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「出生の秘密」

 エレベーターを出ると、そこは一見普通の高級マンションの共有フロアのようだった。

 ヤクザの親分が住んでいる場所ということで、仰々しい門構えなどを想像していた武士は、やや拍子抜けする。

 ハジメを先頭に廊下を進むと、ふたつ並んだ玄関ドアのうち、手前のドアが開いてエプロン姿の妙齢の女性が出てきた。


「ハジメ!」


 その姿を見て、ハジメは額を手の平で押さえる。


「おふくろ、なんで出て来んだよ……」

「ハジメ! あなたその血……どうしたの!?」


 女性はハジメの母親で、ハジメの服にこびり付き、既に黒く変色していた血に気づき青ざめていた。


「俺の血じゃねえよ。それより、すぐにジジイに会わないといけねえんだ。まだ起きてる?」

「起きてるけど……ああ、もうあなた、今度は誰を殺したの……」


 ハジメの母親は、両手で顔を覆う。


 ――今度は?


 その言葉を聴いた武士は全身の血の気が引くような感覚に襲われ、友人であるはずのハジメの横顔を見る。

 あまりの非現実続きに麻痺していたが、武士は剣道場でのことを思い出す。

 ハジメはあまりに慣れた手つきで、銃を扱っていた。

 そして正体不明の襲撃者たちに対して、躊躇うことなく発砲していた。

 慌てて止めた武士だったが、何人かはハジメに撃たれ、倒れていたことを思い出す。

 彼らは生きているのだろうか。


 ――ハジメが、人殺し?


 恐ろしい考えがおそらく事実であろうことに、武士は今更ながら足が震えた。

 ハジメは視界の片隅で武士のその震えを見て取って、絶望的な気分に落ちる。

 深いため息をつき、自分の感情を何も考えずに垂れ流すだけの、目の前の愚かな母親を見下ろした。


「ああ、ハジメ、どうしていつも……お父さんがいれば、こんなことには」


 母親は顔を覆いながら、その場にへたり込む。


「あの男がいたところで、なんになるってんだ! いいかげん黙れよ!」


 思わず感情的に叫ぶハジメ。

 そのハジメに、


「ハジメさん」


 時沢が肩に手を置いて声をかけた。


「お母様のことは私が。組長には簡単に連絡を入れてますので、ハジメさんは先に皆さんを部屋にご案内して下さい」


 そういうと、時沢は玄関前に座り込んだハジメの母親の肩を支える。


「……いつも悪い。時沢さん」


 ハジメは座り込んだ母親の脇を抜けて、母親が出てきたエレベーター近くのドアの前を通り過ぎる。

 そして奥の方の玄関ドアの扉を開けた。


「みっともねえとこ見せちまったな。入ってくれ」


 直也たちに家に入るように促す。

 開いたドアの奥に見えたのは、普通の広い高級マンションの玄関だった。

 直也と翠、葵は促されるままに玄関へと入り、靴を脱ぎ並べられたスリッパを履く。

 一人、武士が靴を脱ぐ前に立ち止まって動かずにいた。


「田中君」


 直也が立ち尽くたまま動かない武士に声を掛けるが、武士は動かない。

 その様子を見たハジメは、苦しそうに、しかしはっきりとした声で武士に告げた。


「武士。ナイン・サーガやってるときに話してたけど……俺んちは暴力団だ。母方の祖父が組長やってる。その時には言ってなかったけど……もう気づいてると思うけどよ、俺自身、もう構成員になってる。訓練を受けて……人を殺したこともある。本当は、お前の友達だなんて、言えるような身分の人間じゃねえんだ」


 俯き立ち尽くしたままの武士に、ハジメは身を切るような思いに耐えながら、話し続ける。


「任務とはいえ、暁学園に入学して、ネットで知り合ったお前と会って、クラスメイトやって、普通の高校生やって……俺は本当に楽しかった。頑張るお前を見て、俺も頑張ろうって思えた。お前を巻き込んで……すまなかったと思ってる」


 ハジメの言葉を、葵に翠、直也も背中越しに聞いている。

 それぞれ普通ではない生い立ちに育ち、人の生き死に関ってきた彼らにとっても、その言葉はまったくの他人事ではなかった。


「これだけは信じてくれ、武士。俺は無関係の、普通の人を殺したりしたことはない。そもそも御堂組は、普通のヤクザ組織じゃない。さっきの刃朗衆の支援組織うんぬんを置いておいたとしても、裏の組織なりに筋の通ったことだけをしてきた。奇麗事ばかりじゃねえけど……俺は……」


 言葉を詰まらせるハジメ。

 それ以上、自分のしてきたことを正当化できる言葉を彼は持っていなかった。


「武士……もう友達を続けてくれなんて言わない。さっきはあんなことを言ったけど、ジジイに聞いて、必ずお前の体を元に戻す。普通の高校生に戻す。だから今は、俺を信じて協力してくれねーか」


