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「嘘は言ってない」

 確かに柔剣道場は、暁学園の敷地の奥まったところにあり、わかりにくかった。

 暁学園は杉並区のほぼ中心の住宅街の中にあるが、敷地面積は広く、校舎三棟に講堂、体育館、運動場ニ面にテニスコート、柔剣道場と施設も多かった。

 私立高としては規模は相当に大きい方だ。

 柔剣道場は、その広い敷地の中でも外れの方にあり、学園のどの施設とも、また学園外の隣家とも離れた場所にポツンと建っていた。


 柔剣道場の周りには緑地があり、運動場から続く道はちょっとした遊歩道のようになっていた。

 武士には桜しか分からなかったが、木々も様々な種類が植えられており、春の季節にかなり気分のよい場所だった。

 そこを抜けると、体育館ほどではないが、二階建のそれなりの大きさの建物が見えてくる。


「ね? 遠くて分かりにくかったでしょ」

「案内版見たら分かったっつーの」


 ハジメに引きずられ建物の前に着いた武士は、柔剣道場を見上げる。

 中からは、剣道独特の掛け声と、竹刀を打ち合う音、足を踏み込む音が聞こえてくる。

 何人もの部員たちが稽古をしているようだった。

 武士にとっては、小学生時代に道場で慣れ親しんでいた音で懐かしさもあるはずだったが、あまりに急で早い展開に、緊張でどうにかなりそうだった。


 ――僕はこの空気から逃げ出した。

 人と人が打ち合う、この競技にどうしても馴染めなくて。

 剣道から逃げて、ゲームの世界に隠れた。

 でも、九龍先輩に会って、もう一度剣道を始めたいと思った。

 英雄ナインみたいなあの人に近づきたいと思った。


「武士、行こうぜ」

「待ってよ! 心の準備が……」


 建物の前で武士が躊躇っていると、通ってきた緑道から人の声がする。

 上級生らしい男子生徒が二人、話しながら歩いてきた。


「絶対ちげーって。だから……ん、なに? 誰」


 武士たちに気付いた二人は声を掛けてくる。


「こんにちは。剣道部の方ですか?」


 芹香は笑顔で頭を下げる。ハーフのグラマー美少女の笑顔に、


「お……おう、そうだけど」

「こ……こんにちは」


 上級生二人は、どもりながら少し動揺する。


「なに、新入生? 迷った?」

「いいえ。見学です。中に入ってもいいですか?」

「なんでお前が仕切るんだよ」


 上級生と受け答えする芹香に、ハジメが突っ込んだ。


「見学? 新入生、今日入学式だったんでしょ」

「少しでも早く、九龍先輩を見たいって……」

「はあー」

「やっぱなー」


 芹香の言葉の途中で、上級生二人は深いため息をついた。


「直也さん目当てかよ」

「強くて頭良くてモテるって、漫画かよあの人……」

「あの……」


 言葉の途中で切られた芹香は何か言いかけたが、


「あー、先輩がた。九龍先輩と会いたいのは、その女の方じゃないっすよ」

「え?」


 ハジメが割って入った。


「コイツっすよ」


 武士がハジメにどんと背中を叩かれ、たたらを踏んで前に出される。


「あ、……ええと、見学、させていただいていいですか?」


 上目使いに二人を見る武士に、上級生二人は顔を見合わせた。


  ***


 二人は西村と東という名前の二年生で、剣道部のマネージャーをしていた。

 男子部員がマネージャーをやっていることに、何故かハジメが「なるほどね」と感心する。

 二人は、武士達三人を建物の中へと案内する。

 建物は、一階は畳敷きの柔道場で、二階は板間の剣道場になっていた。

 今日は柔道部は休みのようで、一階に人の気配はしなかった。

 入り口から入ってすぐ脇の階段を登ると、仕切り戸の向こうから剣道の練習の音が聞こえてくる。


「手前のこのドアが更衣室で、普通は着替えてから中に入るんだけど。まあ今日は見学だから」


 武士は、戸の向こうから聞こえてくる音に、九龍直也との再会に、胸の高鳴りを抑えることができない。

 西村が仕切り戸を開いた。


「トァーー!!」


 ダンッ!

