「北狼部隊」
義和と武士を担いだ見張りの男は、エレベーターで六階まで上がる。
芹香が軟禁されているはずの部屋の前で、仲間が一人伸びているのに気がついた。
「おい、どうした?」
見張りの男は、武士を床に下ろしてから仲間の無事を様子を確かめる。
死んではいなかったが、頭を強打して気を失っているようだった。
「おい、起きろ。何があった? 女はどうし……」
男は、突然後ろから突き倒される。
床に転がされた武士が唐突に起き上がり、体当たりをしたのだ。
不意の衝撃に、男は床に倒れるが、すぐに体勢を立て直して警棒を抜く。
「お前、まだ……」
「芹香ちゃんはどこ? この階にいるの?」
武士は警棒を構えた男を睨みつけて、問い質す。
木刀を玄関で手放し、武器も持たない武士は無手のままだ。
対して男の方は警棒を持ち、しかも荒事には慣れている。
一介の高校生相手に、男にはなにも恐れる必要はなかったはずだった。
だが、灰島のSPになる前は荒事専門の警察特殊部隊に所属していた男の直感が、目の前に立つ背の低い高校生に、警鐘を鳴らしていた。
(警棒で殴られ、ボスの息子に何度もコンクリに叩きつけられた奴が、なんで平然と立っていられる……?)
「田中、てめえ!」
武士の後ろに立っていた義和は、叫ぶと武士の肩を掴み、そのまま力任せに武士を壁に叩きつけた。
武士は後頭部を壁に強打し、そのままズルズルと床に崩れ落ちる。
「待て! やりすぎだ!」
「うるせえ! お前らが甘いんじゃねえか、だからこいつは…」
諫める男に義和が反論したが、その言葉は途中で打ち切られた。
武士がふらりと、立ち上がったのだ。
「なっ…」
ようやく、義和も異常に気がつく。
今、武士は受身も取ることができなかったはずだ。
相当の衝撃が、武士を壁に叩きつけた義和の手にも伝わってきた。
ここまでの打たれ強さが、普通であるはずがない。
「なんだ、てめえ……なんなんだ……」
強打したはずの頭を手で押さえる武士は、しかし何事もなかったかのように手を下ろす。
だがその手は、暗い照明のないビルの中でもそれとわかるくらい、血に汚れていた。
「な…なんなんだよ!」
意味のわからない恐怖に襲われた義和は、がむしゃらに武士を押し倒す。
床に倒れこんだ武士の上に馬乗りになり、武士の顔を何度も殴りつけ始めた。
「ま、待て、そいつは……ん?」
義和を制止しようとした男は、その後ろに、階段を駆け上がってきた葵の姿を見つける。
「なんだ? 女?」
唐突に現れた女子校生は、戸惑う男には目もくれず、目を見開いて義和に殴られている武士を見つめている。
「武士……」
葵は、髪の毛が逆立つような怒りに身を震わせると、床を蹴って駆け出した。
見張りの男は反射的に警棒を構えて義和の前に立つが、女子高生へ暴力的に対応していいのかどうか、一瞬判断に迷う。
しかし、葵の方に躊躇いは一切なかった。
葵は男の持つ警棒を蹴り飛ばし、その蹴り足が地面に着く前に反対の足で男の顎を蹴り抜いた。
首を支点に的確に脳を揺らされた見張りの男は、一撃で無力化され床に転がった。
「なっ…?」
突如現れた葵に見張りの男が一瞬で倒され、義和は慌てて立ち上がる。
葵は宙を舞った警棒が落ちてくるのを手に取ると、殺意の篭った目で義和を睨みつけた。
「ひっ……お、お前……?」
義和は、男を蹴り倒した女子高生が、今朝転校してきた御堂葵を名乗る少女だと気づく。
御堂ハジメの従妹だという、オドオドとした様子で自己紹介もままならなかった転校生。
しかし、その気の弱そうだった女子高生が、目の前で警察の特殊部隊あがりのSPを一瞬で蹴り倒し、自分を噛み殺そうとする猟犬のような目で睨みつけてきている。
