「紅葉」
「直也、やめるんだ!」
鬼島は銃口をメフィストに支配された息子へと向ける。
このまま直也があの下賤な魔女の操り人形と成り下がるくらいなら、父親である自らの手で終わらせる。
瞬時に為された悲壮な決意は、しかし果たされることはない。
『鬼島下がれ! 何をしている!』
呉近強が鬼島の腕を引き、零小隊の放った銃撃から避けさせる。
次いで片手で自動小銃の引き金を引き、鬼島を狙った小隊員を撃ち倒した。
だが、ボディーアーマーに身を包んだ兵士は即座に起き上がり、回避行動を取りつつこちらに銃を向けてくる。
如何に対弾性の高い防護服に身を包もうと、衝撃によるダメージは生半可なものではない。
だがそれでも、零小隊の兵士たちは苦もなく起き上がってくる。もともと痛みを感じていないのだ。
生命活動を完全に停止させない限り彼らは何度でも立ち上がり、組織だった攻撃を仕掛けてくる。
呉が想定したのはあくまで巫婆単体を相手にした戦闘だった。
むろん、付随して起こる日本の軍事力との衝突を想定していなかった訳ではない。
だがそれは、軍を統括している鬼島が目的を同じにしている以上、本格的な衝突には至らないと考えていた。
だが実際は、北狼部隊は巫婆に支配され、その上で肉体的ダメージを意に介さない、全体として意識を統一した集団でひとつの生物のような戦力群となり攻勢を仕掛けてくる。想定外もいいところだった。
みすみす虎の子の戦力を敵に奪われた鬼島大紀に、呉は激しい苛立ちを覚える。
「鬼島首相。こうなっては零小隊を先に処理するしかない。我ら麒麟が相手をしよう。貴方はここを脱出し、巫婆の手にかかっていない戦力を呼び寄せるのだ」
だが呉は内心の苛立ちを押し隠し、日本語で鬼島に伝える。
鬼島は、湧き上る熱情を抑え、指揮官として冷静な判断を下す。
現状では、呉の提案に従うよりないということ。
「……田中君、申し訳ないが息子を頼む。殺してくれて構わない。直也を止めてくれ」
「鬼島……首相……!」
ギリギリと押し込まれる黒鬼の魔剣を霊波天刃で受け止めながら、武士は鬼島の言葉を受け止める。
鬼島は返答を聞くこともなく身を翻し、零小隊の攻撃を回避しながら、その場を去っていく。
「〈偽りの英雄〉、その男の相手は任せた。こちらは奴の置き土産の相手をしよう!」
日本語で叫ぶと、次いで呉近強も麒麟に指示を飛ばしつつ、離れて行った。
零小隊は直也と対峙している武士には攻撃を仕掛けて来ない。
魔女は、直也と武士の決闘を存分に愉しむつもりなのだろう。
「……ハッ。実の子の殺しを依頼するか、さすが俺達兄妹を捨てた男だ」
「九龍先輩! あの人は芹香ちゃんを助けようとしていた! 話を聞いていなかったんですか!? 鬼島首相がCACCを攻めようとしていたのは、病気の薬を」
「黙れ。お前を斃したら次はあの男だ。そして予言は成就される」
「白霊刃の予言は外れたんです! あの人にCACCと戦争をする理由はなくなった! この国を破滅に導く悪の宰相じゃあないんです!」
「黙れと言っている! アイツは悪だ! そして俺は悪を倒す英雄になるんだ! そして芹香が幸せに暮らす世界を守る。その為には、英雄の座を盗み取ったお前を斃さなくてはならないんだ!」
直也の憤怒に呼応して、黒鬼の魔剣が纏う闇の力が膨れがる。
黒光のオーラ自体が鋭利な刃物を形成し、
「死ね……田中武士!!」
霊波天刃を蒼光の刃を弾き飛ばす。
返す刀が、武士の反応しきれない速度で脳天から襲いかかった。
***
「……まさか貴様も、九色刃の攻撃を先読みできるのか?」
「いやいや、訓練の賜物、だよ」
紅華が放った熱線は悉く紅葉に避けられ、地面と木々に無数の線条の跡が残されている。
