「偽物の英雄」
「ケホッ、ケホッ…この、クソ女ぁ…」
床に転がった神道使いは、喉を押さえながら立ち上がる。
「はいはい。遊んでるんじゃないの」
唐突に現れた直也の影から、氷のような微笑を浮かべた結女が姿を現した。
少年は結女と直也の姿を認めると、拗ねるように視線を逸らす。
「遊んでいたわけじゃない。こいつらが…」
「確かめたの? 英雄の正体」
少年の言葉を遮って、結女が問いかける。
少年はチッと舌打ちすると、
「ああ、間違いない。命蒼刃が取り込んだ魂は、そこの一般人、田中武士のものだよ」
武士を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「九龍先輩、なんで……」
当の武士は呆然としたまま、葵の反撃を止めた直也を見ている。
直也は、葵の腕を掴んだまま動かずにいた。
「くっ……!」
葵が動いた。
全力で直也に掴まれた右腕を引く。
しかし強靭な力で掴まれた腕はビクともしない。
それでも葵は右腕を引いた反動を生かし、そのまま左の掌底を直也の顔面に繰り出した。
ガスッと鈍い音とともに、葵の鋭い掌底打は直也にヒットする。
しかし、直也は微動だにしなかった。
こめかみの急所を狙って放たれた葵の掌底は、直也が絶妙なタイミングで頭をずらした為、頭部でもっとも硬い額の部分で受け止められたのだ。
逆に、掌底の衝撃はまるで壁を殴ったときのように葵の腕に跳ね返る。
肘まで突き抜けるような痺れに、ほんの一瞬葵は顔をしかめた。
その隙に直也は掴んでいた葵の右腕を捻り上げ、背中に回す。
そのまま腕の関節を極めて、床に伏せさせるように葵を押し倒した。
直也は刃朗衆の精鋭戦闘員である葵を、いとも簡単に制圧する。
「くっ…!」
「葵ちゃん!……九龍先輩!なんで!」
「お兄ちゃん…?…」
直也の突然の行動を、武士は理解できない。
芹香もまた、自分を助けに来たクラスメイトを直也が倒しているという状況を、まるで理解することができなかった。
「九龍直也! 真の英雄のお前が、裏切るのか!」
右腕を極められ床に抑えつけられたまま、葵は叫ぶ。
しかし、直也は抑えつける腕の力を緩めないまま、何も答えない。
「九龍クンは、あなたたちの為に行動しているのよ。そんな言い方、酷よ」
結女が口元の笑みを絶やさないまま、静かに告げる。
(…誰?さっきからこの声…どこかで聞き覚えが…)
床に抑えつけられた葵は振り返ることができずに、声の主である新崎結女を見ることができない。
彼女が部屋に入ってきたときも、葵は自分を止めた直也と相対していた為、結女に注意を払うことができなかった。
だから、葵は気が付かなかった。
新崎結女が、氷の微笑を浮かべるこの女が、自分に英雄の情報をもたらした刃朗衆の諜報部員を名乗った人物であることを。
「僕たちの、為?」
武士は沈痛な表情を浮かべている直也を見て、反問する。
しかし直也はその問いに答えず、無言で葵を押さえつけ続けている。
「お兄ちゃん! 何をしているの!? 何を考えているの!」
完全には事情は呑み込めないまま、それでも自分のクラスメイトを傷つけた相手に味方する直也に、芹香も叫ぶように問いかけをぶつけた。
数分前。
手錠を掛けられ、北狼の兵士たちに囲まれてビルの内部へと入った直也は、横を歩いていた結女に肩を掴まれ歩みを止める。
「ん、どうした? 新崎」
立ち止った二人のすぐ後ろを歩いていた神道使いの少年が、怪訝な顔をした。
「先に行ってて。私は司令の息子さんに、いろいろと説明をしておくわ。
状況を無駄に混乱させられてはたまらないからね」
結女の言葉に、少年は不服そうな表情を浮かべる。
「ボクの部隊が拘束している。この男になにが出来るっていうんだ」
「そうね。いくら九龍直也が北狼出身の最強の兵士だとしても、君の秘術によって意思統一されているこの十二人に、勝てるはずはない」
「その通りだ」
少年は誇らしげに胸を張る。
「だからこそ、司令は君にこの作戦を託したのだわ。私も安心してる」
結女は未熟な少年の自尊心を存分にくすぐりながら、言葉を続ける。
「でも、今回の作戦はあまりに急だわ。芹香・シュバルツェンベックを囮とした反主流派の一掃作戦に、急に飛び込んできた大本命よ。準備は整っていたとはいえ、万にひとつも失敗は許されない」