 パンッ

 バシーンッ


「メェェーーッ」


 床を踏む音。

 竹刀が防具を打ち据える音。

 独特のかけ声。

 それらの「音」が塊のようになって、武士にぶつかってきた。


「コォォテェェッ!」


 パシィッ!

 音が空気の振動になって、皮膚を震えさせるのがわかる。


 武士はこの空気を知っているはずだったが、小学生時代の道場とは桁違いの、全国大会常連校の気迫に圧倒された。

 二十人程度の剣士が、防具を着て稽古をしている。

 ただし、その稽古風景は武士が昔に見慣れたものとは少し違っていた。

 それは、小学生と高校生の違いがあるにしても、明らかに異様だった。


「あー。ちょうどいいとこだ。今、直也さんの集中掛かり稽古やってるよ」

「集中掛かり稽古? なんすかそれ」


 ハジメが尋ねる。


「直也さんが強すぎて、普通の練習じゃ直也さんの練習になんないんだよね。だから、オリジナルで考えた練習方法。簡単に言えば、直也さん一人を相手に、四人掛かりで戦うんだよ」

「は?」

「しかも、その四人は入れ替わりの交代で。直也さんは休みなしで」

「なんすか、それ」

「見てりゃわかるよ」


 西村の説明に、言われなくても武士は目が離せなかった。

 一人の剣士を、四人の剣士が囲んでいた。

 そして四人の後ろには、それぞれ二〜三人の剣士が少し間を空けて並んでいる。

 中央の一人の剣士の前垂れには、「九龍」と書かれていた。


「キアアアアッ」


 囲んでいる四人の内の一人が気勢を上げると、「九龍」に打ちかかる。

 しかし、「九龍」はその打ち込みが発生する直前に動いていた。竹刀が振りかぶられる直前に、「九龍」の竹刀が文字通り目にも留まらぬ速さで振られる。


「コォォテェェッ!」


 正確に打ちかかった剣士の右手防具を打ち据える。

 その直後、今度は「九龍」の背後から二人の剣士が同時に打ちかかった。


「メェェーーンッ」

「ヤァッ! メェェーーンッ」


 しかし、二人の竹刀の先に「九龍」はもういない。


「ドォッ!ドォォッ!」


 バ、バンッ


 あるいは音の方が遅れて響いたのかと感じるほどに速い、胴打ちと逆胴打ちの二連撃が二人に叩きこまれ、「九龍」は一瞬で二人の間を駆け抜けていた。

 そして残る一人と対峙する。

 打たれた三人は、その場を離れて、「九龍」を囲む列の後ろにそれぞれ並ぶ。

 入れ替わりに、それぞれの列の先頭の剣士が「九龍」に挑みかかった。


 入れ替わり立ち代わり、休憩を挟んで体力を回復させた四人の剣士が、常に同時に「九龍」に挑み続ける。

 しかし、その竹刀が「九龍」の防具に触れる事はなかった。

 ほぼ一撃で、一本を決められている。

 正面の剣士が打ちかかるのとまったく同時に、「九龍」の背後から別の剣士が打ちかかることもあったが「九龍」は素早い切り返しと足捌きでそれを躱し、あるいは竹刀で受け、あるいは相手よりも早く一本を打ち込む。


