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御鏡恋歌   作者: 未悠
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上篇 縁結び

「安産のお守りは……申し訳ございません。こちらではお授けしていないんです」


巫女は言いかけて、澪の腹に一度目をやった。すぐに失礼に気づいたように、そっと頭を下げる。「よろしければ、駅の向こうに産神社がございます。バスで二十分ほどです。あちらのお守りを求めて、遠くからお参りにいらっしゃる方も多いそうですよ」


そう言って巫女は、松下澪のほうへ、窓口に置かれた小さな木札の向きを直した。初穂料を記した墨は新しかったが、木札の縁は幾度も指で触れられ、つやが出ている。


澪はガラスケースを見渡した。縁結び、復縁、病気平癒。失せ物が見つかるようにというお守りまである。右端の一か所だけが空いていて、敷き布には、そこだけ色の薄い四角い跡が残っていた。


「そうなんですね。姉の分なんです。もうすぐ出産で、最近よく眠れないって言ってたので」澪は肩の帆布バッグを掛け直し、少し照れたように笑った。「ご近所の方から、ここはご利益があるって聞いたものですから。せっかく来たし、と思って……あの、今だけないんでしょうか。それとも、もともと?」


「もともと、お授けしておりません。せっかくお越しいただいたのに、申し訳ありません」


「いえ、近所を歩いてみたかったので」


慌てて首を振った。実のところ、最後の石段を上るころにはふくらはぎが震え、額に貼りついた髪は汗で濡れていた。けれど、巫女があまりに申し訳なさそうなので、それ以上聞くのも悪い気がした。


もうひと言尋ねようとしたときには、巫女は次の参拝者のために、うつむいて紙袋を用意し始めていた。澪は仕方なくスマートフォンをしまった。画面には姉から届いたばかりのメッセージが出ていた。わざわざ行かなくていいよ。引っ越したばかりなんだから、まず自分のことを片づけて。


青葉荘に越して三日目、大家のおばさんがごみの分別表を届けに来た。そのとき、山の上の縁結びの神社はよく願いがかなうのだと、世間話のついでに教えてくれた。特に、離れ離れになった人にもう一度会わせてくださるのだという。澪は段ボール箱の間に膝をつき、はさみを探しながら相槌を打っていた。頭の片隅では、ガス会社からまだ電話が来ないことを気にしていた。ようやく部屋の中に人の通れる隙間ができてから、その神社を思い出した。昨夜の姉のメッセージも。


姉の住む県までは、いくつも県をまたぐ。電話口でいくら「大丈夫だよ」と繰り返したところで、つらさを少しでも引き受けてやれるわけではない。お守りをひとつ送れば、少なくとも封筒を開けたとき、姉は、話をちゃんと覚えてくれていたのだと思ってくれるだろう。そう考えて、昼食を済ませると商店街の裏から続く石段を上った。


六月の空気は、まだ絞っていない布のように湿っていた。ふもとでは車のエンジンや店先の呼び声が聞こえたのに、最初の曲がり角を過ぎると、草の葉に雫の落ちるかすかな音ばかりになった。石段の両側の紫陽花はまだ咲きそろわず、淡い緑のつぼみのかたまりが葉の間に隠れている。ところどころ、ひと足先に青く色づいた花びらが見えた。澪は石の欄干に手をつき、冷たい水と、苔のぬるりとした感触に慌てて手を離した。ズボンの脇で手のひらを拭う。


さらに上ると、二本の杉の古木が空の明るさをほとんど覆い隠した。鳥居の下だけは不思議なほど地面が乾いている。ここまで来ると、雨もやんでしまうようだった。姉に写真を送ろうとスマートフォンを取り出しかけて、杉のそばに打ちつけられた古い注意書きに気づいた。


文字の大半は薄れていたが、末尾の二行だけは墨を入れ直してあった。


ご出産を間近に控えた方は、産神社へお参りください。


古くからの定めにつき、必ずお守りください。


そのときは、神社ごとに得意な願い事があるのだろうと思った。


けれど今になってみると、「必ずお守りください」という言い方は、別の神社を勧めているだけには思えなかった。


「お姉様にでしたら、こちらはいかがでしょう」巫女がもう一度呼び止め、白地に薄紫の模様の入ったお守りを取り出した。「ご家族の無事をお守りするものです。ただ、ご出産までは、お姉様には身につけないようお伝えいただけますか」


財布に伸ばしかけた澪の手が止まった。


巫女も、自分の言葉の矛盾に今さら気づいたようだった。二十歳くらいだろうか。目の下にうっすら疲れがにじんでいる。お守りを持つ指に力がこもった。


「すみません。しばらくは、妹様のお手元に置いていただければ」


「でも……無事を守ってくれるものなのに、どうして出産前はつけちゃいけないんですか?」澪はお守りを見つめ、知らず声を落とした。「ごめんなさい、こういうことに詳しくなくて。私、何か変なことを聞いてしまいましたか」


