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ヴェスバーナ暦1998年秋期2月5日 早朝 西大海
西端。どこまでも続く海があるそこは、普段はとても穏やかな海だ。荒れたことなど歴史上ただ一度というほどに穏やかな海。
だが、今そこは、荒れていた。恐ろしいまでに。それはさながら海神の怒りか。
せり出した岩礁により生じる渦潮。振りしきる大雨と荒波は、白泡を生み、存在する全ての尽くを呑み込んでいく。船など出せば、刹那の時ももつことなく破壊されていく。
しかし、そこを進む船団がある。軍船だ。エストリア王国旗を頂く艦隊であった。人類が持ちうる最高の技術を持って作られた数千にも戦艦だ。
アグナガルドが守るのならば、攻めるのはエストリアの仕事なのだ。つまり、この数千にも及ぶ戦艦は、攻めるための軍勢。無論、本隊ではない。斥候ともいえる第一陣。橋頭堡を築きあげるためだけの軍勢ではあるものの、その軍団にしては明らかに通常の規模を逸脱していた。
もちろん、それには理由もある。それだけ今回の進軍を重要視しているということと、ここに王族がいるからだ。そのため、安全は最重要視された。気まぐれか、そのほかの感情か。余計なことではあるものの、そのおかげか第一陣は捨石にならずに済んだ。2人の英雄すら引き込み、もはや万全に思われた。
だからこそ、この惨状は少々予想外。だが、確信する。もはや、ここは魔の住まう海だ。その証拠に、岩礁がそこら中から立ち昇っている。いや、もはやそれは巨大な身体と言うべきか。触手とでも言うべきか。
それは今も兵士たちの眼前で蠢き、命を喰らわんと迫ってくる。それが海をかき混ぜて、更なる波を作りだし、船を呑み込む。
魔族とはなんと恐ろしいのか。それを痛感し始めた頃。いや、この戦端が開かれた時から、その2人は動いていた。
両者共に遜色のない英雄。
1000年の時を生きるエルフの英雄エルシア・ノーレリア。
アイシャールの英雄ジンクス・エアスト・ヴォルカー。
エストリア王国が誇る二大英雄はともにその猛る武威を発揮していた。
それは戦場を駆ける一陣の風。もはや、戦場が海だろうがなんだろうが関係ない。船上だけしか行けぬ常人の理など彼女には関係ない。
尋常ではなく精密な体捌きと重心移動、それに付随する身体能力により、エルシアの足は海を地として蹴っている。
発せられる覇気は迫る波を吹き飛ばす。その轟槍は容易くその巨体を打ち砕く。嵐の豪風の中を悲鳴の咆哮が駆け抜ける。
「さて、どれだけ貫けば、勝てないと悟るのでしょうか」
走り抜ける。海を。そこは大地と変わらない。引き込む腕など意味を成さない。尽くを貫いて、遍くその技は魔族を逃がしはしない。
空色の槍。血で染まってなお輝きは陰ることなどありはしない。むしろ、その輝きは増してゆく。
貫け、貫け、貫け。槍は、貫くからこそ。だからこその贈り物。握る手は更に力を込める。オリハルコンの槍はその剛力でも砕けることはない。水という不安定も何もない、ありえない場所に立っているだろうが、そんなものは関係ない。
海を割るほどの踏み込み。それによって生じた波は敵だけを流していく。エルシアは弾丸の如く巨岩の巨人へと向かう。
振りかぶられる巨岩の拳。エルシアに纏われる風が空を蹴らせる。トンッ、と気軽に巨腕へと飛び移る。そこからは神速であった。一瞬のうちに巨人の眼前へと肉薄する。
「おや」
エルシアの持つ槍、レヴォネノイトラールを今まさに致命の一撃を放とうとした。それは確実に巨人の頭蓋を貫通した。だが、それでも巨人は死することはない。もとより、この巨人は岩でできた代物。命などあるはずもない。
木偶人形。またはゴーレムという。土くれから作った人の紛い物。神に挑んだ人というものが作り出したできそこないだ。
だが、この場において、これほど効果的なものはない。守護においてゴーレムほど守勢に向いたものもない。
疲れない、死なない、巨大で、力も強い。更に、この手の戦闘用に作られたものはその極致にある。ただの木偶人形だと侮ることもない。彼らには痛みもないのだ。
それゆえ、相手が自身に取り付いたとして、自らが壊れようとも攻撃をやめることなどない。