「信じらんねえ……なんだ、あの動き」

「これをあの人、三十分はぶっ続けでやるんだよ」

「化け物か……」


 ハジメは唖然とするしかなかった。

 武士と違い、ハジメは剣道はまったく経験がない。

 しかし、この稽古が明らかに通常行われる稽古ではなく、そしてそれをなんなくこなしている「九龍」という人物が異常な身体能力を持っていることは分かった。


 その横で武士は、一年前のあの新宿の屋上を思い出していた。

 屈強な男達三人を一瞬で叩き伏せたあの動き。

 それは間違いなく英雄ナイン、九龍直也のものだった。


 ピピピピピピ……


 電子音が鳴り響く。


「やめっ!」


 集中掛かり稽古を、一人面を被らずに脇で見ていた部員が、手にしたタイマーを止めて声をあげる。

 剣士達は動きを止めると、「九龍」と一緒に横に二列に並び、正座した。


「休憩っ!」

「ありがとうございましたっ!」


 各々が面を取り始める。

「九龍」も面を外し、面の下の頭に巻いていた手拭いを取った。

 確かに、入学式で挨拶をした生徒会長、九龍直也だった。


「すごい……」

「ああ……」


 武士とハジメは、剣道場の入り口で立ち尽くしていた。


「な? すげえだろ」

「全国大会二連覇したんだぜ、直也さん。しかも全部二本連取で」


 その横で西村と東は、誇らしげに語る。


「西村ァ! 東ィ! お前ら部外者入れてんじゃねえよ!」


 タイマーを持って、掛かり稽古には参加していなかった男が、その二人に向かって叫んだ。


「すっ、すみません!大山先輩!」

「ったく、マネージャーが遅れてくるんじゃねえよ!」


 西村、東を怒鳴りつけた大山先輩と呼ばれた男は、武士たちのところに歩み寄ってきた。


「なんだぁ、新入生か?」

「え、あ、は……」

「はい、そうです。今日は見学に来ました」


 体が大きく強面の大山に怒鳴るように誰何され、萎縮し返事ができなかった武士の代わりに、芹香が爽やかな笑顔で答えた。

しかし大山の態度は冷ややかだった。


「今日は自主錬なんだよ。入部希望ならまた明日来い」

「まあまあ、今日は見るだけっす。邪魔はしないっすよ」


 ハジメが目を細めて、ヘラヘラと応じる。


「……なんだテメエ」


 大山は、ハジメを見ると顔をしかめる。

 大山は剣道部の副部長で、筋が通らないことが嫌いな性格の持ち主だった。


「新入生のくせして、なんだその格好は!」


 大山は殴りつけるような勢いで手を伸ばし、ハジメのだらしなく着た制服の襟を掴んだ。

 掴んだように、少なくとも武士には見えた。

 しかしハジメは、僅かにスウェーバックして上半身を逸らして、大山の手を逃れていた。


「……あ?」


 大山も、ハジメの胸倉を掴んだつもりでいたようで、空を掴んだだけの結果にやや困惑する。


「大山。いいじゃないか。熱心な新入生で」


 そこに、直也が声を掛けながら歩み寄ってきた。

 ついさっきまでエンドレスの掛かり稽古をしていたとは思えない、汗ひとつかいていないサラリとした笑顔だ。


「おつかれさまです」


 まるで疲れていなそうな直也に、芹香は声をかけた。


「……こんにちは」


 芹香の顔を見た直也は、極々僅かに間を置いて答えると、ハジメの方を見る。


「反応いいね」

「え? 俺っすか」


 直也は大山の手を逃れたハジメの動きを見ていた。

 大山は直也には及ぶべくもないが、剣道部のナンバー2で、相当の実力を持っている剣士だ。

 その動きを見切ったように最小限の動きで避けたハジメが気になったのだ。


「経験者?」

「剣道すか? いや、全然」

「そうか。ウチの部に入ったら、きっと伸びるよ」

「や、俺は剣道自体はやんないっすよ」

「ああ!? じゃなにしに来たんだ、てめえ」


 大山が怒鳴る。


「剣道するのは、コイツです。俺はマネージャーで入部しますよ」


 ハジメはそう言うと、武士の背中を叩いた。


「……え? あ、はい!」


 武士は、そこでようやく我に返った。

 一年間強烈に憧れ続けた九龍直也を直接目の当たりにして、周りの声も耳に入らず、呆然としてしまっていたのだ。


「ん……君は」


 直也の方は、そこで初めて武士を見た。

 背の低い、貧相な体の少年。

 しかしその顔に直也は何か引っかかるものがあった。


「あれ? 君、どこかで会った……」

「あ、あの……いえ、会うのは初めてです。田中武士、といいます。よろしくお願いします」


 ハジメは前もって考えていた言葉を喋り、ペコリと頭を下げた。