「いえ、そうではありません」巫女は少し慌てて首を振った。お守りをケースに戻し、細い紐を丁寧に収める。その手つきで、考える時間を稼いでいるように見えた。「祖父が、ここの宮司を務めています。祖父も幼いころから、そう言い聞かされてきたそうで。どうしてなのかは……私からは、きちんとご説明できないんです。本当に申し訳ありません」


伏せられたまつげを見ているうちに、澪の小さな疑問には、少しずつ不安が混じり始めた。思わせぶりなことを言っているのではなさそうだった。むしろ、うっかり言い間違えて、澪に何かを持ち帰らせてしまうことを恐れているようだった。


結局、澪は何も買わなかった。巫女は引き止めず、それどころか、かすかに安堵の息をついた。


授与所を離れようとしたとき、灰色の作業着の男が、工具箱を下げて脇の門から入ってきた。袖は肘までまくり、右手の親指の付け根に小さな絆創膏を貼っている。誰かを捜すように顔を上げ、澪と目が合うと、二人とも一瞬足を止めた。


「あの、二〇三号室の方ですよね」男が先に声をかけた。少しためらい、もう一度澪の顔を見る。「青葉荘の。昨日、荷物を少し運んだんですけど。覚えてますか」


「あ、はい! 二〇二号室ですよね。昨日はすみませんでした。あの箱、そんなに重くないと思ってたんですけど……」


「大丈夫です。最後はご自分でも運んでたじゃないですか」工具箱を持ち替え、空いた手を作業ズボンで拭ってから、今は別に握手をする場面でもないと気づいたらしい。少し気まずそうに手を下ろす。「高橋です。昨日、名乗るのを忘れてて」


覚えていた。本の詰まった箱を二つ一度に抱え上げた人だ。それなのに部屋へ入る前には、靴底に少し泥がついているから、新聞紙を借りてもいいかと真顔で尋ねた。


「松下澪です。昨日はありがとうございました」


「本棚、組み立てられました? 昨夜、何か叩くような音がしてたので」


「うるさかったですか?」澪はたちまち顔をしかめた。「タオルを敷いたから、お隣までは聞こえないと思ってました。すみません。途中で板が逆だって気づいて、外したら今度はねじが一本余っちゃって……いちおう立ってるんですけど、まだ本を全部載せる勇気がなくて」


「いや、うるさくはなかったです。まだ起きてましたし。余ったねじは予備かもしれませんよ。一本多く入ってることもあるので」


それほど確信のある口ぶりではなかった。それでも澪は、ようやく信じてもよさそうな理由を見つけ、ほっとした。


「じゃあ、ひとまず予備だと思っておきます。昨日は一晩中、本棚に見張られてる気がしてたので」


彼は一瞬きょとんとしてから笑った。先に左目が細まり、それから口元が緩む。澪も笑い、笑い終えると、声が大きすぎなかったかと授与所を振り返った。


中の巫女が二人を見て、「高橋さん」と呼びかけた。続く言葉は声を落としたので聞こえなかった。高橋は本殿のほうを見て、少し困ったような顔になった。


「先に照明、見てきます。ねじの場所、夜になってもわからなかったら、持ってきてください」


澪は礼を言い、石段へ向かった。鳥居の近くまで来たとき、背後から女の声がした。


すぐそばだった。半歩後ろに立っているように聞こえた。


「佐吉、ずいぶん遅かったのね」


振り返った。境内には、脚立のそばに立つ高橋しかいない。彼は耳のあたりに手をやった。


「部品が今日届いたんですよ、神様」


澪は本殿の薄暗い軒下に目を凝らした。話し相手の姿は見えなかった。


石段の下で誰かが傘を開き、金属の骨がぱちんと鳴った。その音にはっとして、もう一度上を見ると、高橋はすでに脚立を抱え、脇の回廊へ入っていくところだった。


柱の陰にでも、人がいるのだろう。


*


縁守命(えにしもりのみこと)は、回廊の縁に腰を下ろし、高橋拓也が壊れたソケットを取り外すのを眺めていた。


「中はそうなっているのね。そんな小さなものが壊れただけで、明かりがつかなくなるの?」


「それだけじゃなくて、配線が悪いこともあります。今回はここが焼けてて。ほら、この周り」拓也はソケットを少し彼女のほうへ向け、前にも説明したことを思い出した。「この間の廊下の照明も、同じような故障でしたよ。あのときもいましたよね」


「前は外すのが早くて、よく見えなかったもの」


「あの日は店から何度も電話が来てたんです。今日はまだ時間があるから、ゆっくりやります」袖で額の汗を拭き、外した小さな部品を雑巾の上に並べた。「でも、これは触らないで。縁で手を切るかもしれないので」


午後の光が斜めに差し込み、彼女の裾に落ちていた。薄い色合いが、板張りの床の照り返しに溶けかかっている。衣は白に近い薄灰色で、袖口には小さな結び目の模様が刺繍されていた。手を上げたときだけ、糸の光沢が見える。黒髪は後ろできちんと束ねられ、右の頬にだけ、いつもの一房が垂れていた。


