「灰島親子」
「あー。わけわかんね。なんでこんな場所で秘密の会合とか言ってんだ。ウチの雇い主はよ」
ビルの前に立たされた灰島家に雇われたセキュリティ・サービスの二人のうち、一人が大きく伸びをする。
「確かに怪しいな。さっき通ってったのボスの息子と、同じ高校の女の子だったろ?なんでガキが秘密の会合に来るんだ?」
「知らねえよ。とにかく誰もここを通すなって命令だ。俺たちは黙って、従ってりゃいいんだよ」
とはいえ、二人は暇だった。
ここは新宿駅から歩ける距離とはいえ繁華街からは遠く、一区画まるまる撤退した雑居ビル群のど真ん中で、通行人もほとんどいなかった。
だが、見張りの一人が大きくあくびをしたとき、一人の背の低い制服姿の少年が通りの角を曲がって現れた。
少年は剣道の竹刀袋を背負って、迷いの無い足取りでビルの入り口前に立つ彼らの方にまっすぐ歩いてくる。
「……君? ちょっと待ちなさい」
少年が見張りの二人に見向きもせずビルに入ろうとした為、二人は慌てて行く手を遮った。
「君は誰だ。このビルは立ち入り禁止になっている。何の用だ?」
男の一人が、厳しい声で少年に問う。
「立ち入り禁止? このビルはもう使われていないはずですよ」
しかし少年は物怖じもせずに、逆に男に問い返す。
「あなた達こそ、誰ですか? こんなところで何をしているんですか」
それは彼らにも分かっていなかったのだが、彼らがここを誰も通してはいけないことだけは、はっきりしていた。
「私たちが誰でも、君に関係ない」
「とにかくここは立ち入り禁止だ。帰れ」
高圧的な態度で男たちは言うが、武士はまったく動じない。
「あなた達は、ここの所有者ではないはずです。僕が入るのを止める権利は無い」
武士は二人の間に強引に体を入れ、入り口を通ろうとする。
「待て! 立ち入り禁止だと言っているだろう!」
男は武士の肩を掴むと、力づくで押し飛ばした。
武士は後ろに吹っ飛ばされ、コンクリートの地面に背中から倒れ込む。
背負っていた竹刀袋が地面に叩きつけられ、カランと、竹刀の音ではありえない音がした。
「お前、その中になにが入っている? 木刀か?」
男達は身構える。突然現れた少年が、たかが木刀とはいえ武装してビルに侵入しようとしていることが分かったからだ。
武士は倒れた体を起こしながら、口を開く。
「……ここに、灰島義和と芹香・シュバルツェンベックが来ていますね?」
武士は竹刀袋の中身を問われたことには答えず、個人名を口にする。
その名に見張りの二人は顔色を変えた。
「ガキ。何者だ? どうしてボスの息子のことを知ってる?」
男はそこまで言って、ようやく武士の着ている制服が義和の制服と同じ高校のものであることに気がついた。
「お前、義和さんと同じ高校の生徒か?」
武士は答えないが、その沈黙は肯定を意味していた。
「灰島は、芹香ちゃんを無理矢理ここに連れてきたはずだ。僕は彼女を、返してもらいに来た」
そう言うと、武士は背負った竹刀袋から木刀を抜き出す。
「灰島を呼んで下さい。芹香をここに連れてきて下さい。でなければ……実力でここを通ります」
廃ビルの一室に、豪奢な応接セットが置かれた部屋があった。
ソファには芹香が、制服姿のままで座っている。
手付かずのお茶と茶菓子の乗ったテーブルを挟んだ向かいに、灰島の父親と義和が座っていた。
部屋の出入り口のドアは一つで、その前にはスーツ姿の四十代後半の巨躯の男が一人、ドアを塞ぐように立っている。
その部屋に窓は無く、白い壁が圧迫感をもって空間を囲んでいた。
応接セットは豪奢だったが、照明は古くさいビルの蛍光灯で、ちぐはぐな印象をもたらしていた。
「芹香さん。そう意地を張らずに、我々に協力してくれないかね。べつに君に悪いようにするつもりはない」
灰島の父親はそう言うと、目だけは笑わない笑顔で、芹香を見る。
その視線は芹香の足下から顔へとゆっくり上がってくる。
怖気が走った芹香は、思わずスカートの裾を押さえて、膝を隠した。
灰島の父親は言葉を続ける。
「ただ記者会見を開いて、マスコミにこう言ってくれればいいだけだ。私は鬼島総理大臣の娘です。鬼島総理は動乱後のドイツで、混乱に乗じドイツ人の母に暴行をして、私を産ませたんです、とね」
「母は暴行なんてされていません!」
芹香は声を荒げる。
ここに来て、ようやく芹香は彼らの意図に気がついた。
灰島の父親が鬼島と敵対している議員であることは知っていた。
しかし、こういう形で利用されるとは想定していなかった。
自分の考えの甘さに芹香は苛立ちを覚える。
義和は父親に使われただけなのだ。
おそらく、無理矢理連れてくるという形ではなく、本人の意思で灰島議員の元を訪れたという形式が必要だったのだろう。
