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ヴェスバーナ暦1998年秋期2月5日 昼 南部大河
大河が割れた。比喩でも何でもなく、ただ割れた。いや、引き裂かれたというのが正しいか。敵も味方も関係なく、全てを引き裂いたのだ。
天空を何かが覆っている。ああ、それこそは誰も知りえない御伽噺の獣。竜の如き姿をした神の化身が天を覆っている。空のその彼方。この世界には概念すら存在しない宇宙へとその翼は広がっている。成層圏を突き抜けてそれは全てを見ろしていた。
それは勇者が使役する竜王の中の王。神竜。勇者とともに戦うためだけに生み出された最強の生命体。これは本物。ケイ・イトウは濃度の薄い分体だとしても、これは本物だった。
溢れ出す神気。ただ、そこにいるだけで、全てを押しつぶさんとする気は紛れもない本物。これこそが力だと言わんばかりに、ただ軽く腕を振っただけでこの惨状。アルストロメリアの兵士どころか、軽く魔族すらも消し飛ばして、地形を変えた。
これぞ勇者の力。打倒できるのならば打倒してみろ。白亜に輝くその獣は遥か眼下に立つ1人の少女を見下ろしている。
全てが消し飛ばされたこの場所で、唯一立っている存在。それは紛れもない少女だ。紅いドレスに黄金の髪。大人にはない可愛らしさがこの場にそぐわないそんな少女は、空を覆う化け物を見上げて笑みを浮かべている。
何がそんなにおもしろいのか。少女はからからと笑っている。鈴を鳴らしたようなその声で、心底面白そうに笑っている。
アリス・イン・ワンダーランド。彼女こそが、物語を読むことを許されたただ唯一の少女。なればこそ、伝説となった神の竜すらも打倒してみせよう。
「クスクスクス、ただの伝説が、朗読者を傷つけることなどありはしないと知りなさいな」
鈴を鳴らしたようなそんな可愛らしい声で、紡がれるのはこの世の詞ではない。それは詩。聞き取れる者のいないこの場所で、紡がれたのは詩。
神竜にすらその言葉の意味はわからない。否、認識すらできない。少女が謳っていることはわかっても、それがなんなのか音が、理解できない。
天高く、遥かな高み、成層圏すら突き抜けた神竜の頭上。そこに座すケイ・イトウは聞いた。その声を。その詩を。それは御伽話。彼の故郷に伝わる読み物。永遠の少女が紡ぐ詩。
それにつられて、三体の従者が現れる三月兎、チェシャー猫、イカレた帽子屋。
彼女の従者。彼女に連れ添っていた三人。その姿が歪み、消えて、そして一つになる。アリスの手には一冊の本。紡がれるのは物語。現れる怪物の名は、邪竜詩の怪物。
本が消えて、それは顕現する。空間を歪ませて、何もかもを歪ませて、この世界には概念すら存在しない宇宙にその翼を広げる。
成層圏を突き抜けて、アリスは彼と同じ目線へと立つ。ふわりと一礼をして、
「さあ、始めましょう? この滑稽な物語の終幕を。それを望んでいるのでしょう? 貴方では打倒できないのですもの。私もそう。でも、あなた自身が彼を殺すわけにもいかないから。だから、私に任せたのでしょう?