「え? 嘘だよ田中君。前に助けられたことがあるって言ってたじゃない」

「ちょ……黙っててよ!」


 芹香の空気を読まない発言に武士は焦る。


「助けられた…? 田中、武士……!……」


 直也は思い出した。

 一年前。

 とあるトラブルの時に、西新宿のビルの屋上で出会った少年。

 まったくの一般人で、トラブル後に調べてみたが、なんの背後関係もなく、たとえ誰かに事の経緯を話してしまっても、取るに足らない影響しかないと切り捨てていた少年だ。


「……ああ、よろしく。初めまして。九龍直也です。部長をやってます」

「よろしくお願いします」


 直也が「初めまして」と言ってくれて、武士は胸をなで下ろした。

 誰にも話さないという約束を破ったとは、思われたくなかった。


「ああ、俺は御堂ハジメです。ここって、男子がマネージャーやっているんすよね。俺もマネージャーで入部します」

「……マネージャー?」


 先ほどからのハジメの言葉に、武士も当惑する。


「…御堂君?」


 直也が聞き返した。


「はい」


 糸目の笑顔でハジメは返事をする。

 直也には「御堂」という苗字に心当たりがあった。

 なるほど、あの反応の良さにも納得できるものがあった。

 そして、自分を見ながらニヤニヤと笑っているハジメの顔を見て、ハジメが田中武士を連れてきた意図がおぼろげながら分かったように思えた。


「俺は大山だ。副部長をやってる」

「あ、聞いてないっすよ」

「てめえ!」

「やだなあ。冗談っすよ」

「……入部したら、その根性叩き直してやる」

「こええ。俺、マネージャーっすよ」

「関係あるか。で、そっちは。お前も入部希望か。今日は女子部誰もいないぞ」


 大山は芹香を見る。


「いえ、私はただの付き添いです。部活は弓道部に入ろうと思ってます」

「そうか。おい直也、どうする? このまま見学させるのか」

「いや……入学式初日は勧誘禁止だからね。生徒会にバレたら面倒だから、今日は遠慮してもらおうか」

「そういうことだ。おい、御堂にええと……田中。明日入部届け持ってこい」

「ええ? 九龍先輩、生徒会長じゃないっすか」


 ハジメが直也の顔を覗き込みながら言う。


「だからだよ。生徒会長として、他の部に不公平な行為は見逃せない」

「堅えなあ」

「おいてめえ。まずは先輩に対する言葉使いから修正してやる」

「おお、こええ」


 大山に睨まれ、ハジメはふざけながら武士の後ろに隠れた。


「す、すみません。じゃあ今日は、これで失礼します」

「ああ、また明日」


 直也は笑顔で片手を上げる。


「失礼します」

「失礼しまーす」

「失礼しました」


 武士、ハジメ、芹香は、直也たちに背を向けると、出口へと歩き出した。


「じゃあ、東先輩、西村先輩、明日からよろしくっす」

「お……おう」

「よろしく」


 ハジメは、剣道場の入り口に立っていた先輩マネージャーにすれ違いながら声を掛けた。


 その時。

 ハジメは唐突に後ろを振り向く。

 右手は制服の懐に入れられていた。


「わっ……なに?」


 武士は脈絡のないハジメの動きに困惑する。

 ハジメは懐に手を入れたまま、鋭い目つきで直也を睨みつけていた。

 直也はそのハジメを見ながら、にこにこと笑っている。


「どうした? 御堂君。忘れ物かい?」

「……いや、なんでもないっす」


 ハジメは直也に答えると、手を懐から抜いた。


「どうしたの?ワン……ハジメ」

「なんでもない。行こうぜ」


 ハジメは武士の背中を押し、芹香も一緒に剣道場を出ていく。


「……あのやろう」


 外に続く階段を降りながら、誰にも聞こえない声でハジメは呟いた。



「なんだアイツ」


 大山は新入生三人が去ると、直也に向きなおった。


「直也、練習再開するぞ」

「大山。ちょっと稽古は任せていいかな?」

「あん? ああ、別にいいが」

「ちょっと出てくる。すぐに戻るよ」


 直也はそう言うと、武士達の後を追うように剣道場を出た。



「もう! いきなり過ぎるんだよ! ワンワ……ハジメは!」

「いちいちワンワンと言いかけるのはやめろ」


 剣道場を出るなり、武士はハジメを軽く殴り、ハジメは笑いながらそれを受け止める。


「じゃあ、帰り方は分かるよね? 私はここで」


 芹香が立ち止まる。


「え?」

「おお。じゃーなー」


 ハジメは一言いうと、芹香を意に介さず歩き出す。


