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「プランB」

「それでは、私はこれで失礼します」


 呉は壇上での挨拶を終えると、再び灰島に近づき退席を告げる。

 反主流派とはいえ、与党議員である灰島義一郎の政治資金パーティに、国際関係が最悪と言われているCACCの連合評議会議員の呉近強が招待され、応じたのだ。

 その挨拶には参加者やマスコミの注目が集まったが、内容は「過去を踏まえた未来志向で、交流を絶やさずこの難局を乗り越えよう」といった無難なものに留まった。

 呉の来日の真の目的は九色刃・朱焔杖の譲渡。

 表でも裏でもそれ以外の意思表明を行う必要はなかったし、行ってはならなかった。


 この情勢下で呉の行動は注目の的で、国内に入ってから常に日本側の警備という名の、政府の監視が付きまとった。

 これが、朱焔杖と紅華の引き渡しに、灰島議員の資金パーティーというオフィシャルな場を選ばざるを得なかった理由だ。

 「九色刃」などというフィクションじみた物の存在を信じさせる為に、要人による直接の引き渡しを行う必要があったということもある。


「すぐに離日されるのですかな」

「ええ。それでは、紅華のことをよろしくお願いします。紅華、うまくやるんだよ」

「わかりました」


 傍らに立つ紅華に声を掛ける。

 うまくやるんだよ、と。

 紅華にはその言葉だけで十分だった。

 うまくやる。

 『麒麟』のメンバーとして、呉の期待に応えてみせる。

 灯太とともに。



「追って来ないんですけど……。今にもぶっ殺す! って感じの怖ーい眼つきだったんだけどねん」


 翠はパーティ会場へと戻る廊下を歩き出しながら、襟の裏に隠した小型マイクに呟く。


「仕方ないにゃー。こっちからもう一度、ターゲットに接触するっきゃないですか。あー、怖い怖い」


 まさかウェイトレスの衣装に二対の碧双刃をぶら下げるわけにもいかない。

 今の翠は丸腰で、こちらに敵対意識を持っているであろう朱焔杖のターゲットを相対するのだ。

 気を引き締めなければならなかった。


『ビビッてんなら、代わってやってもいんだぞ、ビビり虫』


 ホテルの地下、駐車場の中に止められた一台のバンの後部座席。

 そこでハジメはシートに身を沈めながら、ノートパソコンのディスプレイを眺めて、インカムを通し翠と会話していた。

 ディスプレイには翠が設置した隠しカメラからの映像で、パーティ会場が映し出されている。


「呉近強の挨拶が終わって、今やってる灰島の挨拶でパーティは終わっちまう。接触するならさっさと行け」

『誰がビビッてるって? あんた程度の隠形だったら、近づく前に速攻であの女に燃やされてるわ』

「コソコソ行くから怪しまれんだよ。まあ? そもそも? テメーみてえな小娘に? 一流ホテルのスタッフらしく振舞えってのが無理な注文だったんだよなー」

『……やってやんよ。見てろクソボンボン』

「だったらさっさと行け。パーティが終わってターゲットに姿を眩まされたら、いくら兄貴でも後を追うのは結構な手間だろうしな」

『勝手なこと言わないで、ハジメ』


 二人の通信に、ハジメとよく似ている、不機嫌そうな声が割って入る。

 この場にはいない、遠く離れた御堂組のビルから作戦をモニターしている、御堂継だ。


『灰島と部下の載ってきた車に発信器は? ナンバーは? せめて車種は? さっきから待ってんだけど、特定できたの?』

『いや……、すまねえ。意外に警備が堅くてよ……。VIP用の駐車エリアに、近づけねえんだ』

『呉近強が来てるんだから、警備が堅いのは分かりきってた事だろ』


 今このタイミングで、日本国内でCACCの連合評議会議員の身に何かあれば、ただの国際問題では済まない。

 呉の来日はオープンになっている情報だけに、警備は通常の警察官もかなりの数が配備され、厳しいものとなっていた。

 翠をホテルの正規従業員として滑り込ませるのも、危ない橋を渡ったのだ。


『まったく。せめて車種だけでも分かれば、交通監視システムに侵入して楽に跡を追えるのに。チビ女にわざわざ危ない賭けをさせる必要なんかないってのに』

『心配してくれてるのねん、嬉しいわー。でもチビ女は余計』

『お前を信用してないだけだ』

『……警備の人たち殺っちゃってもいいなら、俺、車調べるけど?』

『バカか』

