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「黒板の悪意」

 現在。


 気づけば、入学式の生徒会長の挨拶は終わっていた。

 目の前の国籍不明少女のせいで、武士は憧れの先輩の挨拶をちゃんと聞くことができなかった。

 式次第は滞りなく終了し、生徒達は教室へと戻る。今日は後は簡単なホームルームのみで終わりの予定だ。


「ちょっと待ってよ。なんで先に行くの?」

「え……」


 列をなして新入生が講堂から教室へと帰る途中で、あの国籍不明少女が武士を追いかけ、話しかけてきた。


「ねえねえ。それで?」


入学式の時は気がつかなかったが、少女は身長こそ平均的だが、スタイルがかなりよく、武士は一瞬どきりとして、その豊かな胸元にいきそうな視線を慌てて逸らした。


「あ、なに? 無視?」

「違うよ」

「じゃあ、それで?」

「それでって、なに」

「あの生徒会長と、どんな関係なの?」


 押しが強い。

 中学では控えめで目立たなく、女子との深い交遊を持った事もなかった武士は、初対面なのに顔を近づけて臆面無く話しかけてくるダークブロンドの少女に戸惑いを隠せない。


「関係って、どんな関係もなくて……」

「なんの関係もないのに、あんな『九龍先輩……ハァ……』みたいな呟きしないでしょ」

「そんな風に言ってないよ! ただ前に助けられたことがあって、憧れてるだけだよ」


 なので、まるでペースが掴めず、武士は言うつもりもない事まで言ってしまう。


「助けられたって、お……九龍先輩に?」

「え? あ、えーと……うん」

「なんで? どういうシチュエーションで? あ、そういえば。英雄ナインってなに?」


 少女は武士の制服の袖を摘んで引っ張ってしつこく聞いてくる。

 中学以降、姉の遥以外に異性との免疫がまったくなかった武士は、初対面の美少女のこのアクションに信じられない思いだった。


 武士は美人の姉にも似て、顔の作りは悪くはない。

 身長こそ高くないが、小学生の間はずっと剣道をやっていたこともあって姿勢がよく、また太っても痩せ過ぎてもいない体だ。

 しかし、とにかく大人しく控えめで、時として卑屈にもなる性格が災いし、色恋沙汰にはまったく縁のない人生を送ってきた。

 そんな武士がブロンドの美少女に服の袖を掴まれ、周囲の生徒達からも好奇の目で見られる。気恥ずかしさでどうにかなりそうだった。


 そんな武士達を見る生徒たちの中に、薄く笑っている人物がいた。

 彼は入学式終了直後から、早くも制服のネクタイを外して、ラフな装いで武士達を眺めながら、後ろを歩いている。


「なんでもないよ」

「なんでもないことないでしょう? 隠すことないじゃん」


 武士はその視線にまるで気付くことなく、ブロンド少女の執拗な問いかけに抵抗しながら、既に半分程度の生徒が集まっている、自分たちの教室へと着いた。


「それともなにか、隠さなきゃいけないような――」


 しかし、二人が入った教室はやや異様な雰囲気だった。

 生徒達はざわざわと話をしながら、一様に黒板をちらちらと見ている。

 武士が教室の様子に違和感を感じるより先に、ブロンド少女が黒板に目をやる。

 少女は突然立ち止まり黙り込んだ。

 いったいなんだと少女の視線を追う武士。黒板には大きな文字で、


 金髪のドイツ女は娼婦の娘


 と書きなぐってあった。


 ――なんだこれ。金髪のドイツ女って……


 武士の隣で黒板を見て立ち尽くしている少女。

 教室の生徒たちの視線は、いつのまにか少女に集まっていた。

 ざわつき始める教室。


 金髪って、あの子?

 ドイツ人なの? ハーフ?

