仁さんとあたし‐喫茶店と進路‐(女子高生×28才喫茶店経営者)
高岡仁さん(ジンさん、じゃなくてシノブさん、だ)は、母の友人、知子さんの弟だ。私より十一歳上の二十八歳で、駅の近くに店を構える喫茶店のマスターをやっている。
仁さんのお祖父さんが趣味で開いたというその店は、昼は喫茶店、夜はバーとして馴染みのお客さんに親しまれている。というか、駅に近い割には一本奥まった道にあるせいで新規のお客さんが立ち寄ることはほとんどない。隠れ家的といえば聞こえがいいけれど、常連さんがいなければやっていけない、むしろ常連さんがいても赤字すれすれの経営状態で、常連客の中では密かにいつ店が潰れるか賭をしている人もいたりする。
そんな店だから、私は週に何回か売上に貢献するため店に通っている。といっても所詮は高校生の小遣いの範囲内。私が通ったところで経営がどうにかなるわけじゃないのだけれど、なにもしないでいるよりはマシだろうと、せっせせっせと足を運んでいる。
しかし、当の仁さんは喫茶店の売上げなどあまり気にしていないようだ。趣味の株で儲けてはそれで店の赤字を補っている。どうやら喫茶店の経営よりもそちらのほうに才能があるらしい。マイナスだった売上げを、株の儲けでプラマイゼロどころかプラスにしてしまうところ、すごいとしかいいようがない。株が趣味なのか、それとも喫茶店が趣味なのか、一度尋ねてみたいものである。
「そりゃあ、喫茶店の経営が本業なんだと思うよ……多分」
語尾で大分自信がなくなったね、龍治くん。
気まずげに目をそらす彼は、この店唯一の従業員、宮澤龍治くんだ。仁さんの二つ下の二十六歳で、お祖父さんの代からこの店で働いている。中卒でそのまま働きだしたらしいから、従業員歴かれこれ十年になるはずだ。のに、料理や紅茶、コーヒーを淹れるセンスは今一つ。先ほど淹れてもらった紅茶は、一口飲んだきり、すっかり冷めている。
「なあ、そんなにまずい?」
「うん」
自信なさ気に聞いてくるのを、バッサリと斬ってやる。ガックリ肩を落とす彼を哀れに思わないこともないけれど、はっきり言ってやらなきゃいつまでたっても伸びはしない。龍治くんは私が残した苦くて薄い紅茶を飲みながら、うーんと首を傾げた。
「今日はうまくいったと思ったんだけどなあ」
でたよ、お決まりのセリフが。その紅茶の、いや、紅茶のなり損ないのどこがうまくいったと思うのか。薄いのに、渋みが強くて苦い。香りと色だけが辛うじて紅茶らしさを主張しているけれど、間違っても美味しいなんていえたものじゃない。普段仁さんの、逆の意味でびっくりするほど美味しい紅茶を飲んでいるから、尚更だ。
それなのに、龍治くんはいつも「今日はうまくできた」なんて言って嫌がる私に味見をさせる。その度に私は騙された、と彼を恨みたくなるのだが、本人は嘘をついたつもりはなく本気でうまくできたと思っているから手に負えない。彼の味覚はどこかイカれてしまっているんじゃないだろうか。常々不思議に思っているのだけど、口に出したことはまだない。
龍治くんは相変わらず首を傾げたまま、すっかり飲み干して空になったティーカップを洗い始めた。
店内にお客は私だけ。夕方という中途半端な時間だから仕方ないのかもしれないが、これがたとえお昼であったとしても人気のなさは変わらないのだろう。あまりの客の少なさに、店主は役に立たない従業員一人残してどこかに行ってしまっている。気だるい外国の音楽と、カップを洗う水音をBGMに、私は一人まぶたを閉じた。
「里穂、りーほ、ほら起きろ」
ゆさゆさと揺さぶられる振動に、私は「んん……」と唸って目を開いた。
眠る前に真っ赤に染まっていた夕焼けは、いつのまにやら濃紺の夜空へと塗り替えられている。ごつごつした大きな手の平にぺしり頭を叩かれて、私はその手の主を見上げた。