『バカって兄貴、冗談に決まって……って、ちょっと待て』


 ハジメは会話を止めて、身を隠しつつ、バンの車内から外を伺う。


「招待客の駐車エリアから今、車が何台も出てってる。呉が出て行ったんだ。警備車両も付いてってるから、灰島の方は警備が多少緩くなるはずだ」

『ダメだ、ハジメ。もう遅い』


 隠れていたバンから車外に出ようとするハジメを、インカムの継の声が制する。


『灰島の挨拶が終わった。今、ターゲットと灰島が何か話している。この後はすぐ移動を開始するはずだ。SPが先行して何人か、もう動いている』

『あたしが行く』


 もう、パーティ会場に戻る寸前だった翠が、短く会話に入る。


「雲隠れされたら、もう後は追えないってことでしょ。なんとかここでターゲットを抑える。ボンボン兄弟。プランBの準備しといて」

『ちっ……。ボンボンは余計だ』

『了解』


 翠は通信を切ると、散会しつつあるパーティ会場へと入っていった。



「おい。杖の女」

「紅華です」


 物を呼ぶように声を掛ける灰島に、それでも笑顔で紅華は応じる。

 豚に人間の礼儀を期待するような、無駄なことはしない。


「部屋を取ってある。ついてこい」

「……は?」


 しかし、その後に続いた言葉に、一瞬理解が追いつかない。


「……この後は民自党の反主流派会合で、私と『これ』を紹介する予定では? それに、呉大人との約束は」


 手にした朱焔杖を持ち上げて問いかけるが、灰島は紅華の言葉を受けて、ニタリと粘つくような、嫌悪感を抱かせる笑みを浮かべる。


「皆さんにCACCからの供物をお披露目する前に、私が直々に『検品』してやると、そう言っているんだよ。……使い手の身体共々、な」


 そう言って灰島は、まるで視線が自分の舌そのものであるかのように、女性らしい起伏の大きい紅華の体をつま先から頭まで舐め回すように眺めた。


「呉近強氏との約束の人物にも、ちゃんと会わせてやる。お前が大人しく私の言うことを聞くならな」


 紅華は、心の中で豚に謝罪する。

 こんな愚物中の愚物、汚物そのものような生物と一緒にして申し訳ないと。


(さて、どうするか)


 紅華は思案する。

 呉は「うまくやれ」と言った。ある程度の裁量は任されている。

 灰島に引き渡されて早々に騒ぎを起こすのは問題だが、汚物に抱かれるのはごめんだ。

 人としての誇りを失うのであれば、何のためにこれまで戦ってきたのかわからない。

 部屋に二人になった時点で、殺さない程度に灰島を叩きのめし、別の民自党反主流派議員の元に駆け込もうか。

 事前に予備の接触候補者はリストアップされているし、件の人物の情報もある程度は持っている。時間をかければ灰島の仲介がなくとも見つけ出せるだろう。


「ほら、早くついてこい」


 棚ぼた的にCACCから手に入れた有力カードを、自らの下卑た欲望で失おうをしていることに気が付かず、灰島が先に立って歩き始めた、その時だった。


(あいつは……)


 紅華は視界の端に、厨房へと通じるスタッフ出入り口から会場に戻ってきた、小柄なウェイトレスの姿を発見する。

 まるで中学生のようにも見える幼い少女だが、訓練を受けた工作員であることは間違いない。

 彼女は巧妙に隠しているが、視線を直接こちらに向けないようにしつつ、紅華と灰島の動向に意識を向けている。


(『北狼』の少年兵か? 女もいるのか。それにしては……)


 軍人とは異なる気配の隠し方だ。

 ふと紅華は、CACCからもたらされた「九色刃」を狙う勢力として、鬼島首相、そして日本政界の反主流派以外に、もう一派あることに考えが及んだ。


(ちょうどいい。利用させてもらおう)


 そしてお手並み拝見といこうか、刃朗衆。

 紅華は正面から翠を見据え、薄く笑った。


「なっ……」


 紅華と灰島が何事かを話し、灰島が彼女に背を向けて歩き出したところで、紅華が唐突に、まっすぐに翠を見据えた。

 散会したとはいえ、パーティ会場にはまだ少なくない人が残っている。

 まして壇上近くに立っている紅華と、翠の立つ場所は十メートル以上離れており、その間にも客やスタッフ達が行き来している。

 翠は紅華に注意を向けていたとはいえ、気配は不自然でない程度に抑え、視線のやり方にも気を使っていた。

 それが、ターゲットはこの距離であっさりと自分を認識し、見つめてきたのだ。


(なんつー勘の良さ……え?)


