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「繕われない服」

 碧色の海に少女は浮かんでいた。

 幼いその体を水面に揺蕩え、ぼんやりと遠い蒼空を眺める。


 突如、空の色が黒く塗り潰された。


 気づくと鮮やかな碧だった海も変色して、暗く深く、いやもっと黒く、ドロドロと腐った苔の色となってしまっている。

色と合わせるように海水は粘着質なゲル状に変わり、奇怪な化け物のように少女の体に纏わりつき、飲み込んでいく。


 ――やめろ!


 少女は叫んだ。

 叫んだつもりだったが、声にならなかった。

 口の中に、腐った苔色のヘドロが入り込んできたからだ。

 猛烈な不快感に、少女はえづく。

 口の中に入り込んできたそれは、やがて少女の胎内に宿る。 

 そして丸まった胎児の形となり、少女の体の中に巣食った。


 出て行け! 化け物!


 ……化け物はどっち?


 地獄の底から響く声とはこのことだった。

 恨み、怨念、呪詛、鬱憤、怨恨、憤怒、怨讐、憤慨……

 この世のすべての悪感情の塊が、お腹の中から少女を襲う。

 逃げ場のない、躱しようのない怨嗟。


 わたしの生を奪ったくせに。

 わたしから生きる力を奪い続ける化け物。

 生まれるのは、わたしでもよかった。

 たまたまピンセットで摘ままれたのがわたしだった。

 ただそれだけ。

 ねえ、なんで生きてるの。

 なんであなたが生きてるの。

 わたしでもよかった。

 わたしなら、もっとうまくやれた。

 生きてるならちゃんとしてよ。

 その2つのちからで。

 ちゃんとやってよ。

 わたしの命を吸い取ってるんだから。

 わたしの命を奪っておいて。


 なんであんたが生きてんのよっっ!

 ちゃんとやれないんだったら代われ!!

 おまえが、おまえが死ね、死んでしまえっっ!!!


