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お待たせしました。
ヴェスバーナ暦1998年夏期1月21日 昼 交易橋上都市ヴェザリス宿屋
先程まで大泣きしていたのが嘘のように、アリス・イン・ワンダーランドは笑みを浮かべていた。
上機嫌である。
さながら、今まで土砂降りの雨が降っていたのに、いきなり雲一つない青空に変わったかのような急変化だ。
理由は、ユーリの連れてきた紫銀色の髪の少女の存在。
この少女、実は少女ではなかった。はじめに否定しておくと男の娘でもない。
彼女は、人形だった。それもただの人形ではない。まあ、喋って生きているかのように動く人形は、明らかにただの人形ではないのだが、それはこの際置いておく。
彼女は、本来アリスに売られるはずであった、稀代の人形職人ローズベルグが完全作の人形。第9番完全作リーゼロッテであった。
そう、ローズベルグの完全作と呼ばれる最高傑作の10体の人形は、まさしく生きた人形。人間と見分けがつかないほどの精巧さと生命感を持った、特異な人形である。
まあ、それはさておき、何故、怪盗黒薔薇に盗まれたあと、子供のアジトにいたのか。疑問が残る。
それは、リーゼロッテにもわからないらしい。気がついたらあの場所にいたとのこと。その後は、持ち主の証であるケースである魔晶を持ったアリスを探すため、子供を利用していたらしい。
それで、晴れてアリスの関係者であるユーリに出会ったのだ。現在は、魔晶の中に収納されている。
「フフフ、よくやったわお兄さん。まさか、リーゼロッテを見つけてくるなんてね。わたしの眼に狂いはなかったということね」
ああ、そうですか、とユーリは生返事をする。今まで大泣きしていた人物が、いきなりコロッと笑顔になって、こんなことを言えば、生返事になっても仕方ないだろう。
「あらあら、生返事ね。もっと誇って良いのよ。まあ、いいわ。お礼に100,000ロクーナよ。受け取りなさい」
アリスは、懐から札束を取り出すと、それをユーリに投げて寄越す。
ユーリが、こんなに貰っていいのかと聞こうとすると、
「良いに決まっているじゃない。当初の取引額は100,000,000ロクーナ。それが多少の出費はあったけど、それでも500,000ロクーナに抑えられたらのよ? その程度の端金、どうってことないわ」
そう言うなら、素直に受け取っておく。金は幾らあっても良いものだからだ。金がなくて困ることはあっても、金があって困ることはないのだ。
「なら、ありがたくいただくよ」
「フフ、素直なことは、良いことよ。
あ、あと、……わたしが、泣いていただなんて、誰にもいわないでね。言ったら、わかるわね? そのお金の意味もわかってるわよね?」
「わかってるよ」
言ったら殺すとアリスの眼が語っていた。
「さて……」
アリスが、銀の懐中時計を取り出し時を確認する。
「あら、フフフ、お兄さん、広場に行きましょう」
「何でだ?」
「いいからついてきなさい」
気になるのでユーリは、アリスについて宿屋を出る。がらんとした誰もいない広場が迎えた。
先程までの活気で溢れていた広場の面影はない。まるで住人が神隠しにでも遭ったかのようだった。実際は、気配があるので自宅にいるだけなのだが、
「何で、今? アリス、これは?」
何が起きているのか聞こうと振り返る。傘を差して、建物の影にいるアリスが目に入った。楽しそうに手を振っている。
「何――」
何をしているんだ、その言葉はユーリの口からでることはなかった。なぜなら、ユーリを透明な水の奔流が呑み込んだからだ。
流されないよう咄嗟に広場にあった彫像を掴む。
それから、しばらくすると不思議な現象が起きた。水が引いて、見えない壁を登っていき、街に水の屋根を作り出したのだ。中を魚が泳いでいる。
燦々と輝く太陽の光が透過して、ゆらゆらと揺れる虹の輝きを落とす。さながら水の中から太陽を見上げたような幻想的な光景。その光景により、水の中にいるかのような、何とも言えない不思議な感覚を感じる。
