愛し、恋し(貴族×貴族*一方通行、暗め、死にネタ、R15)
「ユナ」
頬を包む男性らしくない、綺麗な手を、ユナは顔を顰めながらも受け入れた。
ユナの寝室。窓の外はすでに暗く、入浴を終えたユナの部屋にやってきたのは、数日前、自分の夫となった人物だ。
といっても、そこに愛なんてない。
この人はただ自分の、ユナの家がもつ爵位が欲しかっただけだ。
幼い頃から一緒に遊んだその人を、ユナはもうそういった風にしか見れなくなっていた。
傾きかけた父の事業の借金を肩代りしてくれたのは確かに助かった。でも、彼はその代わりにユナとの結婚を要求してきたのだ。そして、ユナは断ることも出来ずにそれを受け入れた。
「どうしてあんな地味な女を妻に?」
彼の恋人であった人が言う。否、恋人であった、なんて嘘。今もきっとユナに隠れて会っているのだろう。彼は夜会であったその人を、別れたはずのその人を、親しげに抱き寄せ、そっと耳打ちするように会話を交わしていた。
「地味に見える彼女にだって、それなりの利用価値はあるのだよ」
――利用価値。
まるで物のように言われ、ユナは深く衝撃を受けた。
化粧室に行くと言って戻ってみたら、夫が見知らぬ女性と親しげにしていた。それだけでショックだったのに、耳に届いた会話は更に彼女を打ちのめした。
「酷いわぁ、そんな風に言ったら可哀想よ」
哀れみよりも、蔑むような響きを含んだそれ。
「利用価値って、もしかして爵位?」
夫は肯定も否定もせずにただ微笑んだ。
「本当に、酷い人」
クスクス、という笑い声が、いつまでも耳に残り、ユナを苦しめた。
※※※※
「あなたはいつまでたっても慣れないね」
顔を逸らし、シーツを握り締め震えるユナに、夫は苦笑して言った。
なれるものか、こんな行為。ただ、子供を作るだけの、愛情も何もない、こんな……。
「ユナ」
応えないユナの顔に手を添え、夫は彼女の顔を自分の方に向けた。
声を漏らさぬよう噛み締められた口には赤い血が滲んでいる。
そっとそれを指でなぞり、夫はユナに顔を寄せた。
「やめて」
強い拒絶の声が部屋に響く。
口づけを拒むユナに笑って、
「大丈夫、約束は破らないよ」
唇から少しずらした位置に口づけを落とした。
何度閨を共にしても、ユナは夫に口と口との接触を許さなかった。
結婚する前、一度強引に奪われて以来、頑なに拒み続けるそれ。
――キスは愛し合う者がする行為だわ。
子供じみた理由で口づけを拒絶する妻に、夫は何も言わずそれに従っている。
彼にとって、子供さえできれば後はどうだっていいのだ。
ユナと結婚する際の、ユナの両親との約束。伯爵家の血を引く、ユナの血を引く子を、家の後継者にすること。ユナをないがしろにせぬようにと、父が考え出したのだろうその約束は、けれど結局、ユナを苦しめることにしかならなかった。
身体が弱いユナを、夫は毎晩のように抱く。
幼い頃は彼を心配させぬようにと身体が弱いことを黙っていたユナだったが、結婚した今も、そのことを打ち明ける気にはならなかった。
――彼が好き。
遠い記憶に思いを馳せると、そこには父親に連れられて屋敷にやってきた幼い男の子の姿があった。明るい茶色い髪に、薄茶色の瞳。それまで会った誰より綺麗で、可愛らしい、ユナの初恋の相手。
どんなに彼を手に入れたいと願ったか。どんなに彼を自分のものにしたいと願ったか。
神様はユナのその願いをかなえてくれたけど、しかしユナが彼を手に入れた時、彼はもう昔の彼じゃなくなっていた。
ユナ以外の女性を思い、ユナ以外の女性を抱く。
夫になった彼の心は、すでにもう見知らぬ誰かのものなのかもしれない。
「レイ……」
呟いた声はおそらく夫には届かない。
ほとんど音もなく漏れたそれは、呆気なく空気に溶け、溜まっていた涙が一滴頬を伝ってシーツを濡らした。
