「私に命を渡して」
ガタン、と階下の建物の入り口の方から、音が聞こえる。
「誰だ?」
ハジメは振り返り、道場の入り口を見つめる。
半分開いたままのドアに手が掛けられ、こちらの様子を探るように、ゆっくりと開いた。
暁学園の制服とは違う、セーラー服の美しい少女が、長い髪を乱しながら立っていた。
制服のあちこちは汚れており、頭と右腕、そして短いスカートからすらりと伸びた美しい脚からは、血が滲んでいる。
少女は、荒い息を吐きながら、武士たち三人を睨みつけていた。
「え、なに?」
武士は突然の闖入者に驚きの声を上げる。
しかし、その少女の体が傷だらけのなことに気づくと、
「君、大丈夫? 血が……!」
慌てて少女に駆け寄ろうとする。
しかしその腕を掴んで、ハジメは武士を止めた。
「え、ちょっと、ハジメ?」
「まだ近づくな」
ハジメは少女を睨みながら言い放つ。
武士を押さえた方と反対の手は、肩から下げたカバンの中に入れていた。
「どうしたの君。怪我しているみたいだけど、どこの学校の子?」
直也が前に出て、ゆっくりと声を掛けながら少女に近づく。
直也の左手には、先ほどの日本刀が鞘に入ったまま握られている。
「……九龍……直也?」
血だらけの少女―葵は、息を乱しながら胴着姿の直也の顔を見て聞いた。
「ああ。九龍は俺だけど、君はいったい」
「時間がないの……。あいつら、こんなところまで襲ってきて……」
葵は、フラリと歩を進め、直也に近づく。
「あいつら? どうしたんだ、一体何を言って」
「すぐに、追っ手がくる……だから」
いつのまに持っていたのか、葵は手にしていた蒼い短刀を抜き放って、構える。
「英雄、九龍直也! 私に……命を渡して!」
葵は体ごと直也に突っ込み、短刀を鋭く突き出した!
直也は咄嗟に左手の日本刀を鞘に納まったまま振って、短刀の一撃を弾く。
葵は体勢を崩したが、すぐに距離をとって立て直し、間を空けずに短刀を振りかざすと、直也の首筋を狙って切りつけた。
鋭い一閃を直也は飛び下がって避け、間合いを取って日本刀の柄に右手をかける。
しかし刀を抜きはしないまま、葵に向かって叫んだ。
「なんだ、君は! なんで俺を狙うんだ!」
「時間がないの、九龍直也!」
葵は短刀の切っ先を直也に向け、顔の前で構える。
「すぐに邪魔が入る! 説明している暇はないの!」
床を蹴って、葵は直也に迫る。
鋭い短刀の突きが迫るが、直也は右手を閃かせる。
抜き放たれた刀は、突き出された短刀を強く打ち払う。
葵は短刀を手放しはしなかったが、大きく姿勢を崩し、床を転がって体を立て直した。
「な、なにが……」
武士は突然のことに動揺して、二人を見ているしかなかった。
ハジメは武士を庇うように腕を武士の前に出して、反対の手は変わらずにカバンの中に突っ込んだまま、二人の動きを睨み続ける。
「理由を話せ! どうして俺を狙う!」
「時間がないって言ってるでしょう!」
葵は混乱していた。
仲間の諜報部に接触した翌朝、学園に向かう準備を近場のビジネスホテルでしているとき、葵は敵の襲撃にあった。
日があるうちの襲撃など、これまでほとんどなかった為に、葵は油断しており、少なからず傷を負ってしまった。
制服には着替えていたが、英雄の写真とメモが入ったカバンを手放してしまい、敵に目的を知られた可能性が高かった。
その後も追っ手を避けながらの移動で、ようやく暁学園にたどり着いた時には既に日が落ちていた。
学園の前で張ったが、直也の下校は確認できない。
しびれを切らして学園に忍び込んでみると、既に学園のあちらこちらから、敵も侵入している気配を感じた。
メモと写真を確認した後、すぐに処分しなかった初歩的なミスに、葵は悔いる。
このままでは、敵に先を越されてしまう。
力を与える前に、九龍直也の魂を手に入れる前に万が一暗殺されでもしたら、もう取り返しがつかない。
長い長い逃避行で神経は磨り減り、土壇場で任務の失敗の可能性が高くなり、葵の判断力は低下していた。