 翠は俯いたままの武士に言葉を掛け続けるハジメの横顔を、じっと見つめていた。

 少しの沈黙の後、武士は顔を上げる。


「あまりに」


 武士の表情は、ハジメが恐れていた、ハジメを拒絶するようなものではなかった。

 武士は、自分を恥じていた。

 自分は被害者だと。

 どうして自分がこんな目に遭うのだと。

 そればかりを考えていた。


 自分を騙し、利用していたハジメ。

 人殺しだったハジメ。

 そのハジメを責めて、拒絶していた。


 しかし、ハジメも苦しんでいたのだ。

 当たり前だった。

 ハジメも選んで御堂の家に生まれてきたわけではない。

 隠していることがあったとはいえ、家のことで苦しんでいたのは、ナイン・サーガで話してきた三年間で武士も知っているはずだった。

 自分が父親に認められないなどという苦しみよりも、遥かに大きな苦悩だったはずだ。

 その彼を、これ以上自分が追い詰めようというのか。


「あまりに、非日常なことがいきなりあってさ。まだ混乱してるけど……ハジメは、ハジメだよね」

「武士」


 笑顔はまだ出せなかったが、武士はまっすぐな瞳でハジメを見ることができていた。


「行こうハジメ。ヤクザの組長を待たせてるなんて、僕怖いよ」


 武士は靴を脱いでスリッパに履き替えると、ハジメの前に立った。


「……サンキュ」


 ハジメはとりあえずホッと息を吐き出すと、踵を返して廊下を歩き出した。

 すれ違いざまに、翠がハジメの肩を無言で軽く叩く。


「てっ……なんだよ」

「別に。さっさと案内しなよ」

「わかってるよ。リビング抜けた奥の部屋だ。ついて来な」


 ハジメは先頭に立って一行を案内する。その様子を葵は暗い瞳のまま見つめていた。


 ビルの十五階は、御堂家当主にして、旧清心会系御堂組組長である御堂征次郎と、その娘であるハジメの母親、そしてハジメとその兄の居住フロアだった。

 5LDKの広い間取りの家が二つ入っており、その家のひとつが征次郎の家で、隣がハジメ達の住まいだった。


 しかしハジメの母親は征次郎の世話の為に、征次朗の家にいることの方が多かった。

 ハジメは幼い頃に事故で体を壊した兄に代わり、御堂組の跡継ぎとして育てられた。

幼い頃より厳しい訓練を受け、時として必要になる戦闘要員としても役に立つように育てられてきた。


 ハジメの父親は、御堂組とは関係のない一般人だった。

 ハジメの母親がOLをしていた時期に出会い、ハジメの兄を身ごもった為に、御堂組に婿入りする形となった。

 父親はいわゆる普通のサラリーマンだった為、一般社会からいきなりヤクザの組長一家に婿入りすることになって、そのギャップに苦しみながらもなんとか折り合いをつけ、妻との間に第二子のハジメも儲けることもできた。

 しかし、その子供たちの教育方針も組長である征次郎に決められ、逆らうこともできず、ハジメが中学に上がる前に家を出たきり、戻らなくなった。


 ハジメにとっては、厳格な祖父の征次郎が父親のようなものだった。

 成長し、その類まれな運動能力と胆力から、中学に上がる頃にはハジメは征次郎に命じられる仕事をこなすことができる子供になっていた。

 その仕事は、普通の組員ではできない、中学生の子供だからできる、相手を油断させたところを突く汚れ仕事が多かった。

 征次郎の方針は、組のトップに立つべき人間だからこそ、汚れ仕事を知っておかなければならないというものだった。


 ハジメは祖父の期待に応える為、心に大きなストレスを抱えながら育った。

 そんな中で、事故以来引きこもりになっていた兄が、少しでも弟のストレス解消になればと薦めたのが、ナイン・サーガというネットゲームだった。


「このふたつ向こうの部屋だ。まず俺が会って簡単に事情を説明してくるから、ここに座って待っていてくれ」


 三十畳はあろうかという広いリビングで、これも桁外れに大きい革張りのソファを指してハジメは言った。


「全員で会って、説明すべきじゃないのか?」


 直也が一人で部屋に入ろうとするハジメを止めるが、


「一応、筋を通さなきゃならねーんだ。いきなり初対面の人間を、なんの説明もなしに会わせるわけにはいかねーんだよ」


 ハジメはそれを拒絶する。


「しかし……」


 なおも食い下がろうとする直也だったが、早くもソファに体を沈み込ませた翠が、それを止めた。


「まあまあ九龍さん。郷に入っては郷に従えって言うじゃん? 唯一生き残ってる支援組織のトップの不興を買ったら、後々やりにくくなると思うからさ? うおー、ソファやわらけー! 葵ちゃんも早く座ってみなよ」


