「悪あがき」
「……灯太クン、しっかりしてっ!」
ダムの堤体の上で。
增加、命蒼刃でいうところのブーストで朱焔杖へ魂の力を送っていた灯太が、糸が切れたように崩れ落ちた。
両腕を失っている結女には、抱きとめて支えることもできない。
なんとか倒れる少年の頭と地面の間に膝を差し込んで、コンクリートに灯太が頭を強打することを防ぐことができた。
「……新崎結女……もう、大丈夫だ……」
グロッキーになっている灯太は、息も絶え絶えで喘ぐように礼を述べる。
「大丈夫って? ……メフィストが、紅華さんたちを襲っていたんでしょう?」
灯太は、念話により紅華を通じて把握していた状況を、結女にも伝えていた。
そして、メフィストの魔力により魔獣ヴイーヴルが顕現した時。
危機に陥った紅華たちを助けるべく、疲れ切った身体に鞭を打ってブーストを掛けていたのだ。
その灯太が突然倒れたので、結女は武士たちがメフィストに敗北したと絶望しかけていた。
「なんとか……九龍が間に合った、みたいだ」
「直也クンが?」
「……管理者の芹香と、魂が繋がって……今、完全に九龍直也は……九色刃・黒壊刃の使い手となった……」
「直也クンと芹香ちゃんが、九色刃の契約者に!? それで、みんなは無事なの?」
「ああ、誰も死んでない」
灯太の報告を聞いた結女は、様々な意味で安堵した。
もちろん、誰も死ななかったことに。
そして、直也が新たな九色刃の契約者となれたことに、だ。
結女には、メフィストに操られている間の意識と記憶があった。
彼女自身が操られたからこそ、分かる事。
あの悪魔は、憑りついた人間の負の感情を増幅させて自分の思惑通りに思考を誘導する。
直也が命蒼刃と契約して力を得た田中武士に嫉妬していたことは、事実なのだ。
<偽りの英雄>は、本来なら直也が得る筈の力で芹香を救ってみせた。
『なぜ自分ではなかったのか』
『その力を得る為に多くのものを犠牲にしてきた自分でなく、なぜ普通の高校生でしかない田中武士だったのか』
直也自身が自覚していた憎しみを、悪魔は利用した。
その感情は責められるものではないだろう。
直也が正気であれば、内心がどうであれ実際に<偽りの英雄>と敵対することなどありえなかったのだ。
(望んだ形ではなく、思っていた物ではなかったとしても。直也クンは芹香ちゃんを守る為の九色刃を得た)
これでもう、直也は二度と悪魔に惑わされることはない。
あの青年を幼い頃から知る結女は、直也の弱い心も知っている。
しかし黒壊刃という切り札とも呼べる九色刃を得た直也は、自信を取り戻し、揺らぐことはないだろう。
「よかった……これで……」
「!! 逃げろ、新崎!」
安堵の溜息を漏らした結女に、灯太が厳しい声を掛けたのはその時だった。
――グググ……よくもやってくれたな、小賢しい人間どもが
「アレはっ……!」
灯太と結女の精神に直接怨嗟の声をねじ込んできたのは、堤体の上に唐突に現れた一匹の魔狼。
その体は夜の闇との境界線を曖昧にして、揺らいでいる。
「メフィストの……欠片だ……!」
なんとか立ち上がり、幽玄の黒狼の正体を看破する灯太。
結女を庇うように前に進む。
「本体は……こいつの核はまだ、姉貴たちのところだ……こいつは切り離した一部を……あの魔獣みたいに、強引に受肉して……!」
魔狼の大きさはヴイーヴルやニーズホッグに比べれば遥かに小型だが、それでも並の野犬の倍以上のサイズはある。
疲弊し切っている灯太に、両腕を失った結女が対抗できる相手ではない。
――我が育ててきた、あの男の体を奪った罪……断じて許さんぞ
――こうなれば女、もう一度お前の体を使わせてもらう
――ベースとなる肉体さえ手に入れれば、魔力を回収して、貴様等などひと捻りにしてくれる!
