「吉祥寺にて(1)」
吉祥寺の街に、武士と葵は戻ってきていた。
夕刻近い駅周りは多くの人で賑わい、二人は雑踏の中に埋もれていた。
芹香との待ち合わせ場所にしている、駅前広場に向かって肩を並べて歩く。
(なんだか、懐かしいな)
たった2ヶ月程前の事なのに、攫われた葵を探す為にこの街を駆け回ったことが、武士にはひどく昔の事のように思える。
あの時はまず、ハジメと共に少し離れた住宅街を駆け回って、そしてこの駅前で芹香と翠に合流したのだ。
(翠さん……)
あの時の翠は、頼もしかった。
北狼部隊により小さくないダメージを負い、攫われた葵の身を案じ心を痛めながらも、弱音を吐くことなく焦るハジメを励ましながら、武士と葵を助ける為に戦ってくれた。
しかし、今。ホテルを出る前に最後に見た翠は、碧双刃の一振りを奪われアイデンティティともいえる大切な力を失い、追い詰められ取り乱し、自暴自棄になっていた。
武士は、初めて葵に出会った日の夜を思い出す。
あの時の葵もまた、命蒼刃の契約に失敗し、自らの存在意義としていた刃朗衆の任務に失敗したとひどく落ち込んで、己の命を断とうとするまで追い詰められていたのだ。
今、セミロングの黒髪を揺らしながら厳しい表情で傍らを歩く少女の横顔を眺め、彼女達が背負ってきた〈九色刃〉という存在の重さを考える。
武士は胸が潰されるような思いにかられた。
なぜ彼女たちがそのような運命を、責任を、背負わなくてはならないのか。
いや、彼女たちだけではない。
紅華にしても、まだ会ったことない灯太少年にしても、命蒼刃の使い手として英雄となる運命を定められていた九龍直也にしても。
どうして彼ら彼女らが、こんな血塗られた人生を歩まなくてはいけないのか。
(……『白霊刃』)
思考の中で武士はふと、彼らを戦いの人生に誘った『予言』の存在、そしてその予言をもたらした九色刃の存在に思い至る。
葵も、翠も、紅華も、灯太も、九龍直也も。
九色刃の契約者として、日本を救う英雄として、白霊刃によって指名されたのだ。
(白霊刃にも当然、管理者と使い手がいるはずだよね。それって誰なんだろう)
彼らの人生は、予言によって操られているようなものだ。
白霊刃は未来を予知するとのことだが、そもそも予言を知らされていなければ、刃朗衆は葵や翠、灯太を九色刃の契約者とすることは無かっただろう。
白霊刃は未来を知って予言しているのではなく、刃朗衆やその支援組織である御堂組を動かして、予言に沿う未来の方を作ろうとしている。
そう考えることもできた。
(もし予言が白霊刃の未来予知じゃなくて、誰かの意志によってされているものだとしたら……?)