「ちょっと待ちなよハジメ。ああ、ええと……シュバルツェンベック……さん? 今日はありがとう」

「ふふっ。なにそれ」

「礼なんていいんだよ、武士。その女が勝手についてきたんだから」


 ハジメは振り返らずに言う。

 芹香は薄くほほ笑む。


「うん。それに、こっちこそ御礼を言わなきゃだから。今日はありがとう」

「いや……そんな、なにもだよ」


 ホームルーム前の出来事を、武士は思い出した。


「シュバルツェンベックさん、なんて呼びにくいでしょ。芹香でいいよ。武士君」

「う……うん」

「顔赤くすんな、こっちが恥じい。行くぞ武士!」


 イライラするようにハジメは武士の腕を引っ張った。


「ハジメ君も、ありがとね! また明日!」


 背を向けたままのハジメに芹香は手を振る。

 ハジメは仕方なく、とでもいう風に。


「おう。またな、芹香」


 吐き捨てるように言いながら、背を向けたまま片手を挙げた。

 武士も芹香に手を振ると、ハジメと肩を並べた。


「結局、ハジメも優しいんだよね」

「何の話だ」

「やっぱりハジメは、ワンワンだ」

「やめろよそれ。あのハンドルネーム実は後悔してんだからよ…」


 芹香は仲良さそうに去っていく二人が、緑道に隠れて見えなくなるまで見送っていた。

 二人の姿が見えなくなると、柔剣道場を振り返る。

 建物の入口には、直也が先程の面だけ外した防具姿で立っていた。


「お兄ちゃん」

「芹香」

「来ちゃった」

「心臓に悪いんだよ、君は」

「もっと心臓に悪いのが、一緒にいたみたいだけどね」

「『御堂』……ね。芹香、君は知ってるのか?」

「何を?」

「……いや、なんでもない」

「お兄ちゃんが教えてくれないから、何も知らないよ」

「嘘つくんじゃないよ」

「本当だよ」


 溜息をつく直也。


「君は昔から、こっちのことに首を突っ込んで……」

「これからはもっと突っ込むのでヨロシク!」

「駄目だ。君に何かあったら、おばさんに顔向けできない」

「母さんは、お兄ちゃんからは離れるなって言われてるよ」

「あの人は……しかたないな」


 直也はまた、深い溜息をついた。


「お兄ちゃんが、もう危ないことしなければいいんだよ?」

「あの御堂とは同じクラスなのか?」


 直也は強引に話を変える。


「……うん。そうだよ」


 不服そうに、だが芹香は頷いた。


「できるだけ、アイツには近づかない方がいい」

「そっち側の人なの?」

「どっち側かは分からないけどね。普通の高校生じゃないことは確かだよ」

「なんで?」

「ちょっと気当たりしたら、えらい反応してたからね。懐に手を入れるなんて、相当な筋の人間だ。可哀想に。まだ若いのに」


 気当たりとは、剣道で立ち会ったときに、相手の出方や反応を見るために掛け声などの活気を発することだ。

 直也はそれを、声も出さずに行った。

 言い換えれば、殺気を発したわけだ。

 普通の人間なら感じることもないそれに、御堂ハジメは敏感に反応して懐に手を入れた。

 あの着崩した制服の下に、いったい何を持っていたのか。

 そんなハジメを「可哀想に」と憐れむ発言をした直也を、芹香は笑った。


「なにが可笑しいんだい?」

「だって。お兄ちゃん、いくつも違わないのに……まだ若い、って」

「年寄りだよ。もう俺はね」


 そう言うと、直也は遠くを見るように視線を外した。


「とにかく」


 すぐに、視線を芹香に戻す。


「あの男には不必要に近づいたらいけないよ」

「悪い人には見えないけどね。武士君は? 近づいてもいいの?」

「武士君……? ああ、一緒にいた彼ね」

「昔、助けてあげたことがあるんでしょ?」

「去年ね。こっちのトラブルに彼が巻き込まれていたんだよ」

「どんなトラブル?」

「だから首を突っ込むなって」

「武士君に直接聞くよ?」

「彼は言わないと思うよ。まあ、中途半端には喋っちゃったみたいだけど」

「御堂ハジメ君の前で聞くよ?」

「……この、策士」


 直也が睨みつけると、芹香は小首をかしげて笑った。


「とある重要人物がいてね。これまたとある連中に追い詰められて、自殺しようとしてたんだ。それを、たまたま居合わせた彼が止めてくれた」


「……へえ」


 自殺を止める。

 いかにも彼らしいと、芹香は今日の教室での武士を思い出した。


「そういえば、すごいダッシュだったな。その自殺しようとしてた人が、急にビルの屋上から飛び降りようとしたんだ。そのとき彼は結構遠い場所にいたのに、ばーっと走っていって止めたんだよ」