その義和は、父親の横でもじもじと体を動かしながら、芹香と父親の顔を交互に見ている。
何か言いたい事があるようだが、タイミングが見つけられないといった様子だ。
「母と私は、今はなんの不満も無く平穏に暮らしているんです。邪魔しないで下さい」
芹香はハッキリと言うが、その言葉はまるで灰島議員に届いていない。
「うん。うん。しかし君にはね、あの男の子どもだという事を明らかにする権利があるんだよ」
「だから、それを行使するかどうかは私の自由じゃないですか!私は現状のままでいいと言っているんです」
「私たちは、君の力になってあげたいだけなんだ」
「人の話を聞いてますか? 私は、あなた達に助けなんて求めていません!」
話は平行線だった。芹香がこの廃ビルに連れてこられ、この部屋に閉じ込められてから二時間近くが経とうとしていた。
一時間ほど前に灰島議員が現れ、以来ずっとこの調子だ。
「帰ります」
芹香は立ち上がり、ドアの前まで歩く。
しかしドアの前に立ちふさがった巨躯の男が、行く手を塞ぐ。
「どいて下さい」
しかし男は何も答えずその場を動かない。
男は灰島議員の秘書兼ボディーガードだったが、目つきがやたらと鋭く、秘書やボディーガードというよりも軍人や傭兵のような雰囲気を持っていた。
「まあまあ、芹香。少し落ち着いて、座れよ」
義和が立ち上がってきて、芹香の肩を掴む。
「触らないで」
芹香は掴まれた肩を振り払う。
これまで何度もくり返したやり取りだ。
しかし義和の方も、自分勝手な苛々が高まってきているようだった。
払われた手で、再び芹香の肩を乱暴に掴む。
「芹香、いい加減にしろよ。パパがここまで言ってやってるんだ」
低い声で芹香を脅す。
芹香は思わず身を固くしたが、精一杯の拒絶を示す。
「誰も頼んでないわ。灰島君。なんなの、これ。これがあんたの言ってた誤解を解く為のコミュニケーション? ふざけないで」
「俺はお前の為を思って、やっているんだ。お前の正統な権利を取り戻してやろうとしてやっているんだ」
義和は父親に言われただけだった。
芹香を連れて来さえすれば、彼女を自由にできるという甘言に乗せられただけだった。
しかし彼の頭の中では、その動機はいつのまにか「芹香の権利を取り戻す為にしている正義の行為」にすり替わっていた。
そして彼は、そのすり替えられた動機を完全に信じている。
「いいから、こっちに座れ」
「ちょっと……放してって、言ってるでしょう!」
強引に腕を引っ張る義和に、芹香はついにパシンと平手で義和の顔を叩いてしまう。
一瞬何が起こったのか分からないといった様子で義和は唖然とするが、父親やその部下の面前で芹香に殴られたという事実を遅れて理解すると、怒りに顔を真っ赤にする。
「……テメエ!」
怒りに我を忘れた義和は、芹香の顔面に向けて拳を繰り出した。
「きゃっ!………?」
芹香をビクッと体を震わせ目を閉じるが、予想した痛みはやってこない。
恐る恐る目を開けると、義和の拳は芹香のすぐ目の前で止まっていた。
ドアの前に立っていた巨躯の男が、義和の腕を掴んで拳を止めていたのだ。
「なっ……なんだ、テメエ!」
「義和さん、女性に暴力はいけませんよ。男の価値が下がります」
巨躯の男は平坦な声で、義和を諌める。
「う、うるせえ! パパの使いパシリが偉そうなことを言うんじゃない」
義和は言い捨てると、男の腕を振り払う。
いや、振り払ったつもりだったが、その腕は一ミリも動いていなかった。
「な……放せ、放しやがれ、なんなんだ、お前は!」
義和は全力で掴まれた腕を引く。
それでも男に掴まれた腕はビクともしない。
義和は以前、九龍直也に腕を掴まれた時のことを思い出した。
巨躯の男の顔を見上げると、極めて平坦で無表情な目が、義和を見ていた。
何の感情も浮かんでいない。
きっと男は柳の木の枝でも折るような気安さで、義和の腕の骨も折ってしまえるだろう。
直感的にそう感じた義和は、巨躯の男に直也に似た恐ろしさを感じ、ゾッとした。
「その辺にしてやってくれ、深井」
深井と呼ばれた巨躯の男は、灰島議員の声に義和の腕を放す。
「義和。深井の言う通り、お友達に乱暴はよくない。せっかく遊びにきてくれたのに」
父親は変わらぬ作り笑顔でニコニコと話す。
「誰が、こんな訳の分からないところに遊びに来るもんですか!」
芹香がキッと灰島議員を睨んだ。
灰島議員は、突然作り笑いを止めた。
上げていた口角を下げ、ギョロリとした魚類を想像させる目で、芹香を睨む。
「な…なによ…」
灰島議員は、無言のまま芹香を睨み続ける。
それは、腐っても魑魅魍魎の蠢く政界の中で何十年も生き延びて来た、強者の男の目だった。
