「かりそめの日常へ」
七月の初夏の日差しが、アスファルトを灼いていた。
今年は例年にない猛暑になるだろうということは、日本に住む誰もが実感していた。
「あっぢい!」
一学期の期末試験の最終日を終え、午後の厳しい日差しの中、武士とハジメは駒場にある総合病院に向かって駅からの道を歩いていた。
ハジメの制服は汗に濡れ、びっしょりだった。
「武士〜。命蒼刃の力で俺の体温を正常に戻してくれ〜」
「それが出来るなら、先にハジメの頭の中を正常に戻すよ」
「はあ? 俺の頭はいつでも正常、全開バリバリだっつーの」
「そっか。ハジメの頭はアレで正常なんだ。……物理、白紙で出したんでしょ?」
「るっせ! 物理法則を無視するデタラメ連中に、言われたかねー!」
「デッ…デタラメってなんだよ」
「発汗過剰な状態は正常じゃないって、命蒼刃が微妙に発動すんだろ? 卑怯な奴」
「卑怯じゃないよ! 暑いは暑いんだよ! ただ、極端に汗をかかないだけで…」
「お前、全国の汗っかきで悩む若き男女を敵に回したぞ」
「だーかーらー」
ギャアギャアと喚きながら二人は駐車場を通り過ぎ、正面玄関から病院の中へと入る。
広いロビーは、大勢の患者や職員でざわついていた。
「ひょおう! 涼しい! クーラー最高! 九色刃なんかいらねえぜ。文明の利器万歳だな」
「うるさい。ええっと、まずどっちから行く?」
「あー、ジジイの方は特別な個室だろうから……」
二人が病院内部の案内図前まで移動したところ、
「ハジメさん、武士君」
背後から、長身の顔に傷のあるスーツの男に声を掛けられた。
「いいいっ!!」
武士が素っ頓狂な声を上げる。
「時沢さん。……なんだよ武士、その反応」
「いや、時沢さんの声を聞くといまだに恐怖で体が……こんにちは」
「こんにちは。…武士君、ここは病院です。そんなに露骨に戦闘態勢を取らないで下さい」
「そ、そんなこと言って、気を抜いたとたんに回し蹴りで首の骨折ってきたり……」
「しません、しません」
「……お前すっかりトラウマだな」
武士は周囲に奇異の目で見られた事もあり、身を守るように構えた両手を恐る恐る降ろした。
「組長のお見舞いですか」
「ああ。まあ、ついでだけどな」
時沢の問いに、ハジメはぶっきらぼうに応える。
「組長なら、この病院にはいませんよ」
「はあ?」
あっさりと言う時沢に、ハジメはあんぐりと口を開ける。
「ここの特別治療室にも、政府の手が回ってきましてね。ウチ側についてる公安が教えてくれました。つい昨日、転院しましたよ。私は、事後処理に来たんです」
そう言って、時沢は手に持っていた封筒をパタパタさせた。
「んだよ……教えてくれよ」
「ハジメさんにはしばらく御堂組のことを知らせるな、との組長のお達しでしたので」
「なんでだよ」
「怒ってるんですよ、組長は」
「だから、なんでだよ」
「先日の一件、どうして御堂組に指示を出して協力させなかったんだ、とね」
「そんなの、ジジイが危篤になって、それどころじゃなかっただろうが」
「組長は、自分のことよりも九色刃が敵に奪われそうになったことの方が重要だと仰るんです。そして、何が重要かの判断をハジメさんができなかったと」
「なんだよ、それ……」
「今は、鬼島総理の不信任案が提出されて……おそらく否決されるでしょうが、連中は大きな動きはしないでしょう。けれど、今後はわかりません。しばらくの間は、九色刃のガードに専念していろとのことです。政治的な事はすべてこっちでやると」
「ジジイ……大人しく寝てろっつーの」
「では、私はこれで。……武士君」
「ははははいっ!」
名前を呼ばれ、大きく飛び下がって再び構える武士に、時沢は失笑する。
「試験も今日で終わりですね。明日からまた……訓練場で待っていますよ」
恐怖に凝り固まる武士を置いて、時沢は笑って病院を出て行った。
「……はああ〜」
床にしゃがみ込み、心の底からため息をつく武士に、
「まあ、分かるよ。俺もガキの頃は武士と同じ気持ちだった」
心から同情する。
そこに、
「武士くーん!ハジメくーん!」
エレベーターホールから、制服姿の日独ハーフ美少女が駆け寄ってきた。
「武士君、なんでへたり込んでるの?」
「あ、いや……」
「芹香お前、病院の中ででかい声上げて走るんじゃねーよ」
「ごめんね」
芹香はニッコリと笑って小首をかしげる。
武士は立ち上がった。
「芹香ちゃん、早かったね」
「うん。精密検査の結果、わかりやすかったからね。説明、すぐに終わった」
「……」
「で? どうだったんだよ」
緊張した面持ちで、武士とハジメは芹香の顔を覗き込む。
「うん…」
芹香は一度俯いてから、パッと満面の笑顔を二人に向けた。
「最初の検査と同じ結果! 先生、信じられないって! 完・全・健・康・体!!」
「マジかよ!」
「やったあ!」
病院のロビーで、三人は快哉を上げる。
通りがかった看護士に咳払いをしながら睨まれ、慌てて三人は首を竦ませた。
「よかった……! 本当に良かった……!」
「ありがとう……ありがとう……! 武士君」
涙ぐむ武士に、芹香も瞳に涙を浮かべて、武士の手を握り締めて何度も礼を言う。
「そんな、僕は何も……あれは命蒼刃の力で」
「ううん。武士君のお陰だよ。ありがとう……ハジメ君も」
「おう。苦しゅうない」
「偉そーに!」