「お、お前、今朝の転校生……なんで、ここに……」
「灰島義和。貴様……よくも武士を……」
葵の口調は抑えられていたが、燃え上がるような怒りに満ちていた。
それは、どんなに鈍感な人間にも分かる殺意。
「待って、葵ちゃん!」
回復していた武士は慌てて体を起こして、葵を制止しようとする。
だが葵は、その言葉が引き金だったかのように、弾けるように動いた。
立ち竦む義和との距離を一瞬で詰めると、手にしていた警棒を下から上に跳ね上げる。
警棒は正確に義和の顎を捉え、義和はのけぞるように後ろに飛ばされた。
勢いで背後の壁に後頭部をぶつけた義和はそのまま崩れ落ちそうになるが、葵は警棒を横にしてずり落ちる途中の義和の首に押し付ける。
警棒と壁に首を挟まれ、義和は口から血を溢れさせながら、倒れこむことも許されず、呻き声をあげた。
「あっ……がっ……」
ギリギリと警棒を首に押し込みながら、葵は呻く義和を睨みつける。
「殺してやる……。武士の味わった苦痛を、少しでも……」
「葵ちゃん、止めて!」
武士は後ろから葵を羽交い絞めにして、義和から引き剥がそうとする。
「武士、放して。こいつは武士のことを……!」
「殺しちゃうよ! だめだ、葵ちゃん、僕は大丈夫だから!」
力ずくで武士は葵を引き剥がす。
解放された義和はそのまま床に崩れ落ち、口から泡を吹いて昏倒した。
「葵ちゃん!?」
「武士!」
遅れて、階段を上がってきた翠とハジメが駆け寄ってきた。
「こりゃあ……なんつーか……」
怒りのあまり肩で息をしている葵を、心配そうに見つめる武士。
その周りで気を失っている男たちを見て、ハジメは呆れたように声をあげた。
「ごめん、武士。来るのが遅くなった」
葵は、心配そうな目で自分を見つめる武士に謝る。
「遅くなったって……。作戦じゃ、僕のところに来る必要は……」
困惑する武士は、うまく言葉を続けることができなかった。
「それより九龍ちゃんの妹は? 芹香さんはいたの?」
「あ……ええ、そこの部屋に。大丈夫。敵はもう倒したし、眠らされてるだけ」
翠の問いかけに、葵はドアの開いた部屋を指差して答える。
「とにかく妹ちゃんの確保、それから脱出。他のことは後!」
翠は早口でそういうと、葵の指し示した部屋に駆け込んだ。
武士が後を追うように、部屋に駆け込んでいく。
「芹香ちゃん!」と小さく叫ぶ武士の声が、部屋から聞こえてきた。
俯いて佇んでいた葵はその声を聞くと、短く息を吐いてから、武士の後を追った。
残されたハジメは、口から血の泡を吹いて潰れたカエルのように気絶している義和を見下ろす。
(裏の事情を聞き出してーんだけど……喋れんのか、こいつ)
葵が警棒で殴りつけた義和の顎は、完全に砕かれている。
目を覚ましたとしても、まともに話すことなどできそうになかった。
ハジメは振り返って、反対の壁側の床に転がっている、黒服の男を見る。
こちらは脳震盪を起こしているだけのようで、目を覚ませば尋問は可能のようだ。
歩み寄って銃を付きつけ男を起こそうとしたとき、ハジメは微かに背筋に冷たいものが触れたような感覚を覚える。
(…なんだ?)
人間以外の生物が蠢くような、妙な気配だ。
背後を振り返るが、階段に続く廊下には誰もいない。
敵がまだ残っている可能性を考えたが、葵も翠もここにいる以上、灰島一味が制圧されていない場所は、直也が侵入し、捜索を担当したビルの裏口から一階のフロアだけだ。
(九龍の奴がここに着いていない……あいつが、この程度の敵を相手にミスった?)