六歳のとき、拓也はその髪をよけてあげようとしたことがある。拓也が回廊に立ち、彼女がその下の石段に腰掛けて、ようやく背伸びをせずに届いた。子どもの不器用な手を避けもせず、彼女は目を伏せ、拓也が髪を耳の後ろへ押し込むのを待っていた。指先に触れた髪はひんやりしていた。神様は汗をかかないのかと尋ねたことも、まだ覚えている。


二十年たっても、その髪は同じところにかかっていた。同じ回廊に座る自分の足は、もうしっかり地面に届く。重いものを運べば、翌日には腰だって痛くなる。


拓也がしゃがんで新しいソケットの線をつないでいると、彼女が肩に手を伸ばしてきた。ついてもいない埃を払うように。


「あ、ちょっと待って。まだ留まってないので」肩をすくめ、言い方がきつかったかもしれないと顔を上げた。「触らないでって意味じゃなくて、終わるまで待ってください。この線が、なかなか収まらなくて」


彼女は手を引き、拓也がまた身をかがめるのを見て、それ以上邪魔はしなかった。なぜあんなに言い訳をしたのか、自分でもわからない。ただ、途中で止まった彼女の手がまだ視界に残っている気がして、落ち着かなかった。


本殿の前で誰かが賽銭を入れた。硬貨が木の格子を叩く音が、廊下を伝わってくる。縁守命が顔を上げた。袖口からのぞく細い紐が、ゆっくり張り詰めていく。見えない手が、その先を引いているようだった。


「また来たのね」


拓也が首を伸ばすと、商店街のクリーニング店のおかみさんがいた。両手を合わせ、しきりに唇を動かしている。


「息子さん、見つかったんですか」


「昔の住所に手紙が届いているの。明日、届けてくれる人がいるわ」


縁守命は紐を指先に巻きつけ、小さな結び目をひとつ作った。離れたところで鈴緒がわずかに揺れた。おかみさんは頭を下げたまま、気づかなかった。


息子が家を出て七年になることを、拓也は知っていた。おかみさんは毎月、同じ卒業写真を持ってお参りに来る。去年、店がつぶれかけたときも、山に上るのをやめなかった。


「この前、電球を買いに来たときも、インターネットで人を捜せないかって聞かれました」拓也は手のひらにねじを置いた。「少し調べたんですけど、よくある名前で、見つからなくて。ずっと『いいのよ』って言ってたのに、帰り際にもう一回聞かれたんです……知ってるなら、先に安心させてあげられませんか」


「手紙は、もう向かっているのよ」縁守命はおかみさんの少し丸まった背を見つめた。「今、私から聞けば、あの人は帰ってから一晩中、郵便受けの前を離れられなくなる。明日、戸を叩いてくれた人から、自分の手で受け取る。そのほうがいいわ」


拓也もその視線を追った。おかみさんが石段の手前で足を止め、手すりにつかまって靴を直した。その動作があまりにゆっくりで、不意に胸が苦しくなった。


「それなら、よかった」小さく言った。「本当に、見つかってよかった。ずっとあんなに……いや、俺より、よく知ってますよね」


縁守命はゆっくり遠ざかる背を見送り、かすかに微笑んだ。


そんなとき、拓也は子どものころ、なぜここへ来るのが好きだったのかをすぐに思い出せた。母はふもとのスーパーで働き、父は配送の仕事をしていた。学校が早く終わると、拓也は神社で宿題をした。社務所の扇風機は夏になるたび、首を振ってきいきい鳴った。宮司は半玉の西瓜を切り分け、ノートに汁を垂らすなよと言って出してくれた。彼女は割り算をよく知らなかったが、拓也が解くのを午後じゅう見ていてくれた。母が、売り場で見切りになった野菜を下げて慌ただしく迎えに来ても、帰りたくないことがよくあった。靴を履いてからまた脱いで、筆箱を忘れたと言った。


雨に濡れて熱を出したことがある。真夜中、夢と部屋の区別もつかないほど熱が上がり、窓の外に誰かいると泣いて、母に明かりを消させなかった。彼女は枕元に座り、汗で濡れた前髪をよけてくれた。ここにいるわ、と何度も言ってくれた。目を覚ますと母が慌てて解熱剤を探していて、拓也の手はまだ、自分にしか見えない袖の端を握っていた。


そうしたことは、思い出そうとしなくても思い出せる。彼女が座った場所には、乾いた木に似た匂いが少し残ることまで。


彼女は、少しも年を取らなかった。


かつてはそれが、いつまでも帰れる場所があるということなのだと思っていた。


「終わりました」拓也は工具箱を閉じた。「夜、まだちらつくようなら店に電話してください。宮司さんには、もう自分で脚立を運ばないように言っておいてくださいね」


「その前に、少し食べていきなさい」


彼女は立ち上がり、脇の部屋へ入った。畳の上には湯呑みが二つ用意され、皿には栗あんの饅頭が載っていた。湯気に、ほのかな甘い匂いが混じっている。


拓也は腰を下ろして湯呑みを持ち上げ、甘酒だと気づいた。


「今日、まだ運転するので」


「お酒は入っていないものよ。これなら大丈夫だと、千代が」


千代は授与所にいた巫女だ。神様のために供え物を買いに行き、すぐに包装の変わってしまう人間の品物について、説明もしていた。


ひと口飲むと、舌の奥に甘さがまとわりついた。拓也は湯呑みを置いた。


「口に合わない? 前と同じところのものだと聞いたけれど」


「おいしくないわけじゃなくて、その……店で水をたくさん飲んできたので、あまり入らなくて」湯呑みの縁についた雫を親指で拭う。少しためらってから、続けた。「それに、俺にはやっぱり、ちょっと甘すぎるかなって」