紅華は熱量を極限まで収束して放っている。
熱線を受けた樹木は焼き切られこそするものの、切り口が焦げるのみで延焼することはない。
おかげで、森林火災が発生する事態は避けることができていた。
「森を焼かないとは。貴様も甘いのだな、紅華」
「日本人に罪はあってもこの土地に罪はない。そんなことより、訓練と言ったな、貴様」
紅華は朱焔杖を構えながら、鋭く紅葉の挙動を観察する。
「銃口もない朱焔杖の狙撃を躱す訓練、そんなものをしたというのか?」
「九色刃を、敵に回した場合の、訓練だ。……紅華、私の名前を知っているか」
ナイフを構えつつ、唐突な質問を口にする紅葉。
意図を測りかねる問いかけに紅華は眉をひそめる。
「紅葉といったか」
「そうだ。紅の葉と書いて、紅葉だ」
語りかけながら、紅葉は跳躍する。
弧を描くように駆けて間合いを詰め、ナイフを繰り出した。
紅華は朱焔杖で弾き、返す杖で打突を繰り出す。
葵たちが固唾を飲んで見守る中で、ナイフと杖、体術による卓越した攻防が交わされていた。
ギィン! ガィン!
金属の打ち合う音が、夜の森に吸い込まれていく。
「関係のない話をして不意打ちか。貴様、本当に操られているのか?」
「魂に命令された、お前達への攻撃だけはどうにもならん。それに、関係のない話ではないさ、紅華。お前には話しておきたいことがあった」
メフィストに操られて以降、ぎこちなかった紅葉の語り口調が、徐々に滑らかになっている。
魔女の支配に抵抗できているようにも思えたが、それにしては攻撃が苛烈すぎた。
「話しておきたいことだと?」
葵を凌駕する技巧の蹴り技に、容赦のないナイフによる刺突。
斬りつけるのではなく急所を狙った突きが中心で、杖で捌く紅華は一瞬の気も抜けない。
山火事を避けたい紅華は最初から派手な炎の技を使うつもりはなかったが、近接戦闘に持ち込まれてからは、そもそもそんな余裕はなかった。
これでは翠も碧双刃の力を使うことはできなかっただろうと納得する。
「そうだ、麒麟の紅華。私の名は似ていると思わないか?」
「なにがだ」
「君の名前に、だ。君は紅の華。私は紅の葉だ」
「それがどうした」
激しい攻防を繰り広げながら、会話をする紅華と紅葉。
紅華は、紅葉の語りかけがこちらの集中を乱す為の作戦だと分かっていながら、彼女のどこか切実な思いを感じる視線に、無視することができなかった。
顔面を狙われた刺突を、頬を浅く裂かれながら紅華は首を振って紙一重で躱す。
その隙に足元を狙った杖の一撃を放つが、紅葉は予測していたように軽く躱してみせた。
「……あいつら、何しゃべりながら戦ってるんだ?」
ハジメは二人の超絶な技量を改めて思い知りながら、呟く。
「わかんない。師匠の名前の事を話してるみたいだけど……」
翠も固唾を飲んで見守っている。
植物を操り紅華を援護することも考えたが、紅葉が「お前達は下がっていろ」と言ったことに隠された意味があるように感じ、手出しを控えていた。
その横で葵も、同じように二人の戦いを見守りつつ、命蒼刃の力でリンクしている武士の感覚を共有し、彼の危機的状況を察していた。
本当なら今すぐにでも武士の元に駆けつけ、援護したい。
だが、下手に駆けつけた自分がメフィストの手に掛かり命を落とせば、武士の不死性も喪われてしまう。
超常の力を撃ちあう武士とメフィストの戦いに、葵が足手まといにならずに割って入ることは難しいだろう。
それに、今の状態の紅葉を放ってこの場を離れることもできない。
歯がゆい思いのまま、葵は二か所の状況を見守るしかなかった。