 緑色の胎児が翠の腹を食い破った。


「やめてぇぇっっ!!」


 ***


 目を覚ますと、そこは見覚えのない白い天井だった。

 さして広くはない、シンプルなシングルベッドのホテルの一室。

 カーテンが閉ざされているが、漏れてくる陽光が今が昼間の時間であることを示していた。


「翠姉っ、起きた?」


 隣の椅子には葵が座り、心配そうに横たわっている翠の顔を覗き込んでいる。


「葵ちゃん……あれ、なんかあたし、心配かけてる……? なんかごめんね……」


 まだ意識が朦朧としているのか、翠は舌足らずな声で葵に詫びる。

 そして、緩やかに意識が浮上してくると。


「碧双刃はっ!?」


 ガバッと身を起こし、叫ぶ。

 目を伏せる葵。

 翠は傍らに目を向けると、いつもの慣れ親しんだ碧色の鈍い光を放つ曲刀が、開いたままのアタッシュケースの中にあった。

当然のように、一振りだけ。


「……あのクソ女……!」


 その一本を飛びつくように握り絞めると、翠は跳ねるように立ち上がり、部屋の出口へと向かう。


「待って! 翠姉、どこに行くの!!」

「あの女のところに決まってるでしょ! 碧双刃を取り戻さなきゃ!」

「だから、それはどこに行けばいいの!!」

「どこってだから……!」


 葵の叫びでようやく状況を認識した翠は、へたり込むように床に座り込んだ。


「碧双刃、あれが無いと、あたしは……」

「翠姉……」


 葵はその震える肩を抱いて、座り込む翠に寄り添う。

 刃朗衆として生まれ、その人生を賭して、多くのものを犠牲にして戦ってきた。

 その要である九色刃の喪失。

 もし、自分が命蒼刃を奪われたらどうなってしまうのか。

 そう考えると、葵にはかける言葉が見つからなかった。


「葵ちゃん、あれから、どれくらい……」

「次の日の、もう11時だよ」

「あたし、そんなに寝てたんだ」

「寝てたっていうか、苦しんでた」

「うるさかったでしょう?」

「そんなこと」


 翠は幼少の頃、葵と出会う前に頻繁に見ていた夢を思い出していた。

 同じような夢はたまに見ていたが、今回のようにグロテスクで、現実感のある夢は久しぶりだった。


 『妹』が埋められている自分の細い腹をさする。

視界に入ったその自分の腕が、傷一つない綺麗な状態であることに気が付いた。


「火傷……、治ってるね」

「私もだよ」


 答えると、葵は薄く笑う。

 昨夜のホテルでの紅華との戦い。

 朱焔杖の衝撃波を伴う熱風に煽られて、ガードした手足の皮膚が火傷を負った。

 深刻なダメージではなかったものの、動こうとすると激痛が走り、立ち上がるのもやっとだった重症のはずだ。

 それが一晩で治癒されていた。


「他のみんなは……? それからここは、どこ?」

「武士とハジメは隣の部屋。ここは八王子にある御堂組系列のホテルだよ。差し当たって安全は確保されてるみたい。いつまでも、とはいかないみたいだけど。とにかくまずは、今後の相談をしようって」

「わかった。作戦会議だね。行こう」

「行こうって……待って、その恰好で?」


 残された碧双刃を抱えて今にも飛び出して行きそうな翠を、葵は腕を掴んで止める。

翠は、昨夜葵が着替えさせてくれたホテル備え付けの簡易パジャマを着ていた。

 悪夢に寝乱れて、そのささやかな胸が今にも露出しそうになっている。

 翠は少し考え込むと、さっと服の前だけを整え、それだけでまた隣の部屋に向かおうとした。


「待って翠姉、いつもの服は?」


 葵が呼び止める。


 翠のシンボルであるゴスロリ衣装。

寝るときと体を洗うとき以外は、いつも彼女はそれを着ていた。

 ホテルに潜入する時にはやむを得ず、パーティ会場のユニフォームに着替えたが、いつもの植物の種子や繊維が縫い付けられたゴスロリ衣装は、碧双刃を格納していたアタッシュケースに一緒に格納していた。