そんな目の前の幻想的な光景と、不思議な感覚に半ば茫然としたようにぼぅーっと、立ち尽くしていると、ユーリの耳にクスクスクスという笑い声が飛び込んできた。
笑い声の主は、当然アリス。
「フフフ、お兄さんずぶ濡れね。クスクス」
「何なんだ、これは……」
「ヴェザリス名物水廊よ。ここより上流の湖に住む主が、決まった時間に水を揺らすのよ。そのせいで、大量の水が川に流れ込み、こんなことになるの。アーチ状の屋根が多い理由は、水を流す為ね」
なるほど、とユーリは、生返事をして、ただ水の屋根を見上げるのみ。ずぶ濡れにされたことに対するアリスへの怒りは、この幻想的な光景を見たことにより、遥か彼方へと吹き飛んで行った。
今は、ただ心行くまでこの光景を目に焼き付ける。それだけであった。
********
「ハクションッ!?」
宿屋に入った瞬間、ユーリのくしゃみが部屋に響く。
「あらあら、風邪?」
「誰のせいだよ」
「フフフ、冗談よ。お風呂に入ると良いわ。沸かしてあるはずよ。ねぇ、帽子屋さん?」
「さあ? どうでしょうねぇ」
「沸かしてるみたいだから、どうぞ?」
ユーリは、言葉に甘えることにして風呂へ行く。宿屋はヴェザリスで一番の宿屋なので部屋に風呂があり、その風呂はかなり大きいようであった。
「闘技場よりは、居心地が良さそうだ」
そんなことを呟きながら、脱衣場で服を脱ぎ、浴室へ。予想通り、かなり広い。湯船はちょうどよく、しかも、高級品である、粉の石鹸まであった。労り尽くせりである。
考えて見れば、風呂というものは、かなり久し振りである。ヴェスバーナでは、風呂は基本貴族だけが入るもので庶民には、殆ど縁のないものだからだ。闘技場でも悪趣味過ぎて殆ど入らなかった。
やはりきちんとした風呂はいいな、と思いつつ、早速旅の垢を落としていく。現代ではパッと洗って、パッ湯船に浸かって、パッと上がる鴉の行水派の人間であったユーリだが、今回はじっくりと髪を、体を洗っていく。
垢と共に旅の疲れも落ちていくようで、気持ちがよい。一度ではなく、二度も洗い、ヴェスバーナに来た頃くらい綺麗になった。
「はあ、生き返る」
そして、湯船に浸かってくつろぐ。とろけそうなほど、良い湯に感じた。
「フフフ、まあまあ、お湯加減はどうかしら?」
「ああ、最高だ」
「あらあら、それは良いわね」
「…………は?」
「あら、どうかした?」
さも当然のように隣で湯船に浸かっているアリス。タオルのようなものは身に付けていない。未成熟な子供の肢体が目に入る。
状況を把握するのに、5秒。自分たちの状態を把握するのに5秒。驚きの叫びをあげるのに1秒もかからなかった。
「はあああああ!?」
「あらあら、いきなり叫ぶだなんてレディーに対して失礼よ」
「何でいるんだよ?!」
「何で、ってわたしも入りたかったからに決まっているじゃない。それ以外に何か理由が必要なのかしら?」
いや、確かにそうなのだが、そうではない。
婚前の男女が云々というやつである。
「フフフ、それなら問題ないわ。だって、何かあったら、全部責任はあなたですもの。わたしには、何の問題もありませんわ」
「おい」
酷い言い草である。だが、事実だ。根無し草な冒険者と、伯爵令嬢。人々が信用するならどちらか。当たり前に伯爵令嬢だ。
「ねえ、そんなことより髪、髪を洗って下さる?」
「こと――」
断ろうとしたら、叫ぼうとしやがりました。
はあ、とユーリは溜め息をつき、髪を洗うことに。
手に石鹸を馴染ませ、髪を傷付けないように洗う。金糸のような髪は、上質な絹のようにサラサラで、ふんわりとしている。指を通せばするりと抵抗なく通り、とても気持ちが良い。思わず唾を飲み込むくらい。
いやいや、と首を大きく振って気持ちを切り替える。断じてユーリは幼児趣味ではないのだ。
洗うこと集中する。そうしていると、
「フフ、手慣れているのねお兄さん」
「ん、まあな」
ユーリには、幼い頃、麻理の髪を洗わされた経験があるのだ。それも一度ではなく何度も、いやほぼ毎日。そこまで洗わせられれば嫌でも手慣れてくる。
洗い終えたら、お湯で流す。幾分金の輝きが、強くなった気がした。髪をまとめて結い上げ、乾いた布で包む。
