「判断ミス」
葵は西側に立つビルの屋上から、芹香の捕らえられたビルの屋上に侵入する。
建物の中に入る扉は、南京錠と鎖で閉じられていた。
南京錠の開錠自体は訓練を受けた葵にとって難しいものではなかったが、階下に音が響くのを恐れたため、やや時間を食ってしまった。
古びた鉄扉を開けるとギギギと音がして、音を立てずに開けるのにまた時間を食う。
(早く芹香さんを確保して脱出しないと、武士の危険が増える)
葵は必要以上に焦ってしまう気持ちを、必死で抑えていた。
葵は決して武士を信用してないわけではない。
事実、時沢の訓練を経て武士の身体能力が向上したことを知っている。
しかし、それだけだ。
いくら実戦形式の訓練を繰り返したとはいえ、実戦そのものではない。
そして武士には、相手を傷つけることを嫌うという致命的な欠点がある。
いくら死なない体になったとはいえ、それだけで場を乗り切れるものではない。
(今のところ、命蒼刃の力は使われてない……。怪我とかはしてないか)
屋上から下のフロアに降り、階段の角から廊下の気配を探りながら、制服のスカートを少し捲り、太股のホルターに収めた命蒼刃を見つめる。
無反応の命蒼刃にホッとしたのも束の間、スカートを戻そうとしたその瞬間、淡い光りがその短刀から放たれ始めた。
そして、訓練の間にすっかり慣れた、回復の力が発揮される時に生じる魂に触れられるような独特の感覚が、葵を襲う。
「……っ!」
その感覚は不快なものではなくなっていたが、決して無視できるものではない。
葵は訓練を経て、その感覚の強弱で、武士のダメージレベルがわかるようになっていた。
(致命的な傷は受けてない。けど、これは……)
その感覚は、断続的に葵を襲う。
(何度も何度も……なにこれ、一方的に殴られてる!?)
葵は武士が袋叩きにあっている姿を想像し、カッと頭に血が上った。
階段の影から駆け出すと、周囲の人の気配に頓着などせず、片っ端からフロアのドアを開けて、部屋の中を確認し始めた。
大小様々な部屋があったが最初の三部屋は無人で、葵の苛立ちは増していく。
最上階で開けてないドアは残りふたつ。
ひとつめの部屋は無人だったが、蛍光灯の照明が着きっぱなしで、これまでの部屋には無かった豪奢なソファとテーブルが置いてあった。
床には割れたティーカップの破片が散らばっている。
(睡眠薬でも飲まされたか?)
葵は目標が近いことを悟る。
そして最後の一部屋に向かおうと廊下に出ると、物音に気づいたのか、その最後の部屋から出てきたスーツ姿の男と鉢合わせした。
「なっ…!?」
芹香と同じ制服姿の女子高生に、スーツの男はぎょっとする。その隙を葵は見逃さなかった。
「ハアアッ!」
鞭のようにしなるハイキックが、男の側頭部に直撃する。
男は横に吹っ飛ばされ、そのまま壁に反対の側頭部をぶつけ、ズルズルと床に崩れ落ちた。
葵は崩れ落ちた男の横を駆け抜けて、最上階のフロア最後の部屋に飛び込む。
「な、なんだ君は!」
部屋の中の空気は異様だった。
窓は黒いカーテンで仕切られ、照明は暗く人の顔が辛うじて判別できる程度。
やや部屋が煙っているのは、特別な香でも焚いたのだろう。
部屋の隅に置かれたポータブルタイプのオーディオ機器からは、抑えられた音量で得体の知れない不安感が煽られるような、独特のテンポの音楽が流されていた。
部屋の真ん中には、背もたれのある椅子に座らされた芹香が、目を瞑って気を失っている。
その芹香の前に、銀縁めがねを掛けた痩せぎすの白衣の男が立ち、部屋に飛び込んできた葵の姿を困惑の表情で振り返っていた。
「な、なんだね一体?」
白衣の男は、右手に針の先から透明な液体が滴り落ちている注射器を持っていた。
「…何をしている!?」
葵は抑えられてはいるが、怒りに満ちた声で問う。
「な、何だ? 君が被験者の脅迫に使われるクラスメイトか? 見張りはどうした?」
「芹香さんに何をしていると聞いているんだ!」
「何をって……自白剤と催眠法と阿片で、洗脳の下地を作るだけだよ。それより見張りは、先生の息子さんはどこに…」
状況を理解していない弱気そうな白衣の男は、葵の問いかけに馬鹿正直に答えてしまう。
「……この、下種っ!」
葵は床を蹴り、部屋の入り口から白衣の男までの4メートル程度だった距離をたった二歩で詰める。
そのスピードのまま後ろ回し蹴りを放ち、白衣の男の顔面を眼鏡ごと砕いて、横の壁に吹っ飛ばした。
「ぐあばっ!」
壁に鼻血の跡を残しながら、白衣の男は床に沈む。
芹香は床に置かれたオーディオ機器を蹴り飛ばし破壊し、カーテンを開け窓を開ける。
阿片と思われる煙を、部屋の外に逃がした。
「芹香さん、大丈夫!?」
椅子に座って気を失っている芹香に駆け寄ると、両腕の肘の裏側や太股など、注射の打たれやすい静脈の位置を確認する。
幸い注射をされた跡はなく、自白剤の注射は打たれる直前だったようだ。
芹香の顔を見ると、安らかな表情を浮かべたまま規則正しい呼吸を繰り返している。睡眠薬の多量摂取による呼吸不全などもなさそうだった。
「よかった…」
芹香のとりあえずの無事に、葵は安堵のため息をつく。
だが、その表情はすぐに曇った。
断続的な命蒼刃の発動が続いている。