ハジメは階段の方向に、途中で拾ったサプレッサー付きの銃を向けて気配を探った。
「芹香ちゃん!」
ソファにくたりと寝かされている芹香の姿に小さく叫ぶと、立ち止まっていた翠を追い越して武士は芹香に駆け寄る。
「ちょ、待……!」
慌てて声をかける翠に構わず、武士はソファのすぐそばに立つと、芹香の体を揺さぶった。
「物影に敵が潜んでる場合もあるのに……もう」
翠は呆れたように呟くと、ソファに歩み寄る。
武士に揺さぶられた芹香は、もともと眠りが浅くなってきていたのか、うなり声を上げて、瞼をゆっくりと開く。
「芹香ちゃん、良かった、無事で…」
緊張していた顔を綻ばせ、安堵の声を漏らす武士。
芹香はまだ朦朧としているようで、そんな武士をぼんやり見つめると
「……お…兄、ちゃん……?」
まだ完全には呂律の回らない口調で呟いた。
「え?」
予想していなかった言葉に武士は戸惑うが、芹香は徐々に意識を覚醒させる。
「あ…武士君? あれ、私……あ、そうだ」
状況を思い出し、周囲を見回し慌てて芹香は体をソファから起こす。
だが薬の影響か、こめかみに鈍い痛みを感じて、頭を押さえた。
「痛た…」
「大丈夫!?」
動揺する武士だが、翠が冷静に口を挟んだ。
「睡眠薬とか飲まされたんでしょ。急な覚醒で、一時的に自律神経が混乱しているだけ。大丈夫だよ」
落ち着いた口調で話すゴスロリ少女を見て、芹香は不思議そうな表情を浮かべる。
「あ、そうか」
翠は、芹香にとって自分が初対面であることを思い出す。
武士もそれを察し、慌てたように説明した。
「芹香ちゃん。この人は翠さんといって……ええと、芹香ちゃんを助けるのに協力してくれたんだ」
「翠さん……?」
「ども。私は葵ちゃんの友達だよ。ハジメマシテ」
ペコリと頭を下げる翠。
芹香は怪訝そうな顔で翠を見ると、遅れて部屋に入ってきた葵が、入口付近でずっと立ち止まっていることに気がついた。
「御堂、さん……」
偽りの苗字で呼ばれた葵は、武士に心配され傍に付き添われている芹香を、複雑な表情で見返す。
「お兄…九龍先輩も、いるの?」
「うん。今はここにいないけど、ハジメも来てる」
「みんなで、助けにきてくれたの? 私を」
「そうだよ。もう大丈夫。心配いらないよ。みんなで逃げよう」
武士の言葉に、しかし芹香は顔を曇らせる。
「そんな……。どうして、どうして来たの。こんな危険なところに」
「どうしてって、灰島に連れていかれた芹香ちゃんが心配で」
「ここの人たち、普通じゃない。警察だって手が出せないような連中なのよ」
「大丈夫よん。みんな片づけたにゃん」
青い顔で早口になる芹香を落ち着かせようと、翠はふざけた口調で話す。
「片づけた…?」
「あたしらも、普通じゃないんだよん」
「……九龍先輩の、仲間なの?」
「そんな感じになったのは、つい最近なんだけどねん」
翠の言葉に、芹香は怪訝そうな顔をする。
「翠姉」
後ろで聞いていた葵が、自分たちの正体を話そうとするかのような翠に、諌めるような声を出した。
「いいじゃん、葵ちゃん。普通の一般人ならいざ知らず、あの鬼島総理の娘でしょ。正体明かして仲間に引き入れちゃえば、後々使えるんじゃない?」
「またそんな言い方して……」
歯に衣着せぬ翠の物言いに、鼻白む葵。鬼島総理という言葉を聞いた芹香は動揺する。
「どうしてそのことを知っているの……」
青い顔色を更に青くして、武士の方を見る。
「誰にも言うな」と口止めされていた武士は、咄嗟に何も言うことができなくなって、目を伏せた。
「武士君」