 翠は目を瞠る。

紅華はこちらを見つめながら薄く笑い、左手に持った杖をこれ見よがしに、胸の前まで持ち上げたのだ。


(な、なにを……)


 翠が何を目的とした工作員なのか、完全に見破られている。

 それはまだいい。

 問題は、それでいったい何をするつもりなのか。

 翠に、どんなメッセージを伝えるつもりなのか。


(こんな大勢の前で、まさか……)


 紅華は、親指を仕込み杖の柄の部分にかける。

 チンッ……

龍の意匠が施されたセーフティ機能を持つ杖の鞘から、ごく僅かに、朱い刀身が姿を見せた。


(何をしている……?……朱焔杖を……抜いている?)


 翠の距離からは、よくは見えない。

 不審に思いつつも動けずにいる、翠のその横で。


「うわっちっ!」


 パーティの取材に来ていたマスコミにカメラマンが、不意に声を上げ、片付け途中だったビデオカメラの三脚を取り落した。


「え…?」

「おい、なにやってんだ、お前?」


 別の男性スタッフが彼に声を掛ける。


「すんません、なんか急に三脚が熱くなって……て、なんだコレ?」


(なん……!?)


 紅華に注意を向けつつ、チラリと床に落ちた三脚を見た翠は驚愕する。

 三脚の足の一本が、高熱で炙られたように歪み、溶けて形を変えていた。


「なんだこれ? お前、機材壊してんじゃねえよ!」

「すんません! あれ? でも、さっきまで本当に普通で……」

「言い訳してんじゃねえ!」


 上司らしい男に怒鳴られ、首を捻るカメラマン。

その横で翠は、この不可解な現象の正体を確信する。


(朱焔杖……この距離で熱線を放てるのか!?)


 いや、そんなことは問題ではない。

 問題なのはこんなマスコミ関係者までいる公の場所で、ターゲットが九色刃の力を使ったことだ。


「何を考えてるの…」


 九色刃が最悪、灰島一派の手に渡ったところで、その存在がすぐにも公にされることはないだろう。

 まずは水面下で、鬼島を揺さぶるカードとするはずだ。

 そうなった時には、まだ影響力を残しているであろう御堂征二郎が動き、対応が取れる。


 しかし、もし、こんな場所で九色刃の存在が公にされてしまったら。

 先にその力が世間に晒されてしまったら。


『どうした!? 何があった、ミドリ虫!』


 インカムからは、事態の変化を感じたハジメの問いかけの声。

 朱焔杖の力の一片を見せつけた紅華が薄く笑っている。

 翠は決断する。


「ハジメ。継。プランB、今すぐ始めて」

『は…? どうしたんだよ、お前、まだターゲットに接触してねえじゃねえか』


 ノートパソコンで隠しカメラからの映像を見ていたハジメは、紅華から離れた場所に立つ翠の横で起きた小さな変化に、気が付くことができない。

 しかし、別の角度からのカメラ映像を見ていた継は、小さな画像からその変化を拾い上げていた。


『ハジメ、まずい。ハジメはすぐにポイントFに移動して。他の皆への指示は僕が出す。それからチビ女。作戦開始しても一人で動くな。応援を向かわせる』


 有無を言わせない口調で、継が矢継ぎ早に指示を出す。


『兄貴……分かった』

『了解。でもチビ女は余計』


 インカム越しに、翠も辛うじて軽口を交えながら了解する。

 しかし、その顔には冷や汗が流れていた。

 パーティ会場で、一人仕事もせずに立ち尽くしているウェイトレスに不審な目を向ける客もいたが、そんなことに構っていられなかった。


 自分も、いつ熱線で撃ち抜かれてもおかしくない。

 翠は銃で撃たれたことはあっても熱線で撃たれた経験はない。

 銃であればその砲口から射線を読み躱すこともできる。

 だが朱焔杖にはそれはない。

 こちらを見つめて不敵に笑うターゲット・紅華からの殺気を逃さないよう、警戒を解くわけにはいかなかった。


(動けと言われても動けねーっつーの……)