「だから?」
「だから、この最強の男に抵抗は無駄だと教えておきたいの。万にひとつの可能性もないようにね」
「……好きにしなよ。兵士は半分置いて行ってやる」
少年は吐き捨てるように言うと、直也と結女を追い越して廊下を進む。
「いいのか?」
その背中に、直也は声をかけた。少年は足を止め振り返る。
「なにがだ」
「相手は刃朗衆と御堂組の戦闘員だぞ。兵力の分散なんて、愚かな戦術だと思わないか?」
直也は挑発するように問いかける。
これまでの会話で、この神道使いの少年は相当にプライドの高い性格だということが分かった。
ビルに入る前の少年の言葉を信じるなら、ハジメや葵たちは、既に芹香と合流している。
脱出までの時間を稼ぐか、少なくとも自分もその場に行き、芹香だけでも逃がすチャンスを作りたかった。
しかし。
「挑発には乗らないよ。九龍直也」
少年はそこまで甘くなかった。
「まあ、安心してよ。悪いようにはしないからさ。目的は司令の邪魔をする人間の掃除と、九色刃……命蒼刃だけさ。無駄な人死には出すなとも言われてるしね。君が余計な動きをしなければいいだけの話さ」
そう言うと、神道使いの少年は、兵士たちの半分を残しエレベーターに乗り込んでいった。
思わず追いかけようと一歩踏み出す直也だったが、残った兵士たちが取り囲んで、銃口を向ける。
直也は後ろ手に手錠で拘束されたままであり、どうすることもできなかった。
「直也クン」
結女が、それまでとはやや異なる柔らかいトーンで声をかける。
「……」
直也は結女の方を向いて何かを言いかけるが、周囲の兵士たちを眺め、口を閉じた。
結女は直也の視線の意味に気づくと、囁くように言葉を続ける。
「彼らのことなら、気にしなくていいわ。さっきの坊やの術式で、個々人の思考力は奪われてる。ロボトミー化された兵士みたいなものよ」
「……だからか」
直也は大きく息を吐き出す。
「ん?」
「だから、この兵士たちから、生きた気配をまるで感じないのか」
「そうね。実戦投入は実はこれが初めて。まあ、テストみたいなものね」
直也は背筋に冷たいものが走る。
兵士たちの表情を見ると、視線はこちらを捕らえていても、意思の光がまるで感じられない。
彼らはきっと、引き金を引くときもなんの躊躇いも気負いもないだろう。
となれば、翠や葵、ハジメ達に、彼らの攻撃の気配を察知することができるだろうか。
「正直、勝ち目はないわよ」
結女はまるで直也の心を読んだかのように言った。
「結女さん」
直也は、「わからない」とでもいうような表情で、結女の名を呼ぶ。
その呼び方は、今日初めて会う人間に対してのトーンではない。
「この作戦、なんで、教えてくれなかったんだ」
「急に決まった作戦なの。直也クンに芹香ちゃんが攫われた情報を送った後、司令にも伝えたら、すぐに連絡があって。既に北狼部隊を派遣しているから、合流しろって。あらかじめ想定していたみたいね」
「灰島議員の企みをか」
「芹香ちゃんは、いわば釣り餌だったのね。自分の弱みをあえて晒しておく。そして、餌に食いついてきた政敵を一網打尽にする。今回の誘拐劇の根っこを押さえれば、灰島個人だけでなく、彼の属する政治グループに対して強力なカードを手に入れることになる。政治的な目的のため、一般市民を巻き込んだ非道な連中というレッテルを張ることができる。彼らの発言力はなくなるわ」
「餌、だと」
「鬼島はそういう人よ」
冷たい微笑みを浮かべたまま、結女はさらりと言う。
——嘘が混じっていた。確かに芹香は釣り餌だった。
しかし、その餌をわざわざ灰島議員の目の前にちらつかせに行ったのは、他でもない結女だ。
当然今回の誘拐事件は起こるべくして起こり、それを結女が直也にもっと早く伝えることは、充分に可能だった。
そうしていれば、直也は事前に動き誘拐自体を阻止しただろう。
彼が、むざむざと自分の妹が裏の世界に巻き込まれるのを指を加えて見ているはずがない。
結女が直前まで連絡をしなかったのは、直也側のスパイとしては失格だ。
しかし、結女は満足げに微笑みを浮かべる。
氷点下の笑みを。
彼女の目的は順調に達成されている。
