「直也と灯太の密約」
「お姉ちゃん、ボク、このチョコレートケーキって頼んでいい? 日本のケーキってすごく美味しそう!」
「もちろん。いっぱい食べて! ふふふ。今日はお姉ちゃん、お兄ちゃんからたっぷり軍資金貰ってきてるからね」
「ありがとう! あ、ねえねえ、お姉ちゃんも一緒になにか食べようよ」
「お姉ちゃんはいいよ」
「ええー。見てよこれ、キャラメル苺のミルフィーユだって! 美味しそう!」
「うっ……ぐ……確かに……でも、太っちゃうし……」
喫茶店でメニューを見ながらきゃいきゃい騒ぐ二人の様子は、傍から見ればただの仲睦まじい姉弟のようだ。
「ええー? お姉ちゃん全然太ってないじゃん。むしろ痩せ過ぎだよ! 腕とかすっごい細いじゃん! 顔も小さいし、本当、芹香さんって綺麗だなあ……」
「え? ……ホントに? やだもう灯太クン、そんなお世辞どこで覚えたの?」
「お世辞じゃないよ! 本当にそう思っただけだよ! ボク、日本語ヘンだった? おかしいなあ……」
「やだ、全然変じゃないよ、超うまいよ! ずっと日本に住んでる人と全然変わんないもん。そっかあ、私痩せ過ぎかあ……じゃあちょっと、頼んでみようか。灯太クンにも半分あげるね」
「ありがとう! …………チョロイン」
「ん? 何か言った?」
「なんにも言ってないよ! すみませーん、注文したいんですけど!」
ぼそっと呟いた言葉を誤魔化して、灯太はウェイターを呼んだ。
やってきたウェイターに、芹香が追加注文を済ませる。
ふと、椅子の背もたれに寄り掛かって座る灯太の顔を見て、芹香は妙な既視感を覚えた。
「あれ? 灯太クン」
「なに?」
「灯太クンは、その、わたしに会うのは初めてだよね?」」
「当たり前じゃん」
「うん……なんか、どこかで会ったような……いや、誰かに似ているような?」
「ふーん」
首を捻る芹香を前に、灯太はしばらく次の言葉を待つが、
「……ごめん。出てこないや」
「なんだそれ」
笑いながら呆れたような声を上げると、一息ついて本題を口にし始めた。
「ええと……。じゃあ、九龍直也さんは今日はここに来ないんだね」
「そうなの。『信頼できる人を迎えに行かせる』って連絡したって言ってたけど…」
「あ、うん。聞いてるよ。それがお姉ちゃんみたいなこむ……綺麗な女の人だとは思わなくって。びっくりしちゃった」
「こむ? ……まあ、私はお兄ちゃんのお手伝いってとこ。無理矢理お願いしちゃったんだよね。目立って動けないお兄ちゃんの代わりに役に立ちたいって。お兄ちゃんは、私みたいな一般人の方だったらむしろ目立たないし、警戒もされないだろうから、大丈夫だろうって言ってくれて。……信用できない、かな?」
不安そうな目で、芹香は目の前の少年を見つめる。
兄から聞かされた、灯太の生い立ち。
生後すぐに刃朗衆の里に連れ出され、血を抜かれ続けた。
そして五歳になるかならないかのうちに、CACCの秘密組織に誘拐され、道具のように扱われ続けた少年。
こうして目の前で朗らかに笑い、ジュースを飲んでいる姿からは想像もつかないが、およそ普通では考えられない凄惨な人生を送ってきているのだ。
直也を頼って、秘密組織から脱出して日本へやってきたという。
そこに現れたのは自分のようなただの女子高生では、不安に感じるのは無理もないことだろうと思った。
「そんなことないよ!」
少年は花が咲くような笑顔で笑う。
「九龍さんが大事にしている妹さんが来るってことは、ボクの事は信用してくれてるってことだしね! まあ、怖い人も一緒みたいだけど」
「え? 怖い人」
芹香はキョロキョロと周囲を見回す。
店内には家族連れやカップル、女性グループがいるだけで、思い当たるような人物は見当たらない。
「ねえお姉ちゃん、それよりもさ」
「なあに?」
「お姉ちゃんは、どこまで聞かされてるの? 九龍さんから」
「ええと……一応、全部聞いていると思うよ。お兄ちゃんとは、もう隠し事はしない約束をしてるから」
「約束?」
「んーん、なんでもない。灯太クンは、〈麒麟〉を紅子さんと一緒に抜けたいんだよね」
「紅華って呼んであげて。紅華姉、日本の名前で呼ばれるのが嫌いだから。いざ会った時にそう呼んじゃったら、それだけでもう会話できなくなっちゃう。石頭なんだよね」
