「ラブコメ」
六時間目、今日の最後の授業が終わると、武士はすくっと席を立つ。ハジメの席まで行き、帰り支度をしているハジメに声を掛けた。
「ごめんハジメ。先に、葵ちゃんと生徒会室まで行っててくれないかな」
「ん?いいけど…なんで?」
ハジメは問い返す。
「ちょっと用事があってさ。少し待たせるかもしれないけど、なるべく早く行くから」
「あ、そう。分かった」
そう言うとハジメは、離れた席に座る葵を見る。
葵は複数のクラスメイトに話しかけられていて、たどたどしいながらも会話を交わしていた。
まだ武士との関係を聞かれているのだろう。
「まあ、葵には俺から言っとくよ。用事って、学校の中か?」
「うん」
「じゃ、そんな距離は離れねーし、大丈夫だろ。九龍の奴にも俺から話しとっから」
「ありがと。……ハジメ」
「なんだよ」
「やけに物分かりがいいね。いつもなら、用事ってなんだよ! とか俺もついてく!とか言いそうだけど」
「そうか? ……ついきてほしい用事なら、俺も行くけど?」
ハジメは特に慌てる様子もなく、真顔で答える。
その顔を見て、武士は思い過ごしかとため息を吐いた。
「…いや、ごめん。ほんとにちょっとした用事なだけなんだ。なるべく早く行くから」
「わかった」
武士は席に戻り、カバンを持って教室の前の扉から廊下へと出ていく。
その後すぐに芹香が席を立ち、カバンを持って武士を追うように教室を出ていった。
そして。
クラス一体の大きい、柔道部の有望選手でもある灰島義和が、教室の後ろの扉から静かに出ていく。
ハジメと葵は、その灰島義和の後ろ姿を視界の端で追うと、目を合わせた。
柔剣道場へと続く緑道には、柔剣道場が修理中である今、人気はほとんど無かった。授業が終わって午後四時を過ぎ、その人気の無い緑道の、アスファルトの歩道を外れた木の下で、武士と芹香は木に寄りかかって立っていた。
「ごめんね。こんなことお願いして」
「そんな謝んないでよ。むしろ光栄というか、なんていうか……」
武士としては、中学以降はまったくいなかった女子の友達が出来て、しかもその友達が美人な上に、こんな頼み事までされて、むしろ恐縮するような思いだった。
「葵さんには、このこと話したの?私、彼女に申し訳なくて……」
「それなんだけど……芹香ちゃん、今から話すこと、誰にも言わないでいてくれる?」
「そうして欲しいなら、もちろん」
芹香は頷く。
「葵ちゃんと僕は、本当は付き合ってないんだよ。いろいろ事情があって、一緒にいなくちゃいけないんだ」
「いなくちゃいけない?」
「その事情については、詳しくは話せないんだけど……」
「武士君は、葵さんと嫌々一緒にいるの?」
「そんな! そんなわけないよ」
芹香の言葉を、武士は両手を振って慌てて否定する。
「それは僕が選んだことなんだ。だけど、その為には葵ちゃんに付き合ってる演技をして貰わなくちゃいけなくて……」
「演技、なんだ」
芹香は、寄りかかった木の幹に頭をコン、と当てながら呟く。
「そう。だから今回の件については、芹香ちゃんは気にしなくていいよ」
「そっか。……あれ?でもそしたら逆に、武士君困ったことにならない?」
「え?」
「周りの皆には、武士君と葵ちゃんは付き合ってるってことにするんでしょう? 私の件がもしバレたら、武士君は二股掛けてることになっちゃわない?」
「……あ……そうか、そうなるのかも……」
芹香の指摘に、武士は言葉を失う。
「……まあ、あいつプライドだけは高いから。周りの人間にバラしたりしないと思うから、大丈夫だと思うけど」
「うん……なら、大丈夫だと思う」
武士は首の後ろを掻きながら、そうかー、二股かーと一人ごちる。
芹香の「相談」内容は、ラブコメ漫画ではよくあるような話だった。
それは、「しつこい男に言い寄られて困っているから、恋人のフリをして相手を諦めさせてほしい」というものだ。
ラブコメでは大抵、そうお願いしてくる女の子はフリではなく、本当は相談する相手のことが好き、というのが定石なのだが…。
武士は、横に立つ芹香の横顔を見る。