とにかく早く、一刻も早く、この命蒼刃で九龍直也の命を奪わなければならなかった。
「おとなしくして! 私のことを信じて!」
「突然そんなことを言われて、信じられるわけないだろう! いいから説明をしろ!」
葵の鋭い突きを躱し続ける直也。
直也は葵を傷つけないように刀を振るうことを避けていたが、葵の動きもかなり速く機敏で、信じられないことに直也は追い詰められつつあった。
(何者だ……あの女)
ハジメは、恐らくは手加減しているだろうが、それでも怪物的な運動能力を持つ直也を、自分と同じ年くらいの少女が追い詰めつつあることが信じられなかった。
二人は、道場の明かりが消えた方に移動していた。
「あのナイフ……?」
ハジメは、葵の持つ短刀が暗がりの中で薄く青い光を放っていることに気付いた。
「武士、ここを動くなよ」
「えっ」
ハジメは呟くと、武士のそばを離れ、二人に近づき始める。
「ちょっと……ハジメ?」
直也は、武士の声にハジメが近づいてきていることを察した。
まずい。
直也は御堂ハジメを警戒していた。
突然自分を狙ってきたこの少女。
そしてカバンに手を入れたまま近づいてくるハジメ。
それぞれどういう思惑があってかは分からないが、直也はこのままではまずいと感じていた。
「ハアッ!」
葵が突っ込んでくる。
その切っ先をギリギリで直也は避けるが、葵は避けられることを想定していて、床を蹴って急転換すると、直也に体当たりを食らわせた。
体勢を大きく崩す直也。
その隙に葵は短刀を構え直し、再び突っ込む。
ハジメは、葵の動きを止めようと駆け出した。
二人の動きが視界に飛び込んできた直也に、余裕はなくなった。
チャキッ……と日本刀の刃筋を立てる。
武士に、聞こえるはずもない直也の刀を握り直す音が聞こえた。
直也から、殺気が発せられるのを感じた。
「駄目だ!」
武士は弾けるように駆け出した。
先に動いていた筈のハジメよりも早く、武士は直也と葵の間に割って入っていた。
「なっ……!」
それは、ビルの屋上で自殺しようとした男を止めたときと同様に、信じられないほどのスピードだった。
直也の日本刀が、下からなぎ払われる。
葵の短刀が突き出される。
武士は、心臓を葵の〈命蒼刃〉に突き刺され、背中を直也の日本刀に切り裂かれた。
鮮血が、背中を切り裂いた直也と、駆け寄ったハジメに降り掛かる。
葵、直也、ハジメに囲まれるような形で、武士は崩れ落ちた。
板間に、武士を中心に血だまりが広がっていく。
「え……」
倒れこむ武士に引っ張られる形で命蒼刃を放してしまった葵は、自分の両手を見つめて、固まってしまった。
「た、田中……?」
直也にも、いったい何が起こったのかすぐには判断がつかなかった。
「た、武士ーっっ!」
ハジメは絶叫した。
思わず武士の体を掴んで起こそうとする。直也がそれを制した。
「御堂、下手に触るな! 傷が開いて出血がひどくなる!」
「九龍っ! てめえ、なんで武士を切りやがった!」
「お前こそ、どうして田中を止めておかなかったんだ!」
「くっ……」
直也にもハジメにも予想がつかない事態だった。
交錯しようとした直也と葵。
武士が立っていた場所は、それなりに離れていたはずだった。
少なくとも、葵を止めようと近寄っていたハジメよりは遠かったことは間違いない。
直也が、葵を無傷で済ませることを諦め、迫る刃を葵の体ごと切払おうとした瞬間、既に駆け出していたハジメよりも早く、武士は二人の間に飛び込んできた。
葵を、今まで会ったこともないはずの不審なこの少女を守るために、武士は飛び込んできたのだ。
「御堂、とにかく今は止血をしよう」
直也は着ていた道着の上を脱ぐと、切り裂かれている武士の背中を抑える。
白い道着は、みるみる赤く染まっていく。
「更衣室にサラシがあっただろう、俺が圧迫止血をするから、今のうちに……」
直也はハジメに指示を出すが、ハジメはゆっくりと立ち上がり、下げているカバンの中に手を入れた。