 娼婦の娘って、どうしてそんな子がこの学校に……


 つい先程まで、明るい笑顔で快活に武士に接してきた少女は、真っ青な顔で薄い唇を震わせていた。

 武士の袖を摘まんでいた手は離され、堅く拳が握られ、震えている。

 少女の唇が微かに動いた。

 武士の耳だけ、その呟きがかろうじて届く。


 ――やっぱ変わらないのかな――


 ついさっきまでの快活な様子が嘘のような、か細く悲壮な声だった。


 武士は動いた。

 クラスメイトの衆目の中、黒板へと歩み寄り教壇に上って、黒板の文字を消そうとする。

 しかし、あろうことか黒板消しが見当たらない。

 この中傷文を書いた人物が隠したのだと考えると、その悪意に武士は眩暈がしそうだった。

 武士は制服の袖を伸ばし、チョークで書かれた文字を消した。

 黒板消しではなかったので綺麗には消えなかったが、文字はただの白い汚れになり読めなくなる。

 当然、武士の制服の袖も白く汚れた。

 それまでの教室のざわつきが、水を打ったように静かになる。

 その中で。


「もう男掴まえたのかよ。さすがだな」


 下品な声が響いた。

 クラスの後方に固まった男子数名の方から聞こえたが、誰が言ったのかは分からなかった。

 もともと目立つことは苦手な武士は、とたんに真赤になる。

 集まる視線から逃れようと黒板を離れるが、教壇の段差に足を踏み外して転んでしまった。

 くすくすと蔑むような笑い声が教室に広まる。

 なんということだろう。

 武士は惨めな思いでいっぱいになった。

 憧れの暁学園の入学初日に、こんな醜態を晒してしまった。

 くすくす笑いの中で、武士は消えてしまいたかった。


 ガァンッ!


 強烈な音とともに、机が宙を舞った。

 入り口近くの机が、教室の中央近くまで吹っ飛び、ガシャンと派手な音を立てて落下する。


「キャアアッ」


 幸い落下地点に人はいなかったが、近くにいた女子生徒たちが悲鳴をあげた。

 驚いた武士は顔を上げる。

 机が元あった場所には、武士達には知りえなかったが、講堂から教室に来るまで武士たちの後を歩いていた、ネクタイを外した男子生徒が足を振り上げていた。

 彼が机を蹴りあげたようだ。

 それにしても、高校の教室の机を2~3メートルも蹴り飛ばす力は尋常ではないはずだ。


「うぜー。どこの中坊だ、テメエら」


 低いドスの利いた声だった。

 中肉中背。ネクタイを外してブレザー下のシャツの裾をズボンから出し、制服を早くも着崩している男子生徒。

 シャツの上からでも分かるほどの、引き締まった肉体。

 整った顔立ちに、少し長めのウェーブがかった髪。

 外見だけならテレビに出るイケメン俳優とでも言えそうなビジュアルだったが、目つきが異様に鋭く、ドスを利かせた台詞と相まって「怖そう」という印象が圧倒的に強かった。

 突如起きた暴力的な出来事に、再び教室は静かになった。

 クラスメイトたちの頭の中は、ブロンド少女と武士の出来事は机とともに吹っ飛び、なんだか怖い乱暴な男と同じクラスになってしまったという事態に塗り潰されていた。


「おーい、お前ら席につけー。ホームルームやるぞー。って、なんじゃこりゃあ?」


 中年の男性教師が教室に入ると、机がぐしゃぐしゃになった教室の惨状に、思わず珍妙な声を上げる。


「あ、すいませーん。俺、こけて机を蹴っ飛ばしちゃったんすよー」


 どういう転び方をしたら机を蹴り上げられるのかはさておき、ノーネクタイの男子生徒は、さっきのドスの効いた声からは一転、軽薄な声を出した。

 きつい吊り目は細められ糸目になって、不良じみた印象がやや柔和な印象に変わる。

 自分の机を目の前で蹴り上げられた男子生徒は、彼の豹変を目の当たりにして、あんぐりと口を開けている。


「お前なにやって……なんだ、その格好は。ちゃんとネクタイをしろ」

「すんませーん」

「いいか、服装の乱れは心の……ん? お前もしかして、御堂か」

「もしかして、御堂です」

「ん……、そ、そうか。まあいい。机を戻して、席につけ」


 教師はなぜか、急にトーンを落とす。

 御堂と呼ばれた男子生徒は、黙々と机の並びを直し始める。

 訳が分からず呆然としていた武士は慌てて立ちあがると、


「手伝うよ」


 一緒にぐちゃくちゃになった机を並べ直し始めた。


「サンキュ」


 どういう意図があったのかは分からないが、結果的に自分にとって悲惨な空気を彼が吹っ飛ばしてくれたことに、感謝したかった。

 感謝したかったが、ついさっき、あれほどドスの利いた声でクラスメイト全員に凄んでいた彼が、一緒に机を直している間中、自分を見ながらニコニコ……いや、ニヤニヤしているのは、ちょっと気持ち悪かった。