「前は、あんなに好きだったのに」


責める口調ではなかった。むしろ、拓也も覚えているはずの楽しい出来事を話すように、少し笑っていた。そのせいで、口の中の甘さが急にはっきりした。拓也は湯呑みから上る薄い湯気を見つめた。もう何度も言ったはずだと言いかけ、目を上げると、彼女が返事を待っていた。


「今日は、暑いからかもしれません」結局、そう答えた。「あとで飲むので、置いておいてもらっていいですか」


彼女が饅頭を近くへ寄せた。拓也は小さくちぎり、ゆっくり食べた。


中学生のとき、甘酒は苦手だとはっきり言った。高校生になってからも、一度言った。それから、少し飲んでおけば、彼女は大切なことを忘れられたような顔をしないのだと気づいた。その話は、しなくなった。


縁守命が、さっき境内で話していた娘のことを尋ねた。


「新しく越してきた人です。松下さん」


「何を頼まれたの? 授与所の前で、困っているようだったけれど」


「さあ。お参りのことは聞いてません。昨日、引っ越しの荷物を運ぶときに知り合って。隣の部屋なんです」ねじのことを思い出し、付け加えた。「さっきは、本棚が組み立てられたか聞いてただけです。ああいうの、あまり得意じゃないみたいで。話し方がちょっとおかしくて」


「それで、あんなに楽しそうに笑っていたのね」


「そんなに楽しそうでした? 別に、普通に話してただけですけど」簡単なことを、ひどく妙な言い方で答えてしまった気がした。拓也は湯呑みを取り、また甘酒を飲んだ。


ちらりと彼女を見た。皿の脇の紙を整える顔は穏やかだった。この先何を答えても、言い訳になりそうな気がした。


本殿の戸が細く開いていた。その向こう、木の鏡座には漆黒の丸い鏡が据えられ、周囲に幾重もの結び紐が垂れている。幼いころ、拓也は汚れているだけだと思い、雑巾で拭こうとしたことがあった。宮司は驚いてその場に膝をついたが、縁守命は拓也の手を取り、大丈夫よと笑った。


あなただけは、いつでも入ってきていいの。


あのとき、彼女はそう言った。


今、黒い鏡面には細い光が一本映り、その中に拓也の姿があった。自分の目は見えなかった。


「神様」


「なあに?」


拓也は湯呑みの縁を指でなぞった。


「一度……俺の名前、呼んでもらえませんか」


口に出すと、自分のほうが恥ずかしくなった。二十六にもなって、名前を呼んでもらうために座って待っている。確かに、子どもじみているかもしれない。慌てて言い添えた。「今の名前です。拓也って。絶対に呼び方を変えてほしいとか、そういうことじゃなくて。ずっと呼んできた名前でしょうし。ただ、急に聞いてみたくなっただけで」


彼女は顔を上げ、拓也を見つめて笑った。


「今日はどうしたの。子どもみたいに、そんなことを気にして」


残った半分の饅頭を拓也の皿に載せ、手を軽くたたいた。その仕草があまりに優しくて、続けていいのかわからなくなった。


拓也はうつむき、饅頭の薄皮をはがした。指についたあんを、ゆっくり紙にこすりつける。店はこのごろ忙しいのかと聞かれ、いつもどおり答えた。それでも、頭の隅には先ほどの問いが残っていた。話し終えたら、呼んでくれるかもしれない。


湯呑みが冷めるまで、名前は聞こえなかった。


*


元禄十六年の秋。片桐佐吉が初めてその神社にたどり着いたとき、着物の裾は血にまみれていた。


十九歳。下級武士の家の次男で、腰の刀のほうが、着ている冬物よりよほど立派だった。その日は兄に頼まれて手紙を届け、日暮れまでに帰ろうと、あまり知らない山道へ入った。雨に洗われた斜面の土は緩み、草鞋はすっかり水を吸っていた。一歩踏み出すたび、足の指が沢に浸けたように冷えた。


沢のそばで、旅人の荷を奪った二人の男に出くわした。初めは、よせ、と声をかけただけだった。刀を差していれば、少しはひるむと思っていた。片方が振り向き、手にした短い刃が見えて、ようやく考えの甘さを知った。地面に倒れた旅人はまだ這って逃げようとしていた。もう、声をかけなかったことにはできなかった。


あとになっても佐吉は、刀を抜ききったのかどうか、思い出せなかった。相手が向かってきたとたん、手のひらが滑って柄を握れなくなったことだけを覚えていた。怖かった。自分が何を叫んだのか、聞こえないほどに。