「……ごめん、芹香ちゃん。僕一人の力じゃ、どうすることもできなくて」
「武士が喋ったんじゃないわ」
芹香が、ともすれば武士を責めているように見えたやりとりに、葵が口を挟む。
「私たちが、学校で話してたあなたたちの会話を聞いていたの」
「聞いてた…?」
「盗み聞きしたの。ごめんなさい。だから、武士は悪くない」
葵は頭を下げる。
芹香は驚きに目を見開いて、葵と武士を交互に見つめた。
庇われた形になった武士は、しかし首を横に振る。
「違う。僕一人じゃどうにもできなかった。結局、みんなに相談したと思う」
「……そう、聞いていたの」
芹香は武士たちから目を逸らして呟く。
「ならわかるでしょ。私はあの男の娘なの。私は、私と母はあの男の庇護のもとで生活しているのよ。鬼島に不利になると脅されたら、言うことを聞かざるを得ないのよ」
俯きながらボソボソと話す芹香に、武士は伝えなくてはならないことを思い出した。
「そうだ。芹香ちゃん、大丈夫なんだよ」
「え?」
「灰島の脅しなんかに、怯えることはないんだ。実は……」
武士が暁学園で直也から聞いた話をしようとした、その時だった。
なんの前触れもなく、葵と翠が部屋の入口を振り返り身構える。
直後、開きっぱなしだったドアから、銃を構えたハジメが転がるように飛び込んできた。
「ハジメ君?」
芹香は銃を持つハジメに驚き声を上げる。
しかしハジメは芹香の方を振り向かず、自分が入ってきた入り口に銃を構え睨みつけながら叫んだ。
「逃げるぞ、ミドリ虫! 葵は武士と芹香を守れ!」
ハジメの声に反応し、葵は武士と芹香に駆け寄る。
翠は退路を確保しようと入り口とは反対側の窓へ駆け寄った。
しかし、駆け寄った窓の外に唐突に人影が現れる。
上から降ってくるように現れた人影は、窓の前で急停止する。
ロープを使い屋上から降りてきたのだ。
反射的に横に飛ぼうとした翠は、しかし自分の背後に武士と芹香、葵がいることを思い出す。
「ちっ…!」
窓ガラスが炸裂するように割れ、翠の体を強烈な衝撃が襲った。
咄嗟に頭だけは両腕と碧双刃で庇ったが、体のあちこちをハンマーで殴られたような衝撃が襲って、後方に吹っ飛ばされる。
「がっ…!」
「翠姉!?」
葵が飛ばされてきた翠の体を支える。
「なっ…!」
ハジメが翠の方に気をとられたその瞬間、廊下の方からからバズン! という破裂音が響き、今度はハジメの体が吹き飛ばされる。
衝撃で銃を落とし、部屋の内側へ2~3メートルは吹き飛ばされたハジメは、かろうじて意識は繋ぎとめながらも、全身を襲った衝撃に身悶えていた。
「ハジメっ!」
武士は思わず駆け寄ろうとするが、すぐ横で翠の体を支えていた葵が、手を伸ばして、武士の動きを遮る。
「待って、大丈夫ゴム弾よ! それより動かないで!」
鋭い葵の声に、武士の動きが止まる。
直後。
割れた窓から、入り口から、ボディアーマーで完全武装した兵士たちが次々と侵入してきた。
人数は六人。
倒れた翠に一人。それに一箇所に固まっている葵、武士、芹香を囲むように四人の兵士が展開した。
残りの一人は少し離れたところに倒れているハジメに銃口を向ける。
「貴様ら……北狼の……」
彼らの姿を見て、葵は呟く。
兵士たちの着用しているボディーアーマーは、グレーが中心の都市迷彩色のPASGTタイプ。
迷彩のパターンは違っているが、その武装には見覚えがあった。
兵士たちが手にしている銃は、89式5.56mm自動小銃。
ただし三人のみで、残り三人が持っている銃はレミントンM870。
