことさえ出来ない。
だから、私は首を横に振った。なんとか絞り出せた言葉で、必死で想いを吐露する。
『ち、がう…! これは、違うのっ!!』
『え?』
目を丸くしたギルを見上げ、私は言葉を繋いだ。嬉しいのだと。迷惑をかけていると思っていたから、結婚を申し込んでもらえてうれしいのだと精一杯伝えれば、ギルがそっと私の顔を包み込んだ。
そのまま射抜くような鋭さを湛えた青色の瞳に捉えられる。泣いている顔を見られることが今更ながらに恥ずかしいのに、それを隠すことすら許してはくれない。溢れ出た涙を、頬を包み込んだままのギルの親指が撫でるように掬う。労わる仕草にまた、涙が零れそうになった。
精悍な顔が近づいて来て、私の顔の上に影を落とした。吐息が微かに鼻先を霞める距離で、もう一度、ギルが告げる。
『スノウ…俺の、嫁さんになってくれないか?』
確かにはっきりと聞えた言葉は幻聴などでは無かった。力強い瞳と、透き通るような青色が私を心ごと包み込む。胸に灯った熱は暖かくて優しくて、それが実感できることに喜びを覚えた。−−− 一緒にいたい。ずっと、傍に。
『はいっ…!』
返事をすれば、ギルの顔にも笑みが浮かぶ。嬉しそうに笑う姿は幼い無邪気なもので、その少年のような顔に鼓動が跳ねた。
自然と重なった唇。以前畑でした成り行きのようなものでは無く、ここにあるのはお互いの確かな気持ち。想いが通い合った今とそうでは無い前とでは、全く違う行為に思えた。
触れ合った熱を確かめるように、何度も唇を重ねた。愛おしさが溢れ、ギルの腕の温もりに包まれていることに安堵を覚えた。ただただ幸せで、夢中でキスを交わした。
『もう…ギルったら。やりすぎだよ?』
ようやく離れた唇を、わざと尖らせてみる。本当は嬉しかったくせに、今更ながらに覚えた羞恥にいたたまれなくなった私は、拗ねたような態度をとった。だけど、ギルはそんな私の態度にも甘い微笑で躱して。
もう一度、きつく唇を重ねてきた。
流石に驚いて、今度こそ本気で拗ねた。恥ずかしくて堪らないのに、どうしてキスをするのか。真っ赤な顔で怒ると、ギルは少し肩を竦めて「ごめんごめん」と返した。本当に謝っているのかと軽く睨むと、まるで悪戯を叱られた子供のような顔で見つめてくる。
それが少しだけ可哀想で、「もう怒ってないよ」と笑えば、ギルの顔も一気に綻んだ。ぱあっと花が咲くみたいに笑顔になった彼を、愛おしいと思ってしまったから。きっと、この先も色々なことを直ぐに許しちゃうんだろうなと思った。
真っ赤な夕日に照らされた部屋。窓から差し込む茜色は暖かくて、物哀しさ覚えた帰り道とは違う。あたたかい橙色は優しくて。それに照らされた金色はやっぱりきれいで。私だけを愛おしそうに見つめる青色は、どこまでも澄んでいた。
だから私も微笑み返した。胸一杯の愛おしいを伝えるために。
大好きだよって。愛しているって。
これまで云られなかったこと全部、伝えるために。
夕日がこんなにも。−−−茜色がこんなにもきれいだなんて、知らなかった。
茜色は幸せの色だね。それを教えてくれたのは、やっぱりあなたでした。
『ギル…、大好き』
『!!』
突然の告白に、驚いたように目を丸くしたギルが固まる。真っ赤な顔で、それはもう、耳まで染めた様が可笑しくて。私は少し背伸びをしてギルの顔に自らのそれを寄せた。
屈むようにしてくれたギルに、甘い吐息で囁く。
全てを告げると、彼はまた真っ赤な顔で視線を彷徨わせながら口元を抑えた。そして、またこちらを見つめると、とびきりの笑顔で言ったの。
『俺も』
照れたように返したギルに、また笑顔が零れた。何度言っても足りないの。−−−本当に、ずっとずっと…。愛しているよ。