「! 灯太クン逃げて……あいつの狙いは私よ」
「バカ、何を言ってる……奴がまたアンタに入ったら、何もかもやり直しだ! この野郎、悪あがきを……!」
灯太は、疲労で朦朧とする意識の中で、なんとか現状を打破する方法を考える。
(念話で姉貴を呼び戻す? ……間に合うはずがない。じゃあ、田中武士がやってみせたように、朱焔杖の力を逆流させて? ……姉貴にそんな器用な真似が、できる訳ない……!)
「……大丈夫、灯太クン。私はもう二度とあんな奴に操られたりはしない」
結女が灯太の前に歩みでて、国狼の前に立ち塞がった。
「よせ、何を…!」
――ほほう? どうするつもりだ
――我に抗うことができるとでも? 新崎結女
――愚かな女。妹を想うまだ幼かった少年を利用し、鬼島首相の側近の地位を得た卑怯者。
――貴様のような浅ましく腹黒い女に、我が支配を拒めるものか
「でしょうね、メフィスト・フェレス。私は欲深い、薄汚れた醜い女。悪魔の誘惑に抗うことは不可能でしょう。 ……だけど、ねえ?」
結女は一歩、歩みを進める。
前ではなく、横に。
ダム堤体の橋の、横に向かって。
――なに? 貴様、まさか……!
「死体に憑りついても意味はないのでしょう? ここから落ちて、溺死するまでの間くらいなら……お前に抵抗してみせる。それが私のせめてもの……償い!」
結女は駆け出した。
両腕を失ってバランスをとれずにすぐ倒れるが、それでも転がりながら立ち上がり、駆ける。
「やめ―—!」
――やらせるかァ!
黒狼が吠え、結女に向かって駆け出す。
まさに飛び降りようと結女が欄干から身を投げ出そうとしたその瞬間。
魔狼が鋭い牙を突き立てようと、飛びかかった。
――クカカッ! 少ぉし間に合わなかったなァアガガッ!?
筋肉に包まれた丸太のような脚が、魔狼を一撃で蹴り飛ばした。
「……あなたはっ!?」
そして、驚愕の声を上げる結女の体を、彼女の胴周り以上の太さはあろうかという同じく筋肉で包まれた腕が抱え上げる。
結女を抱える腕は左腕一本。
そしてその男に、反対側の腕はなかった。
「うるさくて目ぇ覚ましてみたら、どんな状況だコイツは」
伝説の傭兵が首を傾げる。
「……深井隆人!」
「お前、俺にやべえ腕を移植しやがった蝙蝠女か? 両手はどこに忘れてきた」
――ゴアアッ! おのれ、死に損ないの人形風情どもが、邪魔をするなァァ!
――貴様らの飼い主が誰だと思っている!? 早くそこを退くがいい!!
「……まあ、説明は後でいいや」
深井はゆっくりと結女を地面に下ろすと、首を傾けゴキンと鳴らした。
「自己紹介ありがとよ犬っころ。テメエが俺たちを操ってくれたバケモンか」
拳を構えると、巨体に似合わぬ敏捷性で、深井は魔狼に殴り掛かった。
「オラぁ!」
しかし魔狼は俊敏な動きで飛び下り、深井の剛腕は空を切る。
漆黒の狼は紅い瞳を輝かせ、舌を出してニヤリと笑った。
――愚かな、既にアーリエルどもと戦い体力を使い果たしている貴様に我を倒す事などでギャガガッ!!
即座に地面を蹴った深井の巨躯は一瞬で距離を詰め、魔狼の顎に強烈な膝蹴りを叩き込んだ。
「うぜえから、頭の中に気味悪い声入れてくんな……よっ!」
疲労など一切感じさせない晴れやかな表情で、深井は吐き捨てる。
そしてそのまま回し蹴りを叩き込み、魔狼をダムの堤体の外へと吹っ飛ばした。
「こっちはよく寝て頭ン中すっきり快調。犬っころなんざ相手じゃねえんだよ」
「やった! ……とは、簡単にいかないか……」
ダムの底に落下したかに思えた魔狼は、しかし空中を蹴ったかのような物理法則を無視する形で、堤体の欄干の上に降り立った。
――貴様、この我を犬とぬかすか
「違うのか? テメエの姿を鏡で見てみろよ畜生風情が」
――もうよい。貴様でよい。その畜生風情にもう一度、人形にされる屈辱を味わうがいい!