 ホテルでの戦いでは、その格納されたアタッシュケースごと服を碧双刃で貫き、紅華を一時拘束した蔦を発生させたのだ。

 そしてそのアタッシュケースは、時沢が脱出時に回収してくれていて、ここにある。

 碧双刃に貫かれて中の服は破かれてしまっているが、少しくらいの破れだったら、植物の繊維を操れる翠には簡単に繕うことができた。

 これまでも翠は、そうしてゴスロリ衣装に執着してきたのだ。

 みずからの『戦闘服』として。

 しかし。


「そ、そうだね。うん。服、服。あたしの」


 しどろもどろな口調で、翠が戻ってくると、ベッドの上に投げ出されたアタッシュケースを見つめる。


「……あ」


 そこでようやく、葵は気が付いた。

 翠の逡巡に。

 対となる二振りの刃を持って、碧双刃は成る。

 それが一振りのみとなった場合、その超常の力は発揮されるのか。

 碧双刃の仕様書には、どう書いてあったのか。


「翠姉」


 思い詰めた表情の翠に、葵は呼びかけた言葉を飲み込む。

 翠は黙って、片手でアタッシュケースの中のゴスロリ衣装を引きずり出した。

 胸の真ん中に、蔦を生み出すために碧双刃で裂かれた大きな穴がある。

 刹那、目を瞑った後。

 翠は片手の一振りの碧双刃を、慣れた手つきでヒュンッと一振りした。


 僅かに切り裂かれた服の裂け目から、植物の繊維が蠢き成長を始める。

 そして、繊維同士が結びつき服の破れが瞬く間に繕われる。

ことは、なかった。





「おせーよ。いつまで寝てんだこのミドリ虫。冬眠か? 虫だから冬眠すんのか? こんなと、きに寝坊、とか……テメーいい、根性して……んじゃ……ねー、か……」


 隣の部屋から、葵が翠を連れて戻ってくる。

 昼近くまで起きてこなかった翠にさっそくの罵倒&嫌味を吹っ掛けるハジメだったが、その台詞を最後まで勢いよく喋ることができなかった。


「翠さん……」


 武士は絶句する。

 北狼に襲われ重傷を負い、葵が攫われてしまった時にも気丈に振る舞い、心折れることなく、周囲への気遣いすらして、弱みを見せなかった翠。

 その翠が今、瞳から生気を失い、虚ろな表情で葵に支えられながら、立ち尽くしている。

傷は癒され、身体的な問題はないはずだった。


「おい、葵……」


 ハジメは翠が片手にぶら下げた碧双刃に視線を向けた後、傍らの少女に問いかける。

 葵は無言で、静かに首を横に振った。


 ハジメは深くため息をつく。


「……碧双刃は役立たず、か」

「!!」

「ハジメっ!」


 弾かれるように翠は、憎悪の瞳でハジメを睨んだ。

 友のあんまりな言い方に武士は抗議の声を上げるが、ハジメは両掌を上に向け、さらりと言い返す。


「味方の戦力は最優先の確認事項だ。曖昧なままになんかできるわけねーだろ」

「だからって、そんな言い方……」

「慰めあって互いの傷を舐めあってる暇があるのか。俺たちに」

「だけど翠さんにとって、碧双刃は!」

「ミドリ虫は命蒼刃と葵が敵に奪われた時、それを取り戻す事に全力を注いだ。今度は碧双刃を取り返すことに全力を尽くす。それだけだ。違うか? ミドリ虫」

「……違わないわ」


 ハジメの鋭い言葉に、翠は肯定の意を返す。

 しかし、その言葉にはまったくいつもの覇気がなかった。


「……虫でいいのかよ、テメーは……」


 毒気を抜かれたような反応に、ハジメも力なく呟くしかなかった。





「とにかく、現状の確認だ」


 翠と葵をベッドに座らせ、武士とハジメは部屋に備え付けのソファと椅子に座る。

 ハジメがテレビの電源を入れると、ちょうど特番のニュースが放送されていた。

 ワイドショー形式の番組の中で、女性アナウンサーが大学教授のコメンテーターに話を聞いている。


≪……昨夜の新横浜ホテルでのテロリスト襲撃事件ですが、灰島議員の資金パーティが開かれていました。主催の灰島議員、主賓のCACC連合評議員・呉近強氏を始め、死傷者はなく人的被害はなかったわけですが……教授、この襲撃は灰島議員と呉近強氏を狙ったもので、間違いないでしょうか?≫


≪当たり前ですよ。灰島議員は、与党民自党でも反首相派の急先鋒です。その灰島議員が、鬼島首相が目の敵にしているCACC評議員と表立って接触していたわけです。それを面白く思わない自称愛国主義者達の仕業に決まってますよ≫


≪教授、その『自称愛国主義者達』にお心当たりはあるのでしょうか?≫


≪テレビを見ている皆さんは、あまりご存じないでしょうがね。戦後、影ながら民自党政権を支援し続けている政治団体がいるんですよ。ヤクザみたいな連中なんですがね。『御堂組』です≫


≪『御堂組』ですか?≫


≪戦後から長く政治・経済各界に影響力を持っている組織です。『日本を守る』と言って騒いでる連中で、CACCに対して強硬姿勢を取り、軍備を増強している現鬼島政権は、彼らにとって都合がいいんでしょうね。鬼島政権に変わった後も、変わらず支援を続けています≫


「誰が鬼島を支援してるって!?」


 ハジメがテレビの向こうのコメンテーターに本気で切れる。


≪鬼島政権は、前政権と比べて政治信条として御堂組と相性が良い。彼らにしてみれば待ちに待った愛国主義的政権でしょう。その鬼島首相にとって邪魔になるのが、灰島議員のような平和的対話を行おうとする人達です。その灰島議員が、彼らが仮想敵国としているCACCの評議員と会うなんて、御堂組には絶対に許せなかったんでしょうね。だからこういった暴挙に出た、というわけです≫