 直也は仕方なく、ダイニングテーブルに並べられていた椅子を引いて座る。


「じゃ、すぐ戻るからよ」


 ハジメはリビングを出て行く。

 葵は翠に腕を引かれ、ソファに引き倒された。

 武士はすることもなく、ソファの上で重なり合っている葵と翠を見る。

 翠が葵に戯れつき、葵がそれを困ったような顔で引き剥がしている。

 重大な任務の失敗に落ち込み、本当にその失敗を取り戻す手段があるのかと気が気でない葵を、翠は見かねて、あえて明るく振る舞っているのだろう。


 あの二人はどんな関係なんだろうと、武士はぼんやりと考えた。

 どう見ても翠の方が幼いが、葵よりもひとつ上だという。

 葵は翠を「翠姉」と呼んでいるが、二人の顔は特に似ているわけでもない。

 会話の様子からも、本当の姉妹とは思いにくかった。


 それほど間があかず、ハジメがリビングに戻ってくる。


「じゃあ、ついて来てくれ」


 ハジメは短い通路を経て、襖で仕切られた部屋の前まで武士達を案内した。


「和室だから、スリッパ脱いで上がってくれ。組長。ハジメです。開けてよろしいでしょうか?」

「入れ」


 枯れた声が襖の奥から響く。


「失礼します」


 ハジメはゆっくりと襖を開けた。

 こちらも十畳以上はゆうにある、広い和室だった。

 部屋の照明は点いておらず、あかりは窓側に並ぶ障子越しの街明かりのみで、部屋の詳細な様子は分からなかった。


 部屋の中に人影は見当たらない。しかし、奥の方の黒い影の塊から先ほどの枯れた声が響く。


「すぐ閉めろ」

「わかりました。おい、早く入れ」


 ハジメが慌てて、直也たちを中に入れ襖を閉める。


「暗いか?」

「いえ、大丈夫です」


 ハジメの声から、かなり緊張して喋っている様子が武士たちに伝わってくる。


「お前がよくても、皆さんが見えんだろう。障子を開けろ」

「分かりました」


 ハジメは窓際まで行くと、障子を開け放つ。

 二重になっている一面のガラス窓から、町明かりが差し込んできて部屋の中を薄く照らし出す。


 黒い影の固まりは、和服を着て布団に横たわっている一人の老人だった。

 枕元には点滴の台や小型の酸素のボンベ、心音、脈のモニター機器が置かれ、無数の管を通して老人に繋がっている。


 武士たちは驚きを隠せなかった。

 とても暴力団の組長とは思えない姿だった。


「見ての通り、余命幾ばくもない老体でね。横になったままで失礼するよ」


 枯れた小さい声だったが、不思議と通る声で、離れたところに立っていた武士たちにもしっかりと聞き取ることができた。


「近くに来なさい。あまり大きな声を出すことができなくてね。部屋の電気も、すまないね。明かる過ぎると、目が辛いものでね。ハジメ、座布団くらい出さないか」

「はい」


 ハジメは急いで部屋の隅に積まれていた座布団を運ぶ。


「手伝うよ」

「サンキュ」


 武士はハジメと一緒に、座布団を老人の前に並べる。

 座布団は武士が触ったこともない滑らかな肌触りで、柔らかく、高級品であることが分かった。

 ハジメは老人の枕元に座り、向かい合わせになる形で葵、翠、直也、武士が座った。


「はじめまして。刃朗衆、命蒼刃の管理者、葵といいます」

「私も、直接は初めてお目にかかります。刃朗衆、碧双刃の使い手、翠です。英雄の情報ありがとうございました」


 葵と翠が征次郎に頭を下げる。征次郎は二人を見ると、その目を細めた


「ああ、あなた達が。無事でよかった。御堂組当主、御堂征次郎です。一年前、里への襲撃を防ぐことができず、申し訳なかった」


 謝罪の言葉を口にすると、征次郎は目を伏せる。

 近くに寄って座り、武士はようやくはっきりと組長の顔をよく見ることができた。


 歳は八十を越えているだろう。

 頬は痩せこけ、頬骨が浮かんでいる。

 光の加減もあるが肌は浅黒く、点滴などの管がなくとも病人であることは明らかだった。


「いえ……鬼島の台頭を止めることができなかったのは、御堂組のせいだけではありません。お気遣いなさらずに」


 翠が征次郎の謝罪に応える。