三人はひとしきり笑い合った。
「じゃあ、お母さんがあっちで待ってるから、行くね」
「おう」
「芹香ちゃん、あの……」
武士は、言い難そうに口ごもる。
「……うん。大丈夫」
彼が言いたかった事を察して、芹香は笑った。
「実は、お兄ちゃんには直ぐに、メールしたんだ」
「そっか。返事は?」
「わかった、だって」
「……そう」
「じゃあ、もう行くね。明日、終業式だよね。私、検査で試験受けられなかったから追試だよー! じゃあね!」
そう言うと、芹香はダークブロンドの髪を揺らして、病院の奥の待合室へとパタパタと小走りに走って行った。
「よかったな、武士」
「うん」
二人は軽く拳をぶつけ合うと、病院の出口へと歩き出した。
武士とハジメがこちらに向かって歩き出したので、病院の玄関脇にひっそりと立っていた葵は、静かにその場を離れる。
タクシーなどが停まる為のロータリーから少し離れた木立へと移動した葵は、そこで振動した携帯電話を操作した。
届いたのは武士からのメールで、そこには遠目から見ていても確信できた、芹香の病気が消えていたことが記されていた。
「葵ちゃん」
「うわあ!」
木立の上から突然、翠が葵の眼前に降ってきた。
虚を突かれた葵は思わず声を上げて驚く。
「……翠姉、ビックリさせないでよ」
「にゃはは。全然周囲を警戒できてない、葵ちゃんが悪いよーっと」
大きめの黒いハードケースを片手に、ゴスロリ衣装の美少女は、暁学園の制服を着た葵のそばに寄り添うように立ち、彼女が手にしていた携帯電話を覗き込む。
「よかったね、武ちんもこれで安心できたでしょう」
「うん……」
明るい声の翠に、葵は頷いた。
「……葵ちゃん」
「何?」
「なんで一緒に行かなかったの?」
「なんでって……」
「見張りなんて、あたし一人でも大丈夫だったのに。芹香っちに、遠慮した?」
「え、遠慮? 私が? どうして?」
「……ま、べつにいいけど」
翠は深く突っ込まずに、空を見上げる。
「それにしても、暑いねー。武ちんたちと合流して、さっさと行こう?」
「翠姉は行ってて。私は離れたところで、警戒を続けるよ」
「どーしてー?」
「どーしてって……そんな、気を抜くわけにいかないでしょう。『北狼』は動けなくなってるっていっても、私を狙撃した敵の正体だってわかってないのに」
「……葵ちゃん!」
翠はその小さな体で、葵の頭を抱きかかえる。
「ちょ、なに……?」
「葵ちゃん! 健気! 可愛い! あたしはずっと葵ちゃんの味方だからね!」
「何の話!?」
「ねえねえ、武ちん達、芹香っちとは別れたんだったら、この後、みんなでご飯食べに行こうよ」
「だ…だから、そんなにのんびりしてられないよ? 学校の試験も終わったし、鬼島が動けない今のうちに、命蒼刃の性能確認、進めておかないと……」
「分かってる。葵ちゃんも無事で芹香っちの病気も治ってみんなハッピーエンド。そんな風には誰も思ってない。あの青い光の正体を早く突き止めないといけない」
「でしょう? だから……」
「でも少しくらい大丈夫だって! 真面目ちゃんだなあ、葵ちゃんは。そこが可愛い! 憧れるぅ!」
「痛い痛い! 翠姉! 服のアクセサリが擦れて、痛い!」
初夏の日差しの中、刃朗衆の少女二人は、束の間の休息の中にいた。
霞ヶ関のビルの一室。
窓の無い広い会議室の中で、その男は椅子に座り、ノートパソコンのモニターを見つめていた。
一通りの報告書を確認すると、男は片手でタッチマウスを操作し、データを破棄した。
「どうされます?」
男の背後に、ビジネススーツをかっちりと着た女性が立っていた。
二十代半ばのショートカットの女性は、口元にやや冷たい印象を与える微笑みを浮かべている。
「急ぐ必要が、無くなったな」
「そうですね。カレイド型慢性骨髄白血病の特効薬の原料は、今もCACCが独占しています。二年以内に臨床を経て製薬まで持っていく為には、直ぐにでも大量確保する必要がありましたが……時間をかけていいのであれば、慌てて軍事行動を起こす必要はありません」
「面白くなさそうだな、新崎」
男は女性の方を振り向かないまま、問いかける。
「何のことですか?」
結女はまったく変わらないトーンで反問するが、男はフッと鼻で笑った。
「まあいい。それよりも、予言のことだが」
「はい」
「少し考え直してみよう。直也が英雄でなかったのなら、予言の解釈が間違っていたのかもしれん」
「そうですね」
「いずれにせよ、CACCの軍事台頭は放置できん。最終目的に変わりはないのだ。九色刃の力は必要になる」
「はい」
「命蒼刃……仕様書にない能力が多すぎる。そのあたりも再調査の必要がある。差し当って、直接手を出す必要はない。柏原が調べていたデータの洗い直しと、出雲の連中を動かして、調べさせろ」
「分かりました」
「では、戻るぞ。馬鹿どもの相手をせねばならん」
男はノートパソコンを閉じると、立ち上がった。
「不信任案、大丈夫でしょうか」
「魔女が心配する事ではない」
男は年齢を感じさせない足取りで、さっさと歩き会議室を出ていった。
「……チッ」
残された結女は舌打ちする。
「まあ、いいわ。楽しいことはこの先いくらでもある。
これからいくらでも……踊らせてあげるわ」
悪魔の微笑みは、誰に向けられたものか。
この国はまだ、辛うじて日常と呼べる時間の中にいた。