自身の顔に向かって拳が放たれる。まぎれもなくエルシアを捉えるそれ。大きさとはそれだけで力だ。如何に速くとも、蟻ほどの大きさしかなければそれもたかが知れている。
これも同じ原理。小さなエルシアよりも大きなゴーレムの方が速いのだ。それはあくまで攻撃の速度的な意味合いであって、移動の速さではないのだが。このような場所では意味もなし。
大気を切り裂く轟音を響かせてその拳がエルシアへと迫る。
「まったく……このようなもので、私が止められるとでも? あまり、舐めないでもらいたいものですね」
目を見開く。凄まじき覇気の奔流が戦場を突き抜ける。その奔流を受けた者は尽くが崩れ去る。これこそが英雄の覇気。それだけではない、これは全てのものを支配するという王者の気質。ハイエルフと呼ばれるエルフの中のエルフ。エルフの王族の末席に名を連ねるエルシアだからこそ成し得た全てを呑み込まんとする覇気である。
空中に滞空し、良く通る透き通った声を戦場へ響かせる。
「さあ、来なさい。私がここにいる限り、艦隊には指一本触れさせはいたしません。それでも、来るというのなら、この槍の一撃を見舞いましょう」
ここから先へ進むのは死を覚悟しろ。そう、声高らかに告げた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
氷の道が海を走っている。前にある全て尽くを氷結させる絶対零度。絶対凍結を可能としているのは、その刀――氷雹華とジンクス・エアスト・ヴォルカーの特性だった。
ジンクスは疾走する。周り全てを凍結させて、1人、ただ1人、疾走していく。目につく全てを切り裂いて、渦の中心へと向かっていく。そこにはゴーレムの主とこの嵐を起こしているはずの存在がいるはずだった。
そう、この嵐は人工的なものである。なにせ、兆候もなく生じたのだ。自然発生したものではない。明らかに魔法の所業。故に、その原因を取り除けば嵐が止まると思うのは道理であった。だからこそ、ジンクスは向かっている。
戦力で言えば、エルシアが向かう方が良いのだろうが、今彼女は守勢に回っている。ジンクスにしても、指揮官にしてもそちらの方が良いと判断していた。損害を出来うる限り少なくし魔界へと踏み込むこと。それこそが最重要であるからだ。
それに、ジンクスからしたらエルシアよりも劣っているなどとは欠片も思っていない。それだけに、力を証明できる機会というのは願ってもないものであった。
刀を振るえば、彼の前に立ったものから消えていく。切り裂かれ、海の藻屑と化していく。それだけではない。凍った海の中で粉々に砕け散る。
そのまま海を凍らせて彼は走る。渦の中心へと。文字通り渦中の魔族へと。もはやジンクスの邪魔をする者はいない。いたとしても片っ端から切り刻まれていく。
だが、やはりただでは行かせてくれないのか、ゴーレムが迫る。
「邪魔をするな!」
それを一刀のもとに両断する。巨腕。十人以上の男が腕を回してようやく一周というほどに巨大なそれをバターでも斬るような気軽さで斬っていく。その両断面はまるで鏡の如く美しい。技術の高さというものが見て取れる。
普通の刀の切れ味ではない。もとより、繊細な刀ではこれほどまでに長い戦闘には不向きだ。刃こぼれしないオリハルコンの刀だからこそできること。満足するほどのことでもない。これくらいは当たり前。願うのはこれよりも先である。
「ん?」
不意に、全てが止まる。何かある領域を抜けた感触。ああ、そうだろう。どうやら台風の目に出たらしい。吹き荒れる嵐の中ここだけが静まり返っている。渦を巻く渦潮はそのままにどういうわけかここは酷く静かだった。
「チッ、なんだこれは。気持ち悪い」
酷く気持ちが悪い。ここにはあるべきものが欠けているように思えてならない。
「なるほど、そういうことか」
ここには決定的に生が欠けている。自分という存在を抜けば、ここには生きているものなど誰もいないのだ。ここにいるはずの嵐を起こしている主の気配すらない。
だが、いる。目の前にそれはいた。酷く醜悪な何かであった。元は無垢な少年少女たちだったと思われる異形の存在。どこからから持ってきた少年少女をバラバラにして、思うままにねじりくっつけていき華のような形をとった醜悪な生物。いや、もはやこれは生物とは言えないだろう。