直也はそれに気づけずにいた。
「しかし何故、派遣されたのがあの子どもなんだ。対刃狼衆のオカルト部隊って言っていたな。灰島一派が目的なら、どうして」
「さっきも言ったけど、これのテストよ」
結女は首を振って、兵士たちを指す。
「神道の秘術を使って、兵士たちの魂を鎮める。術者の支配下において、殺気を一切発することない、完全にコントロールされた部隊を作る。鬼島司令の計画のひとつよ」
「あの子どもは、何者なんだ」
「あなたが北狼の少年部隊を抜けた後、司令が連れてきたのよ。後天的な要因もあって性格はあの通りだけど……彼は出雲の正統な巫薙の末裔よ。かつての戦時中に、九色刃の開発部隊にも研究員を出していたオカルト集団の生き残り。その力は、確かだわ」
「……九色刃相手の戦い方も知っているということか」
「そうね。今回、テストを兼ねた灰島一派の物理的制圧の作戦だったけど、現場に彼女たち刃狼衆がいることをあの子が察知して、司令に報告したら……作戦目的の第一位が変更されたわ。それは、命蒼刃を手に入れること」
「くっ…」
直也は思わず、その場を離れ上の階へと駆け出そうとする。
しかしその目前に、すばやく完全武装の兵士たちが立ちふさがって、複数の銃口を向けた。
「無駄よ。彼らは〈直也クンを自由にするな〉という命令を受けている。あの子か、私の指示がない限り、この拘束は逃れられない」
「結女さんの指示でも動くのか、だったら!」
直也は結女の目の前に詰め寄る。
しかし結女は薄く笑う。
その笑みは、どこか楽しんでいるようにすら見える笑みだ。
「直也クン。聞いて? ここは一度、司令の思惑通りに動きましょう」
「どうしてだ! あいつの目的は命蒼刃なんだろう? あれがヤツに奪われたら」
「既に契約はされているのでしょう?」
「管理者が殺されれば無効だ! もし葵が殺されたら……」
「そんなことをしたら、5年…いえ、2年は次の管理者を作れない。鬼島司令は今後、かなり大胆な軍事改革を目論んでいるわ。自身が暗殺される脅威を排除する為のこの作戦に、そんなタイムロスを冒すとは思えないわ」
「……2年?どういうことだ」
直也は怪訝な顔をする。
結女はしまった、とでもいうように舌を出した。
「後で説明するわ」
「待て! 結女さん、大事なことだ。2年で命蒼刃の管理者になる方法があるのか?」
真剣な顔で自分に詰め寄ってくる直也を、結女は正面から見つめた。
腕組みをしていた両手で自分の二の腕を抱くように掴み、ブルッと身を震わせる。
結女は堪えきれないほどの快感の中にいた。
「直也クン」
腕組みを解くと、両手で直也の肩を掴んで諭すように結女は語り掛ける。
「落ち着いて、直也クン。私はあなたの味方よ。今回の件、命蒼刃の力があなたの手に渡らなかったのは、私のミスでもある。あの管理者のお嬢さんが、あそこまで冷静な判断ができない子だと思わなかったからね。だから必ず、君の真の目的が成就されるように、力を貸すわ」
「だったら……」
「今は、あの神道使いの邪魔をしないで。あの子と、あの子に支配された北狼は強い。いくら直也クンでも、少しの被害もなく勝てる相手じゃないわ。ましてあの坊やは、まだまだ精神的に未完成なの。司令への忠誠心が過剰になっていて、独占欲が生まれている。わかる? あの子は、あなたや芹香ちゃんに嫉妬してるのよ」
「嫉妬……?」
「今回の作戦に失敗しそうになったら、暴発しかねない。最悪、芹香ちゃんを殺しかねないわ」
「そんなことは、させない」
直也は、後ろ手に拘束された手錠をガチャンと鳴らす。
人間の力で破壊できるものではないが、芹香が絡めば、直也なら引きちぎりかねないと結女には思えた。
「とにかく」
結女は、言いながらポケットから手錠の鍵を出した。
「今は、私たちに協力して。本当にあの坊やがヒステリーを起こしたら、こちらに何人の死者が出ようと皆殺しを命令しかねないわ。だからこそ、鬼島は私に合流するように命じたのだけれど……。芹香ちゃんはもちろんだけど、御堂ハジメも死なれたらまずいでしょう? 御堂組の力を利用できなくなれば、鬼島に対抗する力を大きく削がれる。直也クン。わかるでしょう?」
「……」
少しの沈黙の後、直也は頷いた。