午後の木漏れ日を浴びて、芹香のダークブロンドの髪がきらきらと光っていた。
(こんなテレビに出てきそうな美人の子が…ないない。友達になれたのだって、奇跡みたいなものなのに)
ラブコメ展開を期待しそうになるのを、武士は必死で止める。
それに。
明るいラブコメ漫画ではあり得ないような嫌がらせを芹香が受けたのは、現実だ。
それだけは許すことができなかった。
「ごめんね。こんなこと、武士君にしか頼めなくて……」
芹香はそんなことを考えていた武士の方をぐるっと向いて、再び手の平を顔の前でごめん、と合わせた。
「それは全然いいんだけどさ。なんで、僕なんかを頼ってくれたの?」
武士は素直に思っていた疑問を口に出す。
「僕なんかって、口癖?」
「え?」
逆に問い返されて、武士は言葉に詰まる。
「武士君は、もっと自分に自信を持っていいよ。優しいし、すごく頑張り屋だし」
「…そうかな」
「私、この学校に入って武士君にすごく勇気づけられた。私、中学生だった頃、虐められてたんだよね。ハーフだったせいかな。目立ってたみたい。クラスだけじゃなくて、部活でも虐められてた。なんでガイジンが弓道なんかやるんだって」
芹香は遠くに視線を向ける。
「入学式の日。黒板のいたずら書きを見て、また昔の繰り返しになるのかなって、すごく怖かった。でも、武士君とハジメ君が守ってくれた」
「あれは、ほとんどハジメだよ」
「でも、守ってくれた」
芹香は遠くに視線をやったまま話している。
武士も、芹香の顔を見るのはなんだか照れくさく、同じ方向を向いていた。
「それに、高校でも弓道部に入るのが本当は怖かった私を、君が後押ししてくれた」
「僕、何も言ってないよ」
「ううん。剣道部で頑張ってた。聞いたよ。大山先輩って人からかなり厳しい稽古受けてたんでしょ?」
そんなことあったなあと、武士はひどく昔のことのように思う。
時沢の地獄の訓練を受けた今、これからは大山の稽古で済むのだったら、飛び上がって喜びたい気分だった。
「それでも負けないで、頑張ってる君を見て、私も頑張ろうと思えたんだ。それで弓道部にも入れた。今じゃ、一年生の中で一番上手いんだよ?」
「すごいね」
この学園は、武道系スポーツの特待生が多い。
その中で一番というなら、並の腕ではない筈だ。
「武士君のおかげだよ」
「いや……僕はなにも」
「だから、武士君」
芹香は武士の方を向いて、ぐっと顔を近づける。
「自分なんか、なんて卑下するような言い方、しないで」
「う……うん……」
武士は二人っきりで芹香に顔を近づけられて、彼女にそんな気はないだろうと思いながらも、落ち着かない気分になっていた。
「なんかいい雰囲気になってるぜ」
緑道の木立の中。
際立って鬱蒼と葉の茂った大樹の枝の上に、木の幹にピッタリくっついて気配を消している、二人の人影があった。
ハジメと葵は、あらかじめ芹香の「相談」を盗み聞きした際に聞いた待ち合わせ場所に先回りし、二人が来るのを待っていた。
「いいのかよ?いい雰囲気の二人、ほっといてよ」
「私は……べつに……」
二人は小声で囁き合う。
偶然にも武士と芹香は、ハジメたちが樹上に隠れる木のすぐ近くに立っていた為、二人が普通に話す声が途切れ途切れながらも聞こえてくるのだ。
「妬かねえの?」
「だから、私はべつに……」
「しっかし武士のやつ。俺がさんざん言ってたことと同じこと言われてるだけなのに、女に言われただけで顔赤くしやがって」
「妬いてるのは、あなたの方じゃないの?」
「うるせえ。これだから、女は……」
冷静な葵の突っ込みに、ハジメは吐き捨てた。
「大きい声を出さないで。気付かれる」
「わかってんよ。けどお前、すげえな」
「なにが」
「大した隠行だ。完璧に気配消せるのな」
「刃朗衆の訓練の成果。……こんなとこで役立つとは思わなかったけど」
そりゃ、クラスメイトの色恋沙汰の盗み聞きなんて任務は想定してなかったろうな、とハジメは思う。
その時。
「どういうことだ。なんで田中がいるんだ」
件の人物が姿を現した。