 幼い容姿にゴスロリの服装の翠が、先ほどソファでじゃれていた時と打って変わり大人びた言葉遣いで話すことに、武士は激しい違和感を覚えた。


「ご当主は、体の具合はよろしいのですか?」

「大したことはない。といいたいが、長くはないな。碌な跡継ぎが育たんで、こんな体でいまだに組長なんぞを続けているよ」


 ハジメは表情を硬くしたまま、何も応えなかった。


「当主」


 葵が、悲壮な面持ちで震えた声を出す。


「申し訳ありません。英雄、九龍直也との契約に失敗しました」


 葵は手をついて、頭を深く下げた。隣に座る翠も、一緒に頭を下げる。

 征次郎は、ゆっくりと翠の横に座る直也の顔を見た。


「お前か」

「はい。初めてお目にかかります。九龍直也です」


 直也は、背筋の通った美しい正座の姿勢で、まっすぐな視線を征次郎から逸らさないまま答える。


「鬼島の息子だな」

「はい」

「やはりお前が、予言の英雄で間違いなかったか」


 征次郎は、直也を見定めるようにその顔を見つめる。


「だが、お前に命蒼刃の力は与えられなかったというのだな」

「申し訳ありません」


 葵が顔を伏せたまま、震えた声で謝罪を繰り返した。


「……ハジメ」

「はい」


 征次郎は直也を見つめたまま、ハジメに声を掛ける。


「貴様は何をやっていた」

「俺は……刃朗衆のことも、予言のことも詳しく知らされてなくて……ただ九龍の動向を見張れ、正体を探れとしか」

「それで何も出来なかったのか」

「……申し訳ありません」


 うな垂れるハジメ。


「使えないやつだ」


 征次郎は吐き捨てるように呟いた。

 ハジメはキッと顔を上げる。


「始めから予言の存在や内容を知っていれば!……組長は知ってたんでしょう?そこのゴスロリ……翠という女には、九龍のことを英雄だと伝えてたわけですから」

「お前がノロノロしている間に、別ルートで調べがついたのだ」

「なら、俺に教えてくれても」

「貴様が一介の工作員だったら、連絡してやっていただろう。だか、お前はこの御堂家の跡取りだ。そのお前が、一から十まで知らされないと何もできんのか? 自分がどんな任務を与えられているのか、その背景を自分で調べようと思わんのか? 指示の通りに動くだけで、自らで考えて行動せん人間に、御堂組は任せられんのだ!」


 老いて病に臥し、細く小さくなったその体から発せられたとはとても思えない、鋭く張りのある声が、ハジメを打ち据えた。

 ハジメは何も答えられず、膝の上で拳を握り俯く。


「葵さん。翠さん。頭を上げて下さい」


 打って変わった柔らかい口調で、征次朗は頭を下げたままの二人に声を掛けた。


「……はい」


 二人はゆっくりと顔を上げる。


「葵さん。あなたはどこから、英雄の情報を手に入れられた?」

「諜報部の人間からです」

「やはりか。我らも同じだ。連中は真っ先に鬼島に潰されていたはずだったのだがな」

「私も知っている人物ではありませんでした。しかし、極秘であるはずの私の名前を知っていました。命蒼刃のことも。少なくとも刃朗衆のトップクラスの人間であることは間違いありません」

「そうか。鬼島に政権を奪われて以来、我々は横の繋がりを絶たれてしまっているからな。情報を守る為の相互の秘密主義が、仇となっていたな」


「当主」


 直也が征次郎に声を掛ける。


「私は、鬼島の私生児です。ですが、私はあの男のやり方を認めることが出来ません。あの男にこの国を任せていては、この国は滅びてしまいます」


「……だから?」


 征次郎は、横たわったままギロリと直也を睨む。

 直也の横に座っていた武士は、自分に向けられているわけでもないその視線に、身震いした。

 病に冒され、床に伏したままの老人の目とは思えない覇気が感じられた。

 心の奥底まで見破られそうな視線だった。

 しかし直也は、その御堂組組長の厳しい視線に怯むことなく、自らの決意を伝える。


「私はこれまで、自分なりのやり方であの男に対抗してきました。しかし、昨年の秋に奴がこの国の最高権力者になって以来、私とあの男との距離は開くばかりです。もし予言にあるような役目が私にあるのなら、私は奴を必ず倒します。その為に、九色刃の力を私にお貸しください」


