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「紅華来日」

 見目麗しいチャイナドレスの女性に、すれ違う男達は目を奪われずにいられなかった。


 くりくりとした大きな瞳は愛らしい印象だが、その燃えるような瞳の眼力、強い意志を示すかのようにきつく結ばれた口元は、二十代前半であろう彼女の大人びた色気を引き立ててる。

 グラマラスな胸に引き締まったウエスト、ドレスのスリットから覗く太股の白さは、彼女がCACC(アジア大陸中央国家連合)の人気映画女優と紹介されても、誰も疑う者はいない程に完成されている美しさだった。


 その手に持たれている、赤い龍の意匠が施された杖がやや異様ではあったが、それをいぶかしむ者は少なかった。

 ある者はなるべく視線を隠しつつ、ある者は露骨に、彼女を観察している。

 彼女は、このパーティに招待されたCACC要人の付き添いとして現れた。


(じろじろ見るんじゃない……この日本人どもが)


 吐き気がする。

 彼女は杖を握る手に思わず力がこもる。

 今この場で力を解放し、この虫酸が走る腐った国の腐った男どもを焼き払えれば、どんなに清々するだろう。

 もともと、その為に戦ってきたというのに。

 なぜ、この無遠慮な視線に耐えねばならないのか。


『苛々するな、紅華』

『呉大人』


 かの国の言葉で紅華〈ホンファ〉と呼ばれた彼女が振り返ると、そこには壮年の男が仕立ての良いスーツ姿で立っていた。

 四十前後と思しき外見だが、引き締まった体躯を持ち、眼鏡の奥に光る眼光は、このパーティに集っている日本の政治家達とは格の違う鋭さを持っていた。


「呉先生、よくいらっしゃいました」


 そこに、呉とは対極にあるようなだらしなく膨れた腹を下げて、日本の男が声を掛けた。

 日本語だ。


「灰島先生。こちらこそ、本日はお招きありがとうございます」


 呉も日本語で応じる。


「このような大変な時期に、私のような者を招待頂くのは大変だったでしょう」

「なにをおっしゃいますか。このような時期だからこそ、貴国との会話をしっかりと持たなければ。あのような狂人一人の手で、貴国との間に不測の事態が発生するなど、あってはなりません」


(対立しているとはいえ、曲がりなりにも自国のトップを狂人と言うか)