緑道を通って姿を現した灰島義和は、芹香の横に武士の姿を認めると、ずんずんと大股で歩み寄ってきて、声を荒げた。
「一人で来いと言った筈だ。どうして田中のチビがここにいるんだ」
義和は脅すように、低い声で唸る。芹香がビクッと肩を震わせると、武士は反射的に芹香を守るように前に立った。
武士がチビ呼ばわりされた瞬間、ハジメは木の枝の上に立つ自分の横から、ぞわっと総毛立つような気配を感じた。それは葵から感じる殺気だった。
「チビ? 今、チビって言った……?」
完璧な隠行はどこへやら、葵の全身から暗いオーラが見えるかのような勢いで気配が広がっている。
「葵、落ち着けって」
小声で諌めるが、葵は今にも襲いかかりそうな形相で、義和を睨みつけ続けていた。
「灰島の野郎……下手なこと言うと、蹴り殺されっぞ……」
灰島義和か…と、ハジメは彼の素性を思い返す。
彼の父親は民自党の反主流派の議員で、旧清心会系の、政治的には御堂側の派閥に属する人間だった。
ハジメは政治家の子弟の多い暁学園に入学する際、九龍直也の周辺以外の学生についても一通りの調査を行い、灰島のことも知識として知っていた。
しかしハジメは、政治自体に興味を持ってなく、また九龍と関わりがあるとも思えなかった為、これまでは彼に特に関心を持たずにきていたのだ。
だから、彼のバックボーンについて、ハジメはこれ以上何も知らない。
しかし灰島議員の息子である彼の動きは、鬼島と敵対している自分たちにとって不利なものではないはずだ。
そもそも芹香の「相談」を盗み聞いた限りでは、義和の動きは政治的なものとは一切関わりのない、個人的な色恋沙汰のもつれのはずだ。
「関係ないはず…なんだけどな」
ハジメは何故か、嫌な予感を拭うことができずにいた。
「帰れ、田中。俺が話があるのは芹香だけだ」
義和は顎を振ってそこをどけ、という意思を示す。
「灰島君。あのさ…」
「なんだよ」
「まず、その脅すみたいな品のない喋り方止めなよ。芹香ちゃん、怖がってるじゃないか」
武士と義和は同じクラスだったが、席も離れていて特に接点がなく、会話を交わしたことは数えるほどしか無かった。
武士は特に義和に興味を持つこともなく、義和の方でも貧相な体で芹香の側につきまとう武士を、不快に思いこそすれ脅威には感じていなかった。
その武士に言いたいことを言われ、怒りに顔を引きつらせる義和。
「言うねえ、武士」
ハジメは思わず口笛を吹きそうになった。
「てめえ……田中の分際で」
「どんな分際か知らないけど。……灰島君。灰島君だったんだね。入学式の日に、黒板にあれ書いたの」
「なんだそれ。知らねえよ。芹香が言ったのか」
「灰島君だったんだね」
「知らねえって言ってんだろ」
(なんだこいつ…)
義和は、武士の小さい体から得体の知れない迫力を感じていた。
それは武士が一週間学校を休む前には、感じたことの無いものだった。
そんな筈は無いのに、小柄な武士の体が一回り大きくなったかのような錯覚を覚える。
武士の方は、唸るような声で脅しつけてくる義和に一週間前なら足が震えているところだったが、本物のヤクザに何度も殺されるという経験をした今、義和のことをよく吠える子犬のようにしか感じていなかった。
「帰らねえんなら、力づくで黙らせるぞ」
武士の得体の知れないプレシャーを気のせいと振り払って、義和は武士に歩み寄ってくる。
「乱暴なことは止めて!暴力を振るうなら、大声出すわよ!」
芹香が震える声で叫んだ。
「誰にも聞こえるかよ、こんなとこで…」
義和は吐き捨てるが、万が一にも誰かが近くにいたら面倒なことになると、舌打ちをして歩みを止める。
「灰島君」
芹香は武士の後ろから横に出て、絞り出すように声をあげる。
「あんな脅迫みたいな言い方で、私を呼び出した理由はなに?」
芹香は今朝、学校の下駄箱で待ち構えるように立っていた義和に声を掛けられた。
「今日の四時。柔剣道場近くの緑道まで一人で来い。でないと、お前の秘密をバラす」
灰島の立場上、握られてしまっている可能性のある自分の秘密を考えると、芹香は従わないわけにはいかなかった。