 征次郎は、しばらく無言のまま直也を見つめていた。

 やがて、ゆっくりと口を開く。


「予言の通りなら、お前は父殺しとなるのだぞ」

「もとより、そのつもりです」


 その答えを聞いた征次郎は、天井を見つめて再び黙り込む。

 少しの沈黙の後、また直也に視線を戻した。


「しかし、命蒼刃は君を選ばなかった」

「それは……」

「それは違います!」


 葵が慌てて声を上げる。


「私がミスをしたんです! 焦りのあまり、説明もないままに契約を行おうとしたせいで……彼を刺すべき刃が、彼を守ろうとした人間を……刺して、しまったんです……」


 自己嫌悪のあまり、葵の言葉の最後は小さく、消え入りそうだった。


「彼を守ろうとした人間」


 征次郎は、初めて末席に正座する武士の顔を見た。

 武士は自分だけ名乗っていなかったことに気づき、慌てて挨拶をする。


「はっ……は、はじめままして……たたた田中武士しと言いましす…」


 床に臥してなお凄みのある征次郎を前に、緊張のあまり武士はろれつが回らず、声も裏返る。

 ハジメは思わず吹き出してしまった。


「ハジメ! この馬鹿者、何を笑っておるか!」


 征次郎が再び厳しい声でハジメを叱責する。


「す、すみません」


 ハジメは慌てて頭を下げた。


「武士君、はじめまして。ハジメの祖父です。ハジメが学校でお世話になっているようだね」

「いや、そんな、こちらこそ……」


 これまでの厳しい言葉から想像できない、「普通の親」らしい言葉に武士は驚いた。


「そうか。君が九龍君を身を挺して庇ったのか」

「す、すみません。僕が余計なことをしてしまったせいで、こんな……」

「何を言う。学友を身を挺して庇おうとする行為は褒められこそすれ、決して責められるものではない。君は胸を張っていいんだよ」


 征次郎は枕元のハジメの方に視線をやる。


「責められるのは、それを止めることのできなかったウチのバカ孫の方だ」

「……返す言葉もありません」


 ハジメは何度目だろうか、深く頭を下げる。

 あのふてぶてしい態度が売りのハジメが、こんなにも腰を低くする姿を武士は初めて見た。


「……いえ、すべては命蒼刃の管理者たる、私の責任です」


 葵がまた、頭を下げる。その葵を見た征次郎は、穏やかな声で武士に話しかけた。


「武士君。ウチのバカ孫はともかく、葵さんや翠さんは責めないでやってほしい。刃郎衆の子供達、特に葵さんや翠さんは、九色刃と予言の為に、人生を犠牲にしてきたのだ」

「人生を……?」


 武士は、並んで座る葵と翠の横顔を見た。二人は無言のまま畳を見つめている。

 征次郎は言葉を続けた。


「刃郎衆では、誰がどの九色刃の管理者や使い手になるか、すべて予言により決められておる。本人達の意思とは関わりはない。そして管理者や使い手は、特殊な訓練を幼いころより受ける。普通の人生を送る事など許されんのだ」


 葵と翠。

 自分の日常に突然の非日常を持ち込んで来た二人の背景など、武士は考えようとも思っていなかった。


「特に二人は、九色刃の中でも重要な力の管理者と使い手だ。幼少のうちより課せられた義務と期待は、とてつもなく重い。特に鬼島によって里を滅ぼされた後は、孤立無縁のまま、想像を絶する孤独な戦いを強いられてきただろう」


(任務を失敗するなら、切られて死んでいた方がマシだった)


 武士は剣道場での葵の言葉を思い出す。


「二人の出自も普通では考えられんものだ」

「当主、そのことは」


 翠は語ろうすると征次郎を止めるが、


「翠さん。この男達には話しておいた方がよい。そうしなければ、伝わらん」


 征次郎に諭されると、少しの沈黙の後、翠は微かに頷く。


「二人は、刃郎衆のいわば人体実験で生まれ育ってきたのだ」


 その衝撃的な単語に、武士は身を固くする。


「……人体実験?」


 驚いていたのは、直也やハジメも同様だった。


「あたしたちは……」


 翠は自らの口で語り始める。


「それぞれ、命蒼刃と碧双刃の為に生を受けた」


 ―樹々の王たる緑刃。一対の波斯国の刀は、その刃と同様に双子の女子にてその役目を果たさん。二は一となりて無限の力を得る。二が二のままでは、その役目中途にて終わるだろう―


 すべての植物を意のままに操る、驚異的な性能を持つ碧双刃の管理者と使い手は、予言により指定されていた。

 双子である。


 十七年前。

 その年、刃朗衆の里のある夫婦間に双子の懐妊が確認された。

 長く双子が生まれることがなく、管理者のいなかった碧双刃と契約させるべく、刃朗衆のトップ達は動いた。


 予言の通りであれば、ただの双子ではなく『二を一に』にしなければならなかった。

 そのため、支援組織の管理する特殊な病院で、かねてから研究されてきた悪魔の実験は行われた。


 受胎より日の浅いうちに、双子の胎児のうち片方の成長を促進させる。

 そして、もう片方の胎児を成長促進させた胎児の中に埋め込んだのだ。


 胎児型奇形腫という疾患がある。

 成人の体内から胎児の形をした腫瘍が見つかるものだ。

 母親の胎内で双子の相手を取り込んでしまい、そのまま成長してしまうことが要因とされており、極めて稀な症例だ。


 これを、翠は人為的に施術されてしまった。

 実験は成功し、彼女の双子の姉妹は胎児のまま彼女の腹部に宿ることになった。

 誕生後の手術で胎児には血管が繋がれ、生命活動が確認される。

 九色刃により魂の存在も確認されると、管理者となる為の儀式が行われた。


 どの九色刃でも同じだが、〈管理者〉となる為の儀式は、対象者の大量の生血が必要となる。

 一度の儀式で終わらせる為には致死量を遥かに超える血液が必要となるため、断続的に長い年月をかけての儀式となった。

 期間が長くなるほど大量の血が必要な為に、身体の成長に影響の出ない範囲での血液の採取では、儀式は大抵五年を超えた。


「五年……ですか」


 直也が目を見開いて、征次郎の言葉に反問する。


「ああ。生活に支障のない範囲での採血量では、ゆうに四~五年はかかる。それを九色刃の刀身に垂らしていく。輸血のようなものだ。血とともに、管理者候補の人間の魂の情報を、九色刃に移していく。ヨーロッパの錬金術師どもに伝わっていた儀式だ」