「……手遅れに決まってるだろ……心臓刺されてんだよ……ワケわかんねえ、この女によおっ!」
ハジメはカバンから手を引き抜く。
その手にはグロッグと呼ばれる拳銃が握られていた。
血まみれで倒れ伏す武士の前で、膝を付き呆然と固まったままの葵の頭に、銃を突き付ける。
「御堂、やめろ! 今そんなことをしている場合じゃないだろ!」
「何、すぐだよ……このいかれた女の頭吹っ飛ばして、武士の仇を取るだけだ」
直也の制止をハジメは聞きそうになかった。
あまりの怒りの為か銃口がカタカタと震えて狙いが定まらなかったが、ハジメは両手で構え直し、いまだ動く気配のない葵の頭に、銃口を直接押しつける。
チャキッ……
ハジメの首筋に、直也の構える日本刀の切っ先が突きつけられていた。
「九龍、てめえ」
「やめろ。その女は殺すな」
「武士を押さえてろよ! 血が止まんねえだろが!」
「手遅れだと言ったのは君だ」
直也の刀がごく僅かにハジメの首筋に触れ、皮膚に赤い線が走る。
この男は本気だ。
ハジメの背筋に冷たいものが走る。
引き金を引いた瞬間、ハジメの首と胴は離れているだろう。
いや、引き金を引くことすらできないかも知れない。
相手は殺気に反応する天才だ。
「もう一度言う。その女は殺すな。銃を下ろせ御堂」
「へっ、そうかよ……結局はそっち側の」
ハジメはゆっくりと銃を下ろした。
直也の緊張感がほんの一瞬緩む。
「……内輪揉めかよ!」
その僅かな一瞬をハジメは見逃さなかった。
手にした拳銃の銃身で突きつけられた刀身を弾き飛ばす。
殺気を読めるのはハジメも同様だった。
転がるように直也から距離を取り、銃を構え直す。
直也は即座に間合いを詰めようとしたが、武士の血で足元を滑らせバランスを崩し、刀の間合いまでは踏む込むことができない。
銃と刀を構えて二人は対峙する。
銃を持つハジメの方が圧倒的に優位のはずだったが、直也はあと一歩で刀が届く間合いにいた。
あの驚異の反応速度で初弾を躱されたら、切り捨てられるのはハジメの方だ。
「……なんで」
葵は、倒れている武士の前で硬直したまま、ぼそりと低い声で呟く。
「なんで、こんな子に……邪魔されなきゃいけないの……」
思わず洩れたその呟きは、ハジメの逆鱗に触れた。
「てめえがっ」
ハジメは銃の狙いを直也から葵に移す。
「待っ……」
直也が止める間もなく、
ダンッッ!
引き金が引かれた。
直也は止めることが出来なかった。
しかし、その銃弾は葵に届くこともなかった。
信じがたい光景だった。
背中を切り裂かれ、心臓に短刀を突き刺されたままの武士が体を起こして。
葵を庇ってその身に銃弾を受けていた。
肩に銃弾を受けた武士は、再び倒れ血の海に沈む。
「……た……武士……?」
今度こそ、ハジメは何が起こったのか理解できなかった。
「……まさか」
直也も唖然と武士を見ていたが、ハジメの表情とは微妙に異なり、何かを恐れているような顔だった。
それまで無表情だった葵も、再び自分を守った武士に驚きの表情を浮かべている。
「ハ、ハジメ……?……駄目だよ、女の子を撃つなんて……」
か細い武士の声が響いた。
我に返ったハジメが倒れている武士に駆け寄る。
「武士! 大丈夫なのか!? お前、どうして…」
「だい、じょうぶなワケ……ないじゃん……刺されて……撃たれて……」
武士は真っ青な顔でハジメを見ている。
「って言ったって、お前」
そもそも、心臓を短刀で刺されて立ち上がれる人間なんていない。
心臓は、全身に血を送り込むポンプだ。
それに刃物を突き刺されれば、心筋は裂け、まともな収縮が出来なくなる。
体に血液を送ることができなくなり、数分のうちに、脳が死ぬ。
「ねえ……君……」
しかし武士は僅かに首を動かし、葵を見ていた。
「名前、なんていうの……?……」
「……葵」
素直に葵は自分の名前を告げた。
機密事項だったが、任務に失敗した今となってはどうでもいいことだった。
「葵さん……ね……」
「武士、お前なんで」