中学生の時のように、迷惑をかけ通しの直也にまた頼るわけにもいかなかった。
「理由か。言わなきゃ分からないか? 芹香」
馴れ馴れしく名前を呼ぶ義和に、芹香は怖気が走る。
「簡単だよ。俺と付き合え芹香。中学の時の暴言は水に流してやるから」
ニタリと笑う義和。
下品なその笑い方に、武士は爬虫類の顔を思い出した。
「断ります」
即答する芹香。
爬虫類の笑顔は一瞬更に醜く歪むが、それでもすぐに元に戻った。
「へえ…なんでだよ」
義和は芹香の横で自分を睨みつけている武士を見る。
「まさかとは思うけど、田中のことが好きだから、とか言うんじゃねえだろうな」
「そのまさかよ」
芹香は横に立つ武士の腕を、腕を組むように両手で抱く。
二の腕が芹香の豊かな胸に押し当てられ、武士は義和と対峙しているこんな時だが、不覚にもドキッとしてしまう。
「………」
ハジメは、自分の横から流れてくる殺気だか黒オーラだか女の怨念だかが、跳ね上がるように強くなるのを感じた。
「葵! 演技だ! あれは演技だから、お前も分かってんだろう!」
小声で必死に呟くが、もう怖くて葵の顔を見ることはできなかった。
義和の顔からは、今度こそ笑みが消えている。
「私、武士君と付き合ってるの。だから灰島君。中学の頃から何度も告白してくれたのに申し訳ないんだけど、あなたの気持ちに答えることはできないわ。私のことはもう諦めて」
芹香の言葉に、義和の顔色はショックで青くなり、その後で怒りに震え真っ赤に変色した。
「ふっ……ふざけるな!」
大声で吠える。
さすが柔道部の有望選手で、並でない肺活量により、その叫び声で空気が震えるかのようだった。
「そ、そのチビのどこが、俺に勝ってるって言うんだ!そのチビのどこに、俺が負けてるところがあるって言うんだ!」
「全部よ」
再びの即答に、義和の顔色はもう怒りのあまり赤を通り越して黒くなっていた。
「ふざけるなっ!」
義和は芹香に向かって突進する。
「きゃあっ!」
義和は、武士の側を離れて横に逃げようとする芹香を押し倒そうと、腕を伸ばす。
しかし不意に横合いから衝撃を喰らった。
義和の手が芹香に届く前に、武士が体当たりをしたのだ。
充分な勢いをつける暇も距離もなかったはずなのに、その衝撃は思いのほか強く、さらにその身長差から義和は重心の下の方に体当たりを受け、彼は芹香の横に倒れ込んでしまう。
そして、偶然あった地面の上に浮き出している太い木の根に、強く肩を打ちつけた。
「がっ……!」
義和は鈍い痛みに肩を押さえる。
本来なら、如何に武士が徹底した特訓を受けたとはいえ、たった一週間の話だ。
柔道の黒帯で、全国大会で優勝したこともある義和を、武士が簡単に倒せるはずが無かった。
しかし、義和の突進は武術のそれではなく、怒りに任せた力任せのただの突進だった。
対して武士は、いつ暴発するか分からない義和に対して、充分に身構えていた。
体格に差がある以上、無理に殴る蹴るをしても大柄な彼を止めることは出来ないと考えていた武士は、全力で体ごと彼にぶつかっていったのだ。
「田中…てめえ…!」
義和は肩を押さえながら立ち上がる。
「止めて!武士君に手を出さないで!」
芹香は叫ぶと、手にしていた携帯電話を開く。
「手を出すなら、警察を呼ぶわ」
義和は、あくまで合意の上で芹香を連れてこい、と父親に言われたことを思い出す。騒ぎが大きくなるのはまずかった。
「…わかった」
舌打ちをして、義和は武士から二、三歩下がる。
「武士君!大丈夫?」
芹香が携帯をしまい、武士に駆け寄る。
「大丈夫。芹香ちゃんこそ、怪我はない?」
武士は駆け寄ってきた芹香の方を心配する。
樹上でハジメは、火薬庫の横で花火をするのはこういう気分なんだろうなと思う。
自分の横にいる葵が放つ爆発寸前のドス黒い気配に、どうして下の三人はまったく気がつかないんだろうと、不思議でならなかった。
「芹香…もう分かったから、下手な芝居は止めろ」
義和は少し落ちついた声で言い放つ。
「芝居?なんのこと?」