 征次郎は、語り続ける。


 翠の場合、五歳を過ぎた時から儀式は開始された。

 腹部に管を刺し、胎児型奇形腫から血液が採取され碧双刃に捧げられる。

 肉体的にはともかく、翠の精神的な苦痛は筆舌に尽くしがたいものがった。

 自分と胎児型奇形腫の立場は、手術時の施術者の指先ひとつで、たまたま決まったのなのだ。


 自分が彼女の立場なら、きっと宿主を妬み恨むだろう。


 儀式の度に、翠は底知れぬ罪悪感に苛まされ、儀式のあった日の夜は決まって悪夢に悩まされた。

 自分の腹を破り、赤ん坊の姿の妹が這い出してくる悪夢を。


 翠が十五歳のとき儀式は終わった。

 翠の体内に、脳もなく知性もなく、ただ魂のみがエネルギーとして使われるだけの〈管理者〉が誕生する。


 そして翠は、自らの心臓を碧双刃で突き刺して契約を行い〈使い手〉となった。

 九色刃の中で唯一、少なくとも外面上は一人で管理者と使い手を兼ねる存在となったのだ。


 命蒼刃の管理者も、予言により女児が指定されていた。

 生まれる年、月日まで指定されており、刃朗衆でその日に自然分娩で誕生した葵は、翠と同様に、生後すぐに刃朗衆の戦闘要員としての訓練が開始された。


 命蒼刃は、〈使い手〉を不死にするという性質上、内外の人間問わず狙われやすい存在だった。

 誰も、死ぬことのない体という誘惑には弱いものだ。

 もちろん九色刃の存在は外部には秘密であったが、内部の人間にその誘惑に負けてしまう者が現れることが、危惧されていた。


 そこで、葵は訓練や管理者となる為の儀式、そして任務上で必要のある人間を除いて、人の接触や交流を禁止された。

 そしてそれは、彼女の親も同様だった。

 親や他人との交流を制限され、ただ戦闘技術や任務の遂行義務だけを教え込まれた葵は、ひどく情緒不安定な性格に成長してしまった。


 戒律を守らなければならない。

 仲間を守らなければならない。

 しかし、仲間を信用してはならない。


 葵が八歳を過ぎ〈管理者〉の契約儀式を終える頃。

 葵は失語症に陥ったことがあった。

 彼女の戦闘技術の師匠であった人物は、葵がストレスにより神経障害にまで追い詰められていることを危惧し、友人を与えることにした。


 葵と同じく、生まれた時から九色刃の為だけに、九色刃の部品の一部となる為に育てられてきた同世代の少女、翠だった。


 二人は、自然と惹き合う存在となった。

 体内の胎児型奇形腫(いもうと)の影響か外見は実年齢よりもかなり幼く見えるとはいえ、葵よりも一歳年上の翠は、葵を実の妹のように可愛がった。


 葵の方も、極めて自然に翠を「翠姉」と呼ぶようになった。


 戒律を守れ。

 仲間を守れ。

 しかし、仲間を信用するな。

 そう教えてきた葵の師匠だったが、唯一翠のことは信頼し、協力し合ってよいと教えた。

 それは心の支えが存在しなかった葵の精神の為、絶対の味方の存在が必要だったということもある。

 だがそれ以上に重要だったのは、基本的に九色刃は一人の人間が重複契約ができない為、翠が命蒼刃の「不死」の力を狙うといった心配がなかったことだ。


 刃朗衆の大人たちの思惑の中で、こうして葵と翠は育った。


 碧双刃の力を扱えるようになってからの翠は、任務の為、度々里の外へと出ることも多く、長期の任務では東京などの大都市や海外に滞在することも多かった。

 その間、葵は一人里に残り、来るべき英雄との契約の為の訓練に明け暮れていた。

 潜入任務の訓練の為、町に出ることもあったが、基本的には里での暮らしが多かった。

 学校へなど行ったこともない。

 そんな普通の生活など、彼女にとってはテレビの向こう側の幻でしかなかった。

 普通の生活など、彼女にとってフィクションでしかなかった。


 薄暗い、広い和室の空気はピンと張りつめているようだった。

 翠が淡々と、自分たちの出自を語り終える。葵は身じろぎもせず、背筋を伸ばした美しい姿勢で正面を見据えていた。


 ぱたり。ぱたり。


「……武士?」


 ハジメがギョッとした顔で、武士を見る。

 武士の膝元に、目から雫が幾つも落ちていた。


「な……んで……」


 武士は自分が不幸だとは思っていなかった。

 しかし、父親との確執や母親の不在など、他人と比べて寂しい思いをしているとどこかで考えていた。

 葵たちの半生に比べたら、どこが寂しいというのか。どこが不幸だというのか。


「なんで……刃朗衆、っていう人たちは、そんな酷いことを……」

「日本の為だ」


 征次郎が葵と翠を見つめながら答える。


「ひいては、極東の平和の為だ。戦争中、我々は大変な兵器を作ってしまった。人の魂を道具とし、超自然の力を行使する術を手に入れてしまった。我々はこれを、悪用されることなく、管理していかなければならなかった」