確かに、万が一にも芹香の身に危険が及ぶことだけは避けなければならない。
結女は直也の背後に回って、手錠の鍵を開けた。
結女が驚いたのは、本当に手錠の結合部分が緩くなっていたことだ。
時間をかければ直也は一人でもこの拘束を解いていたのではと思うと、結女は直也の芹香への思いの強さに、またも身震いする。
それはとても楽しそうに。
「どうすればいい?」
直也は手錠をかけられていた手首をさすりながら聞く。
結女は笑った。
「刃朗衆の二人や御堂ハジメの抵抗を排除して、素直にこちらに従うように説得して。それが、あの子達の命を守ることにもなるわ」
現在。
「お兄ちゃん! 何をしているの! 何を考えているの!」
芹香の叫ぶような問いかけに、直也は苦悶の表情を浮かべる。
「お前のためだ」と言いたかった。
しかし、言うわけにはいかなかった。その代わりに直也は口から出た言葉は。
「俺たちの負けだ。この部隊には勝てない。この部屋にいる以外にも、大勢の兵士がここを取り囲んでいる。これ以上は、無駄な犠牲を出すだけだ」
それは問いかけてきた芹香への答えではなく、組み伏せている葵や武士への言葉だった。
事実、直也をここまで連行してきた部隊の半分は、廊下と窓の外に再展開している。
「何……?どういうこと?」
当然、状況がつかめていない芹香には、直也が何を言っているかわからない。
しかし横にいる武士には、直也が鬼島との戦いを諦めるかのような発言をしたことが信じられなかった。
「九龍先輩! この人たちは、北狼部隊だって……翠さんやハジメが撃たれたんですよ!」
直也は横目で、倒れている翠とハジメを見る。
出血はなく、兵士たちのうち三人が持っているショットガンを見て、それが非殺傷弾の射撃が可能であることを把握する。
「……だから、なんだ!」
直也は吼えるように言い放った。
「だったら田中、お前になんとかできるのか。芹香を守りながら、仲間を守りながら、この敵を一瞬で倒すことができるのか! やってみろ! 不死身の英雄!」
武士のせいではないと分かっていながら、それでも直也は思ってしまう。
俺がその力を手に入れていたら。
俺が芹香の隣にいたのなら。
俺だったら、こんな事態にさせていなかったものを!
「九龍先輩……」
武士は、言葉を返すこともできない。
その思いは、武士自身も同じだったからだ。
「あっはっはっはは……」
緊迫した場の空気に、場違いなほどの笑い声が響く。子どもの声。
「いいよ、いいよ。司令の理想を理解できない馬鹿どもが、互いに争って……。いいねえ! すっごい楽しい!」
神道使いの少年はパチパチと手を叩く。
「しょせん、君たちは烏合の衆。素人に、予言に踊らされるだけの馬鹿に、既存権益を守るしかない老人に使われるただのパシリさ。黙ってボクたちの言うことを聞いていれば、それでいいんだよ」
少年は楽しそうに笑いながら嘲りの言葉を放つ。
「予言に踊らされているというのは、私たちのことか」
葵は床に組み伏せられたまま、少年の侮蔑に対し憎しみの声を上げる。
「ふん。自分で考えることを放棄して、ただ白霊刃の力に従っているだけの集団が他にいるのか?」
少年は鼻で笑う。
「……なら、君は違うっていうの?」
反論は、少年にとって予想しない方向から来た。
ただの素人と、この場にいる人間の中で、少年がもっとも軽く見ている人間だ。
「なんだと?」
「僕は詳しいことは何もわからないけど……鬼島総理は、この国を戦争ができる国にしようとしているんでしょう? 北狼の人たちはそれを手伝っている。君はまだ子どもなのに、その中にいる。君だって、自分で考えることができないまま、鬼島総理に従わされているだけなんじゃないの?」
武士はまっすぐに少年の目を見据える。
武士は少年に対して、憎しみを持っていない。
ただ、こんな小さな、小学生くらいの子どもにこんなことをさせている鬼島という男に、強い疑問を抱いたのだ。
だが武士の言葉は、幼い少年の逆鱗に触れた。
「何も知らない、一般人がっ!」
「! 武士、逃げてっ!」
葵が叫ぶ。しかし間に合わない。
少年の横に立っていた兵士の銃が火を噴いた。
ゴム弾を射出するショットガンではない。
実弾を放つ89式5.56mm自動小銃だ。
タタタンッ!
