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蒼炎

作者: 風亜

薄暗い闇の中、無数の蛍火が丸い円を作っていた。

小さな旋律に合わせて踊るように、淡い光の粒子達が様々に蠢いている。

しかし、その均衡が崩れる事は無く、時折、

拡散するように形を崩しながらも、

まるで見えない糸で惹かれ合っているように、蛍火達は形を留めたまま、

大きくなったり小さくなったりを繰り返している。

だが、行き交う者達はそんな様子に見向きもしない。

否、彼らには見えていないのだ。

何の関心も示さず、ただ、闇を恐れる者は特に、足早に歩き去っていく。



そしてまた、一人の女が前を通り過ぎようとしていた。

「ちょいと、……。」

不意に、女の耳に声が届いた。

女の声、おそらくは初老だろうか、

その場を去ろうとする女を呼び止める、

明確な意思を持った、声。

「?」

女は構わずに通り過ぎようとしたが、何かが引っかかったのか、

ふぅっと意識がそちらに吸い寄せられるようで、思わず、

無意識のうちに、ピタリと足を止めていた。

「そこの、あんた。」

確かめるように、もう一度呼びかけられる。

相変わらず、初老の女の声は平坦な調子だった。

「……私?」

女は、何かしらの特別な力を持っているわけではなく、

かといって、所謂霊感と呼ばれているものも、

持ち合わせてはいなかった。

ごく普通の、平凡な若い女、ただし、帰る家が無い、放浪者だった。

「そうだとも、なぁ、お前さんは私達が見えるのだろう?」

先程の女と同じくらいの年頃だろうか、また別の女の声だった。

喜ぶでもなく嘲るでもなく、しかし、妙に、確信に満ちた声音だった。

声は、よく注意を払ってみると、今しがた通り過ぎようとしていた、

閉じられたガレージの前から聞こえた。

つ、と視線を下へ移動させると、小さな丸い円が見えた。

ぽぅっ、と灯る蛍火達、温かい、優しい色合いで、

ふわり、ふわりと踊るように宙を漂い、

少しでも油断すれば引き込まれてしまいそうなほど、

ささやかな、美しい舞だった。

確かに見えている、女は返事の代わりにコクリと頷いてみせた。

「そうかい、そうかい、そりゃ結構な事だ。

だったら、話は早いさ。

あぁ、そんなに警戒せんでも、私らはあんたを取って喰うわけじゃない、

信じられないだろうが、安心しておくれ。」

不思議と、女は蛍火達に対し、警戒心は抱いていなかった。

寧ろ、束の間の、心地良い夢だとすら思っていたほどだった。

「……お前さん、今、帰る家が無いのだろう?」

この言葉に、女は微かに表情を強張らせた。

別に、指摘されようと構いやしなかった。

家なんて、有っても無くても同じだ。

居場所がある事は幸せだ、と昔、誰かが言っていたような気もするが、

それでも、女にとってはどうでもいい事だった。

それにしても、だ。

(……火って、人の心を読める生き物なのかしら……。)

こちらの方が、余程興味深い疑問だった。

「…………。」

今度は、返事をする事は無かった。

たった一度の肯きも、今の女にとっては大変な重労働だった。

こうして歩いてこられた、そして今、地面にしっかりと根を下ろして

立っていられる事の方が、不思議でならなかった、気になって、

その事に意識が向いて仕方なかったからだ。

肯定も否定もしない、ただそこに直立しているだけだった。

「あぁ、差し出がましい質問だったかねぇ。

気にしないでおくれよ、お前さんが家を持っているかなんて、

私らにはあんまり興味の無い問題だからさ。

ただ、ちょっとした好奇心で聞いてみただけだよ。

答えたくないなら、それで構わない。

要は、お前さんに私らが見えてくれりゃ、それで良いって事さ。」

女は、今一つ話の筋が読めなかったが、一先ず、

聞いている証として、コクリと頷いておいた。

「私らは、……お前さんのような、生に迷う者達を空に送り届ける、

案内人さ。」

最初に話しかけてきた、女の声だった。

声質は幾分しわがれているが、しかしながら、思わず感心するほど、

はっきりとした声だった。




「生きるって事は、実は凄く、苦しくて辛い事でねぇ、……心弱き者は、

いや、人間ならそれが正常な反応だから安心しておくれよ?