「さ、ホームルーム始めるぞ。出欠取るのと兼ねて、順番に自己紹介からいこうか。まず先生の名前は……って、なんだ、黒板汚ねえな。……黒板消しどこいった。……ねえな。んだよ、備品ちゃんと揃えとけよ……」


 誰に言ってるのかわからない文句をぶつぶつと言いながら、教師は出席番号順に自己紹介を始めた。

 席順は、入学式の並び順同様に出席番号順に並んでいる。

 武士の前の席は、当然あのダークブロンドの女子生徒だった。

 前を向いている為、武士には彼女の今の表情は分からない。

 もう落ち着いているのか、それともまだ動揺し続けているのか。

 黒板に書かれたことの真偽はともかく、相当なショックだったろうなと思う。

 武士は彼女の自己紹介が心配だった。

 ちゃんと話せるのだろうか。


 ホームルームが波乱の幕開けだった為か、クラスメイト達の自己紹介はそつのない、名前や出身地、中学時代の部活を話す程度のものが多かった。

 中学時代の部活は、柔道や剣道などの武道系の他、スポーツ関係の経験者が多かった。

 推薦組も多いようで、武士は自分の自己紹介もどう話そうと悩んでいると、目の前の少女の番となった。


 ダークブロンドの少女はガタンと椅子を引き、勢いよく立ちあがった。


「私の出自は、皆さんもうご存知だと思いますが、補足させて頂きます。私は、母はドイツ人、父は日本人のハーフです。かなり小さい時から日本にずっといましたので、実はドイツ語はほとんど覚えていません。母ともずっと日本語で生活していましたので」


 その声は透き通るように。凛として教室に響く。


「ちなみに、この顔と髪なので妙な期待をされるのですが、英語も得意ではありません。むしろ苦手です。中学時代は弓道部に所属していました。人を見た目で判断しないでくださいね♪ 芹香・シュバルツェンベックです。よろしくお願い致します」


 立て板に水、とはこのことを言うのだろう。

 流れるように滑らかに、かといって早口にもならず、聞きやすい早さで明るい声で、芹香・シュバルツェンベックは自己紹介を終えると、カタンと座った。

 座った後で軽く後ろを振り返ると、武士に目だけで笑った。


 すごい、と武士は感嘆する。

 あんなことがあったのに、ショックを受けていただろうに、そんな事を微塵も感じさせない明るい自己紹介だった。

 強い人なんだなと思ったが、その小さい肩がごく僅かに震えていることに、揺れるブロンドの髪を見て気付いた。


 ――違う。がんばったんだ、この子は。


 自分も頑張らなきゃいけない、と武士は思った。

 あんなことぐらいで凹んでいたら、なんの為に猛勉強して、この学校に来たのか分からない。


「はい、次ぃー」


 教師の声に、武士は立ちあがった。


「えー、芹香・シュバルツェンベックさんの次に、珍しい名前です。タケシ・タナカといいます」


 笑い声が起こる。


 ――ウケた! 咄嗟に出たジョークだったが、滑らずに済んだようだった。

 見ると芹香も振り返り、くすりと笑っている。

 武士は勇気が湧いてきて、そのまま続けた。


「えー、珍しいんですが、田んぼの田に、まん中の中と書いて田中です」


 また軽く笑い声が起こる。


 ――いいぞいいぞ。でもまあ、あまり調子に乗り過ぎてもいけない。後は普通にいこう。


「タケシですが、こっちは普通です。ブシ、という字です。あの、サムライの武士と書いて……」

「ぶっ……あはははははっ!」


 一人から爆笑が起こった。周りの生徒たちはぽかんとしている。


 ――そこは笑うところじゃない。


 なんなんだと、武士は笑い声のした後ろの方を振り返ると、噴き出していたのはあの御堂と呼ばれたノーネクタイの暴力生徒だった。

 馬鹿にされたような笑い声に、思わずジロリと睨みつける。


「ひひ……ああ、ごめんごめん。続けて続けて。くく……武士、ね……」


 なんだアイツ!


 せっかく芹香・シュバルツェンベックに勇気を貰って、名前負けコンプレックスに敢えて立ち向かおうと自己紹介をしたのに、噴き出された。

 さっきは助けてくれたみたいになって感謝したけど、入学初日にあんな制服の着方で、やっぱりアイツはただのDQNだ!


