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「喫煙者たちの夜」

時は半日ほど遡り、ホテル事件のあった日の夜。


 港区にある高級マンションの一室。

 そこが九龍直也が用意した、灯太が密航の疲れを癒す一晩の宿だった。

 麒麟からは間違なく追手がかかっているはずで、更に灯太の来日を気づかれている恐れは低いとはいえ、鬼島首相サイドへも警戒が必要だった。

 その為には、両勢力が見つけ難い、かつ手出ししにくい隠れ家が必要だった。


(しかしまあ、よくこんな場所を抑えられるな。九龍の坊やは)


 マンションの一つしかない入り口を見張る事ができる路地裏で、深井隆人は感心していた。

 同じマンションの別の一室には、東南アジアの小国の大使館が入っているのだ。

 大使館とは、国際法上で立派なその国の領土だ。

 まして小国とはいえその国は、CACCと領海を巡って対立関係にある国であった。

 如何に麒麟とはいえ、簡単に手出しのできる建物ではなかった。


(九龍直也。元北狼の少年兵……だからといって、特別な情報組織に入っていた訳じゃあない。鬼島首相の息子でも、今は対立してその父親のコネクションを使える訳でもないだろう。今はただの高校生である筈の坊やが、自力でこんな立地のマンションの一部屋を抑えられるネットワークを作ったってわけか)


 化け物なのは戦闘技術だけじゃねえってか、と深井は一人ごちた。

 深井は、芹香を横浜から都内の自宅まで彼女を送り届けた後、そのまま車でこのマンションまで灯太を護衛しつつ送り届けた。

 今は離れた場所に車を置き、路地裏からマンションの出入り口を警備している。

 今日はこのまま一晩中、灯太の護衛を続けるつもりだった。

 たった一人で屋外での警戒は体力的に厳しいものもあるが、皮膚を喰い破ってくる虫だらけのブッシュの中で、敵の大隊に取り囲まれ一睡もできずに銃を抱え一晩過ごすような戦場の経験を持つ深井だ。