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その一年と数ヶ月の後、ユナは夫にそっくりな男の子を生んでこの世を去る。
彼女が生前使用していた私物を、死後全て侍女に処分させ、埋葬さえも、夫が仕事でいないうちに彼のわからぬ場所に葬らせた。ユナが生まれたときから仕えてくれていた老年の侍女は、彼女の遺言どおり全てを実行に移した。
出産の予定日とされていた日、仕事を終わらせて帰って来た夫は、既に生まれている息子と、姿の見えぬ妻に困惑し、屋敷中を探し回った。どこを探しても、どの場所に行っても妻はおらず、彼女が屋敷にいた痕跡すら、全て消えてなくなっていた。
――旦那様、奥様は若君を生んですぐ、亡くなられました。
使用人の言葉が、やけに嘘くさく耳に響く。
だって自分は妻の亡骸さえ目にしていないのに、そんな事実、信じられるはずがない。
ユナは自分が亡くなった後、レイが、本当に彼が愛する人を後妻に迎え、愛しい人と一緒になるのだろうと思っていた。だからこの世を去った後も、彼を煩わすことのないように全ての私物を処分させたし、また墓の場所も、彼には教えなかった。死んでまで来ぬ人を待ち続けるなんて絶対に嫌だったし、もしレイが己のところに墓参りに来てくれたとしても、それは上辺だけで、今までのように、なんの心もこもっていない義務的感情からだろうと思ったのだ。いや、本性は優しい人だから、一時でも妻であった自分を偲んでくれるかもしれない。けれど、そういったことで、また彼の心を煩わせるのも、やはり耐えられなかった。
ユナは夫であった人が最期まで自分を好いてなんかいないと思っていたし、だからこそ彼の本当の思いには気づかずに逝ってしまった。
行為の後、疲れきって眠ってしまったユナに何度も口づけを落とす夫。
――愛し合う者同士がする、愛の儀式。
彼もまた、ユナを愛しているのは自分だけだと思っていたし、自分を拒み続ける彼女に、起きている間はキス一つできずにいた。
セピア色の記憶。幼い頃の二人。あの日、恋に落ちたのはユナだけではなかった。一目でレイを好きになったユナと同様、レイもまた、初めて会ったあの日、ユナに恋をしていた。
成長するにつれて美しく花開いていくユナに、レイは徐々に焦りを感じ始める。夜会に出るようになったユナに、貴族仲間がニヤ、と口の端を上げ、下卑た言葉を紡ぐ。それに追い打ちをかけるように、ユナに遠縁の、彼女と同じ伯爵位の貴族から縁談が持ちかけられていると噂を聞き、レイは居てもたってもいられなくなった。
彼女が誰かのものになるなんて考えられない。
まだ、誰も手をつけていない汚れのない彼女の肌に、彼ではない誰かの手が触れることなど、絶対に許せなかった。
焦った彼は、気がついたときには伯爵家の借金を肩代りし、それを理由にユナとの結婚を迫っていた。
強引なやり方に、抗議に来たユナをその場で押し倒し、己のものにする。
彼女を手に入れられるならそれでよかった。
別の女性といても、嫉妬の一つしない。ベッドに入れば、すぐに顔を背ける。彼女の手がレイの背に回され、自分から彼を受け入れてくれることなど、結局一度もなかった。
彼女は自分のことが嫌いなんだろう。
いつも悲しそうな表情を浮かべるユナに、心が痛まぬことはなかったけれど、彼女の横に自分以外の男が並ぶことなんて、考えただけで気が狂ってしまいそうだった。
そうして、捉え、囲い込み、閉じ込めた結果が、これ。
愛した人はもう、この世の何処にもいない。唯一彼女が遺してくれた息子でさえ、彼女の面影一つなく、姿かたち、髪の色、瞳の色に至るまで嫌になるほど自分にそっくりだ。彼女はそんなにも、自分の腕から逃れたかったのだろうか。
妻のいない部屋で一人、レイは悲嘆に暮れた。
誰よりも、なによりもあなたを愛していたと言うのに。
伝えたかった思いは、もう二度と愛しい人に届かない。