春にまどろむ(貴族の少女×奴隷の青年)
――夜を抱く瞳。
垢まみれの頬を、小さな白い手が包む。
檻の向こうの人間は、皆自分たちを“物”のごとく眺めていたのに。
ぱっちりと大きな瞳に覗き込まれ、ただ戸惑いばかりが生まれて消えた。
※※※※
「かーいとぉぉぉ!」
うとうとと空を見上げていた視界に、春らしい桃色が飛び込んでくる。
ふんだんにレースが用いられた、少女に似合いの可愛らしいドレス。
「……シエラ」
遠慮なしに体当たりしてくる小さな身体を抱きとめ、名を呼んだ。
「カイト! 見つけた」
にっこりと笑う少女は確か今年で十四になるというのに、幼い頃とまるで変わらない。
女性らしいしなやかな身体つきへと変化する外見とは反対に、中身は出会った頃そのままのように思えた。全く慎みの欠片もない振る舞いに、侍女頭のマーサが頭を抱えるのも分かる気がする。
「シエラ、勉強は?」
「えへへ」
耳を澄ませば屋敷の方から甲高い声が聞こえてきた。
「また抜け出してきたのか……」
今頃屋敷の者たちが必死になって少女を探していることだろう。
呆れる視線を無視し、シエラはいそいそとカイトの横に寝転がった。
「少しの間かくまってちょうだい」
上目遣いで言うシエラに、カイトはなにも言わず腕を差し出し、枕を提供した。
※※※※
人を売り買いする奴隷市場。檻に入れられ、檻の外の人間に“商品”として認識される青年は、貧しい村の生まれだった。
食べるものがない、親もいない。腹が空いたら人から奪い、そうしなければ生きていけない世界に、彼はいた。ある時ヘマをして奴隷商人に捕まってから、こうして“商品”として人々の前に晒される。
男のドレイは力がある。消耗品のように、休みも食事も満足に与えられず働き続ける日々が待っているはずだった。
「夜色の瞳」
ただ地獄を待ち続けるしかなかった青年に、幼い少女の声が聞こえてきた。
少女は、後ろから制止しようと追いすがってくる保護者の手をすりぬけ、青年の前までやってくる。
「おいおい、おい嬢ちゃん。商品に触られちゃ困るよ」
「夜色の瞳」
眉を寄せる商人を無視して、少女は手を伸ばす。
「夜を抱く瞳ね、なんて綺麗な蒼なのかしら」
「おい!」
青年の頬に触れた手を払おうと、商人の怒声が響く。
「シエラ」
次いで、少女の保護者の声も聞こえた。
「叔父様!」
シエラは青年の手を握り、後ろに控える叔父を振り返る。
「私、彼が欲しい!」
玩具をねだる子どものように、彼女は声を上げた。
※※※※
それから三年。
シエラは十で両親を亡くし、その一年後、カイトに出会う少し前には慕っていた幼馴染の少年を事故で失った。
カイトが売られていた市場を通りかかったときは、後継人となった叔父の家へ連れて行かれるところだったそうだ。
カイト、という名前はシエラがつけた。
何も持っていなかった青年と、全てを失った少女。
カイトから見れば住む場所があり、食事に困らず、叔父という、守ってくれる存在のいるシエラは、なんて贅沢なんだろうと思った。
夜、両親を思い出して泣くシエラ。
深い蒼の瞳を持つカイトを「夜を抱く瞳」と称し側に置くくせに、夜が怖いと涙を流す。
両親がいないのはカイトも同じだったが、父が恋しい、母が恋しいと嘆いたことなど一度もなかった。そんな暇、なかった。余裕など、なかった。生きていくだけで精一杯。他者を陥れ、その日その日己の命をつないでいく。
三年の月日、与えられたぬるま湯のような生活にほだされてしまったのだろうか。
いや、出会った当初から、カイトはシエラをどこか神聖なもののように見つめていた。
己にはない感情を持ち、何一つ穢れのないまっさらな少女に、侵し難い何かを感じているのだろうか。
※※※※
カイトの腕の中で眠る少女は、いつか大人となり、この身から離れていく。
貴族の娘であるシエラと、奴隷身分であるカイト。ずっと一緒にはいられない。
遠くはない将来、自分のもとから去っていく少女を抱き寄せ、カイトは彼女と同じように目を閉じた。