事実、命蒼刃の使い手となる人間の予言は外れた。
もし未来予知が真実ではなく、何者かの思惑によるものだとしたら。
(葵ちゃん達は……いや、僕たちはみんな、そいつに操られるだけの人形だ)
葵を攫うときに現れた神道使いの少年が、武士たちに言い放った言葉が思い出される。
刃朗衆を指して、『予言に踊らされるだけの馬鹿』と称していた。
「――武士。武士?」
待ち合わせの場所に到着し、顔を覗き込んで呼びかける葵の声に、武士はハッと我に返った。
芹香はまだ来ていないようだった。
「どうしたの? ぼーっとして」
「うん、ごめん」
「何か考え事?」
「……翠さんのこと、心配だなって」
「……うん」
武士の言葉に、暗い顔で葵は頷く。
「ごめん、葵ちゃんの方がずっと心配だよね。一緒に残りたかったよね」
武士などよりは比べ物にならないほど、葵は翠と長い間一緒にいたのだ。
それこそ、姉妹同然に。
その翠があんな風に取り乱し、八つ当たりと分かってはいても葵に悪感情をぶつけてきた。
ショックを受けてないはずはなく、傍にいて慰めたかったはずだ。
「ううん。今の翠姉の側に私がいても、なんの役にも立てないから」
しかし葵は、武士の言葉に静かに首を横に振った。
「翠姉の気持ち、痛い程わかる。もし私が命蒼刃を奪われたら、きっともっとひどいことになると思う。あのまま翠姉の側にいたとしても、一緒に気持ちが沈んでいくだけで、私はきっと何もできない」
葵は駅前広場の花壇の縁石に足を掛け、それとなく周囲を見回す。
自分たちに感づいている敵の存在がないか、警戒する為だ。
そうしながらも、横に立つ武士にポツポツと自分の考えを話し始めた。
「私が武士に命蒼刃を刺してしまったとき。任務は失敗したと思った。きっと今の翠姉と同じような気持ちだったと思う。あの時、翠姉はすごく私を気遣ってくれた。けど本当のことを言えば、翠姉の言葉も気持ちも、私は何一つ受け止められなかった。ただただ、自分の事を責めるだけだった」
「葵ちゃん」
「でも、そこから武士が引き上げてくれた」
和やかな笑顔を、葵は向ける。
武士はその時の自分を思い出す。
渋谷のビルの屋上で、身を投げようとする葵を止めようと必死だった。
「……今から思えば、あの時の僕は葵ちゃんが長い間抱えてきたことの大きさも重さも、全然理解してなかった。もちろん今でも全部を理解してるとは言えないけど。だから、理想論みたいなことしか言えなかった」
「それは、それが良かったんじゃないかな」
「理解できなくても?」
「うん。ハジメが言ってたこと、なるほどなって思った。『人間関係の近い方が、傍にいて何もできない』って」
「言ってたね」
「長い間一緒にいれば、相手との距離が近くなって、理解できることも多くなると思う。けど、その分相手の気持ちが分かっちゃうから、言いたくても言えなくなる事が多くなる」
「……相手の気持ちが分かるから、言えなくなる……」
「武士は、出会って間もない私が任務に失敗して生きる意味はないって言ったら、『そんな馬鹿な話はない』って言ってくれた。私を『役目を果たす為の機械じゃない』って言ってくれた。『命蒼刃の力なんて関係ない』って言ってくれた」
「今でもそう思ってる。けど……ごめん。そんな簡単な話じゃなかったよね」
覚悟はあった。
あの時は理解しているつもりだった。
しかし、こうして一緒に戦って初めて分かる、葵や翠の刃朗衆の使命に対する思いの強さ。彼女達の心を縛る戒律の根深さ。
よくもまあ、簡単に馬鹿な話だなどと言えたものだと、武士は思う。
けれど、葵は静かに首を横に振った。
「謝らないで。あの時は確かに、君に何が分かるんだって思ったよ。でも違うんだ。同じ世界に生きて来なかったからこそ、言えることもあるっていう事なんだ。それに」
「……それに?」
「武士は体を張って、言葉を証明してくれた。今もこうして一緒にいて、戦ってくれてる。本当は、武士を危ない目には合わせたくはないんだけど……」
「葵ちゃん。僕は決めたんだ、一緒に戦うって。そんなこと言わないで」
ストレートな武士の言葉に、複雑な思いで葵は笑みを浮かべる。
「……ありがとう。私はあの時、武士に救われた。九色刃のことも、刃朗衆のことも、そんなに分かってなかったのかもしれないけど。それでも私のことを……すごく、考えてくれた、武士……に……」