 灰島義一郎の言葉に、日本語を問題なく解する紅華は眉をひそめる。


「それで……こちらの女性が」

「ええ、そうです。自己紹介なさい」


 呉に水を向けられ、紅華は一転、その名の通り華のような笑顔を見せた。


「初めてお目に掛かります。灰島先生。紅華と申します。この度は私などもお招き頂き、感謝申し上げます」

「日本語も仕込まれておいでで?」


 灰島は犬猫が芸をしたかのような反応で、紅華を一瞥すると呉に問いかける。

 ある程度予想していた反応だったとはいえ、紅華は舌打ちしたくなるのを堪えて笑顔を維持するのに、かなりの精神力を要した。


「彼女は日本人ですよ」

「呉大人……!」


 しかし、その後に続いた呉の言葉に、思わずポーカーフェイスが崩れる。


「灰島先生には本当の事を話しなさい。いいね、紅華」

「……はい。わかりました」


 事前の段取り通りとはいえ、紅華は敬愛する呉に自分を日本人だと言われることが苦痛だった。


「そうでしたか。しかし……」


 今度は灰島は、紅華は自分を足下から胸元まで、ゆっくりとなめ回すように睨む。

 あまりの怖気に、杖を掴む右手に力がこもる。


「よく育っておりますな」

「灰島先生は、ご冗談がうまい。紅華が困っております」


 下卑た言葉をかける灰島に、呉は話を合わせる。

 これからは、呉と離れての任務となる。紅華は今後、この男の元で働くのだと思うと、暗澹たる想いだった。


「それで、彼女が例の『使い手』とかいう者ですか?」

「そうです。入国の際には私の姪として、貴国との交換留学生の身分を取得しております」

「それはそれは。大事にさせて頂きますよ」


 なにが面白いのか、灰島はクククッと品のない笑みを浮かべる。


「それで確かもう一人、『管理者』もいるというお話でしたが」

「ええ、それは」

「……!」


 灰島と呉の話の途中で、突如紅華は過敏な反応を示した。

 振り向きざまに、赤い杖を両手で振るう。

 杖の先は、トレイの上にワイングラスを載せたパーティ会場のウェイトレスの顎を直撃する数センチ手前で止まった。


「ひっ…!」


 小柄なウェイトレスの少女は、身動きもできずに立ち尽くしている。


「おっ……お客様……わ、ワインはいかがでしょうか……?」


 それでもトレイからグラスを取り落とさずに、少女はなんとか声を絞り出した。

 その言葉を無視し、紅華はウェイトレスに詰問する。


「なぜ、気配を絶って近づいた!」

「は……? け、気配? なんのことでしょうか……? 私は、その、お客様のグラスが空でしたので、教えられた通りに、お声掛けを……」


 ウェイトレスの少女は、訳が分からないという風に首を振りながら答える。

 灰島は目の前のやりとりに一瞬ついていけなかったが、やがてため息をついた。


「新人のウェイトレスか。このホテルも質が落ちたな。おい、いいから下がれ」

「し、失礼致しました……!」


 少女は慌てて背を向け、小走りに去っていく。


「失礼。このホテルのマネージャーには厳しく言っておきます」

「いえいえ。このように、彼女には一流の訓練も受けさせております。自分の身は自分で守れますので、ご心配なく」

「例の『北狼』とやらが、奪い返しにくるという話ですか? それはないでしょう」


 呉の言葉に、灰島は手を顔の前で振って笑った。


「奴は今、その私的な特殊部隊の存在が原因で苦境に立っています。今のところ証拠こそ掴めていませんが、もしまた連中が動くようなことがあれば、今度こそ私たちがその確実な証拠を掴みます。私らの持っている工作機関は、そこまで無能ではありません。鬼島もそのような愚策はとらんでしょう」


 そう言うと、胸を反らして灰島は笑った。

 脂肪の塊の膨れた腹が揺れている。


(愚物が…!)


 紅華は心の中で吐き捨てる。

 さっきのウェイトレスが、ただの一般人に見えたようだ。

 どこの世界に、振り向きざまに首筋に杖を突きつけられて、トレイのグラスも一切揺らすことなく立ち尽くす新人給仕がいるというのだろう。

 素性は分からないが、第一線の訓練を受けた工作員、それも戦闘員に違いないのだ。

 そして、その潜入をホテルが易々と許しているということが、彼らの工作機関とやらがいかに無能かを示していた。

 敵国と通じて、自国の覇権を奪おうと考える小物の器量など、たかがしれているということだ。


『呉大人。少し外してもよろしいでしょうか?』


 かの国の言葉で、紅華は小声で呉に確認を取る。

 しかし呉は首を横に振った。


『この国のことは、この国に任せよう。紅華。お前は自分の身と任務の事だけを考えていればいいんだよ』

『しかし……』

『この豚共の陣営がこの程度で崩れるのであれば、それはそれで都合がいい。紅華がそれで自由に動けるようになるのであればね』


 呉の言葉に、紅華は納得する。

 なぜ、CACCがせっかく手に入れた『九色刃』という重要カードを切ってまで交渉する相手が、こんな愚物なのかと紅華は不思議でならなかった。

 しかし呉は、自分たちという魅力的な餌を豚共の中に落とし、互いに争わせる中で自分を自由にしようとしているのだ。

 CACCに取って目障りな鬼島首相。

 その敵対勢力への『九色刃』譲渡という連合上層部からの指示を守りつつ、紅華の『麒麟』としての本来の任務をやりやすくしようとしてくれていたのだ。


 彼の深慮遠謀は、自分等の思考の及ぶところではない。

 私は彼の言うことを忠実に行えば、それでいいのだ。

 それで、私はこの豚共の国を焼き払うことができるようになる。


「どうかいたしましたか?」


 灰島はかの国の言葉で小さく会話する二人を訝しむ。


「失礼。紅華にはどうも灰島先生のお話が難しかったようで。今、敵が襲ってくることはないと説明しておりました」

「はっはっはっ。女はバカなくらいがちょうどいいのですよ。政治のことなど、分からないほうが可愛らしいじゃないですか」


 豚の笑い声など、もう人間の声とも思えない。

 灰島の無礼な言葉に完璧な作り笑顔で応じることに、紅華はなんの痛痒も感じなかった。


「それで、灰島先生。少しお願いがあるのですが」

「なんですかな」


 自分たちを観察していたウェイトレスが会場を出たことを確認すると、呉は話題を変える。

 パーティの喧騒の中で、大人たちの思惑が渦巻いていた。




「ダメだあれ。マジやばい。盗聴器付けるとか、手ぇ出したとたんにへし折られるって」


 ウェイトレスの少女は、パーティ会場を出て給仕室を更に抜け、人気のない廊下で手元の小型マイクに声をかけていた。


『使えねえなあ。潜入工作のプロを自称したのは誰だ? ミドリ虫』

「うっせえ! だったらテメエがやってみろクソボンボン!」


 無線のイヤホンから聞こえる御堂ハジメの声に、ウェイトレスのコスプレ中の翠はブチ切れる。


『俺の顔は灰島に割れてんだから仕方ねーだろ。……で、どうだったんだよ』

「……呉近強と一緒に来日したあの女は、CACCの秘密組織『麒麟』所属の紅華」


 翠はあの燃えるような瞳の女と、突きつけられた赤い龍の意匠が施された杖を思い出す。


「そして手にしていた杖は九色刃のひとつ、『朱焔杖』で間違いないよ」




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