ダメージの程度は低いままだが、それは武士が嬲りものにされている証拠だった。
「武士…」
葵は制服のポケットから携帯電話を取り出す。
翠が作戦通りに妨害電波の装置を破壊できたのだろう。
ずっと圏外表示だったアンテナは二本立っていた。
段取りでは、芹香を確保したら予め登録しておいた一斉メールを仲間に送信し、ビルを一度脱出する手筈だった。
まして芹香を確保した自分は、彼女を安全な場所に連れて行かなければならない。
しかし。
その為には武士が敵に暴行を受けているのを知りながら、無視し続ける必要があった。
刃朗衆の教えでは、作戦は絶対だ。まして武士は死ぬことの無い体。優先順位は決まっている。
しかし。
(武士が殴られ続けているのを無視するなんて、私にはできない)
一番警備を厚くしなくてはならない芹香の部屋に、見張りの戦闘員はたった一人で、その男もさして手練ではなかった。
敵の数は少なく、そのレベルは低い。
(階段を駆け下りて、武士を嬲っている連中を倒す。武士にはそのまま逃げてもらって、私はここに戻り芹香さんを連れて脱出する。そんなの、4~5分で十分だ)
葵は眠る芹香を抱えあげると、隣の部屋へと移動して彼女をソファに寝かせる。
「ごめんね、芹香さん。すぐに戻るから」
葵は呟くと、階段に向けて駆け出した。
警棒を片手に玩んでいたスーツ姿の見張りの男は、音もなく床に崩れ落ちる。
背後から迫ったハジメが、その筋肉質な腕で締め落としたのだ。
東側の二階の窓から侵入したハジメは、端の部屋から順にビル内を捜索していた。
「高校生の喧嘩という建前で行動する」という直也の作戦上、銃を置いてきてしまったハジメは行動に慎重を期しており、その捜索活動に時間が掛かっていた。
(くそっ……九龍の野郎、あれで自分は日本刀とか持ってきてたら、ブチ切れっぞ)
二階から上の階に向けて捜索していたハジメは、三階の捜索で巡回していたセキュリティを一人倒し、四階の捜索では、植物によってすでに拘束されているセキュリティを三人見つけた。
(……派手にやりやがって、あのミドリ虫……)
高校生の喧嘩で謎の植物使いは現れないだろう。
あの馬鹿が、と内心で毒づく。
慎重に行動してきた自分が馬鹿らしくなってきたハジメは、ふと床に視線を落とす。
樹木と壁に挟まれて気絶している男の足元に、サプレッサー付きの銃が落ちていることに気が付いてしまった。
(……普通の高校生でも、殴り込んだ先に銃が落ちてたら、そりゃあつい拾っちまうよなあ……うん。拾う拾う。そりゃー、落ちてる方が悪いよ。しょうがないしょうがない)
ハジメは心の中で言い訳大会を開催し終えると、あっさりとその銃を拾い上げた。
残弾を確認し、駆け足で上の階へと急ぐ。
五階に着き、最初の部屋を捜索する。
その部屋の中央にはスチール製の大型ロッカー一台が横倒しに倒れていた。
隠れられる場所が存在した為、慎重に捜索するが、やはりその部屋もしばらくの間、人が使用した形跡はない。
(くそ…暗いな)
外はもう完全に日は落ちており、夕方から夜になっていた。
ビル内部の照明は、ところどころ設置されてる非常灯のみで、後は窓から指す街明かりだけだった。
そのため、建物内部は全体的に薄暗く、正確な数が解らない敵を警戒しながらの捜索には時間がかかった。
(…クリア)
心の中で呟いたハジメは、再びドアを開けてて廊下に出ようとしたする。
しかし、ノブに伸びたその手が不意に止まった。
ドアの向こうの廊下に人の気配を感じたハジメは、ドアの脇の壁に背中を張り付け、息を潜める。
一方、廊下にいた気配もハジメに気が付いたのか動きを止めた。
そして、その相手の気配は煙のようにハジメの感覚から消える。
(!……気配を消しやがった。相当の使い手だ)
ハジメは銃を構え直す。
敵の気配が感じられなくなった以上、こちらから動くことは自殺行為だ。
ハジメは過ぎていく時間に苛立ちながらも、その場を動くことができない。
数分が経過した後、ハジメは壁を挟んで廊下の向こう、階段から微かに人が駆け降りていくような気配を感じる。
(何だ?階段を降りて逃げたのか……?)
ハジメの注意力が一瞬逸れる。
その瞬間を見計らったかのように、ドアが蹴り開けられ人影が飛び出してきた。
「しまっ……!」
ハジメは人影が水平に切りつけてきた刃物の攻撃をしゃがんで避け、しかしあまりの近距離に銃を撃つことが出来ず、前転で敵の刃の下を潜り抜けると、横倒しになった大型ロッカーの影に飛び込んだ。
ハジメは素早く体勢を立て直し、すぐにドア付近に向けて銃を構える。
しかし、ドア付近に既に人影はない。
初撃を躱された相手は、室内での戦闘を避け、再び廊下に出たようだ。
(慎重な奴だな。武器はナイフか? いや、さっきの刃物の影……なんか妙に曲がってたような……って、まさか……)
ハジメの脳裏に、曲刀を武器に振るう少女の姿が思い浮かぶ。
「おい…」
小声で廊下の外にいるであろう相手に声を掛けようとした瞬間、開け放たれたままの入り口からするすると、まるで蛇のように植物の蔦が高速で伸びてきた。
「おい、待っ…」
他の敵に気づかれる可能性を考え、あげかけた大声を慌てて飲み込むハジメ。
彼はそのまま、翠が操っているであろう蔦に体をぐるぐる巻きにされるしかなかった。