 路地裏で人目を避けながら、マンションを見張り一晩過ごす程度のことは、楽なミッションだった。

 ビルの狭間で壁に寄り掛かり、深井は煙草に火をつける。


 彼はぼんやりと、自分の半生を思い返していた。

 親に捨てられた孤児で、喧嘩に明け暮れた幼少期を過ごし中学を卒業した後、すぐに国防軍へと入隊する。

 基本的な陸戦技術を身に着けるとすぐに除隊し、実戦経験を多く詰めるフランスの外国人部隊に入隊した。

 言葉の壁は大きかったが、「誰に攻められることなく戦える人生を送ることができる」と、必死で身に着けたのだ。

 そして彼の希望通り、欧州では大規模な動乱が起こり、激戦に次ぐ激戦を経験することとなる。

 満足のいく半生だったが、四十を超え、彼はふと自分が疲れていることに気が付いてしまった。

 もういいか、と。

 日本に戻り、後はSPとして、あの戦争の日々に比べればはるかに安全な職場で働きながら余生を過ごせればいいと。

 そう考えていたはずだった。


 九龍直也。


 自分の半分も生きていない少年に、いともたやすく右腕を切り飛ばされた。

 深井隆人は負けたのだ。

 いや。

 生き延びた人間が勝者。

 直也に言われるまでもなく、そんなことは分かっていた。

 結局自分は死なず、こうして特別製の義手まで手に入れ、生き延びている。

 不満はない。

 だが。

 心の奥底にしこりが残る。

 これまでの自分の人生はなんだったのか。

 親がいないという理由だけで疎外され、暴力でしか自分を表現できなかった。

 だから戦いの人生を得たいという、若かったとはいえ極めて安直な理由で、今の直也と同じ年齢の頃に、この道を選んだ。

 負けたままで、いいのかと。


 0時を回り、人通りも途絶えた頃。

 深井はマンションの周りを一回りし、再びもとの路地裏に戻る。

 周囲に人の気配がないことを確認すると、また一息つこうとポケットから煙草のケースを取り出した。

 その手応えの軽さに、煙草を切らしてしまっていたことに思い至り、舌打ちをする。

 この様子なら問題ないだろう、近くのコンビニまで足を延ばすかと彼が考えたその時だった。


「よければ吸うといい」


 背後から声が響き、深井のお気に入り銘柄の煙草が顔の前に差し出された。



「っ……!」


 まるで気配を感じなかった。

 夜の闇から溶け出すように、その存在は現出した。

 仕立ての良いダークスーツに身を包んだ、壮年の男性。

 深井よりは年上に見えるが、その体は中年太りなどとはまったく縁のない引き締まった鍛えられた体付き。

 何よりもその鋭い目つき。

 口元は薄い笑みを浮かべているが、視線を外せば即食い殺される。

 そんな圧倒的な緊張感を強いる強い視線。

 例えるならば、闇夜に佇む孤高の狼。

 深井はその男を知っていた。

 いや、この国に住まう大人ならば、この男の事を知らない人間はそうはいないだろう。


「おや、要らないのか? 君の好む銘柄だと聞いていたが」


 現日本国内閣総理大臣、鬼島大紀。

 まさにその人が、深井隆人の前に立っていた。


 深井の額に、冷たい汗が流れる。

 これまでどんな大部隊を前にしても。

 苛烈な砲火に晒され自らの部隊が壊滅の危機に瀕したときにも。

 このような感覚を、深井は覚えたことはなかった。

 目の前に立つ男が、同じ人間とは思えなかった。


「鬼島、首相……。なぜ、ここに」

「なに。連日の下らん連中相手の下らん会議に疲れ果ててね。ふらりと散歩したくなっただけだ」

「永田町からずいぶん、足を延ばしたもんだね……」


 軽口を叩きながら、後ずさり深井はゆっくりと、極めてゆっくりと、義手の右手を懐の銃に向けて伸ばす。

 ギギギと、義手が軋む音が聞こえるような気すらする。

 右手と懐の銃の距離が、遠い。


「懐かしい戦場の匂いに誘われてね。辿ってみれば君がいたというわけだ、深井隆人君。君こそ、どうしてこんなところにいる?」

「俺の事をご存知で? 一国の首相さまが?」

「謙遜かな。軍にいた人間で君を知らなければ、そいつはただの一兵卒か、ただのモグリだろう」


 奇しくも灯太と同じことを鬼島は言うと、手にしていた煙草を加え、火を点けた。

 深井は動けなかった。

 隙だらけの動きだったはずだ。

 今の鬼島の挙動の間に、深井は銃を抜けた筈だった。

 しかし彼にできたことは、僅かに後ずさり鬼島との距離を取ることだけだった。


「ところで」


 紫煙を吐き出すと、深井がようやくとった距離を、鬼島は無造作に踏み出した一歩でいとも簡単に詰める。

 深井はまったく反応することができなかった。


「どうしてとは聞いたが、実はおおよそ聞いている。ウチの息子が迷惑を掛けているようだね。申し訳ない」