ポンプアクションタイプのショットガンだ。
ショットガンとしては極めてポピュラーなタイプだが、彼らが使用しているのはその改造型で、ゴム弾を使用できるようにしたものだ。
葵は、至近距離で打たれた翠、それにハジメが銃撃を受けたにも関わらず血を流していないことから、なんとか冷静に判断する。
「な、なに……?」
対して、目の前で起きている出来事に思考がついていかない芹香は、体を震わせながらただ怯えるしかない。
そこに、場違いに幼い少年の声が響いた。
「あははっ…。刃朗衆に御堂の戦闘員って言うから。どれだけのものかと思ったら…もう終わり?」
入り口から、黒袍に白袴という神職服の、年の頃は十歳になるかならないかという少年が現れる。
「…子ども?」
完全武装の兵士たちを割って現れた、服装含めて何もかも場違いな少年の登場に、武士は思わず呟く。
その言葉を聞き、少年はニヤリと笑う。
口の端を歪めるように持ち上げるその表情には、少年らしさはない。
「子どもだよ。もっとも、君たちより遥に強くて、物を知ってる人間を『子ども』と呼んで、君たちのプライドが傷つかないならね」
回りくどく厭味な口調で、少年は言い放つ。
「……その格好、巫薙か?」
「そんな形だけのものじゃない。ボクのことは『神道使い』と呼んでくれ」
奇しくも直也と同じ問いかけをした葵に、少年の答えも同じだった。
「北狼の特殊部隊さ。オカルト専門のね」
問われてもいないことをベラベラと自慢げに喋る少年は、その点だけは確かに子どもだった。
だが、言葉の端々に浮かぶハジメや葵たちに対する優越感は、年相応のものではない。
そして、その優越感は御堂組や刃朗衆に対する自信、余裕の表れでもある。
「それにしても君たちは、期待外れもいいとこだな。灰島なんて小物にむざむざとシュバルツェンベックの娘を攫われて。保護にこんなに時間がかかってさ。さっさと脱出もしないでのんびりとお喋りか。いくら素人連れだからって、プロの仕事じゃないね」
神道使いを名乗る少年はそう言うと、ソファに座ったまま腰砕けになっている芹香を庇うように中腰で立っている、武士を見た。
「君が田中武士か。ド素人の英雄。……フン」
嘲るように少年は鼻で笑うと、すっと横に立つ兵士に視線を流す。
視線を受けた兵士は、そもそも神道使いの方は見ておらず、葵たちを注視していた。
しかしその兵士は、神道使いの少年の合図ともいえない視線を受けると、なんの躊躇いもなく手にした自動小銃の引き金を短く引いた。
タタンッ…
「ああうっっ!!」
無機質な部屋に響く銃声。
武士は右大腿部の動脈を撃ち抜かれ、悲鳴を上げた。
灼熱の激痛が襲う。
「きゃああっっ!」
唐突な惨事に、すぐ後ろに座っていた芹香が悲鳴をあげた。
「武士っっ!」
「武ちん!」
「な……!」
横に立っていた葵に、戦闘能力を奪われ地を這っていた翠とハジメも、驚愕の声を漏らす。
それは、仲間が実弾による銃撃を受けた為だけではなかった。
引き金を引いた兵士の気配を、まるで察知できなかったからだ。
殺すつもりがないとしても、人が人に向けて銃を撃つときには、必ず殺気が生まれる。
気配が生まれる。
刃朗衆である葵に翠、それに幼少の頃から実戦の世界にいたハジメは、その気配を敏感に感じ取ることで生き残ってきたのだ。
事実、刃朗衆の里の襲撃から逃避行を続けてきた葵は、北狼の襲撃からその殺気を感じ取ることで、なんとか逃げ延びてきた。
しかし今。
神道使いの少年の視線を受け発砲した兵士からは、何の気配も感じ取ることができなかったのだ。