で、そんな私らは、生きている途中に、自分が何をすれば良いか、

自分はどうしたいのか、こんなにも簡単で、シンプルで、

大事な事を見失っちまうのさ。

社会的に上手く生きていくなんて、簡単な事さ。

自分の気持ちに、正直な思いに蓋をして、鉄製の仮面を被れば良い。

だけど、そんな生き方に苦しむ人もいる。

自分に正直に生きたい、自分の欲望に忠実に生きていきたいのに、

社会っていうのは実に巧妙に、私らがそこから逃れられないように、

網目のように無数の糸を張り巡らせて、いつだって見張っているのさ。

そうすんなりと、私達に自由を与えてはくれないよねぇ。

辛くて、苦しくて、……ずっと思い悩んで、誰にも打ち明けられなくて、

そんなか弱き人達を、私らは今まで送り届けてきたってわけさ。」

「大丈夫だよ、僕達がちゃんと導いてあげる。

向こうでは、貴方の居場所を見つけられるように。

僕達が祈ってあげる、貴方の幸せを、光を手にする事が出来るように、

見守っていてあげるからね、……貴方が望むまで、いつまでも。」

今度は、まだ幼い響きを持った、少年の声。

この子は、……こんなにも若く、向こうの世界へ旅立ったのだろうか。

だとしたら、もしそれが真実なら、……何て哀しい事なのだろう。

蛍火の中では割に小さいそれが、ふわりと浮かび上がり、

蒼白な、生気を失いつつある女の頬を、指先で軽く触れるように、

そっと愛撫する。

そこに込められた、溢れんばかりの慈しみの心を、女は肌で感じていた。

この少年の穏やかな声が、「頑張ったね。」と優しく包み込むように、

労いの声が、女の脳裏に何度も、何度も反響し、静かに浸透していった。

心の奥底から、じんわりと熱いものが込み上げてくるのを感じた。

「今まで、本当によく頑張ったわ。

疲れたでしょう、今までずっと一人ぼっちで、何でもかんでも、

その心に抱え込んで、……もう、休んでもいいのよ。」

女を心の底から労る、少女の声。

この声には聞き覚えがあった。

小学校三年の時、帰りに交通事故で亡くなった、……否、自分が、

恐怖のあまり、その場に立ちすくみ、あと少し早ければ、

もしかすると、命が助かったかもしれないのに、見殺しにしてしまった、

女の唯一の友、あの頃のままの、優しい、少女の声だった。

懐かしい少女の声を発する蛍火も、再会を心から喜ぶかのように、

ふわふわと飛んできて、女の控えめな胸に落ち着いた。

たまらなく愛しい温もりが、あの頃と同じ体温が、

女の身体をゆっくりと巡り、失った何かを満たしていった。

「……っ……。」

頬を一筋の雫が伝うのが分かった。

込み上げてくる罪悪感、自己を心底忌み嫌う我が心、

自分なんかよりもずっと生きる価値があった、尊い命。

それを奪ってしまった事への、底の無い懺悔。

自分があの時、あと十秒、あと一分早く救急車を呼んでいれば、

もう少し強い意志を持っていたら、あの子は助かったかもしれない。

自分よりも余程生きる価値のある、強く、優しい人間。

そして、自分のせいで苛められながらも、二人で共に乗り越え、

楽しい日々を送っていた、あの頃の綺麗な思い出。

何だかんだで、あの頃が一番楽しかった。

いつも二人で一緒にお弁当を食べ、

休みの日には手作りのお弁当を持って、

少し遠くの山へピクニックに行った。

夏休みには、家族ぐるみで遠方の海へも行き、一日中、泳ぎ、

ビーチバレーをし、無邪気な心で遊び回っていた。

もうすぐ死ぬのに、どうしてこうも懐かしいのだろう。

いや、死ぬ時だからこそ、思い出は浮かんでくるものなのか。

それから、色々な事があって、身も心も疲れ果て、

好奇心も、欲望も、思い出も、純粋な心も忘れてしまっていた。

だが、最期くらいは綺麗に終わりたい。

後悔なんて、今だけはしたくなかった。

たとえ、今見ているこの蛍火達が、実は偽りの姿で、本当は恐ろしい地獄火だったとしても、

自分の身体を呑み込み、焼き殺そうとも、今更、思い残す事は、

何も無かった。

悲しいくらい、清々しかった。

しかし、最期は実に呆気なく、そして、

心地の良い温もりに包まれていた。

女の思いを汲み取ったのか、蛍火達は互いに結びつき、

天まで届くかのような、一筋の長く蒼い炎となり、

女の全身を包み込んだ。

親友の少女も、見ず知らずの少年も、老婆も、心を一つにし、

優しく抱擁しながら、送り人の想いをしっかりと受け止める。

女の後悔、罪悪感、懺悔、楽しかった思い出も、

たった一人で運命に立ち向かい、気丈に振る舞っていた姿も、

しかし、あえなく精魂尽き果ててしまった、その決定的な瞬間も。

今までの生い立ちも、その中に秘められた憎しみや諦めや、

人間や世界に対する哀しみも。

まず、足から光の粒となって、炎の教える道筋に沿って昇っていき、

次いで、脚、腹、胸、腕、手首へと燃え広がり、

肩口をゆっくりと侵食し、首筋を這い上がり、女の身体は、

美しく煌めく光の粒子となり、遂に、女の顔や頭も、長い黒髪も、

導き手がいなければ弾けてしまいそうなほど、揺らめき、

壊れてしまいそうな危うさを湛えていたが、それでも懸命に、

数十分が経った頃には、跡形もなく天へと昇っていった。

その煌めきを、美しさを、儚さを蛍火達が忘れる事は無い。

いつまでも、記憶に残り続けるであろう。

一人の人間が、最後の最期まで、懸命に生き抜いた姿を、

忘れられるはずがないのだから。




光の粒子が完全に消え去った後も、女を見送るかのように、

蒼い炎は暫く燃え続けていたが、やがて無数に拡散し、再び集合し、

閉ざされたガレージの前を陣取った。

閑散とした商店街、ほとんどの店は既に閉店しまっている。

そこは今、ごく一部の人間しか通らない。

隣町へ行くため、やむを得ず足早に通り過ぎていく者。

そして、……生きる事に迷いを抱いた、あまりにも心弱く、無力な者。

彼らに最期の祝福を与え、そして、新しい世界へと送り届ける事が、

この蛍火達の務めなのだ。

そしてまた今宵も、心弱き者は、あてもなく、

この聖なる地へと迷い込むのだった。

まだ若い俯きがちの青年が、蛍火達の前を通り過ぎようとしていた。

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