「覚醒」
それは痛みというよりも、灼けつくような熱さだ。
これまで両手両足の指を使っても数えきれないほどの回数を『死んで』きた彼にとっても、慣れることなど永遠にないと思える耐え難い苦しみ。
武士が訓練や実戦の最中で繰り返してきた死因で、もっとも多かったのが『外傷性ショック死』だった。
大量の出血で血圧が維持できなくなり、脳や心臓などの重要器官に血が巡らず急激に消耗し、死に至る。
だが、命蒼刃の力により『外傷』はすぐに治癒されてきた。
場合によっては心臓を破壊されても、肉片の一欠片から蘇生し、造血組織である骨髄が急速に生成した血液を、体中に循環させる。
その無から有を作り出すともいえる驚異的な治癒能力のエネルギーは、すべて、命蒼刃の管理者たる葵の魂の力だった。
命蒼刃を介し、葵の魂の力が送られてくる限り、武士の肉体は不死身だった。
死に至る外傷による痛みが長く続けば、その精神はすぐに狂気へと落ちる。
だが命蒼刃の力は、そうなる前に武士の外傷を修復し、痛みを消し去ってきた。
これまでは。
(なにが……! なにが起きて……!?)
今まで何度も死んできた武士。
致命傷を受け耐え難い痛みを覚えた直後に意識を失い、数瞬後に蒼い光によって深い水底から浮かび上がるように意識が覚醒し、緩やかに体の痛みが引いていく。
だが今回は違った。
蒼い光は確かに感じて、失っていた意識も取り戻される。
だが、再び灼けつくような激痛を胸に覚え、その痛みに気が狂いそうになっている中で呼吸もままならず、また意識が途絶する。
そして覚醒。
これを何度繰り返したのか、もはや武士自身にも分からなかった。
(熱い……!! 熱い熱い痛い痛い痛い!! 苦しい! 苦しい息が息ができない苦しい! 熱い痛い苦しい痛い痛い熱い苦しい苦しい! 寒い! 寒い熱い痛い!! 苦しい苦しい苦し苦苦苦し熱い! 痛い痛い痛い痛痛)
深井隆人の杭によって心臓を貫かれ、その漆黒の杭が胸に刺さったままダムに転落した武士。
大量の水を飲みこみ肺は水で満たされ、酸素を取り込むことなど望むべくもない。
そして、抜けることのない漆黒の杭は、心臓の蘇生を阻害する。
命蒼刃の力で、肺は蘇生する。
異物たる水を追い出して、あるべき健全な姿へ戻る。
しかし水中に沈んだままの武士は、すぐにまた大量の水を飲みこんでしまうのだ。
脳も蘇生する。
酸素の供給がなくなり死滅した脳細胞は、酸素の代わりに魂の力を注ぎこまれて健全な状態を取り戻す。
しかしそれは数瞬のことで、心臓から酸素を含んだ血液が安定して巡ってこない限り、脳細胞はすぐにまた死滅していった。
武士の心臓だけは、蘇生することがなかった。
撃ち込まれた漆黒の杭により、送られてくる葵の魂の力が奪われているのだ。
脳も、肺も、心臓以外のすべての体組織には命蒼刃の力は届き、治癒される。
しかし漆黒の杭が抜けない心臓だけは、回復することができなかった。
(痛痛い苦し苦苦しい熱い……!! があああっ!!)
繰り返される『死』のさなかで、辛うじて武士は自分の再生を邪魔しているのが胸に刺さった杭だと知覚することに成功し、甦った一瞬にその杭を抜こうともがく。
しかし、その手が杭に触れた瞬間に、体を巡っていた魂の力がおぞましい不快な感覚と共に砕け散った。
また死に落ちていく武士の脳裏に浮かんだのは、霊波天刃の光の刃を弾いた深井隆人の義手の腕。
(このままじゃ……僕は……!!)
永遠に繰り返される死と再生。
終わる事のない激痛に気が狂うことも許されず、ただただ永遠にもがき苦しむしかない未来。
幾度目かの意識の浮き沈みの狭間で、武士は絶望を認識した。
(殺して……殺してくれ! 死なせて! 死なせてくれ……!)
どうして自分がこんな目に会わなくてはいけない!?
数ヶ月前までは普通の子どもだった。
中学までは、ネットゲームに明け暮れてベッドの上で惰眠を貪る、よくいる普通の引きこもりだった。
高校に入ってからも、剣道部で先輩にしごかれて、嫌になって退部を決めたどこにでもいる普通の高校生だったんだ。
それがどうしてこうなった?