茂みに転がり込んだときには、左の脇腹がぐっしょり濡れていた。


誰が踏み分けたとも知れぬ細道を這い上がり、白い明かりを見つけた。山中の人家だと思った。次に顔を上げると、石段の上に女が立ち、こちらを見ていた。


「あなたには、まだ行くところがあるわ」


返事をしようとして、鉄の味のする息が漏れた。


女はしゃがみ、傷口を手で覆った。痛みがすぐに消えたわけではなかった。ただ、どこまでも落ちていきそうな感覚が止まった。その手首には、ごく細い糸が巻きついていた。雨は糸をすり抜けていく。ひと筋の月明かりを通り抜けるように。


「まだ、行かないで」


その声に続いて、遠くに提灯の明かりと人の声がした。ふもとの宮司が、薪取りの男を二人連れて捜しに来たのだった。佐吉があとで聞いたところでは、その夜、宮司は眠っている最中、神様が戸口に立って外へ出るよう急かす夢を見たという。


傷が癒えると、佐吉は酒と、小さな菓子の包みを持って山へ上った。


女はあのときと同じように軒下に座り、雨を見ていた。


「お供えは前に置いておきなさい。まだ傷も治りきっていないのに、雨の中を上ってこなくてもいいのよ」


「このくらいの雨なら、どうということは」言いながら座ろうとして傷に響き、佐吉は息をのんだ。気まずく柱に手をつき、軒から落ちる雨を眺めるふりをする。「酒は、母に持たされました。心の中で礼を言うだけではいけないと。こちらは、自分で買ったものです……こういうものを召し上がるかわからなかったので、少しだけ」


彼女は紙包みを見、それから佐吉を見た。


「お供えと、何が違うの?」


「違う、というと」佐吉は言葉に詰まった。道中、命を救われた礼をどう述べようか考えてはきたが、この問いは思いもしなかった。「酒は、御前にお供えします。誰の目にもつくところに。でも、これは……あなたに食べていただこうと思ったんです。この間、一人でここに座っていらしたので。山の下のものを召し上がる機会は、あまりないかと」


話すうち、耳が赤くなっていった。「お気に召さなければ、無理には。必ず食べてほしいというわけではないので」


きな粉をまぶした、小さな餅だった。道で雨に濡れ、端が少し崩れていた。佐吉が恥ずかしそうに包みを引っ込めかけると、彼女はもう手を伸ばして、ひとつ取っていた。


ゆっくり食べた。口の端にきな粉がついたことに、彼女は気づかなかった。佐吉は何度かそこを見た。教えようとすればするほど、差し出がましい気がする。とうとう自分の餅を持ち上げ、同じところに粉をつけてから、手の甲で拭った。


彼女はその仕草を見て、自分の口元にも触れた。


「何かついていた?」


「ほんの少し。もう取れました」慌ててうつむき、餅を頬張った。急いで飲み込んだせいで、今度はむせた。彼女は水を持ってきて、目の縁が赤くなるまで咳き込む佐吉を見て、ようやく笑った。


庭の土に雨が降り、湿った、少し生臭い匂いが立った。佐吉は水を両手で持ち、彼女の隣で、袖口から垂れる細い糸を眺めていた。そのうち、つい尋ねた。そんなに手に結びつけていて、眠るときに絡まったりしないのか。


「あなたたちのように眠る必要はないの」


「それでは、疲れてしまいませんか」口にしたとたん、慌てた。「いえ、神様と人が違うのは、わかっているつもりです。ただ、うちでは一日じゅう客があると、母が夜になって、耳まで疲れたと言うものですから。ここには毎日、大勢の人が来るでしょう。その話を全部お聞きになって……夜も休めないのですか」


彼女は顔を向けたが、すぐには答えなかった。


何かまずいことを言ったのかと思い、湯呑みを握る指に少しずつ力が入った。話を変えようとしたとき、彼女が名前を尋ねた。


佐吉は急いで湯呑みを置き、居住まいを正した。


「片桐佐吉と申します。佐助の佐に、大吉の吉です」言ってから、余計な説明だったと思った。「宮司から、すでにお聞きかもしれませんが」


「あなたの口から、聞きたかったの」


佐吉は顔を上げた。彼女はこちらを見て、目元にかすかな笑みを浮かべていた。不意に手の置き場がわからなくなった。結局、きちんと膝に載せ、しばらくたってからようやく湯呑みを持ち直した。


それから、佐吉はよく来るようになった。家には禄を継ぐ兄がいるから、自分に大事な役目は回ってこない。使い走りにはちょうどいいのだと言った。初めは軽い口ぶりだった。二度目に半杯余計に酒を飲むと、家に出す手紙のひとつまで運ばせるのだからと、愚痴が漏れた。兄は部屋に座っているくせに。けれど、ひととおりこぼしたあとには、家を守るのも楽ではないからと、兄をかばった。


彼女は、話の結論を急かすことなく聞いていた。話し疲れると、佐吉は柱にもたれて少し眠った。目覚めて、胸に薄物が一枚掛けてあるのを見つけると、ただの通りがかりだという顔はもうできなかった。