ふふ、任せなさい。滑稽な貴方だけど、貴方の物語は好きだったから、幕引きを手伝ってあげる。
あの子たちを犠牲にしたのだから、それだけの価値があるものがないと、私が、この世界を壊してあげるわ」
「言ってろ。所詮お前も■■だ。奴に遊ばれる駒でしかない」
「だからよ。だから、期待しているの貴方が賭けたモノに。さあ、始めましょう。ここには邪魔などいないのだから」
「じゃあ、始めるか。俺も賭けよう。お前を納得させることができることに。行くぞ」
「クスクスクス、来なさい」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
拳が、振るわれる。
それ一つが十人以上の男たちがいても足りないほどの巨大さを持つ凶悪な拳だ。神竜の拳。それがジャバウォックへと放たれる。大気すら超えたその先の宇宙で、拳が衝突する。
まるでそれは爆発だ。拳打であるがそれはまさに爆発と言ってもいい。大質量同士のぶつかり合い。同質の存在がぶつかり合うことにより全てを破壊する衝撃波が炸裂する。
だが、それがどうした。ここは概念すらこの世界には存在していない星の海だ。拳は既に大気のその向こう側で放たれている。
もとより、彼らの立つ南部の大地には何も存在しえない。最初の一撃で全てが消し飛んでいる。大地も何もかもがない。
故に、心配はいらない。心配があったとしても両者は容赦なく自身が従える獣を動かすだろう。彼らはそういうものであるし、どのみち結果次第によっては全てが滅ぶのだ。気にしたところで意味のないこと。
ジャバウォックが拳を振るう。それを神竜の拳がうける。爆発。腕が爆ぜている。だが、そんなもの意味はない。互いに外れた獣。そうであるならば、肉体の損傷などに意味はない。
高次元の存在ほど、肉体というものは意味を成さなくなる。魂こそが重要な存在。故に、高次元存在の戦いは魂の削り合い。
肉体のぶつかり合いにより、莫大な質量の削り合いを行っているのだ。肉体のぶつかり合いなど意味はない。だが、2人は戦っている。
そういう性質ではない。ケイ・イトウも。アリス・イン・ワンダーランドも。
故に、肉体のぶつかり合いとなっている。拳打の応酬。まずは、ただの殴り合いから。巨大な竜の殴り合い。それは衝撃だけで全てを消し飛ばしてく。
軽く振るだけでも地形を変えることのできるそれが、ぶつかり合っている。遥か遠く、星の海が悲鳴を上げていた。
一振りすれば数億が砕けていく。二振りすれば数十億。星の海を破壊しながら、互いの足元を破壊しないようにして、2人は戦っていた。
ジャバウォックと神竜。互いの拳打の応酬。まずは、引き分けと言ったところか。馬力が同じだ。本質は真逆だが、それ故に同質であるのと同じく、彼の怪物と彼の竜は鏡写しの化け物。その力もまた同じというわけだ。
「クスクスクス、楽しいわ。楽しいでしょう? 滑稽で滑稽で。ああ、なぜ、私たちはこんなことをしているのかしら」
遥かな高みで声が響く。弾け巻き起こる爆発をものともせず、遥かな高みに座したアリス・イン・ワンダーランドの声が響いている。
遥かな宇宙、ここは星の海。何もかもが遠く、ここには何もない。自らの足元の存在――ジャバウォックが戦っている。
それがたまらなく滑稽だ。おかしくてしようがない。さきほどはああいったものの、これはまさしく茶番だ。このようなことに意味などないのだから。
けれど、やらなければならない。なぜなら、打倒するために。彼の存在が必要とした勇者と朗読者ではなしえないそれを成すための前準備。
今、真下や地上で起こっている戦いもそう。全ては■を打倒するための準備でしかない。■は何をしても届かない。届かせるには、彼の者を引きずり出す必要がある。
そのためにこうしている。
「滑稽だ。ああ、そうだろう。こんなことしか出来ない俺もお前も。何もかもを消し去って、あいつ1人に託さなければならない。こんな戦いは茶番だ。だが、必要なことだ」
「ええ、ええ、そうでしょうとも、あなたはそう言うでしょう」
ジャバウォックの背後で、巨大な魔法陣が煌めく。数億と星の輝きの如く。それは全てを埋め尽くす。放たれる光の柱。世界どころか、次元すらも超えて、高次元の魂へと直接届かせる技。
神竜の背後でもまた、同じく魔法陣が煌めく。数億と星の輝きの如く。それは全てを消し潰す。放たれた光の柱。神の如き所業のそれは、ジャバウォックの放った光の柱を破壊する。
足場にしている星が消し炭にならなかったのが不思議なくらいの光景だ。もはや、常人には可視すらできない次元の戦い。誰もこれを見ていない。これを見ることができるのは、これと同一の存在のみ。
それはこの両者に他ならない。特異点と特異点のぶつかり合い。歪みが広がっていく。
世界の悲鳴が響いていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――世界のどこか。
そこに伊藤慶介は立っていた。今、全てを終わらせてきたところであった。傍らに立つのは次元の魔女となったイリス。勇者ケイ・イトウ。
もはや、何もかもが終わりだ。もうすぐ終わる。結果は誰にもわからない。だが、やるべきことは全て終わった。あとは、座して待つのみ。
「ククッ、楽しみや。ほんま、楽しみやで。なあ、ユーリ。頼むからはようきてや? でないと、全て終わってしまうで?」
人類と魔族の戦争は、人類の敗北で終わった。
だが、希望がないわけではない。
希望はあるのだ。まだ、かつての英雄は生きている。聖女もまた、健在。そして、何よりも、主役というべき者がいる。
「さあ、終幕の始まりや」
終わりは近い。
されど、それは終わりか。はたまた、違う何かなのか。
混沌が夢見る物語。
目覚めは近い。
少し短いですが、これで6章は終了ですね。
次回から最終章です。少々調整やら何やらがあるので、次回は投稿が遅れます。