「しらばっくれんな。……おい田中。お前、今朝転校してきた御堂の従妹と、あれは付き合ってんじゃねえのか?」
痛いところを突かれ武士は黙り込む。
今後のことを考えると否定するわけにもいかず、かといってこの場で肯定するのも変な話だった。
「……そうよ。二人は付き合ってるわ」
芹香が横から口を出す。
「けど私は、それでも武士が好きなの。それを承知で、武士には私とも付き合ってもらっているのよ!」
(どっちも演技とはいえ、こんなシチュエーション、今後の僕の人生で絶対ないだろうな…)
武士は芹香に腕を掴まれながら、そんなことを思う。
「……鼻の下伸ばして……」
黒オーラに包まれた葵がボソッと呟いた言葉を、ハジメは聞かなかったことにする。
「芹香、だから芝居は止めろっつってんだろ」
義和は、呆れたような声を上げた。
「だから芝居じゃないって、何回……」
「お前が付き合ってんのは、三年の九龍直也なんだろ?」
放たれた義和の言葉に、芹香は固まる。
「…え?」
武士は思わず芹香の顔を見る。
「中学ん時。俺がお前に告った日に、お前が会っていた男が九龍だろう。お前はあいつと同じ高校に通う為に、この学校を選んだんだろうが」
芹香は黙り込み、顔を青ざめさせる。
その様子は、義和の言葉が決して根拠がないものではないことを示してた。
「……へえ……」
思わぬところで出てきた直也の名前に、ハジメは興味をそそられる。
芹香は中学生時代に、既に直也と接点があった。
これが本当なら、昼休みの屋上でハジメが感じた違和感は間違っていなかったということになる。
義和は言葉を続ける。
「あいつは田中よりはマシだろうが、俺だって負けてねえ。あいつは剣道連続日本一らしいが、俺だって柔道で優勝してる。それに俺は、代々続いた政治家の家系だ。将来の日本を背負って立つ男なんだ。どっちを選べばいいかなんて、お前だって分かっているだろう」
黙り込んだ芹香を相手に、義和は饒舌になっていた。
「あのさ、灰島君」
武士が口を開く。
「なんだ?部外者は黙ってろよ。マグレで俺を突き飛ばしたぐらいで、いきがってんじゃねえぞ」
義和は威嚇するが、武士は動じない。
「うん。部外者かもしれない。でも部外者だから、客観的に言うよ?」
「あん?」
「もし。仮に。灰島君と同じレベルで話をするのなら。君は九龍先輩の足下にも及ばない」
静かに武士は断言した。
義和は再び、怒りに顔色を変える。
「てめえ……」
じり……と一歩、武士に向かって足を踏み出す。
「やめて」
芹香が顔を上げた。
「そうよ。あなたの言う通りよ。私は九龍先輩のことが好き。だからなに?これでもう分かったでしょ?私はあなたなんかと絶対に付き合わない。だからもう、私に構わないで」
芹香は言い放ち、義和を睨みつけた。
決定的な言葉だったはずだが、しかし義和は逆に、ニヤリと爬虫類の笑顔を向ける。
「そうはならない。芹香。お前は俺と付き合うんだ。今日早速、俺の家に来いよ」
「はあ?どうしてそうなるのよ?」
「それは、俺はお前の秘密を知っているからだ」
義和の目が、まるで獲物を見つけたカメレオンのようにぬめった光を放つ。
「お前は、鬼島総理大臣が愛人に産ませた子どもなんだろ?」
芹香は全身に冷水を掛けられたかのような衝撃を受けた。
武士もその横で、あまりに衝撃的な言葉に凍り付いた。
「なっ……!」
樹上で、ハジメと葵も驚愕に顔を見合わせている。
「どういうこと……鬼島の隠し子は、九龍直也じゃないの?」
葵は呟く。
「……二人いるってことなんだろ。芹香の母親はドイツ人だから、九龍とは腹違いの兄妹ってことになるのか…?」
ハジメは呟きながら、納得もしていた。
直也と芹香は互いを知っていた。
腹違いの兄妹だったということなら、お互いに知っていておかしくない。
なおかつ、周囲にはそれを隠していることも、鬼島総理の隠し子ということなら分かる話だ。
灰島義和の父親は、反鬼島派の議員だ。
鬼島総理の弱みを探っていて、芹香・シュバルツェンベックに辿り着いたのだろう。直也のことは、まだ知られてはいないようだが。あるいは義和に知らされていないだけか?