いつも菓子を買う金があるわけではない。手ぶらで来て、戸口でまず「今日は何も持ってこられませんでした」と言う日もあった。それなのに懐から、道で拾った紅葉を取り出した。つぶさないように、葉柄をそっと指で挟んで。


「ここの端が曲がっているでしょう。眉をしかめた顔に見えませんか」見せながら、笑って付け加えた。「さっき遠くから見たとき、あなたも少しこんな顔をしていました」


「ふもとに霧が出ていたから。また道を間違えるのではないかと思っていたのよ」


「間違えたのは、あの一度きりです」弁解しかけて、自分を待っていたのだと気づいた。声が小さくなった。「もう、道は覚えました。これからは、そんなに待たせません」


彼女が紅葉を受け取るとき、指が触れた。佐吉はまだ冗談を続けるつもりで口を開いたが、何も言えなかった。


冬になり、山道が凍っても、佐吉はいつもどおり上ってきた。指の節を赤くしながら。彼女は石段から風と雪をよけた。翌日、ふもとでは足首まで積もったのに、神社の前だけ薄い霜しかないのを見つけ、宮司は長いことひざまずいた。彼女はそのころ、脇の部屋で、佐吉が焼いた栗を割るのを眺めていた。


「宮司は、まだ外にいますね。中にお呼びしませんか」佐吉は二度、戸口を見た。手元の栗の殻は、うまく剥けずにぼろぼろになっていた。「私だけここで食べているのも、どうも。来たときには、あなたへのご挨拶を頼まれていたのに、それも忘れてしまいました」


「気づいていることは、あの人もわかっているわ。もうしばらくそうしていたいのなら、させておきましょう。あそこに風は当たらないから」


話しながら、彼女は火鉢のそばに置かれた佐吉の濡れた袖を、さりげなく整えた。その仕草に気を取られ、続けようとした言葉を忘れた。炭が時折、小さくはぜた。温まった栗の皮の香ばしさが二人の間に漂う。この午後が、もう少し長ければいいと、急に思った。


最初に剥けた栗からは、まだ湯気が立っていた。二度息を吹きかけ、彼女の手に載せようとして、熱くはないかと自分の指先で確かめてから渡した。受け取られても、すぐには手を引かなかった。彼女が目を上げたので、慌てて次の栗に手を伸ばし、危うく皿を倒しかけた。


「ひとつ、お聞きしてもいいでしょうか」栗を剥きながらうつむいて言った。彼女が頷くのを待って、続ける。「宮司たちがお呼びするもののほかに……別のお名前は、ないのですか」


「縁守命。それとも御縁様。どちらも知っているでしょう?」


「それは、わかっています。ただ、そのお名前を呼ぶと、次には膝をついて、何かお願いしなくてはいけないような気がして」やっとのことで殻を割ると、中の実まで砕けてしまった。手が栗のかけらだらけになる。「敬っていないわけではありません。でも、山に上ってきても、願い事も、助けていただきたいこともなくて、ただ座って、あなたと話したいだけの日もあるんです。そういうとき……なんと呼べばいいのか、わからなくて」


彼女は長いこと考えた。殿の前の結び紐が、風にかすかに揺れている。それを見つめて、言った。「結。ゆい、と」


佐吉はその名を、一度口にした。


「そう呼んでいいのは、あなただけ」彼女は付け加えた。


大切にしまっておかなければならないものを渡されたように、佐吉の顔が真剣になった。


帰り際、石段を二段下りてから、振り向いた。


「結ちゃん」


彼女がこちらを見た。


「明日は兄に付き添って出かけるので、戻れないかもしれません。明後日には、また来ます。日が暮れても来ないからといって、またどこかで転んだと思わないでください」


「明日も来るかどうか、聞いてはいないわ」


「ええ」佐吉は足元の緩んだ雪を小さく蹴った。少しして、やはり顔を上げずにはいられなかった。「でも、今日は待っていてくれたから。私は……来られないのに待たせるのは嫌なんです。先に伝えておいたほうが、いいでしょう」


彼女は答えず、立ち上がって佐吉の肩についた灰を払った。佐吉はひそかに息を抑え、その手が離れるのを待ってから、明後日に、ともう一度言った。


彼女は軒下に座り、足跡がひとつずつ、見えないところへ延びていくのを眺めていた。暗くなってから灯りを持って通りかかった宮司は、彼女がまだ、すっかり冷めた栗を手にしているのを見た。


拓也が目を覚ますと、窓の外では雨が降っていた。


左の脇腹に傷はなく、布団に押された薄赤い跡だけがあった。枕はベッドの端から半分ずり落ち、寝る前に閉めきらなかった窓から、湿った冷気が入り込んでいた。カーテンの裾が壁に触れ、ゆっくり膨らんでは戻った。隣はまだ静かだった。下の部屋では誰かの目覚ましが鳴っていて、床越しにくぐもって聞こえた。