「刃朗衆に取って、名前は大きな意味を持つ。特に予言と関わる人間は、その与えられた役割に関する名づけをされることが多い」
まるで単純な作業をしながらとでもいう風に、苛烈な攻撃を繰り出しながら紅葉は語り続ける。
「命蒼刃の管理者には、葵。碧双刃の使い手には、翠。分かりやすいだろう?」
「……まさか」
思考する余裕のない紅華の耳に、入り込んでくる紅葉の言葉。
その意味するところが見えてきて、紅華は僅かに動揺する。
「そうだ。私はお前の持つ朱焔杖、その使い手となる為に生まれたのだ」
その動揺を見逃す紅葉ではなかった。
旋風の如き廻し蹴りが、紅華の側頭部を捉える。
「がっ……!」
弾き飛ばされる紅華。
追撃のナイフを繰り出そうとした紅葉は、しかし咄嗟に横っ飛びに体を跳ねさせた。
倒れた紅華の持つ朱焔杖から放たれた熱線が、半瞬前に紅葉のいた空間を薙いだ。
「……ナイスサポートだ、灯太」
紅華の意志に関わらず朱焔杖の力を引き出せる灯太。
ハジメに支えられながら、集中力を切らしてはいなかった。
紅華にトドメを刺そうとしていたら、紅葉は熱線で両断されていただろう。
「成長したな灯太。葵、翠、お前達も見習え」
「……そんなことより、師匠」
「どういうことですか? 師匠が朱焔杖の使い手になる!?」
灯太を庇うように前に立ちながら、それでも直前に紅葉の口から出た言葉に、二人は驚愕を禁じ得ない。
跳ね起きて朱焔杖を構え直す紅華も、それは同じだった。
「正確に言えば、なろうとしていた、だ。灯太を麒麟に攫わせて、同じくCACCに誘拐された何の罪もない女の子に朱焔杖と契約させ、日本の為に戦わせ続ける。そんな非道な真似を、私はさせたくはなかった」
ナイフを構え直し、紅葉は再び紅華に突貫する。
「くっ…」
「ダメだ姉貴! その女の話を聞くな!」
紅葉の話す内容に集中力を乱される紅葉は、先程までよりも更に防戦一方となり、ナイフを捌くので精一杯になった。
「いや、灯太も……お前らも、聞いてくれ」
「えっ」
「師匠?」
葵と翠も、紅葉のこれまでにない口調に思わず息を飲む。
「お前たち子どもに、重い宿命を背負わせて戦わせる。それだけの大人になるのは私は嫌だった。予言など知ったことではない。一人の人間として、年端のいかない幼子たちに戦闘訓練を受けさせて、外国に攫わせて都合のいい駒のように扱う。そんなのは絶対に嫌だった」
「師匠……」
初めて聞く言葉。
予言は絶対だと繰り返し、厳しい訓練を強いてきた師匠。
そんな彼女から出た言葉だとは、俄かに信じられなかった。
「おい……待てよお前ら。その女はメフィストに操られてんだろう!? お前らを動揺させる嘘に決まってるだろうが!!」
ハジメは叫び、銃口を紅葉に向ける。
「このままじゃ紅華が殺されるぞ! お前らそれを黙って――」
「待ってくれ、御堂ハジメ」
だが、制止したのは他でもない、戦っている紅華だった。
「私なら大丈夫だ。このまま話をさせてくれ」
「けど紅華――」
「この人の言葉に、嘘はない。それは刃を交えている私が一番分かる」
頸動脈を狙われたナイフの一閃を弾き返して、紅華は断言する。
「ありがとう、紅華」
紅葉は語り続ける。
秘めてきた自分自身の本心を。
それは、魔女の支配に抵抗する為、自分の意志を手放さない為にやむを得ないことだった。
自分の生きる目的を支えに、呪いを刻まれた魂を自分の手に取り返そうとしているのだ。
「紅葉というコードネームは、自分で名づけた。私は予言された九色刃の契約者ではなかった。だからなんだというのだ? それを言い訳に子どもが犠牲になるのを見て見ぬ振りをするなど、冗談ではない。生まれたばかりの灯太を出雲から攫ってきたのは私だ。灯太、お前は覚えていないだろうが、一時私は、お前の母の真似事をしたこともあったのだ」