(どういうこと? 窓の外からの襲撃も、私は何も感じれなかった……)
ゴム弾とはいえショットガンによる銃撃を至近で受け、今だ全身を痺れるような感覚に襲われ続けている翠は、冷たいコンクリートの床に這いつくばりながら、目の前で起きた出来事に必死に思考を巡らせる。
(こんなの、隠行とかってレベルじゃねえぞ……まるで機械じゃねえか)
それは同じく床に這いつくばり、上から兵士の一人に小銃を突きつけられているハジメも同様だった。
「武士君っ……武士君っ!!」
友人が銃で撃たれたという状況をようやく理解した芹香は、悲鳴に近い声で武士の名を叫び、床に倒れこむ武士に取り縋る。
「くっ…!」
傍に立つ葵も、芹香と同じように武士の心配をしたかった。
だが、続く銃撃を避けるためには、目の前の兵士たちから意識を逸らすことは許されない。
それは彼女の想像以上に忍耐力のいることだったが、命蒼刃の能力によって自分の魂の力が武士に流れ込む感覚に、葵は振り返り武士の安否を確認したい衝動をかろうじて抑えることができた。
「武士君大丈夫!? 武士君っ!……え?……なに?これ……」
葵のスカートの下から、蒼い光が放たれ始める。
呼応するように、武士の脚から噴水のように噴き出していた鮮血が止まり始めた。
自動小銃による複数の銃弾により、武士の右足の筋肉は服ごとズタズタにされ、鮮血が吹き出していた。
一瞬で真っ赤に染まっていた足元が、青い光に照らされると、まるで潮が引くように血の海が引いていく。
引き裂かれた肉がみるみる盛り上がり、傷口を塞いでいく。
芹香は武士のその脚と、葵の短いスカートの下から漏れ出る光を交互に見ながら、呆気に取られて口をパクパクさせた。
「ど、どういう……こと? 武士君……」
「芹香ちゃん、これは、その……」
武士は引いていく痛みに思考力を取り戻したが、目の前で戸惑う芹香にどう説明していいかは分からない。
「ふん。やっぱり命蒼刃の力は九龍直也ではなく、一般人に宿ったんだね。しくじったね、刃朗衆」
神道使いの少年は、嘲るような笑みを浮かべ吐き捨てる。
「余計なお世話よ」
葵は少年を睨みつけながらそっけなく答えたが、頭は猛スピードで回転していた。
武士を撃った兵士をちらりと見る。
武士が回復して良かった。
しかし、何故この兵士の発砲を察知できなかった?
そもそも、敵の襲撃を何故察知できなかった?
部屋の外では、ハジメが警戒していたのに。
北狼の兵士がこれほどまでに気配を消して引き金を引けるなら、そもそも自分がこれまで北狼の襲撃を躱すことなど、できなかった筈だ。
「ふふん。納得がいかないって顔だね。北狼部隊のバージョン・アップにさ」
そう言うと神道使いの少年は、僅かに胸を反らせる。
「ボクの力さ。ここにいる兵士たちには、ボクが特別な術式を施してある。精神活動を抑えて、ありとあらゆる気配を断ち切るんだ。攻撃を仕掛ける直前の肉体的な緊張はもちろん、普通なら漏れ出てしまう霊的な気配までもね。魂鎮めの式さ。」
神道使いの口調は、得意なゲームのクリア方法を、何も知らない大人に教えているかのような軽さだ。
「そして、彼らはボクの意識の支配下にある。ボクの思った通りに動く、完全な兵士さ」
「なるほど……ね……」
「翠姉」
這いつくばっていた翠が、ソファの縁に手を付き、全身の痛みを堪えながら体を起こそうとする。しかし。
「動かないでよ」
少年のわがままな一言。
直後、兵士の一人が、再びゴム弾のショットガンを翠に向け発砲した。
「はぐっっ…!」
「翠姉っ!」