 ただの火炎放射器だなどと、冗談ではなかった。



「何をしている? 先生がついて来いと言っただろう」


 同伴していた灰島の秘書が、いつまでも灰島の後を追わずにあらぬ方向を見て笑みを浮かべている紅華に声を掛けた。

 灰島は先に数人のSPに囲まれて、壇上横の主催者用出入り口から会場を出て行っている。

 残っているのはいずれもスーツ姿の秘書の男と、紅華を挟むように立つ屈強な体格の男二人だ。

 屈強な男二人は灰島の護衛で、紅華の見張り役でもあった。


「すみません。面白い玩具を見つけてしまったもので」

「玩具?」 

「こちらの話です。ええと……検品、というお話でしたわね?」


 紅華は囲むように立つ男たちをを一切見ずに、顔を背けながら話を続ける。

 秘書はその様子に不快そうに眉をひそめる。


「お前、その態度はなんだ。お前はもう、我々に引き渡された九色刃の付属品だ。いつまでもCACCの保護下にいると思ったら大間違いだぞ」

「存じております。ですから、この場で今、その九色刃と付属品の力をお試しいただこうかと考えていましたのよ」

「……何を言っている?」


 紅華の言葉の意味を図りかねて、秘書が言葉を継ごうとしたその時だった。


ヒューイ! ヒューイ! ヒューイ!


 パーティ会場に、独特の警報音が鳴り響く。

 地震速報にも似た警報だ。

会場に残っている客たちにざわめきが広がる。

 続いて、機械的な音声で館内放送が流れ始めた。


「火事デス。火事デス。オ客様ニ申シ上ゲマス。落チ着イテ、スタッフノ誘導ニ従ッテ、順番ニ避難シテ下サイ」


 客たちがざわめきが、より一層強くなる。


「なんだ? 貴様、何かしたのか!」


 灰島の秘書が声を荒げた。

 しかし紅華は落ち着いた様子だ。


「火事……ね。いいえ、残念ながら、これは私ではありませんわ」

「なんだと?」


 その時、壇上から少し離れたパーティ会場のメインドアから、帽子に制服姿のホテルマンが三人、会場に飛び込んできた。

一番背の高いホテルマンが、ドアの横に立って声を上げる。


「お客様に申し上げます! こちらは東棟二十階ですが、西棟五階で火事が発生したとの警報です。すぐに火が回ることは絶対にございません。順番に、こちらのドアから押し合わずに、避難を始めて下さい! 繰り返します! すぐに火が回ることは絶対にございません! 火事は西棟の五階で、かなり離れております! 落ち着いて、押し合わずに、こちらのドアから、階段を使って非難を始めて下さい!」