 軽く頭を下げると、首相は薄く笑った。


「その右腕もウチの息子の仕業なんだろう? やんちゃが過ぎたようで、今度叱っておくからどうか許してやってほしい」


 その言葉で、深井は全身が総毛立つような怒りに襲われた。

 子供の悪戯を詫びるかのような言葉。

 自分の歴戦の戦い抜いてきた右腕を切り飛ばされたことが、まるで幼子に悪戯で顔に落書きされたかのような扱いだ。

 自分の戦いを穢されたような思いだ。

 所詮は子ども同士の喧嘩だろうと。

 親が謝るから、許してくれと。


 焚きつけられている。


「……叱るってことは」


 深井は辛うじて、平静を装った声を出す。

 見破られていることは、重々承知の上で。


「あの坊やの企みも、ここで終わりってことかな」

「いや、ここで朱焔杖の管理者を連れ去ることは難しいだろう。やっかいな所に匿ったものだよ。出来の悪い息子にしては上出来だ」


 鬼島は笑って答えるが、深井にはその言葉が上っ面だけであることは分かり切っていた。

 すでに灯太のことまで知られている。

 手を出されにくいからと言って、灯太をいつまでもここに匿い続けたところで、儀式場につれていかなければなんの意味もない。

 鬼島は、このマンションを自らの手の者で囲んでしまえばいいだけだ。

 それに、今深井の目の前に立つこの男は、配下の者など使わずとも自分一人の力で容易くマンションに侵入し、誰に気づかれることなく灯太を連れ去ることも可能だろう。

 深井にはそれが確信に近い思いで実感できた。


「まあ、様子を見るしかないだろうね。深井君。君もいることだし」

「……俺が?」


 なんの冗談だ、とでもいうように深井は笑う。

 自分がこの男に勝つなど、もはや想像することもできなかった。

 暗い怒りが、精神の底を蠢く。


「あんたの息子の悪だくみに付き合った俺は、ここで殺されるんだろう? あんたが直々に手を下してくれるってんなら、それはそれで悪くない最後かもしれないが」

「何を言う。君のような優秀な兵士をこんな所で失っては、国家の損失だよ。この国の首相として、そんな真似はできない。それに」


 すっと目を細められ、鋭い眼光がさらに鋭く、深井を射抜く。


「ここで終わっていいのかい、深井君」

「……おんなじようなことを、他の奴にも言われたよ」

「新崎結女に、か」


 間髪入れずに出てきたその名前に、深井は目を見開く。


「その義手も、あの女に用意されたのだろう」

「どこまでも知っているんだな、あんたは」

「あの魔女に踊らされたままでいいのかと、私は言っているんだよ」


 鬼島が再び、煙草を深井に差し出した。

 深井は大きくため息をつくと、諦めたように差し出された煙草を一本抜き取り、咥えて火を点けた。

 紫煙がふたりの男の間で揺蕩う。


 鬼島の言葉が、無意識下に刻まれた操り糸から、彼を解き放った。


「あの女の呪いは強力だな。歴戦の勇士を持ってしても抗いきれんとは、やっかいな存在だ」

「……助かった。危うくあの蝙蝠女に、いいようにやられるところだったよ」


 深井は身の内に刻まれた呪詛を洗いそそぐように、深く煙草を吸いこみ、肺を満たし、吐き出した。


「俺はどうすればいい?」


 結女の呪縛から解き放たれた深井は、素直に鬼島に問いかける。


「いくつか頼み事はさせてもらうが。基本的には君の好きなようにするといい。朱焔杖の管理者も、息子も、魔女も、しばらくは泳がさせてもらう」

「俺は、あんたの息子を殺すかもしれないぞ」


 煙草を持つ義手の腕を持ち上げて、鬼島を睨んだ。


「あんたが焚きつけたことだ」


 しかし、それがどうしたとでもいうように、鬼島は無反応だった。


「好きにするといい。兵士の傷は戦いでしか贖えん」

「なら、そうさせてもらおう」


 視線を逸らし、深井は煙草を燻らせる。

 鬼島はポケットから小さい端末を取り出すと、深井に手渡した。

 それは、再生も可能なボイスレコーダーだ。


「こいつは?」

「日野神楽に渡してほしい」

「……了解した」

「では、私はこれで失礼しよう。いい気晴らしになった。礼を言う」


 鬼島は踵を返すと、路地を出る方向へ歩き出した。

 いつも間にか、外の通りには黒塗りの車が止まっている。


「待て」


 その背に深井は声を掛ける。


「なんだ」

「……煙草を置いて行ってくれ。俺の為に用意したんだろう?」


 振り返ると、鬼島は無表情のまま、黙って胸ポケットを指さした。

 深井が自らの胸ポケットを見ると、そこにはいつの間にか、彼の好きな銘柄の煙草の箱がねじ込まれていた。



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