≪それは間違いないんですか?≫


≪失礼。断定するのは早かったですね、訂正します。しかし、証拠が挙がってくるのは時間の問題だと思いますよ≫


≪それでは、今回のホテル襲撃事件への関与が疑われている『御堂組』の本部とされる渋谷のビル前と、中継が繋がっています。そちら、動きありましたでしょうか?≫


 画面が切り替わり、武士たちにとってもすっかり馴染みのある御堂組のビルが映し出された。

 報道陣が入口を囲んでおり、映し出されたアナウンサーが中継を始める。


「……つーわけだ」


 もう十分と、ハジメはテレビの電源を切った。


「どこの局も昨晩からこんな状況だ。鬼島に完全にしてやられてる。一見、アンチ鬼島みたいな発言もしてやがるが、マスコミの主導権は完全に野郎に握られてんな」

「……なにやってんのよ、御堂組」


 ベッドの上で膝を抱えて蹲る翠が、ぼそりと呟く。


「それについては返す言葉もねえ。ジジイはこちらが有利と事を進めていたつもりだったみてーだが、軍を動かせなくなって大人しくしてるよう見せかけて、奴は裏で着々と御堂を追い詰める準備をしてたってわけだ」

「もう、御堂のビルには戻れないね」


 葵の言葉に、武士は大切なことを思い出す。


「そうだ、継さんは!? 継さんは大丈夫なの!? このままじゃ、警察とかに踏み込まれて……」

「落ち着け、武士。警察に踏み込まれることはまずねえ。昨日からテレビもネットも見てるが、『御堂組が犯人だ』なんて言ってるのはマスコミの憶測だけで、証拠も根拠もどこにも上がってきてねえ。第一、警察にはまだジジイが力を残してる筈だ。でなきゃとっくに俺たちは潰されてるって」

「信用できるかっつーの……」


 またもぼそりと、悪口を吐く翠。

 舌打ちをするハジメだが、反論はしない。

 しても無駄だと知っている。


「でも、じゃあ継さんはずっとビルに閉じ込められて……? だって、外があんな騒ぎじゃ出てこれないでしょう?」

「それも大丈夫だ。さっき時沢さんから連絡があった。兄貴は最低限の機材と一緒に無事に脱出した。今は時沢さんと一緒にこっちに向かってる。もうすぐ着くんじゃねーか」

「本当に? よかった……」

「……何がよかったって言うの? 武ちん」


 安堵の声を上げる武士を、翠がキッと睨む。


「翠さん」

「ボンボンの兄貴がこっちに来たからって、なんの役に立つっつの? だいたい御堂組なんか今はどうでもいい。大事なのはあのクソ女の居場所でしょ? どうなの? あのパソコンオタク、それ掴んでるの?」