ゴム弾の散弾は、至近だったこともあり、ほとんどが翠の体に命中し、小柄なその体を吹っ飛ばす。
そのまま部屋の壁に激突した翠は側頭部を強打し、意識を失い倒れこんだ。
「翠さんっ!」
壁に体を預けながら崩れ落ちる翠に、武士は叫び声を上げる。
神道使いの少年はケタケタと笑った。
「『はぐっ』か。面白みのない悲鳴だなあ」
「このガキ…」
葵は、今にも飛びかからんとする雰囲気で少年を睨みつける。
しかし少年は、大の大人をも震え上がらせるであろう殺気の込められた葵の視線を受けても、まるで動じず、無邪気な笑顔を向ける。
「何? ボクと戦う? 得意の蹴り技で僕を倒すかい? ボクはべつに受けてたってもいいけど。いいの? その場合、あそこで虫ケラみたいに這いつくばってる御堂組の男が撃たれるけどね。ゴム弾じゃなく、実弾で♪」
少年の嘲笑。
兵士に踏みつけられ小銃を突きつけられているハジメは、顔を歪ませながら叫んだ。
「ふざ…けんな…! 葵、俺のことはいいから、武士を連れて……逃げろ! こいつら、鬼島の子飼いだ……芹香には手を出さ」
「司令を呼び捨てにしてんじゃねえよ」
ヘラヘラと笑っていた少年の口調が変わった。
一気にトーンが低くなった台詞が響いた直後、ハジメを踏みつけていた兵士が、手にした自動小銃の銃底でハジメの後頭部を打ちすえる。
「ぐがあっ!」
「ハジメ!」
「ハジメ君!」
響く武士と芹香の悲鳴も空しく、ハジメは強打した頭部からジワリと血を流し、ぐったりとする。
翠に次いで、ハジメも意識を失った。
「クソ虫が。お前みたいな一兵卒が、軽々しく名前を呼んでいい人じゃないんだよ、あの人は」
少年はハジメへの侮蔑の台詞とともに唾を吐く。
「もうやめて!」
芹香は立ち上がって、叫んだ。
そのまま倒れるハジメに駆け寄ろうとするが、前に立つ葵がそれを抑えた。
芹香は葵の腕に行く手を遮られたまま、叫び続ける。
「どうしてこんなことするの? あなたたち、父の……鬼島大紀の部下なんでしょう? どうして私の友達を、こんな……」
「だから呼び捨てにすんなっつってんだろおっ!」
少年はヒステリックに叫ぶと芹香を睨みつける。呼応するように兵士たちの銃口が芹香の方に向いた。
「ひっ!」
身を固くする芹香に、武士は自分の体を盾に芹香を庇うように飛びつく。
しかしそれよりも速く。
葵が動いた。
殺気は充分に発せられた。
兵士たちを操っている神道使いの少年から。
さすがに六人の兵士全員を一瞬で制圧できないと考えた葵は、迷うことなく神職服の少年に飛びかかった。
3メートル弱の間合いなど、葵の脚力にとって一瞬で詰めることができる距離だ。
少年のすぐ横にいた兵士が自分に銃を向けている状態ではそれもかなわなかったが、兵士の銃口が芹香に移る刹那を、少年の気配から察した葵は見逃さなかった。
「ぐっ…!」
左手で少年の右の袖を掴み引き寄せる。
同時に右手で少年の喉を掴んで、押し込んだ。
打撃のような喉輪を喰らい、少年は呼吸の自由を奪われ態勢を大きく崩す。
そのまま少年を床に叩きつけようとした葵は、しかし唐突に動きを止められた。
強い力が、少年の喉を押さえつけた右手を止めたのだ。
少年は床に転がったが、大きなダメージを与えるまでには至らなかった。
「なっ…!」
葵は自分の突進を軽々と止めた人物を見て、目を見開く。
自分の右手を止めたのは、力強い男の手。
その腕の先には、見知った顔。
「葵さん……無駄だ。もう俺達の負けなんだ」
「…なんで…九龍直也!」
悲壮な顔をした直也が、葵の反撃を止めていた。