「えー、そんな名前ですが、中学では帰宅部でした。高校では、部活に入ろうと思っています。以上です」


 武士は不貞腐れたように自己紹介を締めると、椅子に座った。

 芹香が椅子を後ろに傾けて、首だけ振り向いて話しかけてくる。


「あいつ、なんだろうね」

「うん」

「田中君」

「なに?」

「ありがと」


 芹香は椅子を戻して、前を向いた。

 武士は何に御礼を言われたのかさっぱり分からず、考えている間にも自己紹介は進んでいた。

 そして、あのノーネクタイ御堂の順番となった。ガタンと椅子を引いて立ち上がり、そのウェーブがかった髪がはらりと端正な顔に落ちる。


 ――さあ、どんな自己紹介をするんだアイツは。少しでも寒いこと言ったら、大声で笑ってやる。

 もちろん本当にそんな真似ができるほど神経は太くないけど。


「どうも。趣味はネトゲの御堂ハジメです」


 ――嘘つけ。


「なんか名前の漢字を説明するのがブームらしいので、説明します。御堂の御は御中の御、堂はお堂の堂です。で、ハジメは片仮名です。まあ、漢字で書くなら数字の一です。英語でいうとワンです。つまり【ワンワン】です」


「はああああ??」


 武士は思わず大声を上げて立ちあがった。


「今後ともよろしく。サムライくん」


 御堂ハジメは、武士に向って糸目で笑った。


  ***


 ホームルーム終了後。

 初日は部活の勧誘なども禁止らしく、後は帰るだけだ。

 生徒たちはお互いに声を掛け合いながら、何人かずつで連れ立って帰っていく。

 武士に声を掛けてくる生徒はいなかった。

 自称ネトゲ好きの乱暴者、御堂ハジメ。

 ハンドルネーム【ワンワン】に、ホームルームが終わるやいなや詰め寄っていったからだ。


「どういうこと!? 本当に【ワンワン】なの!?」


 机をバンと叩いて、ほとんど叫ぶような声だった。


「いやー、サムーはあんまりに想像通りで笑ったよ。なるほどねー。武士だからサムライな。ちょっと安直すぎね?」

「数字の1でワンワンに言われたくないよ! なんでここに居るの!?」

「受験して合格したからに決まってるじゃねーか」

「ほんとに……【ワンワン】なの……?」

「本当だから、そろそろでかい声でワンワンワンワン連呼するの止めねーか?」


 ハジメが周囲に視線をやる。

 近くにいた数名の女子グループがは慌てて目を逸らすと、足早に教室を出て行った。

 自分が目立ちまくっていたことにようやく気が付いた武士は、いまさら声のトーンを落とした。


「なんで黙ってたんだよ……」

「驚かせようと思ってよ」

「それだけで? それだけでこんな……昨日も急にログアウトして、僕がどれだけ不安で」

「仕返しだな」

「え?」

「前に俺から直で会おうって言ったとき、断られたじゃん」

「あれは……」

「その、仕返し」

「……意外と根に持つんだね」

「まあ、それは半分だけど」

「なんだよ」

「サムーの性格考えると、普通に俺に直で会うと緊張して、距離とるだろ、きっと」

「……」

「こんな風に、いきなりタメ口で話せなかったんじゃね?」

「……確かに、こういう性格だったよね。ワンワン。間違いないや。本物だ」


 ハジメは目を細めて、ニヤリと笑う。武士も笑った。


「ハンドルネームは止めねーか? 武士」

「……うん。ええと……?」

「んだよ! 名前忘れたのかよ! ハジメ! 御堂ハジメ!」

「わかってるよ。よろしく。ハジメ」


 武士にとって、久しぶりの下の名前で呼び合う友達だった。


 ***


 武士はそのまま空いたハジメの隣に座り、話し続けていた。


「なんで暁学園に入ったの?」

「武士と同じ高校に行きたかったからだよ」

「キモイ」

「うっせ。冗談だよ。いや、マジで家が結構近くてさ。この学校」

「家、どこなの」

「渋谷」

「げ。いいとこだね。さすが」

「ま、正確には隣の駅だけどな。神泉」

「まあ……電車で一本だね」


 確かに武士の家からと比べてかなり近いが、もっと近い高校は山ほどある筈で、その理由だけで受けようと思うには、ちょっと無理があるように思えた。


「武士ん家は?」

「目黒」

「ふうん。山手線で渋谷まで来て、井の頭?」

「そう」

「電車混んでたろ」

「最悪」

「はは。あ、そういえばよ。例の先輩、生徒会長だったな」