「翠姉」


 翠の物言いを、葵が控えめに咎めようとする。

 しかし、翠は構わず荒んだ瞳のまま、ハジメを睨み付ける。


「どうなの?」

「……紅華の居場所を掴んだっつー話は聞いてねえよ」

「だったら、ここでこうしていてもなんの意味もない! あんたの兄貴を待ってたって、なんの意味もない! だったら!」

「だったらどうするっつーんだ、ミドリ虫。この四人でふらふら街ン中歩いて、あの女を探すのか? 当てもなく? それで見つかんのか? テメーの九色刃取り戻せんのか?」

「……」

「じゃあテメーが、どこを探したらいいか教えてくれよ。それを教えてくれんなら、言われるまでもねえ。俺がさくっと行ってあの女ぶっ殺してきてやんよ」

「……」


 キツいハジメの言葉に、翠は言葉もない。

 特に言い返すこともなく、翠は再び膝を抱え、俯いた。


「ハジメ」

「ハジメ、落ち着いて」


 葵と武士がハジメを諌めるが、ハジメは冷淡に吐き捨てる。


「落ち着くのはこの女だろ」

「わかるけど……」

「……それでも、あたしは」


 聞こえるか聞こえないかの小さい声で、翠は悲鳴のような呟きを漏らす。


「碧双刃を取り戻さなきゃ……あれがなかったら、あたしは生きてる意味なんかないんだから……」


 ハジメは今日何度目かの、深いため息をついた。


「……重症だな、ったく。体の重傷の方がまだマシだな」


 しおらしいテメーなんか見たかねえ、と。

 ハジメが呟いたように聞こえたのは、武士の気のせいではなかっただろう。





 ほどなくして、車椅子の継と時沢が、部屋に到着した。

 時沢は武士たちの身の回りの物も回収してきており、また途中で食料などの補給物資も確保しており、大荷物だった。


「翠さん。あなたの大事な服の替えも持ってきましたよ」


 差し出されたゴスロリ衣装の入った袋を一瞥し、しかしすっと視線を逸らした翠の様子から、時沢はすべてを理解する。

 一方、継はベッドの上で膝を抱える翠を一目見ただけで、後は関心が無いとでもいう風に、持ち出したパソコンや小型サーバを武士たちに指示してセッティングさせ、臨時の拠点を設営していく。


「じゃあ、状況の整理から、始める」


 継が主導して、時沢も交えて打ち合わせが再開された。


「御堂組の事は、もう知っての通り。ジジイは今後、今回の件の対処に掛かり切りになる。ジジイから伝言。宿題をミスった責任は、自分たちだけで取れ」

「俺たちだけのせいかよ」


 ハジメは愚痴るが、


「あそこで紅華を、少なくとも朱焔杖を抑えてれば、状況は違った」

「紅華の実力を侮った、私たちの責任ですね」


 継と時沢に言うことに返す言葉もなく、黙り込む。


「分かってると思うけど、かなりマズい状況。このままだと、御堂の影響力が弱まって、鬼島が完全に警察、公安を掌握する。そうなったら、何をしたって負け。そうなる前に、組を立て直さないといけない。時沢さんは、今後、ジジイの指示であちこち飛び回ってもらう」

「了解です」

「じゃあ、碧双刃は……」


 武士の不安そうな声に、継が頷く。


「もちろん、朱焔杖と奪われた碧双刃はこのままにしておけない。僕たちだけで、取り戻すしかない」

「だけど、紅華がどこにいるか分からないと」


 葵が根本的なことを発言する。

 結局、すべてはそこなのだ。

 継が平坦な声で、冷静に話を続ける。


「紅華の目的、命蒼刃の筈。CACCにとって邪魔な鬼島を倒す、英雄の力。その為に、『行きがけの駄賃』なんてほざいて、碧双刃の一振りを奪った」

「……あたしの碧双刃が、ついで?」


 暗い翠の呟きを、継は無視する。


「碧双刃は人質。あの女は、返してほしければ命蒼刃を持って来いと、要求してくるはず。単体で使えない碧双刃一本、CACCに持って帰っても意味ない」

「じゃあ、その交渉の時に、紅子さんとはまた話せるって事だね」


 武士の本人にとっては当たり前の発言に、ハジメは呆れたように肩を落とし、翠はギリッと歯を食いしばる。


「武士、まだそんなこと言ってんのか」

「ハジメ……」

「お前、あの女に肩打ち抜かれて、足をぶった切られたんだろ?」

「それは、僕が話し方を間違えたから」

「そんな問題じゃない」


 葵が抑えた声で、横から口を出す。

 直接対峙した葵だ。

 紅華の危険性は誰よりも理解していた。


「あの女にもう、武士の声は届かない。きっと、日本人の声は何一つ届かないと思う。彼女はそれくらい、この国を憎んでる」

「正確には、呉近強にそう刷り込まれたわけですね」


 時沢が補足し、葵は頷く。


「その洗脳を戦いながら解けるほど、悠長に構えていられる相手じゃない。殺す気でいかないと、こちらが殺される」

「葵ちゃん……」


 武士は不死身だ。

 しかし、訓練はしているものの直接的な戦闘力という点では葵たちに程遠く、結局矢面に立つのは自分ではなくハジメや葵、翠だ。

 自分一人安全な場所にいて、危険な相手である紅華を殺さずに救えなどと強硬に主張できるほど、武士は太い神経をしているわけではなかった。


 だけど。

 そうだけれど。

 武士は自分の無力さに歯噛みする。


「……で、いつなの」


 翠はそんな結論が決まっている話はどうでもいいという風に、継に問いかける。


「何が?」


 継は短く問い返す。


「あのクソ放火魔が、碧双刃と引き換えに命蒼刃を寄越せって接触してくるのは、いつなの?」


 苛立つように問い直す翠に、継の答えはシンプルだった。


「知るか」

「……は?」

「そんなこと、僕が知るか。御堂が十分に弱まってから、満を持して接触してくるかもしれない。それともさっさとCACCに帰国して、そっちが来いと呼び出されるかもしれない。そんなこと、僕に分かるわけが、ない」