魔狼の体の輪郭が急速にぼやけ、存在の境界線が曖昧になる。
「なっ……!」
黒い霧に変化した魔狼が、驚愕する深井に襲いかかった。
「くそ、テメエ、離れやがれ!」
腕を振るって霧を振り払おうとするが、霧は深井の体に纏わりつき、体内へと物理的に侵入しようとする。
――おのれ深井隆人。貴様、満たされることのない闘争本能はどうした!?
――戦士としての誇りを傷つけた九龍直也への怒りはどこへいった!?
深井に思うように憑りつけないのか、メフィストの欠片は苛立ったような声を上げる。
――そうか貴様、アーリエルの霊波天刃で邪心を魂の内側から祓われたか?
「……何の、話だ……! 俺は何も……変わってねえ……!?」
――ならばよい、多少強引でも、貴様の魂まるごと飲み込んでくれる!
「ぐが……!」
「深井!」
「深井隆人!」
体内に完全に侵入された深井が、動きを止めた。
結女と灯太が固唾を飲んで、その様子を見つめる。
「……まさか、また深井は、メフィストに……」
「くそっ……ここまできて、冗談じゃないぞ……」
深井はロボットのようにぎこちない動きで、ガクンと首を回し、灯太たちに無表情な視線を向けた。
そして、その目が紅く光る。
「……乗り、心地は……最悪、だが……まあ、いい……これで、貴様らを……ガガガッ!?」
灯太たちに歩み寄ろうとした深井の巨体は、すぐに動きを止めた。
「もういいんだよ……憑りつくだの、操るだの、いいかげん……うぜえ……!」
「深井、意識があるのか!?」
灯太の問いに、ぎこちなく深井は頷く。
「ああ……この気味悪い奴に侵入られて……大体の状況は、理解……したぜ……バカナ! 抵抗デキル筈ガ……ソウカ、霊波天刃ノ波動ガマダ残ッテ……!」
異なる口調で、体の主導権を奪い合っている深井とメフィストが叫ぶ。
「だ、大丈夫なの? その状態は……?」
困惑する結女に、深井は首を縦に振った。
「俺は……コイツを抑えている……コイツの核は、九龍が相手にしている奴だ……お前らは、早くあっちに……! フザケルナ! 行カセルカ、新崎結女! ヤハリ貴様ノ方ニ……! 俺のことはいいから、行けぇ!!」
深井が叫び、結女はどうする? と灯太の方を見た。
灯太は深井をこの状態のまま放置してよいのかと思案する。
(新崎結女に乗り移られる前に、逃げるべきだ……けどこのまま、深井隆人がメフィストの支配に屈してしまったら……)
灯太は無力な自分に歯噛みする。
(くそ、ボクが葵お姉ちゃんみたいに九色刃の力を使えたら……いや、神楽のような霊術でもいい! 人外の者に通じる力があれば……!)
そこで、はたと気づいた。
(……神楽の霊術?)