二度探って、ようやく布団の下からスマートフォンを見つけた。急に明るくなった画面に目を細める。午前四時十七分。二〇二六年六月十二日。


脇腹に手のひらを当て、自分のものではない痛みが引くのを待った。


夢の女は、知っている女だった。栗を食べていたときの彼女は、今よりもっとよく笑ってさえいた。


けれど、その隣に座る男は、いつも背中しか見えなかった。


あの両手が自分の手だとはわかる。それなのに、どう動かせばいいかわからない。刀を持つ仕草も、栗を剥く指の動きも、彼女を見たとき胸に湧き上がる喜びさえも、ガラス一枚を隔てて伝わってくるようだった。


しばらく座ったあと、拓也は水を飲もうと立ち上がった。


台所の窓に顔が映った。眠気で左目が少し細まっているのを見て、無意識に手をやってこすった。


*


青葉荘に越して四日目の夜、澪はとうとう拓也の部屋の戸を叩いた。


実は、その前にしばらく戸口で迷っていた。廊下の照明のカバーに小さな羽虫が閉じ込められ、何度もぶつかる音がした。それを聞きながら、越してまだ数日なのに、隣の人を頼ってばかりでいいのだろうかと思った。けれど、部屋ではもうカップ麺の蓋を開けてしまったし、ケトルは何度押してもランプがつかない。下へ水を買いに行こうとして、ポケットのねじに触れた。結局、二〇二号室の前に来ていた。


戸を開けた拓也は、まだ髪から雫を落としていた。手には色あせた青いタオルを持っている。それを見て、澪は慌てた。


「すみません、お風呂上がりでした? あとで出直しても大丈夫です。そんなに急ぎじゃなくて。ケトルが壊れたみたいなので、この辺でまだ開いてる電器屋さんがあるかなって……」


「店はもう閉まってますね。スーパーなら、まだ開いてるかも。いいですよ、持ってきてください。ちょっと見てみます」タオルを肩に掛け、そこで初めて、彼女のもう片方の手のねじに気づいた。「本棚も、まだでした?」


「ついでにと思って。でも、お疲れなら、ケトルだけでも」


「どうぞ。床に物があるので、こっちから」


彼は振り向くと、慌てて玄関の作業靴を足でそろえ、ソファの服を抱えて奥へ運んだ。澪は玄関マットの上に立ったまま、こぼれ落ちそうになった靴下を見なかったことにした。


拓也はローテーブルに向かってケトルを調べた。澪は反対側に、膝をきちんとそろえて座った。部屋には洗剤と、何かを煮たばかりの匂いがした。水切りかごには茶碗がひとつと箸が一膳。テーブルの隅には未開封のダイレクトメールがたまっている。窓辺の鉢植えは葉が少し黄ばみ、下にはスーパーのポイントでもらうプラスチックの皿が敷かれていた。修理の仕事をする人の部屋は、何もかも整っているのかと思っていたが、そうでもないらしかった。


ケトルの台座の接点は黒く焦げ、樹脂からかすかに焦げ臭い匂いがした。ひととおり確認すると、拓也はコードをまとめた。もう電源を入れないほうがいい。この状態なら、買い替えたほうがいいと伝えた。


「やっぱり、もう駄目ですか」澪は蓋にそっと触れた。「まだ二年しか使ってないんです。引っ越しでお金がかかったうえに、ここ数日、あれもこれも買わなきゃいけなくて。ちょっと悔しいな」


「部品があるかは、聞いてみられます。でも、工賃も入れると、新しいのとあまり変わらないかもしれません。ここも少し緩んでますし。ほら」台座の縁の亀裂を見せ、口調を和らげた。「まだ使えそうなものを捨てるのは、もったいないですよね。ただ、これをこのまま使うのは、ちょっと心配です」


澪はうつむき、戻らなくなったスイッチを二度押して、ようやく手を引いた。


「わかりました。明日、買ってきます。ただ、今夜は……もうカップ麺、開けちゃってて」


拓也はつい笑い、馬鹿にしたと思われないかと、すぐ立ち上がった。予備があるから貸せると言った。古いものをいつまでも使っているからと母に押しつけられ、そのまま未開封にしていたケトルだった。


ケトルを見つけたあと、彼は澪の部屋へ、本棚も見に行った。余っていたねじにも、やはり場所はあった。背板の右下だった。締めてから棚を軽く押すと、それまであったわずかなぐらつきが消えた。


「ここだったんだ……説明書、何度も見たのに」澪は隣にしゃがみ、すっかりしわになった紙を、悔しそうにめくった。「つけないまま使ってたら、いつか急に倒れたりしました?」


「そんなに簡単には倒れませんよ。でも、背板をちゃんと留めておいたほうが、動かすときに歪みにくいです。この本、全部載せるんですか」


まだ封を切っていない本の箱を彼が見たので、澪もそちらを見て頷いた。拓也は棚を押して確かめ、隣の緩んだねじも最後まで締め直してから、これで大丈夫ですと言った。


「今度引っ越すときには、このサイズのドライバーを使ってください。小さすぎると、ねじの頭を潰してしまうので」


澪は聞きながらスマートフォンに打ち込んだ。途中でもう一度サイズを尋ね、拓也が繰り返した。外を車が通り、大きなクラクションが鳴った。二人とも同時に口をつぐみ、音が遠ざかるのを待って、また話し始めた。