「フフ、上出来じゃない。もう良いわよ。流石に、乙女の柔肌を触らすわけにはいかないもの」
「そうかよ」
見せるのは良いのか、というツッコミはなし。そんなことより湯船でゆっくりしたい。久方ぶりの湯船なのだ。堪能しなければ。
「――!?」
と思っていたら、いきなり風呂の床に押し倒されていた。
自分の上には、どこから、いつ現れたのかわからない、息の荒いメイド服の女が跨がっていた。顔は、服の上からでも圧倒的な存在感を示す双丘により見えない。ただ、垂れた長い白髪だけが見て取れた。
何が起きたのかまったくわからない。しかも、何故か動けない。
「あらあら、そう言えば、こうなるのは当然よね。まあ、春期1月――所謂3月――よりはましよね。今は夏期1月――所謂6月――だもの。そうよね、だって――」
三月兎ですもの。という、アリスの言葉は、最後までユーリの頭に入って来ることはなかった。
ただ、目の前の三月兎に麻理を相手にした時と同種の危険を感じていた。ついでに、腰の辺り、彼女の跨がっている辺りに、自分のものではない、冷たいトロトロの湿り気を感じていた。それだけで、自分にどんな危機が迫っているのかが、わかるというものだ。
三月兎、気が違った錯乱した兎として童話では描かれてる。三月に発情期の兎がおかしな行動をとるからだ。
さて、そんな三月兎の名を冠する彼女だが、勿論、気が違っている。詳しくは省くとして、程度の差はあれど年中発情期なのはまず間違いのない事実である。裸の男――正確にはまた違うのだが――を見たら、押し倒すくらいには、常に発情しているのだ。
「おい! 何とかしろよ!」
「フフフ、わたし、男女の肉体交渉に興味があるの。見せて下さる?」
ユーリは、ふざけるな、という怒気の全てを視線にのせてアリスを睨む。
「クスクスクス、ああ、怖い怖い。そんなに睨まれたら、わたし怖くて逃げ出してしまいそうだわ。クスクス、それに、そうなった兎さんは、わたしでも止められないもの」
そんな死刑宣告を残して、アリスは湯船に浸かってしまう。
それを皮切りに、三月兎がユーリへと体を倒す。魔乳とも呼ぶべき至高の双丘が押し付けられる。柔らかいなんてものではなかった。
更に、三月兎の熱っぽい吐息が耳にかかり、えもいわれぬ感覚が体中を駆け巡る。
深紅の瞳がユーリの瞳を射抜く。ユーリの体から力が抜けた。
そして、
――称号『兎の蜜夜』を取得しました――
・
・
・
気がついたら真夜中になっていた。昼過ぎからの記憶がいっさいない。そして隣には、裸で抱き付いてきている三月兎。妙に艶々している。
「…………」
無言で、三月兎を引き剥がし、湯船に浸かる。未だに温かいそれは、ユーリを包み込む。
「ふう……良い湯だ」
とりあえず、全て忘れることにした。
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「クスクスクス、やっぱりお兄さんって面白いわ。本当に面白い。あんなものを持っているし、能力的にも、思考的にも問題ない。普通なら態度に問題アリだろうけど、わたしは好きね。
どう思う帽子屋さん?」
「おやおや、アリス・イン・ワンダーランドが、私に聞きますか? さあさあ、どうも思いませんよ。私には思考の自由などないのでねぇ。知っているでしょうアリス・イン・ワンダーランド?」
「さあ、知らないわ。そんなこと。わたし子供ですもの。ねえ、猫さん?」
「…………」
チェシャー猫はニヤニヤと笑う。そこには、肯定の意思が見て取れた。
「フフ、フフフ、良いわ。流石猫さんね。帽子屋さんとは大違い」
「おやおや、気まぐれ猫が何を言いますか。いや、何も言ってませんがねぇ」
「…………」
「この調子なら、問題ないわね。さて、どうなるかしら」
アリスは呟きながら、窓の外を見る。
丸い月が空一面に広がっていた。
「本当、どうなるのかしらね」
この世界は。
その呟きは、窓の外に消えて、月が飲み込む。
月は、嘲笑うかの如き笑みを浮かべていた。
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某所 世界の果て。