「仁さん、おかえりぃ」
「はい、ただいま」
パチンコにでも行っていたのか、仁さんは戦利品の中から板チョコを取り出して私に放る。種類は私の大好きなイチゴ味。小さい頃から変わらず大好物のそれを、仁さんは「里穂はいつまでたってもお子様だなあ」と笑いながらも、いつも私が来るときは用意していてくれる。明るい茶髪に少し近寄りがたい容姿の彼だけど、私には優しく甘い良いお兄さんなのだ。
「店に来るのは別にいいけど、お前ちゃんとママに言ったか?」
「言っ……たよう」
「嘘付け。さっき由里さんから俺んとこに電話きたぞ」
由里、つまりはうちのママから電話があったなら最初に言ってくれればいいのに。試すような質問はずるいと思います。と目で訴えれば嘘をつくほうが悪いとデコピンされてしまった。仁さんのデコピンは物凄く痛いのに。酷い。
「さ、送ってってやるから帰るぞ」
「ええー」
「なにが『ええー』だ」
声真似しないでよ、キモチワルイ。
「だって、まだ仁さんの紅茶飲んでない!」
お客としてきたのだ。龍治くんのまっずい紅茶は飲んだけど(正直、飲みたくなかったけど)、やはり喫茶店に来たからにはマスターの美味しい紅茶を飲みたいじゃない。ちゃんとお代だって持ってきたんだよ。
「……しょうがねえなあ。これ飲んだらちゃんと帰れよ」
流石仁さん! 甘やかし上手!
なんて口に出したらまたデコピン食らうこと間違いなしなので、イエッサーと敬礼だけしておいた。それでも「調子いいやつ」と苦笑はされたけど。
ヤカンで水を沸かすところから始める仁さんに、私はさっきもらったイチゴチョコを食べながら待つことにした。じきに、シュンシュンとお湯が沸く。それを茶葉の入ったポットに入れて、しばし蒸らす。ゆったりと流れていく時間と、手際いい仁さんの動きを眺めるのが、私は好き。
紅茶の香りに癒されて、仁さんの話術に心を軽くする。
この店に来る常連さんが、やる気のない経営者に呆れつつも長年通い続けるのは、そういった魅力があるからかもしれない。
「お前さ、」
出来上がった紅茶をカップに注ぎながら、仁さんが言った。
「なに?」
紅茶を受け取りながら首をかしげると、「あー、えっと」仁さんは少し気まずげに頭をかいた。
それから、少しして口を開く。
「進路、どうすんの」
躊躇ったわりにはストレートな問い。
どうするって言われてもなあ。高校二年の三学期。そろそろ卒業後の進路に向けて準備をし始める時期だ。周りの友達が大学進学や就職、留学なんかを考える中、私は何の考えも浮かばずにいた。どこの大学に進学するとか、どの企業に入りたいだとか、そういった具体的なことは皆まだ決まっていないけれど、でも進学か就職かさえも、私は決められずにいるのだ。
先日、進路調査表を配られた。
真っ白な未来に、突然予想図を描けと言われてもさっぱり思いつかない。帰宅後に待っている両親との話し合いを避けて、逃げるように仁さんの店に避難してきたのだ。
「どうしようかな」
仁さんの質問に、へらりと笑いつつも本音で返す。内心どきどきしながら応答を待っていると。
「まあそうだよな」
仁さんの気の抜けた声が聞こえてきた。
「あんまり気負うんじゃないぞ」
ぽんと頭を撫でられ、その後「どこにも行く場所がないんだったら、俺の店で雇ってやるよ」なんて冗談をいう。
「私、こんなに上手に紅茶淹れられないよ?」
「大丈夫、大丈夫。唯一の店員龍治があんなんだから」
「それに、接客も上手くないし」
「そぉかぁ? 常連の客とよく話し込んでんじゃねーか」
「仁さんこれ以上従業員増やしたら店潰れちゃうんじゃない」
「それは、大きなお世話だ」
へへへ、と笑い口に含んだ紅茶の味は、やっぱり極上なのであった。