「だって……自分が守って死んだ人の名前くらい、知っておきたいじゃんか……」
「死なないわ。あなたは」
武士の胸に突き刺さったままの短刀から、青い光が放たれ始めた。
「なっ……」
立て続けに起こる異常な現象に、ハジメは言葉を失うしかない。
発光とともに、武士の体から流れ続けていた血が止まり、傷が塞がっていく。
「あなたにはもう、失う命がないから」
肩口に受けた銃創からは銃弾が押し出され、ころんと床に転がる。
次いで、胸に突き刺さったままだった短刀も中から押し出されるように抜け落ち、血が噴き出すこともなく、傷痕は塞がっていく。
「そういうことだったのか」
武士の体が超常的な力で癒されていく様子を目の当たりにし、直也は思わず呟く。
「その力は、命を奪うことで、与えられるのか」
「どういうことだ?」
思わず洩れた直也の言葉に、ハジメが問い質す。
直也は慌てて口をつぐんだ。
「なに……これ、ど、どうなってんの?」
もっとも動揺しているのは武士だった。
朦朧としていた頭が、急にクリアになってきて、自分の体が普通なら考えられない状態になっていると気づく。
「命蒼刃の力よ」
短刀が蒼い光を発し始めてから、少しだけ顔を歪めていた葵が、抜け落ちた短刀を拾いあげ呟いた。
短刀の発光現象が止まると、真っ青だった武士の顔色もすっかり良くなり、その体には傷ひとつ残っていなかった。
もっとも、切り裂かれた制服などはもちろんそのままだったが。
発光が収まって普通の表情に戻っていた葵は、青い鞘を取り出し手にしていた命蒼刃を納めた。
直也も放り出していた日本刀の鞘を拾い上げて、刀を納める。
奇妙な沈黙が場を支配した。
「御堂。君も物騒なものをしまえ」
右手に銃をぶら下げたままのハジメに、直也は言う。
その直也を、ハジメは笑うように口の端を少し上げながら睨みつけた。
「いいのかよ、そんな距離とって刀納めてよ。俺はいつだってお前を撃てるんだぜ」
「君はそんなことしないよ。ただの監視だろう? やろうと思えばこの三ヶ月、いくらでもその機会はあったはずだ」
「……いくらも隙を見せなかったくせに、よく言うぜ」
「……ハジメ?」
呼び声に、座り込んだままの武士が自分が手にしているものを見ていることに気付いたハジメは、慌てて銃をカバンにしまった。
「今の、なに?」
武士はハジメを見つめたまま問い質す。
「モ、モデルガン……」
「撃たれた。僕、たった今それで撃たれた」
「……どうもすみませんでした」
ハジメは素直に頭を下げた。
「謝って欲しいんじゃなくてさ」
「……」
「説明、してほしいんだけど……ハジメのピストルのこともそうなんだけどさ。僕の体、どうなっちゃったの?」
「それは、俺も聞きてえんだ」
ハジメは直也を見つめた。直也は視線に気付くと、顔を背ける。
「何か知ってますよねえ? 九龍ぅ先輩ぃ?」
「……」
直也は無言だった。
ハジメがなおも口を開こうとすると、葵が先に口を開いた。
「君、名前は?」
「僕? 僕は田中武士」
「……」
「本名だっつーの」
不審そうな葵に、ハジメが横槍を入れる。
「……そう。田中君。ごめんね。私は君を巻き込んでしまった」
「う、うん……」
「私を、庇おうとしてくれたんだね。あのままだったら、私は九龍直也に切られていた」
「……」
「ありがとう。でも、余計なお世話だった」
「なんだと、テメエ!」
「御堂、黙っていろ」
血色ばむハジメを、直也が制する。
「任務を失敗するなら、切られて死んでいた方がマシだった」
「……」
「なんだよ、任務って」
すぐに言葉を返せない武士に代わって、ハジメが葵を問い詰めていた。
「私の任務は、」
「話していいのか?」
直也が口を挟む。
「彼をこんな体にした以上、説明しない訳にはいかないでしょう?」
「それは、その通りだけどね……」
「だとよ。九龍、黙ってろよ」
ハジメは、先程直也に言われた台詞をそのまま言い返した。