響く銃声に、武士の体が弾け飛ぶ。
今度は足を狙った射撃ではない。
複数の銃弾は武士の心臓を中心に命中し、武士は悲鳴を上げる間もなく、血の海に沈む。
パシャッ…と、すぐ横に座り込んでいた芹香の顔に、返り血が掛かった。
「…ひっ…」
芹香はあまりの衝撃に、声を上げることも適わない。
「武士っ…キサマッ…!!」
葵は叫び、直也に抑えつけられた体を無理に起こそうとする。
「葵さんっ……! 落ち着くんだ! 命蒼刃があるだろう!」
「黙れ裏切り者! はなせ!」
「逆らうなと言っている! 関節が外れるぞ!」
葵は腕の関節を極められているにも関わらず、力任せに上体を起こそうとする。
直也はやむを得ず、葵を押さえつける力を強くする。
ゴキンッと鈍い音が響く。
「…っ!!」
肩の関節が外された苦痛に顔を歪め、葵は再び冷たいコンクリートの床に押さえつけられる。
その葵の脚から、ホルターに収まった命蒼刃が放つ青い光が輝き始めた。
「……た、武士……くん……?」
混乱する芹香の目の前で、武士の引き裂かれた肉体は再び回復を始める。
その様子を見て神道使いの少年は、口の端を引きつらせるように持ち上げ、陰湿な笑みを浮かべた。
「じゃあ、実験を始めようかな」
神道使いは、大きく開いた袖の中から数枚の呪符を取り出す。
それは神社などで売られている護符のようなものだ。
しかし、そこの描かれている文字は、けっして商業用に売られている護符には描かれていないものだった。
「僕の魂鎮の式は、九色刃の力をも封じ込める。九龍直也、その女から離れろ」
少年はバラリと、複数枚の呪符を両手でトランプのカードのように構えた。
直也は一瞬結女の顔を見るが、その目が頷くのを確認すると、押さえつけていた葵の腕を放して、数歩後ろに下がる。
肩の骨を外された苦痛に耐えながら、葵は自由になった体を起して武士に駆け出した。
しかしそれよりも速く、神道使いの腕が閃く。
「天つ地の、風の中を行き交う荒御魂、速地の神、野辺に棲む獣までも、暗き闇路も迷わざらまじ、鎮め給え!」
詔と呼ばれる神道における呪文を早口で述べる。
呪符はまるで生き物のように宙を舞い、葵の体と、その四方を囲むように床に貼りついた。
「っっ!!」
葵の体がビクンッと跳ね上がる。駆け出していた足はもつれ、膝をつく。
「かっ…はっ…」
呼吸に苦しむかのような苦悶の表情を浮かべて、葵は身動きが取れなくなった。
「あ、葵ちゃん……?」
血まみれの武士が体を起こす。
銃弾によってズタズタにされた体組織はまだ回復の途中だ。
「ふん。まだ、命蒼刃の力は止まらないか。……なら」
神道使いは、袖から今度は翡翠の勾玉がチェーンのように連なった道具を取り出す。
ジャララッと勢いよく取り出したそれは、円周5メートルはあろうかという、長大なリング状の神具だ。
「大人しく……封じられろよっっ!」
叫ぶと、勾玉の鎖を握った小さな腕をひと振りする。
勾玉の鎖は獲物に襲い掛かる大蛇のように宙を駆け、膝をつき動けなくなっている葵の体に巻き付いた。
「っっっ…!」
声にならない叫びを上げ、完全に自由を奪われた葵は床に芋虫のように倒れこんだ。
「葵ちゃんっ……!……がはっ!」
「武士君!」
倒れこんだ葵に駆け寄ろうとした武士は、ビシャッと床に血を吐いて、手をつく。
命蒼刃の力で回復を続けていた体に、葵が倒れこんだと同時に再び灼熱の痛みが襲ってきたのだ。
「武士君! 大丈夫!?」
芹香が武士の体を支える。
出血はほとんど止まっていたが、内臓の損傷がまだ完全に回復していないのか、武士は続けざまに血を吐く。
「いやあ…なに…なんなの、これ…」
芹香は顔面蒼白になりながら、苦しんでいる武士の体を支える、そうすることしかできない。
「だい…じょうぶ、芹香ちゃん…多分、大体のところは回復してると…思う…」
「回復って…」
武士は残る苦痛に耐えながら、倒れこんでいる葵を見る。
「……武…士…」
葵の方も、首だけを曲げて武士の方を見ている。