どうしてこんな山の中のダムに沈んで、永遠の死を繰り返すことになったんだ。
『私に命を渡して』
退部届を握りしめて入った剣道場で、傷だらけのセーラー服の少女に出会った。
すべてはそこから、始まった。
蒼い刀で心臓を突き刺され、不死になった。
九つの超常の力を巡る戦いに巻き込まれた。
国防軍の特殊部隊に銃で撃たれ、元少年兵の日本刀で袈裟切りにされ、炎を操る外国の工作員に手足を焼き切られ、最強の傭兵に心臓を撃ち抜かれた。
そして今、死ねない体のままダムの水底に落とされ、終わる事のない苦しみの中でもがいている。
どうしてこうなった?
誰の為にこうなった?
(うわああああっっ!!)
幾度目かの覚醒で、武士は心臓の杭を握りしめる。
おぞましい感覚とともに奪われていく力。
しかしこの杭を抜けなければ、悪夢は永遠に終わらない。
精一杯の力を込めるが、突き刺さった漆黒の杭は少しも抜けることはなく、武士の意識はまた急速に薄れていった。
『……殺す! 貴様を殺す! 一秒でも早く貴様を殺して、武士を助けに行くんだ!!』
『無駄だ、お嬢ちゃん達に俺は殺せねえ。いや、今の俺は誰にも倒すことはできねえ。あの坊主はな、永遠にダムの奥底で苦しむんだ。今まで何度も死んで生き返ってきたんだろう? そんなご都合主義がいつまでも続くと思ってたのかい?』
『黙れェェ!』
黒髪の少女が、半人半魔の怪物と戦っている。
少女は吠え、心を絶望に支配されそうになりながらも、それでも必死に愛する者を救うため戦っていた。
武士には、それが分かった。
『いや、そういえばお嬢ちゃん。あの坊主を助ける方法がひとつだけあるぜ?』
『なんだと?』
『黙れ! 葵ちゃん、こんな野郎の言うこと聞いちゃダメだ!』
『翠姉!?』
『それはお嬢ちゃんが死ぬことだよ。管理者が死ねば、命蒼刃の力は無くなって、使い手の坊主も安らかに死ねるってことさ』
『……!』
『言うなあぁ!!』
洋装の少女が二振りの曲刀を振るって叫んでいる。
黒髪の少女の動きが鈍り、そこに半人半魔の怪物が襲いかかる。
炎の剣閃がその行く手を遮った。
少年の双砲が破壊の暴風を叩きつける。
しかしいずれも、怪物を倒すことができない。
またその戦いの周囲では、一振りの日本刀を振るう剣士が、心を支配されたゾンビのような兵士達と戦っていた。
混戦が続いている。
しかしその中で、明らかに黒髪の少女の動きが精彩を欠き始めており、徐々に手傷を増やしていった。
『葵ちゃん! しっかりして、葵ちゃん!!』
『葵! しっかしりしやがれ! 武士をこのまま殺す気か!?』
(このままじゃ……死んじゃう……)
誰が?
それは、彼をこの地獄に叩き落とした根源である少女。
あの黒髪の少女が死ねば、彼はこの永遠の苦しみから解放されるのだ。
(……葵ちゃん)
少女の魂の力を受けて、彼の脳がまた死から甦る。
甦る度にその魂が、脳に、体に、刻み込まれていく。
予言により呪われた少女の運命。
戦う術を身につける為に、訓練に明け暮れた日々。
そして繰り返された実戦。その半生。
『よく頑張ったね。これが君が契約を交わした九色刃・命蒼刃だよ』
『気に喰わないんだよねー。失語症? 自分一人がカワイソーなお話の主役みたいな顔してさ』
『誰か……あたしのことだって、誰か助けてよ!!』
『あたしたちは友達なんかじゃない。血よりも濃い魂の繋がりの、きょうだい』
『私が絶対に、灯太を守るから』
『信じてるね、葵お姉ちゃん!』
『翠姉……灯太は……?』
『あたし……守れなかった……』
『行けっ! 走れ、葵! 約束を守って!』
『〈英雄〉の居場所は! 〈英雄〉は誰なの!』
『九龍直也! 私に……命を渡して!』
『なんで、こんな子に……邪魔されなきゃいけないの……』
『私は、不快だったよ。君の魂に触れられて』
『私の任務は終わったの。完全な失敗。私は英雄に九色刃の力を渡すためだけに生まれた。その役目に失敗したんだから、もう生きてる意味なんてない』
『命蒼刃と私を守る為に、里の仲間が何人も死んでいった。その仲間に託された任務だったんだよ! その任務を、私は果たせなかったんだ!』
「……ならその英雄に、僕がなってやる……」
『ふざけないで! 相手を傷つける勇気も! 力も! 覚悟もない人間に! 世界を守ることなんて、できる筈が無いのよ!』
『なのに……もうやめてよ……なんで、ここまでされて……! 立ち上がってくるのよ!?』
「人を傷つける覚悟なんてない……だけど……」
――だからせめて、わたしの力を
――わたしの力も、あなたの中に