「そんなもの……壊してしまえば良かったじゃないですか!」


 武士は立ち上がり声を荒げた。葵と翠は武士を見上げ、その突然の剣幕に驚いたハジメも


「ちょ、武士」


 組長の前だ、今は落ち着け、とでもいうように手のひらを武士に向ける。

 しかし武士は落ち着かなかった。


「そんな戦争の道具を守る為に、女の子ふたりの人生を無茶苦茶にするなんて!許されることじゃありませんよ!」


 拳を強く握り締めながら、武士は叫ぶ。


「君の言うことはもっともだ」


 征次郎は、自分に向って声を荒げる武士に気分を害することもなく、落ち着いた声で誠実に答える。

 そして、老いて横たわっていた体をゆっくりと起こした。


「ちょ、じい……組長!」


 慌てて征次郎の体を支えるハジメ。


「構わん。確かに、九色刃を破壊してしまうことはできた。兄も、開発者たちも、先の戦争が終結したとき、そのように考えていたようだ」

「だったら……」

「しかし白霊刃は予言していたのだ。九色の力無くして、更なる戦争の災禍を防ぐこと叶わぬ、と」

「更なる戦争……?」

「このままでは、再び大きな戦争に日本は巻き込まれる。それを防ぐ為には、九色刃の力が必要だと予言されたのだ」

「また、予言ですか」

「君が不審に思うのは分かる。しかし予言の力は本物だ。当時、日本の敗北による太平洋戦争の終結もその状況も、正確に予言されていた。もっとも兄たちは、開発者たちは、それを信じることができずに他の九色刃を開発し続けていたようだったがね。九色刃の開発にも、大勢の人間が犠牲となっていた。その者達も皆、戦争を終わらせること、愛する者を守ることを願っていた。その願いの為にも、再び日本を、世界を戦争の災禍に落とさぬ為に、九色刃の力は正しく行使されなければならない。その為に戦後、我々は刃朗衆を組織したのだ」


 日本よりも早く降伏したドイツにいた九色刃の開発者たちは、九色刃とその開発データを持って脱出し、日本へと帰った。

 その中途で日本も降伏したが、帰途において開発者の主要メンバーだった征次郎の兄は、事故に遭い死去する。

 遺書と九色刃、そしてその予言を受け取った征次郎は、戦後の混乱のさなか、占領軍にその存在を知られることなく、九色刃を守りその力を使い、予言された戦争の芽を潰すことを目的とする集団〈刃朗衆〉を作りあげた。


 その後、征次郎は御堂組という任侠一家を興す。

 刃朗衆をサポートし、裏の世界から日本政府との中継ぎをすることが目的だった。

 むしろ刃朗衆本体よりも重要な組織だった為、征次郎自らがそのトップに立つことになった。


 かくて、戦後その政権を担い続けてきた民自党と御堂組は裏で繋がり、時の政権に予言を与え、あるいは九色刃の超常能力で工作活動を行い、日本を守り続けてきた。


 しかし、そのバランスが崩れる事態が発生してしまった。

 九龍直也の父、元国防軍の司令官である鬼島大紀による政界再編で、御堂組と通じていた民自党の主流派が、政権中枢から追い出されてしまったのである。


 鬼島は、九色刃の存在を知った。

 そして、その力を手に入れようと画策している。力をつけている諸外国に対抗するため、軍事力も辞さないと考えている鬼島に九色刃を渡してしまえは、その末路は明らかだった。

 それだけは、何としても防がなければならなかった。

 例え、幼い少女たちの人生を犠牲にしたとしても。


 征次郎は苦しそうに咳き込んだ。

 ハジメが背中を擦る。

 若い武士の言葉に、征次郎は命を削るようにして、誠実に答えたのだ。

 武士はその場に再び正座する。重い言葉を受け取った武士だったが、すぐには言葉が出てこなかった。


「僕は……」


 それでも武士は、言葉を絞り出す。


「僕には、よく分かりません。でも、それでも、刃朗衆の人たちのやり方は、間違っているように思えます」


 初めはヤクザの組長を前にビクビクしていた武士だったが、今は征次郎の眼光を正面から受け止めて、ハッキリと自分の考えを伝えた。

 その武士の肩を、近くに座っていた直也が掴む。


「田中、そんな簡単な話じゃないんだ。確かに犠牲はない方がいい。しかし大きな力には責任が伴う。より大きな犠牲を防ぐためには、力を持った人が戦うしかないんだ」


 諭すように話す直也を、武士は曇りのない瞳で見据える。


「そんなの、葵さんや翠さんが犠牲になる理由になるんですか。先輩、初めて会った時に言ったじゃないですか。目的の為に人を殺していいなんてやり方、認めないって。二人は、普通の、幸せなはずの人生を殺されたみたいなものじゃないですか」

「それは……」


 一年前の春。

 屋上で直也は父の手の者に対して、確かにそう言った。

 武士はすべて、憶えていたのだ。


「大きな犠牲を防ぐためなら仕方がないなんて考え方、今の総理大臣と一緒じゃないんですか」


 武士のストレートな言葉に、直也は反論する言葉を失う。


「そこまでだ、武士君」


 直也を問い詰めるような口調になっていた武士を、征次郎は止めた。

 ハッとした武士は慌てて直也に頭を下げる。


「すみません! 僕……きっと先輩はこんなこと、とっくに悩んでいて……」


 自分が行き過ぎた発言をしてしまったことは、直也の表情を見てすぐに分かった。

 武士は畳に額を擦りつけるように、頭を下げ続けた。


「いや、いいんだ。顔を上げてくれ」


 直也は武士の肩をポンポンと叩く。


「なにも知らない……平和ボケした素人に……」


 葵の幽かな呟きが耳に入ってきた翠は、その横顔を見た。

 葵は武士を見ていなく無表情だったが、今の呟きは明らかに武士に向けた言葉だった。

 翠には、フォローすべき言葉が見つからない。


「組長さん、すみません。出過ぎたことを言いました」

「いや、今はそれで良い。そういう風に考えていてよい」


 詫びる武士を、征次郎は見据える。


「しかし、これからもその考えを持ち続けることは辛いぞ。命蒼刃の力を得た君は」

「当主、そのことなのですが」


 直也が、征次郎の言葉を遮るように身を乗り出す。葵も顔を上げて征次郎に縋るような視線を送る。


「なんだね」

「九色刃について、当主以上に詳しい方はいますか?」

「いや。行方不明になっている刃朗衆のトップも、私と同等の知識だろう」

「そうですか……」


 直也は一瞬視線を落とすが、意を決したように顔を上げた。


「当主、命蒼刃の契約を解除する方法をご存知ありませんか? 見ての通り田中は、ごくごく一般人です。力量的にも、性格的にも、〈英雄〉に課せられた使命を追わせることはできません」