「見てたの?」

「俺は隣のビルにいたんだ。俺は間に合わなかったんだよ」

「ふーん」


 直也は、重要なことは伏せながら、その後の出来事もかいつまんで説明する。


「まあでも、彼は優しいだけの子だよ。普通の人だ」

「ハジメ君の古い友達みたいだよ」

「その辺はまた調べ直すけどね。さっきまた会ってみても、本当に平凡な子だったから、きっと御堂が利用してるだけだろう」

「利用?」

「多分、御堂が俺にプレッシャー掛ける為に連れてきただけだ。俺の正体を知ってるぞ、ってね。まあ、監視と牽制ってとこだと思う」

「よくわからないけどさ。二人ともいい子だよ。私のことも助けてくれたし」

「助けた?」

「あ、いや」


 芹香は慌てて目を背けた。


「何かあったのか?」

「……」

「芹香、君は隠すのかい? 俺には喋らせるくせに」


 芹香は俯いていたが、ぱっと顔を上げると、まるでふわっと氷が解けるように微笑んだ。


「ごめん。なんでもない。これは私が解決しなくちゃいけないことだから」

「芹香。話してさえくれれば、俺はなんでも解決してやれるんだよ」

「それじゃ意味がないんだよね。昔のまんまだから」

「芹香」


 芹香はタタッと小走りに駆けると、直也と距離を取って振り返った。


「もう高校生だから。お兄ちゃんに迷惑かけたくないんだ。本当に困ったら相談にいくよ」


 ブロンドの美少女は、春の柔らかい日差しが降り注ぐ緑道をバックに花が咲くように微笑む。


「芹香……大丈夫なのか?」

「うん」

「そうじゃなくて、その……」


 らしくなく口ごもる直也に、芹香は彼の言いたいことを察する。


「大丈夫。最近は本当に、調子がいいんだよ」

「……そうか」


 直也はついっと目を逸らした。

 この話題になると、彼はいつもの自信たっぷりの彼でなくなる。

 こんなことで、自分に無力感を感じることはないのに、と芹香は思う。


「じゃあまたね。これからもよろしく、お兄ちゃん」


 芹香はもう一度微笑むと、スカートの端をつまみ芝居ががったお辞儀をした。


「ああ」


 直也の唇の端を少しだけ持ち上げたささやか笑顔を確認すると、芹香は小走りに去っていった。

 走るたびにピョンピョンと跳ねるダークブロンドの後ろ髪を見ながら直也は芹香を見送ると、深く息を吐き出した。


「……待っていてくれ、芹香」


 懇願するように、直也は呟いた。


  ***


 柔剣道場を後にした武士とハジメは、教室に鞄を取りに戻った後、帰宅の途についた。

 ちょうど正午過ぎの時間で、比較的空いていた井の頭線に一緒に乗り込む。


「強引だよね。ナインでもそうだったよね。君は」


 とはいえ、座れるほどは空いてなく、二人は並んでつり革に掴まった。

 二人は、それぞれの携帯電話を近づけて、操作している。赤外線で電話番号、メールアドレスを交換していた。


「僕は僕のタイミングで、剣道部に行こうと思ってたのに」

「余計なことしたか?」


 携帯電話の登録が終了して、二人はパタンと電話を閉じる。

 ハジメはポケットに携帯をしまいながら、低めの声で呟いた。


「え?」

「俺は余計なことしたか? 武士にとって迷惑でしかなかったのかよ。そうかよ……」


 武士と反対の方へ、顔を背けるハジメ。

 さっきまでの軽口がまたくると思っていた武士は困惑する。


「べつに、余計なことって言ってるんじゃないよ。いや、正直なとこ言うと、助かったよ。剣道部に入部しに行くまで、僕ひとりだったら一週間、いや一ヶ月はうじうじ悩んでたと思うから」