「ふざけないで!!」


 激昂する翠。

 しかし継は柳に風と、まったく動じる様子はない。


「だからと言って、何もしないつもりはない。紅華の居場所、僕が探す」

「あんたに何ができるの? 自分一人でどこにも行けないあんたが」

「翠! テメエいいかげんに……」


 車椅子の継を揶揄までし始める翠の態度に、業を煮やしたハジメが声を上げるが、継が手を挙げてそれを制する。


「僕の武器はこれだ」


 目の前のパソコンを指し示す。


「紅華は一人。あの女、優秀な戦闘員かもしれないけど、あの性格、優秀な工作員とは思えない。必ず、本国のサポートがある。ネットを介さずに、それができるわけない。僕は必ず、その痕跡を見つけてみせる」

「……期待しないで、待ってるよ」


 再び膝を抱えて丸くなる翠。

 激昂と沈鬱を繰り返す。

 他者へ攻撃的にしか関われない。

 翠の典型的な情緒不安定の様子に、葵とハジメ、武士は目を見合わせた。


「……その間、武士たちは九龍直也を当たって」

「えっ?」


 継の口から突然出てきた関係のない人物の名前に、武士は目を丸くする。


「九龍先輩? な、なんで?」

「あの男、柏原さんを使って御堂のサーバ、監視してた」

「……んだと?」


 看過できない言葉に、ハジメが色めき立つ。


「危うく見逃すとこだった。多分、ずいぶん前から。朱焔杖絡みの件、九龍は間違いなく把握してる」


 鬼島側による御堂への集団ハッキングを防いだ際、継は柏原による潜入を発見する。

 咄嗟の逆ハッキングを柏原は防いだつもりでいたが、継はその一歩先を進んでいた。


「甘いんだよね、あのオジサンは」


 その言葉には、僅かに勝ち誇ったような響きが含まれていた。


「一瞬だったけど、九龍の通信記録を抜き取った。その中に、CACCとの通信記録があった」

「マジかよ」

「九龍先輩が? なんで、CACCと?」


 驚愕する武士たちに構わず、継は話を進める。


「九龍直也が、麒麟と通じている可能性がある。そうじゃないにしても、このタイミングでCACCと接触があったとすれば、間違いなく何か知ってるはず。接触して、それを探って」

「わかった」

「任せて」


 とりあえずの手がかり。

 行動の指針が示され、ハジメと葵が短く応える。


「でも、その前に」


 だが継は、車椅子を操作してまだ混乱している武士の前に進み出た。


「九龍本人との接触の前に、武士君」

「は……はい」

「まずは芹香・シュバルツェンベックに会って」

「………え?」


 またしても唐突に登場する、関係ないであろう人物の名。

話のスピードに思考が追いついていない武士は、ますます混乱する。


「な、なんで?」

「九龍の通信記録。芹香からの携帯から連絡あった」

「なんで芹香ちゃんの携帯を、継さんが……」

「あんな危ない男の妹。監視しない筈がない」


 さらりと答える継に、武士は開いた口が塞がらない。

 しかし武士は、さらに唖然とする事実を突きつけられる。


「芹香・シュバルツェンベックからの発信場所は横浜。紅華と戦ったホテルのすぐそば」

「……!」

「発信時間は、まさに戦闘があった直後。昨日、あの時あの場所のすぐ近く、九龍直也の妹はいた。関係がないはずが、ない」


 事態は武士がまったく予想していなかった方向に、転がり続けていた。


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