――あなたも、大好きなものを守って
少年の右腕が、心臓に突き刺さった漆黒の杭を握りしめた。
悪魔の力がまたも魂の力をかき消していくが、それ以上の勢いで、少年の右腕から蒼い光の奔流が迸り始めた。
拮抗するように杭からも漆黒が溢れ出すが、蒼光は闇に屈しない。
「だけど、君を守る覚悟ならある! 君を死なせない為になら、命蒼刃の力なんて関係ない、僕は何度だって立ち上がってやる!!」
***
「愉しかったぜぇ……、名残惜しいが、そろそろ終わりにしようか」
それぞれに手傷を追い、葵たちは追い詰められていた。
翠と紅華の九色刃による攻撃はほとんど深井の右腕によって無効化され、ハジメの銃弾は殆ど尽きてしまった。
直也は重傷を負ってなお零小隊の半数を切り捨てたものの、味方の損害を無視して組織的な攻撃を仕掛けてくる零小隊に苦戦を強いられていた。
「く……万全の状態ならば……」
応急手当しかされていない腹部に血を滲ませながら、直也は悔しがる。
確かに深井によるナイフの傷が無ければ、直也は零小隊を殲滅できていただろう。
だが、直也は同時に違和感も感じていた。
(この零小隊の動き……本当に神楽の指揮によるものか? 精度が違い過ぎる)
森の中で、武士たちが最初に零小隊と戦った時の様子を、直也は確認していた。
その上で、武士たち四人のチームで対応できると判断し、直也は紅華と共に先行して此処へ来たのだ。
だが、その時と比べて零小隊の戦闘力は、明らかに向上していた。
個々の戦闘力としては、ハジメたちが負わせたダメージの分、減衰している。
だが組織としての戦闘力向上がトータルとして上回り、また手足を斬り飛ばしてなお銃撃してくる兵士たちの常識外の強靭さに、直也は押されていた。
「くそ……ここまで来て……かよ……」
空になったマガジンを排出し、ハジメは呻く。
腰に手を伸ばし、最後のマガジンを手に取る。
それは兄の御堂継に託された切り札だ。
しかしそれは、零小隊や魔人化した深井隆人に対する切り札ではない。
ここでの使用に意味はなかった。
「諦めるのか刃朗衆! 貴様らの覚悟は所詮、その程度なのか!?」
紅華が朱焔杖を支えに立ち上がり、檄を飛ばす。
彼女自身、深井の義手による打撃を幾度となく受け、その身にダメージを蓄積させていた。
しかし背後の灯太を守るため、麒麟の紅華は意地で立ち上がる。
「舐めたコト……言わないでよねん……誰が諦めるって?」
ゴスロリ衣装に仕込んできた植物の種子をほぼ使い切り、ボロ布を身に纏っているだけのような状態になっている翠が、それでも碧双刃を構える。
「は! 元気のいい嬢ちゃん達だ! ……と、そうでもねえ奴もいるけどな」
「!! 立ちなさい、葵!!」
深井の視線の先に気が付き、翠が叫ぶ。
地面に両膝をついている葵の瞳からは、戦意が喪われようとしていた。
「……私の魂が……届かない……武士は、もう……何回、死んで……」
「だから早く助けるんでしょう!? 立って葵ちゃん!! こいつを殺して、装備を整えてダムに潜るの!! 武ちんは待ってるはずだよ、あんたが諦めてどうするの!?」
「ははは、面白え冗談だ。九色刃の力が通じねえ俺をお前らがどうやって殺すのか、ぜひともご教授頂きてえな!」
翠の必死の叫びを、深井は嘲笑する。
「力に酔っているのか? 深井隆人」
その深井を灯太が睨みつけた。
「……何?」
「あなたは戦場で戦う相手を愚弄する、そんな人では無かったはずだ。それとも心まで完全に、巫婆に支配されてしまったのか?」
問いかけに深井は顔から笑みを消し、怒りを露わにする。
その顔の半分程にまで、義手から浸食してきた暗黒は到達していた。
「黙れガキが! そんな奴は知らねえと言っているだろうが!! これは俺の力だ! 俺の力なんだ!!」
灯太に向けて、魔人が駆け出した。
その前にザッと立ち塞がる、紅華。
「炎龍!!」
突き出した朱焔杖の切っ先から、炎の龍が出現し襲いかかった。
コンクリートの堤体を溶かす勢いの高熱の龍は、しかし魔人の掌で受け止められる。
「あれは……!」
翠は気づく。
よく見れば、掌には昏い穴が開いている。
武士を撃ち抜いた杭が射出された穴だ。
そこから噴き出している暗黒の霧が、朱焔杖の炎龍を消滅させていた。
だが、紅華は消されてなお炎を噴出させ続ける。
「なかなかやるじゃねえか、大した圧力だ」
「く……灯太!」
「わかってる姉貴! あの腕が消滅させるより速いスピードで、燃やし尽くすしかない!!」
灯太が紅華の背に手を当てて、瞼を閉じる。
「……增加!!」
グォォォォン!!