「それでも武士は一人で決断したかったんだろ。俺はそれを邪魔したんだ」


 ハジメは顔を背けたままだ。

 両手でつり革にぶら下がり、腕の間に頭を挟んで、表情が見えない。

 武士は焦った。


「違うって。背中を押してもらったんだよ。剣道部に入る決断は、とっくにしてたんだから。行く前にハジメが言ったとおり、日を置く意味なんてないんだから」


 ハジメはぐるんと武士に顔を向けた。その表情は、目を細めたニヤリ顔。


「だよなー」

「このっ……」


 武士はハジメの肩を拳で軽く叩く。


「ほんと、ナインのままだ。その態度というか、感じというか…」

「そりゃそうだ」

「まったく」


 武士も笑った。

 自分のペースを乱されたという気持ちは正直あったが、ハジメがいなければ、これから更に入部を悩む時期がしばらく続いただろう。

 ハジメが武士の決める道を後押ししてくれる。

 ネット上でやりとりしているときも、そういうことは往々にしてあったのだ。


「それにしてもさ」

「なんだよ」

「マネージャーってなに? ていうか、そもそもハジメ、剣道に興味なんてあった?」


 武士は、剣道場でのハジメの発言が引っ掛かっていた。


「ねーよ。今もない」

「なら、なんで入部するの。マネージャーなんて、きっと道着洗ったり、防具とかの整理したりとか、そんなだよ? ハジメには激しく似合わないと思うんだけど」

「そんなんもちろん、武士が入るからだよ」

「キモイ」

「うるせえっての」

「本当はなんなの?」

「……本当なんだけど」

「はあ?」

「剣道部の部員っていうか、お前のマネージャーになるんだよ。俺は」

「……マジでキモイんだけど」

「そろそろ本気で傷つくぞ俺は」

「本気で言ってるの?」

「俺はよ。感謝してんだよ。〈サムライ〉にさ」

「サムライって……ナインの話?」

「俺ん家はさ、ほら、特殊だから。小学校の高学年ぐらいから、家のことがバレると友達がどんどん離れていってよ」

「……」

「そしたら、ネットん中とはいえ、家のこと話しても態度変わらない奴がいて」

「……」

「嬉しかったんだよ。実家がヤクザ屋の俺なんかと、マジで話してくれて」

「そんな。僕の方こそ、僕みたいな引きこもりと仲良くしてくれて……」


 ハジメは、ナイン・サーガで親しくなった武士に、自分の親が広域指定暴力団、いわゆるヤクザの組長であることを告白していた。

 武士は最初は確かに驚いたものの、そもそもヤクザというものをテレビドラマでしか知らず、まるでピンときていなかった。

 そんな武士にとって非現実な〈ワンワン〉の親の職業よりも、気が合って忌憚なく話ができる〈ワンワン〉自身の方が大事だった。

 もちろん、ネットを介した友人という、実社会での縁遠さが武士の懐を深くしたという面はあった。

 しかし、一度は断ってしまった〈ワンワン〉とのオフ会を、ナイン・サーガ卒業の日に武士から切り出した時。

 〈ワンワン〉の親がヤクザの組長であることなど、武士は思い出しもしていなかった。


「だから、最初に俺の方からオフ会しようぜって言って断られたとき、結構ショックだったんだぜ」

「あれは……ごめん、あの時は僕に勇気がなくて。僕自身が、直接会ったら嫌われるんじゃないかって……」

「ま、言っといてなんだが気にすんな。臆病なのは俺も一緒だ」