「そっか……。うん、わかった」
日本から捨てられたと思っている少女。今はもう芹香より年上ということだが、話に聞いた彼女の事も思うと、芹香は胸が痛んだ。
絶対に助けてあげなくてはならない。
「その紅華さんなんだけど、彼女は〈麒麟〉を出たくないって言ってるんだよね」
「そうなんだ。〈麒麟〉のトップが今日本に来ている呉近強って人なんだけど、そいつに心酔してるんだよね」
「心酔って……難しい日本語知ってるね、灯太クン」
「あっちでいっぱい勉強したからね。生きるためには必要だった」
「生きるため……」
「まあ、そんなことはどうでもよくって。ボクはね、紅華姉を何度も説得したんだ。けど、聞く耳持たないんだよね。あのバカ姉貴」
「灯太クン?」
「っとっと、紅華姉、紅華姉。……呉は、恐ろしい男なんだよ。完璧に姉ちゃんの心を支配している。ボクと自分が幸せになるには、呉の命令を聞いて〈麒麟〉として戦って、日本を倒すしかないって思い込まされてるんだよね」
「どうして、そんなことに」
「日本から捨てられた紅華姉とボクは、もうCACCの連合国民としてで生きていくしかない。そして朱焔杖の使い手と管理者という役割を与えられたからには、普通の一般人として生きていくこともできない。だったら、〈麒麟〉のメンバーとしてCACCの役に立って、地位を向上させるしかない。呉の命令を聞いていればそれができる。自分たちを捨てた憎い日本も叩き潰すこともできる。そう信じ込まされてる」
「そんなのって……。灯太クンも」
「ん?」
「灯太クンも、日本が憎い? この国が灯太クンを捨てたって思ってる?」
「あはは。ボクの場合は、紅華姉と少し違うからね。五歳までは刃朗衆にいて、小さかったけど、その考え方は聞かされてた。仕方ないってまでは言わないけど、運命だったと思うよ」
運命。
それだけで納得できるものではないだろう。
しかし、そうやって目の前の小さい少年は、無理にでも辛い現実と折り合いをつけていたのだろうと、芹香は思った。
「話を戻すけど、呉が上手いのはね、ボクに対しては紅華姉を、紅華姉に対してはボクを、人質のように使うんだ。もちろん姉ちゃんに対しては人質なんてストレートな表現はしないでね。ボクは〈麒麟〉でしか生きていけないから、ボクの為にも紅華姉はCACCの為に戦うしかない、っていう風に」
「ひどい……」
「ボクは姉ちゃんほど、呉に支配されてない。だから呉は、ボクに対してはストレートにこう言うんだ。お前がいなくなったら、紅華がどうなるかわかるか」
芹香は灯太たちのあんまりな状況に言葉も出ない。
「このままじゃ、紅華姉とボクは死ぬまで麒麟の道具にさせられる。だからボクは、チャンスを待っていたんだ。そして、そのチャンスが来た」
「お待たせしました」
ウェイターがチョコレートケーキと苺のミルフィーユを運んできた。
「うわー!! 美味しそう!!」
灯太は直前までのシリアスなトーンとは打って変わって、年相応の子どもらしい声を上げる。
まさかウェイターの目の前で麒麟だのCACCだの話すわけにもいかず、芹香は黙り込んだ。
「ごゆっくりどうぞ」
ウェイターが皿を並べ終えて下がると、灯太はフォークを握りしめ、猛烈な勢いでチョコレートケーキを食べ始めた。
「うん、美味しい。食べながら聞いてよ、お姉ちゃん」
「いいよ」
「もったいないよ? 食べないんなら、ボクが貰っちゃうよ?」
「いいよ」
「ありがとう! ……そうそう、それでね。チャンスが来たんだ。朱焔杖の日本への引き渡し。邪魔な鬼島首相の排除の為にCACCの上層部は本気だったけど、麒麟はもちろん本当に朱焔杖を渡すつもりなんかなかった。だから、日本に来るのは使い手の紅華姉だけで管理者のボクはCACCに残された。いざ日本に朱焔杖が渡っても、ボクの意志でその力はコントロールできるからね。そう訓練された。それに最悪、ボクを殺せば朱焔杖は力を失う。新しい契約には時間がかかるし、その間にまた奪い返せばいい。」
ムシャムシャとケーキを食べながら、灯太は他人事のように淡々と語る。