「私の任務は、私の一族が持つ特殊兵器、九色刃のひとつ〈命蒼刃〉の力を、予言された英雄・九龍直也に渡すこと」
「はあ? なんのファンタジー漫画だ、そりゃ」
「彼女は〈刃郎衆〉だよ。旧清心会系御堂組の息子なら、名前ぐらい聞いたことがあるんじゃないのか」
「詳しかねえけど……マジだったのかよ」
「え……何、全然わかんないよ、僕」
怪しげな会話を交わす直也とハジメに、戸惑う武士。
「田中君、〈命蒼刃〉の力はね、その刃で命を絶った人間の魂を吸い取って、その管理者……つまり私の魂と繋げる力。そして、残された体は不死になるの」
葵は武士の顔を見て、真顔でにわかには信じられない言葉を話す。
ふざけている様子はない。
「魂……フシ?」
「つまりあなたはもう、殺しても死なない体になった」
「なに、それ……漫画かゲームじゃないんだから……」
「実際にあなたは私に刺され、刀で切られ、そのうえ銃で撃たれても死ななかった」
「冗談、でしょ……」
「本来、この力は九龍直也に与えられるはずだった。そして不死身となった彼は、間違った方向に進もうとしている世界と戦う英雄になるはずだった」
「……それが」
「そう、間違ってあなたに与えられた」
再び、場を沈黙が支配した。
突然告げられた突拍子もない話。嘘だと言いたかったが、武士は実際に致命傷を負った自分の体が、今は切り裂かれた服以外になんの痕跡も残していないことを確認してしまう。
「なに……それ……嫌だよ……僕は、世界と戦うって、なんだよ……」
「武士」
「ハジメ! なんだよこれ! こんなの嫌だよ!」
武士はハジメの腕を掴んで、叫ぶ。
武士の爪が痛いほどハジメの腕に食い込んだが、ハジメはそれを黙って受け止めていた。
「僕は……僕はもう平凡に……! 強くなんてなれなくていい、普通に生きていければもういいって、そう決めたのに……!」
「武士、落ち着け!」
「これが落ち着いていられるもんか!」
「武士! 落ち着いてくれ頼む!」
ハジメは、しがみついてくる武士の肩を大きく揺さぶる。
「田中君。落ち着くんだ。君は大丈夫だ」
「九龍先輩! 僕は!」
直也は低く抑えた声で、パニックに陥っている武士に話しかける。
「これは事故だ。誰も君に、俺の代わりに戦えなんて言わない」
「えっ…」
(戦えなんて言わない)
直也の言葉が静かに武士に刺さる。
武士は叫ぶことを止めた。
「九龍、お前」
ハジメは何か言いかけるが、今混乱している武士の前ではなにも言えなかった。
「……葵さん、っていったね、君」
「はい」
直也は暗い顔でふさぎこんだままの葵に声をかける、
「その命蒼刃っていうのの力、解除はできないの?」
「そんな方法はない」
「『ない』のか?『知らない』だけじゃないのか?」
「……私は命蒼刃の管理者だ。私が知らないということは、ないっていうことなんだ」
「それは違う。九色刃は君が作ったわけじゃない。可能性はあるはずだ」
「……やりなおせる、可能性がある……?」
「そうだ」
よく考えれば直也の言葉になんの根拠もないはずだった。
しかしその力強い声に、絶望に翳っていた葵の瞳に僅かながら意志の光が戻ってくる。
「でも、作った人間は六十年以上前に死んでいる」
「刃朗衆のトップならどうだ?」
「組織はもうバラバラになっている。行方は分からない」
「生き残っている末端から辿っていけばいい。たとえば……御堂組とか」
直也はハジメを見た。
「御堂。お祖父さんはご健在かい?」
「どこまで知ってるんだテメエは。てか、そこまで知ってるテメエは何者なんだ」
「知らずに監視してたのか?御堂、君は使い走りなのか」
「うるせえ」
「……聞いたことある名前だと思っていたら、そう、御堂組の子供なの、あなた」
直也とハジメの会話を聞いていた葵が、ハジメをじっと見つめた。そしてもう一人、ハジメの顔を覗き込む人物がいる。
「ハジメ?」
「た、武士……」
「ハジメの家が暴力団だってのは、聞いてたけど……なに? 九龍先輩と……この葵さんと、なにか関係があるの?」