「え?」

「こんなまわりくどいことして、この学校に来て、お前に会った」

「……本当に、僕なんかに会うために?」

「なんか言うな。まあ、それだけじゃないんだけどな」

「……?」

「ま、それはおいおいな」

「おいおいってなに」

「また今度話すよ。ああ、それはそれとしてだ。俺の目的はな」

「うん」


「お前の応援をしてーんだよ。親父さんに強制されて、嫌な思いした剣道にもっかいチャレンジして。憧れの先輩に会うために、自分を変える為に頑張ろうっつーお前をよ」


「そ、そんなすごいもんじゃ……」

「すごいことだろ。強い信念みてーなのがなきゃ、たった一年足らずで偏差値を十も上げて、暁学園に合格するなんてできねーよ」

「それは、たまたま運も良くて…」

「武士の力だ」


 ストレートな発言を繰り返すハジメに、武士はどこを見ていいのか分からなくなった。

 照れて視線が定まらない武士に、ハジメの方は武士の目を見て言葉を続ける。


「だから、自分を変えるために頑張ろうとする武士を応援する。そうすることで、俺は自分も変えられる気がしてんだ」


『次はー、神泉、神泉―。お降りの方は、お忘れ物にご注意くださいー』

 車内アナウンスが響くと、電車は駅に着き停車する。


「じゃ、武士。俺ここだから。昼飯一緒に食えなくてわりーな。ちょっと今日、用事あんだ」


 ハジメは開いたドアから電車を降りた。


「う、うん……じゃあ、また明日」

「おう」


 ドアが閉まって、釈然としない表情の武士を乗せたまま、電車は発車した。

 ハジメはホームに立ったまま、電車を見送っていた。

 電車が完全に走り去ると、まいったな、といった表情で頭をかく。


「……嘘は言ってねーよ。武士」


 踵を返して、改札へと向かう。

 ホームに転がっていた缶コーヒーの空き缶に気づき、ハジメはそれを拾い上げると、片手で握り潰した。

 掌に隠れるサイズまで。底の部分も含めて。

 ほとんど球状になるまで潰された空き缶を、ハジメは放り投げる。

 弧を描いてゆっくりと飛んだ空き缶は、自動販売機横の口の小さい空き缶専用ごみ箱にホール・イン・ワンした。

 居合わせた電車の降客が驚いてハジメを見る。

 ハジメはやや俯き加減で、足早に歩いていった。


 自宅に帰った武士は、やがて大学から帰ってきた姉の遥と、おそい昼食にラーメンをすすりながら、剣道部に入部することになったことを話した。

 お父さんにも話しなよ、と遥は言ったが、それは遥から伝えてくれとお願いした。

 まだ、高校生活は始まったばかりだ。

 剣道部に関しては、まだ正式に入部してもいない。

 続けていくつもりはもちろんあるが、自信があるわけではなかった。

 また、逃げ出したくなるかもしれない…

 父親の顔を見て、話す勇気はなかった。


 こうして、武士の高校生活は始まった。

 武士にとっては波乱の幕開け。

 しかし、一般的に見たらそれほどでもない平凡な幕開け。

 ただ入学式の日に剣道部に見学にいっただけだ。

 彼の周囲に、様々な思惑が蠢いているのは事実だったが。

 そして、日々は流れ始める。

 

 季節は、初夏を迎えようとしていた。


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