灯太の叫びとともに紅いオーラが輝き、炎の龍が勢いを増す!
「うお! こ、こいつは」
「灯太もブーストを!?」
驚愕するハジメと翠。
猛る炎龍がとぐろを巻いて、深井に周囲から襲いかかった。
「しゃら……くせえんだよぉ!!」
しかし、吠える魔人の腕の一振りで、炎の龍神はあっさりと消滅する。
「く……そ……」
「灯太!」
夜の静寂が、場を支配する。
灯太がよろめき、慌てて紅華がその小さな体を支えた。
魂の力自体は、確かに無限だ。
しかし、それを行使する管理者の集中力は無限ではない。
まして、ここまで幾度となく神楽の封印を破り、紅華たちの戦いをサポートしてきた灯太の精神力は、とっくの昔に限界を超えていたのだ。
「さあて、そろそろ楽にしてや――」
ザバン!
水音が響く。
「……葵ちゃん!!」
炎の龍の消失に全員が意識を奪われた一瞬に、葵がダムの水底へとその身を投じていた。
「バカ野郎!!」
後を追って飛び込もうとした翠を、ハジメが腕を掴んで止める。
「離してハジメ! 葵ちゃんが!!」
「飛び込んでもどうにもならねえって、さっきテメエが言っただろうが!」
「だからって!! 葵ちゃん!! 葵ちゃん!!!」
ハジメに羽交い絞めにされ、翠の絶叫が空しく響く。
「……つまらねえ終わり方だな、自殺かよ」
深井はまたも、少年少女たちを嗤う。
それは人間たちを見下すかのような笑い方。
冷たい嘲笑。
「……終わったよ、九龍」
零小隊を従え直也と対峙していた、神楽が呟いた。
「……何?」
聞いたことのない神楽の口調に、直也が眉をひそめる。
神楽は両手を広げて、ゆっくりと直也に歩み寄る。
「命蒼刃の管理者と、使い手が死んだよ。これでお前は、再び英雄となれる機会を得た。なあに、新たな管理者はどうにでもなるよ。ボクが何年もかけないで、用意してあげよう」
「……神楽、どうしてお前が、そんなことを言う?」
「どうして……? ふふふ、面白いからさ。命蒼刃を手にしたお前が、どうやって司令を、父親を殺すのか。愉しみだよボクは」
神道使いの少年は、愉悦に堪えきれないように笑う。
それは悦楽に溺れた女郎のごとき艶やかな嘲笑。
そのとき。
「えっ?」
「なんだ?」
不意に、翠とハジメが呟いた。
制止を振り切ってダムに飛び込もうとしていた翠と、それを抑えていたハジメが動きを止めて、二人で湖面を見つめている。
「これは……」
「すごい、こんな……」
堤体の端近くにいた紅華と灯太も、湖面を見て目を見開いている。
「何?」
「何? 今更、一体なにが……!?」
深井と神楽が共に視線を湖面に向けようとした瞬間。
闇を流し込んだが如き暗いダムの湖面が、一斉に輝き始める。
その輝きの色は当然のように、清廉な『蒼』。
「――バカな!! そんなバカげたことが!!」
監視塔の上で魔女が叫ぶ。
蒼い輝きはダムの湖面全体に広がり、そして夜の空をも照らした後、急速に収束し、蒼い光球を形作る。
光球は空を駆け、堤体の真ん中に地響きとともに降り立った。
「バカなっ……バカなバカなバカなバカなこんなことがっっっ……!」
髪を掻き乱し叫ぶ魔女。
蒼光の余波が燐光のように舞っている。
その輝きは、女悪魔がもっとも忌避し憎んだ存在、風精霊の力の波長。
「心配かけてごめん、葵ちゃん。でも、もう大丈夫だから」
「武士……!!」
肩を抱かれて降り立った葵は、目の前の少年の名を愛おしそうに呼ぶ。
空を舞った。
少年の体は蒼光のオーラに包まれ、今もなお輝いている。
そして、少年の髪はそれ以上の輝きで蒼く蒼く周囲を照らす。
それでも葵は、すっかり雰囲気を変えた目の前の少年が、少女がよく知る心優しい少年となんら変わっていないことを確信する。
「あのひとが、少しだけ力を貸してくれた。葵ちゃんの心と手を繋ぐ力を貸してくれた」
武士は葵に向かって微笑む。
「終わらせよう。もう誰も傷つかなくていいように。だから、もう少しだけ力を貸してね、葵ちゃん。それに……母さん」