「呉の目的は、日本の他の九色刃。紅華姉と朱焔杖は囮だね。必ず刃朗衆が接触してくるから」
「じゃあ、武士君や葵さんたちが、今……」
「うん。紅華姉に接触しようとしているだろうね」
芹香は知らない。
まさに今、道路を挟んだ向かいのホテルで、武士たちと紅華が戦ったことを。
朱焔杖の熱線が武士の脚を切り飛ばし、葵たちを灼いたことを。
そして、芹香は気が付かない。
「葵」の名を聞いて、ケーキを咀嚼する少年の口がほんの一瞬、止まったことを。
「今回の件は、麒麟にとって大きな作戦だ。呉も直接出張ってきている。ボクが動くタイミングは、ここしかなかった」
「どうして、頼る相手がお兄ちゃんだったの?」
「ボクを庇うメリットを示せる相手じゃなきゃいけなかったからね。九色刃を必要としていて、鬼島の味方ではなく、刃朗衆の味方でもない人間。九龍直也しかいなかった」
「お兄ちゃんが九色刃を必要としている……? お兄ちゃんは、命蒼刃が私の為に必要だっただけで……」
「そこまでは知らされてないんだ」
「えっ?」
「まあいいや。……ボクはね、刃朗衆を頼るわけにはいかなかった」
「……どうして?」
芹香は、直也が九色刃を必要としている理由を聞きたかったが、灯太が話を先に進めたために仕方なく今は置いておく。
「ボクと紅華姉が刃朗衆に戻れば、それは予言のままなんだよ。そして戦いは続くことになる。『CACCの為』が『日本の為』に、『麒麟』が『刃朗衆』に変わる。それだけだ。それじゃあ、ダメなんだ。ボクと紅華姉が自由になる為には、朱焔杖の力を捨てるしかない」
「……うん」
「紅華姉も、朱焔杖の力が失われれば〈麒麟〉に居続ける理由がなくなる。力が無い人間は麒麟に必要がない。待っているのは用済みになった人間の口封じだけだからね。洗脳されていても関係ない。生きる為には、麒麟から逃げ出すしかなくなる。ボクも含めて」
「……うん」
灯太はあっという間に二つのケーキを食べ終えると、フォークの端についた欠片をペロリと舌でなめとり、カラン、と皿の上に投げ捨てるように置いた。
芹香は、目の前の少年の猛烈な違和感に、背筋に冷たいものを感じる。
仕草は、十二歳の年相応のものだ。
しかし語る内容、彼の境遇。なにより、あどけない表情に不釣合いの冷徹な印象を持たせる彼の視線。
同じ年の日本の小中学生はおろか、高校生である自分とも、大きく異なる。
決定的に、違う。
目の前で話している相手と自分の間に、いったいどれほどの距離があるのだろう。
少年は言葉を続ける。
「だからボクは九龍直也を頼った。彼は九色刃の契約を解除する方法を調べていたからね。ボクは彼にこうメッセージを送った。『朱焔杖の力を渡したい』ってね。そうしたら、彼の返信にはこうあった。『九色刃の契約を解除する方法を手に入れた。手助けをするから、日本に来てくれ』ってね」
少年は一息に喋ると、ケーキでベタついた唇を舌で濡らした。
朱焔杖の契約を解除できるということは、自由になった朱焔杖を直也が手に入れることができるということだ。
灯太は話しながら、目の前のどう見ても一般人の少女が、自分の話にどう反応するかを注意深く観察していた。
結論。一応の話は聞かされているが、九龍直也の真意までは知らされておらず、気づいてもいない。
問題は、九龍直也がそんな少女をどんな狙いで寄越したか、だ。
芹香・シュバルツェンベックという異母妹は、九龍直也にとって大切な存在の筈だ。
自分にとっての紅華と同じように。
まさか芹香本人が言っていたように、妹に役に立ちたいと無理矢理頼まれたから、なんて理由ではないだろう。
油断してはならない。
相手は、あの鬼島首相の息子なのだから。
***
「……落ち着きましたか、直也さん」
「はい。見苦しいところをお見せしました……」
壮絶な長台詞の後、不意に俯き黙り込んだ直也は、マグカップに残ったコーヒーを一気に飲み干し、深いため息を吐いた。
「できれば、先ほどの俺の発言は、柏原さんの記憶のハードディスクから消去してもらえるとありがたいです……」
「さあ、それはどうでしょう?」
今まで見ることのできなかった直也の一面を見ることができて、柏原は薄く笑う。
直也は改めて深いため息をついた。