「いや、関係、つーか……」
ハジメが言い淀んだ、そのときだった。
剣道場の一角を灯していた明かりが、唐突に消える。
「っ!」
葵と直也とハジメは、ほぼ同時に息を飲む。
窓から差す月明かり以外、明かりがなくなった。
「しまった……!」
葵は命蒼刃を太もものホルターに納めながら、すばやく立ち上がる。
直也は刀の柄に再び手を掛け、ハジメはカバンから再び銃を抜いた。
「なに、停電?」
武士が声を上げたその瞬間。
窓ガラスが何枚も割れる音、出入り口の引き戸が蹴り倒される音、それらが同時に響く。
突然の暗闇で武士には認識できなかったが、出入り口と四カ所あった窓から、屈強なスーツ姿の男たちが一斉に突入してきた。
「わっ」
武士の小さな悲鳴が響く間もなく、葵と直也は動き出した。
突然の暗闇を意に介す様子もなく、葵と直也はそれぞれ近かった窓から突入してきた男たちに突っ込んでいった。
男達はそれぞれ特殊警棒やスタンガン、ナイフで武装していた。
葵が突っ込んだ男は、手にしたスタンガンをオンにし、バチバチと閃光を放つそれを殴りつけるように突き出す。
葵はしゃがみ込んでそれを避けると同時に足払いをかける。
男は跳躍して足払いを避けるが、そのまま半回転した葵は回し蹴りを着地際の男のみぞおちに叩き込んだ。
体をくの字に折る男に顔面に、続けざまに肘を打ちつけ昏倒させる。
直也が突っ込んだ先の男は、特殊警棒を手にしていた。
男はコンパクトな振りで、鋭い打撃を繰り出す。
しかし、間合いで遥かに勝る直也の日本刀が一閃すると、警棒が弾き飛ばされた。
続けて直也は刃を返して、得物を失った男の肩口をめがけ強烈な峰打ち。
男は鎖骨を砕かれた衝撃に意識を失い倒れこんだ。
ハジメは、武士の側を動かなかった。
銃を構え、襲撃者を狙う。
近い窓から侵入してきた一人の持つ大型のコンバット・ナイフが月明かりを反射し、敵に明確な殺意があることを確認すると、ハジメは暗闇の中で正確に敵の気配を捉え発砲する。
ダンッ! ダンッ!
二連射。
ナイフの男は体を弾けさせ、その場に倒れた。
「ハジメっ!?」
暗闇に目の慣れない武士は、発砲の音に驚愕の声を上げる。
「なっ……!」
残る男達が、ハジメが銃を所持していることに驚き動きを止めた。
侵入者たちは互いに目配せすると、手にしていた警棒等の武器を捨て、懐から素早く銃を抜く。
「ちっ!」
ハジメは別の男に銃を向ける。
撃たれる前に撃とうとしたその瞬間。
「なにやってるの! ハジメ!」
武士はハジメの腕にしがみついてきた。
「武士! なにすんだ!」
「銃なんて撃ったら人が……!」
武士がハジメの発砲を止めてしまった隙に、襲撃者達の銃が火を噴いた。
小型のサプレッサーを付けていた男達の銃は、バスッバスッという鈍い音を上げる。
同時にハジメに覆い被さる形になっていた武士の体がビクン! と跳ねる。
正確に放たれた銃弾は、すべて武士の体に命中した。
「がっ!」
肺に当たったのか、武士は口から血を吐き出しハジメにもたれ掛かる。
「武士っ!」
武士が吐き出した血を浴びたハジメは、武士の体を支えながらも片手で銃を連射し、男達のうち一人を撃ち倒した。
直也と葵は別の男たちと相対している。
襲撃者達の数は多く、全員が手練のようだった。
しかも、ハジメの発砲で余裕のなくなった男たちは全員銃を抜いている。
男達の構える銃の射線から外れ、懐に飛び込もうと葵が動いたその瞬間。
太もものホルターに納めた命蒼刃が再び発光を始めた。
「く……!」
葵の動きが一瞬鈍る。
その隙を見逃さず放たれた敵の銃弾が、葵の肩口をかすめた。
「あうっ!」
葵は肩を押さえて倒れ込む。
男は即座に葵を組み伏せて、銃口をその頭に押し付けた。
「全員動くなっ!」
直也とハジメは、葵を人質に取られ動きを止めた。
「なに……?……どうしたの」
武士がもたれ掛かったハジメから、ゆっくりと体を起こす。
その体から銃弾が数発、転がり落ちた。
「な……!」