「ね!」


 武士のテンションが一気に上がる。


「さすがだよ! あの佇まいっていうの? オーラみたいのがあるよね! ほんとにリアル英雄ナインだったね!」

「そ、そうか……?」


 やや引き気味のハジメ。


「ちゃんと挨拶を聞けなかったのが悔しいんだけどさ」

「それ、あの女のせいで?」


 ハジメが武士の背後を指さす。

 振り返る武士。武士たちの話し声以外、静かになった教室にはもう誰も残っていないと思っていたが。

 芹香・シュバルツェンベックがひとり席に座ったまま、肘をついた手に顔を乗せ、ずっと武士とハジメを見ていた。


「お邪魔していい?」


 席を立って、芹香は武士たちに歩み寄ってきた。


「してほしくないなあ。旧友の再会を喜びあってるとこだから」

「御堂君に言ってないの」


 芹香はハジメの軽口を意に介さずに、武士の前の席に座ると、手に持っていたウェットティッシュを出した。


「田中君。手、出して」

「え……?」


 突然のことに、何をどうしていいか分からない武士。


「黒板消した時に汚れた服の袖、拭いてくれるってよ」


 ハジメのフォローがなければ、ただ茫然としているだけだっただろう。


「や、いいよ。そんな」

「いいから」


 芹香は体を伸ばして武士の腕を取ると、チョークで汚れた袖をウェットティッシュで丁寧に拭き取り始めた。

 かつてない同世代との、しかも今日会ったばかりの美少女との接近遭遇に、武士は全身が固まっている。


「ははは。緊張してるコイツ」

「ワンワ……ハジメ、このやろ」

「ワンワンって、なに?」

「あ、いや、ええと…」

「あだ名だよ、あだ名。子供のときの。な、武士」

「う、うん」

「ふーん。はい。あんまり綺麗に落ちないや。クリーニング代、出すからね」

「いいよいいよ、そんな」


 武士は急いで手を引っ込める。


「あのさ。田中君と御堂君……君たち、なに?」


 あまりにも基本的かつ漠然とした質問を、芹香は二人に投げかけた。


「だから、昔の友達だって。再会したんだよ。偶然。劇的に」

「嘘だあ」


 ペラペラの喋るハジメの言葉を、一笑に付す芹香。


「だって。田中君は最初、御堂君のこと知らなかったみたいじゃない」

「ま、いろいろあんだよ。秘密。あんたにもあるだろ?」

「……」


 押し黙る芹香。ハジメは立ちあがると、


「武士。これから生徒会室に行ってみねえ?」


 武士に声を掛けた。


「はあ?」


 唐突の提案に反問する武士。


「先輩、いるかもしんねーだろ」

「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな急に」

「善は急げって言うだろ」

「それにしたって……今日入学したばっかじゃ」

「ここで日を置く意味が分かんねえ」

「待てって」


 ハジメは武士の腕を取って引きずって行きかねない勢いだったが、


「九龍先輩なら、今は生徒会室にはいないわよ。たぶん」


 芹香の言葉に足を止めた。


「え?」

「今日はあの人、入学式の挨拶だけだもん。今はきっと、柔剣道場じゃないかな」

「……なんで?」


 ハジメに引きずられる形で席を立ったまま、止まっていた武士。


「なんでって、あの人剣道部の部長で。剣道部の人達って、部活がない日もほとんど毎日、自主練してるから」

「……」

「そうじゃなくって。なんでお前が先輩のことを知ってんだよ」

「秘密。君たちにもあるんでしょ」


 芹香はハジメにそう言うと、柔らかそうな唇に人差し指を押し当てた。


「……ま、いいや。柔剣道場ね。行こうぜ」

「だから、待ってって」

「場所分かるの?」


 引きずり引きずられ、教室から出ようとする二人に芹香は声を掛けた。


「探せばわかるだろ」


「校庭の向こう側で、わかりにくいよ。案内してあげるよ」

「だからなんでお前が知ってんだよ」

「田中君。ついてきて」


 先に立って歩き出す芹香。


「人の話聞けよ」


 ぶつぶついいながら、ハジメは後を追う。


「待ってって。ねえ、話聞いてよ」


 武士はハジメに引きずられて剣道場に行くことになった。


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