嫌悪を通り越して哀れに思える。さっさと斬ってしまおう。ジンクスは思う。もはや、この少年少女たちのなれの果てに対して何かしらすることはできない。さっさと殺して開放してやった方が彼らのためだろう。
そう氷雹華の柄を握る手に力をいれた瞬間。醜悪なそれの顔の一つがジンクスを捉えた。
それは見覚えのある顔だった。記憶の片隅に存在する。かつて、闘技大会においてそこに参加していた少女だ。ネリアといっていた気がする。不思議な力――おそらくはギフトだろう――を感じたので記憶していたのだ。あのあとの騒ぎで意味を成さなかったが、まさかこのような場所でこのような形で、思い出すことになるとは思いもしなかった。
そんなことを思った瞬間。足場が消えた。形成していたはずの氷はその全てが消え失せる。力は解除していない。このような場所だ。エルシアができることはジンクスもできるが、より万全に戦うため安定した地面を作っていた。それが、いきなり消失した。
それが何等かの力であることを見抜いたジンクスは即座に海を蹴って異形へと刀を振るう。凝縮された斬気が飛ぶ。ただ斬ることだけに主眼を置き、それを突き詰めていった殺意の塊が異形に直撃する。
もとより回避できるはずもない。異形はまるで樹木のように渦の中心から突き出した岩に根を張っている。動きようがないのだ。そうなればその斬気は異形を両断するだろう。アイシャールの英雄と称えられ、エストリア王国にてエルシアと並びたてられる英雄であるジンクスほどの男が放ったのだ。間違えるはずがない。
だが、確定したはずの事象は起こらなかった。斬気は異形に接触する寸前で掻き消えた。
「カッ――!?」
それに驚愕するよりも早く、ジンクスの視界が急速にぶれる。それと同時に感じた衝撃。何かの攻撃を受けたのだとわかったのは、その場所に触手が存在していたからだ。まるで、今この瞬間に虚空から出現したかのように気配もなく、ただ現れた触手。それに殴り飛ばされた。
「クッ、どういうことだ」
気配を感じ損ねたなどということあるはずもない。自惚れるわけでもないが、隠行に長けた者であっても、確実に見つけ出すことができる。
何が言いたいかというと、この程度の触手の接近程度感知できないはずがないのだ。気配はまるで初めてそこで生まれたかのように感じた。
「なるほど、下種だな、これは」
おそらくはギフト。そう予測する。そうでなければ、これほどの不可解な現象を説明することなど不可能だろう。あのつなぎ合わされた哀れな少年少女たちはそれぞれがギフト所有者であり、その能力を十全に発揮できる。奏考えれば、納得もできるというもの。
これから戦うことを考えれば、非常に厄介極まりない。わかっているだけでもこちらの能力の無効化、防御、触手を生み出す。この3つ。おそらくは異形の頭頂部に存在する顔の分だけあると考えれば、まだまだ能力はありそうだった。
厄介な相手だ。そう認識する。ただ、だからと言って諦めるなどありはしない。斬気が届かないのなら近づいて斬るまで。能力が無効化されるなら使わなければいい。防御されるなら、それ以上の攻撃を叩き込むのみ。
逆にわかりやすい。それに、異形を操っている糸のようなものが見える。最低限、これを斬れば良い。そうすればおそらくはこの厄介な異形が止まり、本命が姿を現すだろう。ならば、やることは単純だ。
「斬る」
それに尽きた。
決まれば速い。ただ、それだけを行う。意識の切り替えに目を閉じて、開く。
一瞬のうちに異形へと肉薄する。見えない壁が生じるが、そんなもの凍りつかせる。ギフトに強さなどない。あるのはその能力だけ。ギフトとは限定的な魔法とも言える。限定的な方向で世界を塗り替える術をギフトという。
ギフト対ギフトの対決の場合。その勝敗は、どれだけ塗り替える力が強いかという方向に帰結する。つまりは、意思の強い方が勝つ。
単純な話だ。そして、それはジンクスに軍配が上がる。幾人もの少年少女の複合体という異形だとしても、ギフトを使うのは1人だ。1対1の構図は変わらない。
「凍れ!!!」
だからこそ、全てを凍りつかせた。それは一瞬しか保たない。だが、それでいい。一瞬でもあれば十分。氷を足場に跳ぶ。異形の頭上。その見えない糸を切り裂いた。文字通り、糸が切れたように動かなくなる異形。そのまま切り刻む。
『やっぱり、これじゃだめなのね』
そんな男の声が響いたと同時に、嵐が止む。魔界はもう目の前だった。