灯太は、神楽と別れる前に渡されたものがあるのを思い出した。
慌ててポケットから出したそれは。
「!! バカナ、何故オマエガ、ソノ力ヲ……!」
神楽の神霊力が蓄えられた勾玉が、灯太の掌の上で輝いた。
その光を浴びた深井が、いや深井の中に潜んだメフィストの欠片が苦しげに喘ぐ。
「ヨセ……ヤメロォ……!」
「深井さん。そういえば管理棟で、ボクに一撃をくれてくれましたね」
灯太は霊力の満ちた勾玉を拳に握り込み、深井へと歩み寄る。
半歩の間合いで立ち止まり、八極拳の独特な構えを取った。
体力はギリギリ。この一撃に賭けるしかない。
「ヤメロ、ヤメ……根に持つ坊主だな……いいぜ、一発は一発だ。渾身の力で、打ってこい」
深井は彼らしい表情に戻り、ふてぶてしく笑う。
灯太も合わせてニヤリと笑った。
「グガガガガ……ヨセ……逃がすかよ! 打て灯太!!」
「消えろ巫婆! 心意六合、あまねく天下を打つ、崩拳!!」
メフィストの欠片を内に抑え込んで深井が叫び、灯太が応える。
半歩の間合いを震脚で詰め、神楽の霊力を込められた突きが灯太の拳によって繰り出された。
――ガアアアアアアアアアアアッ!!
弾かれるように、深井の背から黒い霧が吹き出される。
断末魔の叫び声とともに、魔力は夜の闇に欠片も残さず掻き消えていった。
***
「悪あがきは無駄のようだったな、メフィスト・フェレス」
朱焔杖を構えた紅華が、魔獣ヴイーヴルを睨みつける。
黒壊刃に撃ち抜かれたヴイーヴルは、同じく直也によってダメージを受けた邪龍ニーズホッグの元に飛び下り、傷を治癒していた。
反撃開始と意気込んだ直也だったが、兄の復活に気が抜けてへたり込んだ芹香の元に、まずは安否確認と駆け寄っている。
「芹香、すまない、俺は……」
「大丈夫だよお兄ちゃん。私は嬉しい。お兄ちゃんの力になれて」
「芹香……」
「だああっ!! 後でやれバカ兄妹!!」
ハジメが、麒麟製の退魔銃弾をライフルに装填し直しながら叫ぶ。
その間、武士は葵と共に、神威結界で力を使い果たし倒れた神楽のもとに駆け寄っていた。
「神楽くんごめん、僕が早く脱出できなくて、君をこんな目に……!」
武士の命蒼刃の力が、神楽を癒す。
瞬く間に神楽は意識を取り戻すと、武士の懺悔の言葉を聞いてその胸ぐらを掴んだ。
「誰に向かって詫びている、田中武士」
「えっ?」
「あの化け物と戦っているのは、お前一人か? その精霊の力がなきゃ、ボクたちは戦えないとでも言うのか? 自惚れるな、<偽りの英雄>!」
年端もいかない神道使いの少年にいきなり怒られ、目を丸くする武士。
その横で翠がクスリと笑った。
「そんだけ元気があれば大丈夫ねん。ま、神楽の言う通りよ武ちん。あたしら皆で、戦ってるんだからさ」
そう言ってウインクする翠に、武士は横の葵を見つめる。
葵も静かに頷き、武士も「うん」と力強く頭を振った。
「いいかげんにしろ、貴様ら。奴が回復する」
飛鴻の言葉に、一同は緊張感を取り戻し立ち上がる。
――グォォォォォォォン!!
――ガアアアアアアアア!!
魔獣と邪龍が咆哮を上げる。
並みの人間なら、その精神波だけで恐怖で気が狂うほどの、強烈な威圧感。
だが、この場にいる者で悪魔の叫びに心が折られる者はもういない。
「ひ、ひい……わ、私は逃げてていいですかね!?」
「柏原さんは、早く安全なところに」
直也の一言で柏原は走り去り、今度こそ心折れる者はいなくなった。
――潰す! 殺す! 殲滅する! 貴様らァアアアア!!
「聞き飽きたよ、それ」
武士が葵から命蒼刃を受け取り、霊波天刃の蒼い刃を発生させる。
「細切れにしてやる、メフィスト……行くぞ、武士」
直也が武士を、下の名前で呼んだ。
武士はまたも目を丸くする。
そして。
「……はい、先輩!!」
暁学園に入学したのは、憧れの先輩がいたから。
その先輩と、肩を並べて戦うことができる。
思い描いていた高校生活とは遠く遠く何光年もかけ離れた現実ではあるが。
その喜びに、武士は嬉しそうに頷いた。