何発もの弾丸を撃ち込まれ、絶命したと思われていた武士が立ち上がり、男達は驚愕する。
先程と同様に、武士の体は命蒼刃の発光現象とともに急速に回復していた。
そして、命蒼刃の力は発動すると葵にも何らかの影響があるようで、葵はその隙を突かれていたのだ。
「武士、お前なにやってんだよ」
ハジメは飽きれたような声を出す。
「だって、ハジメが人を」
「多分、お前のせいだぞ」
ハジメの視線を追った武士は、暗がりの中で命蒼刃の光に照らされ、葵が屈強な男に組み敷かれて銃を突きつけられる姿を認識した。
「あ、葵さん……」
「動くな。全員武器を捨てろ」
襲撃者の内の一人が強圧的な声で命じる。直也とハジメは目配せするが、
「ううっ……!」
葵が男に強く床に押さえつけられ、苦痛の声を上げる。どうしようもなかった。
「早くしろ」
命蒼刃の光が消え、再び剣道場は薄暗がりに沈んだ。
「私のことは、いいから……逃げて……」
「黙っていろ」
「あうっ!」
弾丸に裂かれて血を流している葵の肩を、押さえつけている男が膝で押し潰し、葵は苦痛の声を漏らす。
ハジメは銃のトリガーに掛かっていた指を一度放していたが、再びゆっくりとトリガーに戻す。
「……ハジメ」
暗がりの中で見えるはずのないハジメの指の動きがわかったのか、銃を持つハジメの腕を武士がそっと掴んだ。
驚いたハジメは武士を見る。武士はゆっくりと首を振った。
ーー優しいのも度が過ぎるんだ、お前は。
ハジメには男が引き金を引くよりも早く、男を撃ち殺せる自信があった。
しかし、男はかなり姿勢を低くし、組み伏せた葵に密着している。
流れ弾が葵に当たり万一死なせてしまったら、武士を元の体に戻せなくなる可能性があった。
ハジメは自分が巻き込んでしまったようなこの事態から、少なくとも武士だけは逃がしたかった。
「三秒だけ待つ。武器を捨てなければ撃つ」
男は冷徹に言い放つ。
「3、2、1」
男の静かな短いカウントダウンに、直也が刀を捨てようとし、ハジメが一か八か男を撃とうと意を決したその瞬間。
割れたガラス窓の外に、鮮やかな緑色の光がチカッと光った。
直後。
ガガガガッ!!
窓からほとんど窓枠と同じ太さの樹の枝が、サッシを捻じ曲げながら突っ込んで伸びてきた。
「ぐはぁっ!」
そして、葵の上に乗っていた男を吹っ飛ばし壁に叩きつける。男はそのまま極太の樹の枝と壁に挟まれ意識を失った。
「………は?」
武士は思わず間抜けな声を上げ、あんぐりと口を開ける。
もっとも、とっさに状況を理解できないのは武士だけでなく、その場の全員が同じだった。
「……樹の枝……まさか」
葵ひとりを除いては。
剣道場に飛び込んできた樹の枝の影から、ひとりの背の低い人影が飛び出す。
人影は両手に大きく刃が湾曲した剣を持ち、それを板間の床に叩きつけた。
「かませっ!『碧双刃』!」
少女の叫ぶ声とともに、緑色の強力な光が二本の曲刀から発せられる。
床一面に、突きさされた曲刀を中心に緑の光がまるで稲妻のように這い広がった。
直後、剣道場の床板が襲撃者たちの足元で割れ、そこから樹木がまるで生きている触手のように男たちを絡めとった。
「うわあっっ!」
「なっ、なんだっ!?」
床から生えた樹木は、絡めとった男たちをそのまま猛烈な勢いで押し上げ成長し続ける。
襲撃者たちは全員、天井に叩きつけられて、そのまま動かなくなった。
人影は床に突き刺した曲刀を抜き、柄を中心にヒュンヒュンと回してから、まるで西部劇のガンマンが二丁拳銃をホルスターに納めるように、腰につけた銀の金具に曲刀を下げた。
緑の発光現象は止み、代わりに窓からの月明かりが背の低い人影の顔を照らす。
葵の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「……生きてた……生きてた、生きてた! 翠姉ぇっっ!」
「葵ちゃん! 男に押し倒されるなんて、お姉ちゃん許さないよっ!」
ゴスロリ衣装の少女は軽やかに微笑んだ。