意識はあるようだった。
だが、瞳孔が開いていて顔色は真っ青だ。
明らかに普通の状態ではない。
そして、武士たちは気が付く。
葵の太腿のホルターにつけられていた命蒼刃の蒼い光が、まるで切れる寸前の蛍光灯のように明滅していた。
ほどなくして、その発光は武士たちの目には分からない程、淡く頼りないほどに小さくなる。
「命蒼刃の力を、封じたのか……」
目の前で起こったことに、直也は絶句する。
少年は安堵するように息を吐いた。
「ほら、みろ。僕の力は完璧なんだ」
「実験は、成功ね」
パンパンパンと、乾いた拍手の音を立てる結女は、二コリと笑う。
「では、命蒼刃とその使い手を連れて、撤収しましょうか」
「待て。芹香はどうなる」
慌てたように直也は口を挟むが、結女の方は表情を変えない。
「彼女はもう、放っておいても大丈夫よ。裏の世界に、灰島一派が芹香ちゃん誘拐を企て失敗したという情報はすぐ流れる。これ以上、彼女に手を出そうとする馬鹿はいないわ」
「しかし……」
「無理に司令のところに収容しても、彼女にとってストレスにしかならない。そうでしょ?」
小首を傾げて結女は直也に問いかける。
確かに、芹香の身に危険が及ばないのであれば、芹香をこれ以上こちらの世界に巻き込む必要はなかった。
「連れ帰っても邪魔なだけだ。悲鳴をあげるだけの、使えないこんな女」
神道使いは狼狽えている芹香を見て悪態をつくと、勾玉の鎖をジャラリと鳴らし、今度は窓際に倒れ伏している翠を見る。
「使えない女はどうでもいいけど・・・碧双刃の方はいいの? 今なら、ついでに引っ張っていくのは楽勝だけど」
「植物使いの方は必要ないわ。今はね」
少年の問いかけに、結女は首を振る。
「でも、いずれは司令に必要な力なんだろ。だったら」
「欲張りすぎは思わぬトラブルの元よ。それに、あなたの力ならあの程度の使い手、いつでも回収可能でしょ?」
「……ふん。それもそうだね」
心地よくプライドを刺激された神道使いは、満足そうな顔を浮かべると傍に控える兵士に視線を向けた。
なんの言葉も交わさないまま命令を受け取った兵士は、勾玉の鎖に拘束された葵に駆け寄り、砂袋でも持つように、葵を肩に担ぐ。
「…ま…待て…」
担がれた葵は、呻くように声を漏らした。
「武士は、武士の体は……どうなる……命蒼刃の力は……」
葵は、血の気を失ったその顔を、芹香に支えられている武士になんとか向けようとする。
「葵、ちゃん……」
武士の方も、跪き全身に残る痛みに耐えながら、葵を見上げる。
腕の骨を折られ、怪しげな呪符を貼られ、勾玉の鎖に拘束された葵は、生気がまるで失われていた。
「葵ちゃんに、何をした……?……連れて行って、どうする…つもり…」
命蒼刃と葵を封じた少年は、呻くように話す武士をニヤニヤしながら見ている。
「偽物の英雄。そんな心配そうな顔しなくていいよ。殺しはしない。君もすぐ普通の一般人に戻してあげるよ。まあ、回復が途中で止まってる君の命が、その後どうなるかは知ったこっちゃないケド」
少年の嘲りの言葉が響く中、完全武装の北狼部隊が撤退を始めた。
葵を肩に担いだ兵士が、前後を別の兵士に挟まれ、部屋を出て行く。
「…ま…て…」
「待っ…て…」
葵と武士の絞り出すような声を無視して。
「武士君、動かないで! あんな大きな銃で撃たれたのよ!」
芹香は、立ち上がろうとして再び倒れ込みそうになった武士の体を必死で支える。
(僕のことなんかいい、葵ちゃんを…助けなきゃ…約束したんだ…一緒に戦うって…)
武士は歯を食いしばるが、体に力が入らない。
血が足りないのか、極度の貧血を起こした時のように視界が明滅する。
耳から入ってくる芹香の声も、よく聞こえない。
「お兄ちゃ…何して…けてよ、このま…武士…じゃう!」
「芹香……るな。お前は…ず、俺が……けるから」
「私じゃない……うして……」
芹香と直也の会話を聞き取れないまま、武士はズシャ…と床に崩れ落ちた。