紫と朱に輝く空の不思議なその場所にいるのは、エストリア王国での王都襲撃事件の際に石版を盗み出した、朱髪のメイドアリッサと、肩を大きく露出させた薄紫色の着物を着た赤と紫、青のグラデーションのかかった髪の女性団長。
そして、ストロベリーブロンドにシックでゴシックロリータチックな魔女ですと自己主張する服装が特徴的な魔女イリス。
「へぇ、あんた自らお迎えとは、随分気前が良いねぇ」
「そうでもないわー。イリスちゃんが出掛けようとしたら、たまたまあんたらに会っただけだから」
「本当にそうでもないですね。はあ、まったくツイてな。というか、ここはどこよ」
「まあ、それはそれとして、アレ、手に入ったの? トモエ?」
イリスの問いに答える団長――トモエは、答える代わりに奪って来た石版を見せる。
「ほら、アリッサちゃんが、手に入れてくれたよってね」
「ちゃん言うな」
「そう、なら良かったわ。私は、これから鍵を取りに行く」
「へぇ、あんた自ら動くってのは、どういう風の吹き回しだい?」
「姫と、覇王が動く、と言ったらわかるかしら?」
トモエの雰囲気が変わる。
「へぇ、そいつは面白い」
「え、何?」
1人、アリッサだけ話がわからなくて置いてけぼりを食らっている。
「なら、あたいに行かしてくれよう。子守にゃあきあきしてたとこだし。何より、第四世代として、第三世代とは戦ってみたくってねぇ。あんたの労力も減るよ」
「ありがたい申し出――」
イリスの帽子のつばがすっぱりと切れる。
トモエがいつの間にか大鎌をイリスに突きつけていた。
「ケチケチすんなよ、なぁ? あたいが行くってんだぜ?」
「…………」
一触即発の空気が流れる。魔力が高まっていくのが肌でわかる。
アリッサは、巻き込まれたくない一心で全力で逃げ出そうとしていたが、体が動かなかった。
そして、否応なく高まった空気が破裂しようとした時、
「やめましょ~ね~」
ふんわかとしておっとりとした声が、その空気をぶち壊した。
「空気が壊れたねえったく」
「起きたのね」
暗闇の中からやって来たのは、青い髪をしたおっとり系の母性的女性だった。
「え~っと、何の話だったかしら…………確か、今日の晩御飯の話だったかしら」
「「違う」」
「じゃあ、明日の朝」
「「違う」」
「じゃあじゃあ、明後日の」
「「違う」」
「じゃあじゃあじゃあ」
「「違う」」
え~、なら何? と首を傾げる青髪の女性。
「鍵よ」
「あ~、なら、わたしが行くわ~」
そう言った瞬間にはもういなくなっていた。2人は、止める間もなく、役目を簡単にとられてしばらく茫然としていた。
「なんなのよ。アレ。まあ、いいわ。それよりも、私が盗んだアレの報酬、まだもらっていないのだけれど」
アリッサが、思い出したかのようにトモエに言う。
「ああ、忘れてたよ」
「え?」
いきなり視界が逆さまになった。天が下になり、地が上となっている。それが、元に戻ったと思ったら、首のない自分の体を見上げていた。
「な、に?」
理解する前に、自分の視界を過去が駆け巡る。走馬灯というやつだった。
アリッサは、孤児であった。物心ついた時には、クソッタレなスラムにいた。そこで、1人、盗み、殺し、なんでもやって生きてきた。幸いなことに、彼女は高い戦闘能力を有していた。
そのうち、戦争が始まる。傭兵として各地を転々とした。そんな時だ、物好きな男に出会った。そんな彼にメイドとして雇われた。
しかし、戦争で死に、また逆戻り。
それの繰り返しの人生だった。
「よく役に立ってくれたよ、アリッサちゃん。だから、お礼。あたいが生者にしてやれる、最大級のお礼だよ。ありがたく受け取んな」
“死”っていうね。
アリッサの意識は闇へと沈んだ。
「残りはいくつだい?」
「まだまだよ」
「そうかい、なら、あたいはあたいらしく仕事に行くとしましょうかねえ」
鎌を担ぎならがら、トモエは軽く言って、闇の中へとその歩を進めた。
実家に帰省中。あまり執筆時間がとれないのと、ちょっとスランプ気味で更新が遅くなりそうです。
とりあえずネタとかキャラとか募集中。