「……」

「父殺しの咎は、俺が背負います。その覚悟はとっくに出来ているんです。命蒼刃の解除の方法を、教えて下さい」


 葵は正座の姿勢から、両手を前についてほとんど四つん這いのような姿勢で身を乗り出している。

 征次郎は二人の顔を眺めた後、静かに口を開いた。


「命蒼刃の破壊は、駄目だ。予言の遂行ができなくなる。それがなくとも、管理者と使い手の魂に致命的なダメージを与えるだろう」

「……それ以外には?」


 痛いような沈黙。誰かのゴクリ、と唾を飲む音が聞こえるようだった。


「藍染ノ刃、という九色刃がある」


 征次郎の言葉がその沈黙を裂く。


「秘密にされてきた九色刃だ。能力は〈魂の解放〉」


 一同は征次郎の顔を凝視している。次に出てくる言葉をお預けを喰らう犬のように待ち続ける。


「敵味方の魂を解放させ交流させることにより、そもそもの戦争の原因となる人間同士の憎しみ、無理解、わだかまりを消し去ることを目的とする九色刃だ。それを使い、葵さんと繋がった武士君の魂を解放すれば、契約の解除はなされよう」


「本当ですか!?」


 葵の厳しかった顔が氷が解けるように和らぐ。

 思わず隣に座る翠の服の袖を掴んで喜びを分かち合おうとしたが、翠の表情は厳しいままだった。


「翠姉……?」


 直也の表情も硬いままだった。


「それはつまり……」


 征次郎の次の言葉を促す。


「そう、そのような刃が残っておれば、そもそも君たちの出番はなかったのだ」

「どういう、ことですか……」


 葵が真っ青に戻った顔色で、問う。


「藍染ノ刃は、すでに失われておる。大戦後、開発者達がドイツから帰還する途中で、事故により破壊されてしまったそうだ」


 何度目であろうか、彼らの間を沈黙が支配するのは。

 葵は真っ青な顔で、その薄い唇と膝の上で握りしめた拳を震わせている。

 悲壮な彼女を見かねた翠が、その拳を小さい掌で握った。


「葵ちゃん……」

「他に方法はないんですか?」


 直也が絞り出すような声を漏らす。征次郎は静かに首を振った。


「命蒼刃の不死の力の要は、輸魂の秘法。使い手の魂を管理者に移す業だ。契約の解除の為には、どんな方法であれ武士君の魂を葵さんから戻さねばならん……ゴホッ」


 征次郎は咳き込む。

 そのまま前に倒れこみそうになる祖父を、ハジメは支えた。


「じ……組長、今日はもう話し過ぎなんじゃねー……ないですか」


 思わず素の喋り口調が出そうになる。

 本気で祖父を心配しているのだろう。

 しかし征次郎は、自分を支える孫の手を引き離した。


「大丈夫だ。……その魂を操る術だが、既に失われておるのだ。九色刃開発の際に、輸魂の秘法に関する知識を持っていたのはドイツの魔術師だけだったそうだ。しかし、彼らは戦後、軍の秘密研究に関わったものとして、全員処刑されておる。新たな九色刃の開発ができなかった理由も、そこにあるのだ」


 再び咳き込む征次郎。


「ゴホッ……術などの力に依らず……魂を解放する方法など……肉体の死しか方法はない……ゴホッ……」


 苦しそうに咳き込む征次郎は、そのまま座っていることができなくなった。

 ハジメは祖父を横たわらせ、咳をして苦しくないように体を横に向ける。


「九龍、今日はもう限界だ。もともと、そんなに長く話せる体じゃねーんだ」

「……わかった」


 ハジメの言葉に、直也は未練はあったが、老いた病人に無理強いすることもできず仕方なく頷いた。


「すまんな……今日は皆、泊ってゆけ。今後のことは明日、話そう」


 それだけ言うと、征次郎はまた苦しそうに咳き込んだ。

 ハジメが背中を擦ろうとするが、征次郎は手だけでそれを拒否し、武士たちを案内するように促した。

 ハジメは祖父の咳が落ち着くと立ち上がり、武士たちを部屋の外へと促す。

 武士たちも立ち上がり、静かにリビングへと歩き出した。

 翠はへたり込んだままの葵の肩を抱き、ゆっくり立ち上がらせて歩かせる。


 翠は葵を支えていたが、その表情を見ることは怖かった。


 葵が今、何を考えているのかが、怖かった。


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