芹香は背筋が冷たくなり、言葉を発することもできない。
「……芹香さん。わかった、今日はもう帰りなさい」
「パパ!?」
灰島議員の意外な言葉に、隣に座っていた義和の方が驚く。
「義和が無理強いをしたように受け止められたのでは、仕方が無い。気が変わったら、いつでも私を訪ねてくるといい」
「パパ、そんな…」
芹香は、全身から一気に汗が出るのを感じた。
緊張が緩む。
よかった、これで帰れる。
いくら何でも、国会議員が一個人に対して、こんな暴力的な手段を取る訳にはいかないのだ。
芹香はホッとする。
「ああ、出されたお茶くらいは飲んでいきなさい、芹香さん。礼儀だよ」
部屋を出ようと一歩踏み出した芹香に、灰島議員は魚類の目で彼女を見つめながら言う。
「あ、はい……」
芹香はあまりに迂闊だった。
しかし、一時間近くプレッシャーを受け続け、唐突にそれを解除されたのだ。
張り詰めていた緊張の糸が切れて、心に一瞬の隙間が生まれる。
そこにさらりと滑り込まされた罠。
通常の思考なら絶対に手を付けないそれに「これを飲めば、これ以上いざこざなく帰れる」と手を伸ばしてしまったのは、一介の女子高生でしかない芹香には無理も無いことだった。
古びたビルの中で場違いに高級なティーカップで、芹香は紅茶を啜る。カップはソーサーの上に戻ることなく、コンクリートの床に落ちて割れる。
芹香はソファの上に、目を閉じて倒れ込んだ。
「やったね、パパ。この後どうするの?」
クラスメイトの女の子を薬で昏倒させたのに、子どものようにはしゃぐ義和に灰島議員は父親として不安を覚える。
「隣室に専門の人間を控えさせている。彼らに処置させる。私は事務所に戻って、マスコミに連絡して記者会見の手筈を整えよう」
「その後は? その後は?」
「その後……?」
義和は子どものように目をキラキラさせて、父親を見つめる。
私はどこで息子を育て間違えたのかと、灰島議員はため息を吐いた。
「……お前の好きにするといい」
諦めのように父親が呟いたときだった。
部屋のドアがノックされる。
「失礼します」
ドアを塞ぐように立っていた深井がそのドアを開けると、コードレスのインターホンを持った痩身の眼鏡の男が部屋に入って来た。
携帯電話の電波帯にジャミングは掛けられているが、それ以外の通信機器は使えるようだ。
「なんだ」
「はい。ビルの入り口に高校生が一人来ています。義和さんと同じ制服を着ているそうです」
「なんだと…」
灰島議員は、義和を睨む。
「そ、そんな…ここが分かるはず、ないのに…」
義和は顔色を青ざめさせる。
「どうしますか?」
インターホンを持って入って来た男が、灰島議員に尋ねる。
「その高校生は木刀を持って来ているそうで、義和さんと一緒に来た女の子を連れて来いと言っているそうです。そうしなければ、実力行使に出ると」
灰島議員は、息子の肩を掴む。
「どういうことだ。御堂か、それとも九龍か」
「わかんないよ……」
このことを誰にも言うなと、田中には確かに言った。
しかしあのチビが、空気も読まずに御堂や同じ部活の九龍に相談した可能性はある。
義和は頭を抱えた。
「どうしますか?相手は小柄な高校生一人だそうです。実力で排除していいならそうすると、見張りは言っていますが?」
「待て、待て」
灰島議員は平手を上げて止める。
「御堂の孫だった場合は、実力行使はマズい。九龍だった場合は……」
「小柄な、だって?」
義和がぶつぶつと呟く父親の言葉を遮って、声を上げる。
「パパ。御堂も九龍も、小柄なんて言える体格じゃないよ」
「なんだと?」
「どうしてこの場所が分かったのか分からないけど……芹香を追って、のこのこと来るチビなんて、一人しか知らない」
「義和。お前に任せられるか」
「もちろん。丁重にお帰りいただくよ」
義和は指をパキパキと鳴らす。
彼には学校での借りがあった。
「なら任せる。……いや待て。大人しくさせたら、ここに連れて来い」
「え? …なんで」
「あのお嬢さんに言うことを聞かせるのに、その坊主は使えるかもしれん。たった一人で彼女を助けにきたんだろう?そんな男を、お嬢さんは見殺しにしないだろう」
「え……でも、パパ」
「お前より男らしいかもしれんな。その子は」
灰島議員のその言葉は、半分くらいは本気だった。
「……そんな」
「お嬢さんに言うこと聞いてもらうのに、薬を使わずに済むならそれに越したことはない。私の言うことが聞けないのか」
「……わかったよ」
義和は不承不承頷く。
「よし。……おい、見張りに義和が行くから待っていろと伝えろ。私は裏口から出よう。車を呼べ」
灰島議員は眼鏡の男に指示を出した。