義和は、再び黙り込んだ芹香に畳み掛けるように言葉を続ける。
「今、鬼島総理大臣は微妙な状況なのは知ってるか? 外国人のしかも娼婦との間に隠し子がいたなんて話題が、マスコミに流されたら大変だよなあ」
芹香の顔色は、もう真っ白になっていた。
ガタガタと手が震えている。
「芹香ちゃん…」
武士は思わず芹香の肩を支えるが、掛ける言葉が見つからない。
なにより、武士自身も義和の言葉に動揺していた。
「なあ、芹香。俺たちはただ、コミュニケーションが足りない。誤解が多いだけだ。そうは思わないか」
義和は手を広げて、まるで演説するかのような口調で語る。
「じっくり語り合えば、誤解も解けると思うんだ。俺の家に来いよ。ゆっくり話し合おう」
地面に座り込んで、放心状態のようになっている芹香に、義和は歩み寄ってくる。
その前に、武士が立ちふさがった。
「どけよ、部外者」
義和は短く言い捨てる。武士はその場を退かない。
「恥ずかしくないのか。灰島」
「ああ?お前、誰に向かって呼び捨てにしてるか、わかってんのか」
「わかってるよ。代々続いた政治家一族か何か知らないけど、将来の日本を背負う男っていうのは、女の子一人口説くのに、こんな脅迫そのものの手段を使うのか」
「なんだと?」
睨み合う武士と義和。
「やめて……武士君」
芹香が、ボソッと呟いた。
「芹香ちゃん…?」
武士が振り返る。芹香はゆっくりと立ち上がった。
「灰島君。私があなたの家についていけば、このことは秘密にしてくれるの?」
「芹香ちゃん!?駄目だよそんなの!」
武士は慌てて芹香を制止する。
「ああ。約束するよ」
義和はニタリと笑って肯定する。
「……わかった。ついて行くから、お願い。秘密は守って」
芹香はそう言うと、武士の側を離れ、義和の元に歩み寄った。
「芹香ちゃん、駄目だって!」
自分から離れていく芹香の手を武士は掴むが、彼女はその手を振り払った。
「芹香ちゃん…」
「武士君。ごめんね、こんなことに巻き込んで」
芹香は謝罪する。
「私はこのことを、鬼島大紀の娘だということを、世の中に知られる訳にはいかないの」
「なんでだよ!なんで芹香ちゃん、こんな目にあってまで…」
「黙れ田中。もうテメエの出る幕はねえんだよ」
義和が武士を乱暴に突き飛ばす。
不意をつかれた武士は簡単に吹っ飛ばされ、地面に転がった。
「暴力は止めて!ついて行くって言ってるでしょう?」
芹香は義和の手を押さえる。
義和は逆にその手を掴み返した。
「痛っ…」
強く掴まれ、芹香は小さく悲鳴を上げる。
「やめろ!」
「田中。ついてくるなよ。ついてきたら、どうなるか分かってるだろうな」
武士は、動きを止めざるを得ない。
「武士君。お願いがあるの。このこと…誰にも言わないで」
「芹香ちゃん!」
「特に、あの人……九龍先輩には、絶対に言わないで。お願い」
「ということだ。分かったな田中。ついでに御堂にもだ。とにかく誰にも言うな。芹香がそう言ってんだから、言うこと聞けよ」
勝ち誇ったように義和は言うと、芹香の腕を引っ張って歩き出した。
「引っ張らないで。……自分で歩いて行くわ」
芹香は義和の腕を振り払うと、義和の後について歩き出す。
「ごめんね……武士君」
武士は、芹香の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くすしかなかった。
 