 ホテルマンの声に、取り合えずパニックに陥ることは避けられた客たちは、足早に移動を始めた。

 もともとパーティは散会していて、会場に残っていた客やマスコミはそこまで多くはない。

それぞれに帰り支度も進めていた為、避難はスムーズに進みそうだった。


 声を上げたホテルマンは、避難客の誘導を一緒に飛び込んできた二人に引き継ぐと、壇上近くにいる紅華たちに向かって駆け出す。


 きびきびと動き始めるホテルスタッフ、避難するパーティ客の中で、一人微動だにせずに立ち尽くしている小柄なウェイトレスの脇を、彼が通り過ぎる時。


「無理をしないで下さい、翠さん」

「わかってる」


 ホテルマンとウェイトレスの会話は、小声で交わされた。


「灰島先生は、別の非常口からご案内します。先生はどちらに?」


 駆け寄ってきたホテルマンは、紅華と秘書たちに声を掛ける。

 紅華はホテルマンを見て僅かに眉をひそめるが、何も言わない。


「先生はすでに控室へと向かっている。早く先生を誘導しろ!」

「わかりました」


 秘書に厳しい口調で告げられ、ホテルマンは頷くと灰島の出て行った脇のドアから会場を出ていった。


「貴様。本当に関係ないんだな」


 秘書が紅華に確認する。


「くどいですわ。いくら朱焔杖でも、ここから見えない場所に火事を起こすことはできません」

「……だったら、早くついて来い。先生と一緒に避難する」


 秘書は吐き捨てるように言うと、歩き出す。

 しかし、紅華は動かない。

 なぜか会場で避難もせずに立ち尽くしている、ウェイトレスの少女を見て微笑んでいる。


「おい! 何をしている!」


 いっこうについてくる気配のない紅華に、秘書は引き返して痺れを切らして叫ぶ。

 しかし、紅華は動かない。


 もう広い会場に残っているのは、灰島の秘書と、紅華。

紅華を挟むように立つ灰島のSP二人。

棒立ちになっている小柄なウェイトレス。

そしてメインドアの横で避難客の誘導をほぼ終え、会場に残っている者たちを何をしているのかと見ているホテルマンの二人。

 それだけだった。


「お前、いいかげんにしろ! ……仕方ない。おい」


 秘書は紅華の横に立つ屈強な男二人に向かって、顎をしゃくる。

 男たちは頷くと、紅華の肩に手を掛けた。


「女に手荒な真似はしたくないが、おとなしく言うことを聞かないのなら……」

「あら、お優しい。でも」


 紅華はまだ男たちの顔も見ず、実力で紅華を連れ出そうとする男たちに応じる。

 そして。


「……こちらは豚とその手下に優しくする義理はないのよ」


 一瞬のことだった。

 紅華は手にした杖を鋭く男の脇腹に突き出す。

 返す杖で反対に立つ男の顎を打ち抜いた。


「がっ……!」

「ごっ……!」


 それぞれたった一撃で、鍛えられた男たちの意識が刈り取られ、崩れ落ちる。


「何をす……」


 秘書の男が悲鳴を上げるまもなく、紅華は舞うように体を半回転させると、杖を長く持ち替え、男の頭部に遠心力の籠った朱焔杖の一撃を食らわせ、昏倒させた。


 翠はその隙を見逃さない。

 自分から注意の逸れた一瞬に、紅華に向かって駆け出す。

 しかし、翠の俊足をもってしても、その距離は遠かった。

 紅華はそのまま回転し接近する翠に向き直り、朱焔杖を両手で構え直す。

 いつでもその仕込み杖を抜けるように。

 翠は足を止めざるを得なかった。


「何をしているんですか!?」


 大人にしてはやや甲高い声を上げて、ホテルマンの二人が駆け寄ってくる。

 声あげた方のホテルマンは、手に黒いアタッシュケースを持っていた。

 もう一人のホテルマンも、男性の制服を着ているが線の細い体型だ。

 帽子を目深に被った二人は、翠の横で立ち止まり、三人の男を一瞬で打ち倒した紅華に相対する。


「火事なんですよ? 私たちの指示に従って、押し合わずに落ち着いて避難をして下さい!」


 先程声を上げた、アタッシュケースを持った方のホテルマンが、紅華に向かって叫ぶ。

 ただしその叫びは、たった今、紅華が三人の男を殴り倒した場面には全くそぐわない、奇妙な内容だ。

彼のあんまりな大根役者っぷりに、紅華は思わず吹き出しそうになった。


「いや、あのさ……。君、もういいよ」


 紅華は見下した笑いを隠そうともせずに応える。


「なんだ。君は素人なのか? ……隣の女の子二人は、少しはマシみたいだけど」


 紅華は横に立つもう一人のホテルマンと、ウェイトレスの少女を交互に見る。


「武ちん。ちょっと……芝居下手過ぎ」

「え……そんなこと言われても」

「仕方ないでしょう、武士は役者じゃない。とっさのアドリブとかできる器用な人間じゃないなんて、分かりきってる事でしょう?」

「葵ちゃん……まさかと思うけど、今のフォローのつもりじゃないよね?」


 武士と葵は帽子をホテルマンの帽子を外して、紅華を睨みつけた。

 葵の帽子の中からは、流れるような黒髪が落ちる。


「さて。こんなスマートじゃない大騒ぎを起こして、私に何の用なの?……刃朗衆」


 紅華の顔には、見下した笑いが張り付いたままだ。

 しかし、その瞳だけは決して笑っていない。

 油断は一切ない、戦士の瞳だ。

武士は一歩前に出ると、燃えるようなその瞳を正面から見つめ返して、言い放った。


「朱焔杖の使い手、『麒麟』の紅華さん。僕たちは、あなたを助けに来ました」


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