「え……」
紅葉の言葉に、灯太は見えない手で胸を掴まれたような錯覚を覚える。
「乳飲み子のお前を抱いた、その腕に感じた柔らかさ。予言の通りお前を麒麟に攫わせて地獄のような運命に突き落すことなど、したくなかった。だから私は自らを紅葉と名乗り、せめてお前の朱焔杖の使い手として、この手で守っていきたいと思ったんだ」
「……だから、どうしたと言うんだ」
紅華は朱焔杖の打突を繰り出しながら、問いかける。
「結局貴様は、予言に逆らうことなく灯太を麒麟に攫わせたのだろう? 口でどう言おうと、結果的には灯太を見捨てているじゃないか!」
紅華の叫びに、一瞬紅葉の動きが鈍る。
その刹那、朱焔杖から放たれた熱線が紅葉の体を薙いだ。
「師匠!」
「師匠!!」
叫び声を上げる葵と翠。
だが、体を捻り文字通り紙一重で回避していた紅葉は、上半身のボディーアーマーを焼き切られながら、そのまま後ろ回し蹴りを放ち、紅華を蹴り飛ばした。
「くっ……!?」
「な……」
「し、師匠……?」
熱線で戦闘服を焼かれ、豊かな胸を露わにした紅葉。
月明かりが照らしていた、その肌には。
「……失敗したんだよ。幼い灯太に朱焔杖を握らせ、私の胸を突き刺した。弱いな、私は。自分で心臓を突き通すことはできなかったんだ」
一目で尋常でないと分かる刀傷が、無数に柔らかな双丘を傷つけていた。
数えきれないほどの、ためらい傷のような跡。
そして、背中にまで抜けている一つの大きな刺し傷。
何十針も縫われた跡が、女の肌を直視できないほどの惨たらしい傷痕に変えていた。
「……あなた、は」
「すまない紅華。いや、紅子ちゃん。……灯太。私は勇気のない大人だ。結局、刃朗衆の掟に逆らう事もできなかった」
半裸の紅葉は、悲しげに俯く。
「……葵、翠。お前達に運命に逆らう賭けのような真似までさせて、結局傷つけただけだったな」
「師匠……」
灯太が麒麟に攫われた予言の日。
テストだと称して、葵と翠に灯太を守らせた。
守り切れる筈もなかったのだ。
潜入工作と戦闘のプロである麒麟を相手に、まだ十歳にもならない女児二人で。
「そして去年、刃朗衆の里が北狼に襲われた。刃朗衆はほぼ壊滅し、葵と翠は逃げ延びた。そこで、私の役目は終わったと思った。だから私は一人、北狼部隊に潜入したのだ。予言の未来。それが本当に正しいのか確かめる為に。そしてお前達の戦いを少しでも助ける為に。紅華。灯太。葵。翠。お前達が少しでも早く、この血と刃と硝煙に呪われた世界から出て行けるように」
手にしたナイフを、紅葉は強く強く握りしめる。
その手応えこそが、子ども達を助ける縁であるかのように。
「師匠……」
初めて見るそんな師の姿に、葵は言葉を失う。
血を吐くような紅葉の告白に、葵は心を打たれていた。
――武士との感覚共有から、意識が離れてしまっていた。
「クカカカカカカカッ!! だけど残念だったねェ!? 紅葉!!」
(葵ちゃん!! 逃げて!!)
念話による武士の叫びも、もう遅い。
上空から悪魔の嬌声が降り注ぐ。
その音を聞いた人間すべてが、冷たい手で心臓を鷲掴みされたように身を凍らせる。
(なっ……!?)
(ぐ!? な、なんだこいつは)
(体が……!! 心が!! 動かない!!)
(こいつが……巫婆!!)
翠も、ハジメも、紅華も、灯太も、絶対零度の稲妻に打たれたかのように、指先一つ動かすことができない。
「うわああああっ!!」
紅葉がナイフを構え、地面を蹴る。
突進するその先は。
「師匠!!」
「葵! 逃げろ……っ!!」
悪魔が嗤う月光の下で兇刃が閃き、鮮血が舞った。