台詞の後半が、どんどん小声になっていく。
葵の俯いた顔は、照れで真っ赤だった。
武士も、正面切って伝えられる葵の気持ちに赤面して黙り込んでしまう。
「……翠姉はね」
短い沈黙が流れた後、葵は気持ちを切り替えて顔を上げる。
「昨日寝てる間中、ずっとお腹を押さえてごめんなさい、ごめんなさいって謝ってた。自分が使い手として選ばれたせいで、代わりに生まれることができなかった姉妹に、ずっと罪悪感を持ってきたんだよね。だからその罪悪感から逃げる為に、碧双刃の使い手としてしっかりしないといけないって強迫観念があるんだ。だから、その肝心な碧双刃を奪われて、あんなに動揺してる。そんな翠姉に向かって、例えば、お腹の姉妹のことは翠姉のせいじゃないとか、そんなに重荷に思うことは無いとか、私には言えない」
「うん……」
「でも、ハジメにならきっと、翠姉に届く言葉を言えると思う」
「確かにハジメなら、そういうことズバッと言いそうだけど……」
「それにさ、ハジメっと翠姉って似た者同士じゃない?」
「え? そ、そうかな」
「しょっちゅう喧嘩するのも、えっと、同類相憐れむみたいな?」
「葵ちゃん、すごい言葉使うね。でも確かにそうかもしれない」
「ハジメはきっと、私とは違う意味で翠姉の気持ちが分かってるんだと思う。けど立場が違うし、まだそんなに長い付き合いじゃない。その分、ハッキリ言えることも多いと思う」
「……うん。そうかもしれないね」
葵の言葉に、武士は説得力を感じる。
ハジメは一見乱暴で、暁学園のクラスメイトでも彼を怖がって距離を取る者も多い。
けれど、ハジメのぶっきらぼうな口調や態度の裏に隠された、本当の意味での優しさを武士は知っている。
きっと彼ならば、翠に届く言葉を掛けることができるだろう。
すぐには無理かもしれないけれど、翠にもきっとハジメの気持ちが伝わって、心の平静さを取り戻してくれるはずだ。
そして武士はまた、葵がそういう風にハジメを、自分の大事な友達を理解してくれていることも嬉しかった。
「だから私にできることは、今は翠姉の側にいることじゃない。芹香さんを通じて、九龍直也が掴んでいる麒麟の情報を必ず聞き出して、紅華の居場所を見つける。それで、碧双刃を取り戻す」
「……すごいね、葵ちゃん」
「え? な、なに、急に」
唐突な武士の感嘆の言葉に、葵は驚く。
「だって、翠さんのことが心配でたまらないはずなのに、そんな風に強く、前向きに考えてさ。僕が葵ちゃんの立場だったら、きっと翠さんの側でオロオロしてるだけだと思う」
「それは、だって……た、たけ……が、……に、い……から……」
「んっ?」
台詞の途中から先程よりも更に小声になり、葵の声が武士には聞き取れない。
「ごめん、なんて言ったの?」
武士が自然な反応で一歩、葵に歩み寄る。
更に頬を赤く染める葵。
「……だから、武士が、そ、傍に、いてくれる、から」
「え? ごめんもう一回言って?」
「もう!」
更に近づく武士の腹に、葵の膝が突き刺さった。
「ごぼおっ!」
「武士が傍に居てくれるからって言ったの! ってきゃあ! 武士、ごめん!!」
崩れ落ちそうになる武士を、慌てて膝をついて支える葵。
「いや、大丈夫……ごめん、実は二度目は大体聞こえてたんだけど、照れてる葵ちゃんがあんまりに可愛くってがごぉっっ!!」
反射的に葵は武士の顔面に肘を打ち込む。
「あああっ!! ごめん武士ごめんごめんごめんなさい!」
「……葵ひゃん……照れ隠ひが……えげつなひよ……」
「……あのー、何してるのかな?」
親密に話をしていると思われたカップルが、突然女の子の方が男の子に暴力を振るい始める。
その様子に、駅前にいた人々は何事かと遠巻きに注目し始めていた。
その中から、ロングスカートのワンピースにショルダーバッグを下げた、ダークブロンドのスタイルのいいハーフ美少女が歩み寄り、二人に声をかけた。
「芹香ちゃん!」
「芹香さん!」
「……喧嘩? もしかして……修羅場?」
途中からまるで周囲への警戒を怠ってしまっていた葵は、照れ隠しに武士を蹴飛ばしぶん殴ってしまった現場を芹香に見られ、二重の意味で穴があったら入りたかった。