箱からのぞく背表紙を見て、拓也は学校で働いているのかと尋ねた。


「図書館です。異動してきたばかりで、今は郷土資料の整理をしています」


「それで、本がこんなに」


「これは自分のです。図書館の本は持ち出してません」少し間を置いた。「それだと、余計に困った人みたいですね」


拓也は声を上げて笑った。


工具を片づけ終えると、澪は夕飯を食べたかと尋ねた。拓也は残り飯を茶碗一杯食べていたが、おかずはろくなものではなかった。彼女が開けたばかりの弁当の匂いがして、また少し腹が減った。返事をためらううちに、彼女は箸をもう一膳出していた。本当は明日の分にするつもりだったけれど、きっとまた冷蔵庫に置き忘れるからと言った。


唐揚げ弁当と、鯖の塩焼き弁当だった。好きなほうをどうぞと言われ、拓也はどちらでもと答えた。二人して、しばらく二つの容器を前に譲り合った。最後に拓也が鯖を指すと、ちょうど澪もそちらのフィルムを剥がしかけていて、手を止めた。


「あ、いいです。俺、唐揚げにします」拓也が急いで言った。


「でも、魚がよかったんですよね」


「本当に、どっちでも」


澪は彼を見て、手元の鯖を見た。とうとう少し恥ずかしそうに白状した。「私も、こっちがよくて」


二人とも笑い、失礼があってはいけないという緊張が、少しほどけた。澪は小皿に魚を半分取り、彼に渡した。拓也も唐揚げを二つ、彼女のほうへ移した。狭いテーブルでは弁当と工具袋が隣り合い、肘を置くにも、交互に飲み物をどけなければならなかった。


弁当はもう少し冷めていた。魚の皮はしんなりし、唐揚げの下のスパゲッティはひとかたまりになっていた。澪はひと口食べて顔をしかめ、先に温めればよかったと言った。拓也はうつむいて、ずいぶん速く箸を動かしていた。そんなにお腹が空いていたのかと聞かれ、ようやく、今夜は少ししか食べていなかったと認めた。


「じゃあ、さっき『どっちでも』って言わなくても」


「本当は明日、食べたかったんじゃないかと思って」


澪はしばらく彼を見た。もう遠慮せず、残った魚も少し彼のほうへ寄せた。


食事の途中で、澪が歳を尋ねた。


「二十六です。そちらは?」


「二十五です。一つしか違わないんですね。もっと上の方かと……あ、老けてるって意味じゃないです。工具を使うのも慣れてるし、いろいろ気を遣ってくださるので、つい――」


「気にしませんよ。お客さんにも、よくおじさんって呼ばれるので」


「本当ですか?」


「小学生に」


澪は吹き出しかけ、ティッシュで口元を押さえた。少ししてから言った。「じゃあ、拓也君って呼んでもいいですか。ずっと高橋さん、高橋さんだと、まだ見積もりをお願いしてるみたいで」


「いいですよ。呼びやすいほうで」


「そっちも、松下さんじゃなくて、澪でいいです」


心の中で一度、呼んでみた。それでも、声にするとまだ慣れなかった。「澪……さんずいの、あの字?」


「うん。さんずいに、右が零」指でテーブルに書いてみせる。「母がつけたの。名前の由来を聞かれると、毎回話が長くなって。子どものころ、名前を聞かれるのが一番嫌だったな」


「うちの母も。拓也の拓は、自分で道を切り拓けるようにって。子どものころは、なんか大変そうだなって思ってた。他の子は、元気に育ってくれればいいとかだったのに」


澪がまた笑い、今度は拓也も笑った。少し黄みがかった明かりが、うつむいた彼女の顔を照らしていた。笑うとき、先に一度唇を結ぶのだと、そのとき初めて気づいた。こらえようとしても、結局は笑みがこぼれてしまうように。


それから二週間かけて、二人は互いの暮らしの、取るに足りないことを少しずつ知った。澪は水曜の帰りが遅く、ベランダの洗濯物を取り込むのを忘れがちで、弁当に入ったつやつや甘い煮豆が嫌いだった。拓也は朝七時二十分に出勤し、作業ズボンのポケットからしょっちゅうワッシャーを落とし、コーヒーには砂糖を入れなかった。


澪が二度目に飲み物を買ってきたときには、もう間違えなかった。


「これで合ってる?」缶を手渡し、わざわざ側面を回して表示を確かめた。「この間、甘いのはあまり飲まないって言ってたから、今日はちゃんと見たよ。ただ、自販機の前で迷ってたら後ろに人が来ちゃって。焦って、また隣のボタンを押すところだった」


「うん、これでいい」


拓也は缶を見つめ、すぐには開けなかった。澪が、このメーカーも好きではなかったのかともう一度聞いたので、慌ててプルタブを引き、大きくひと口飲んだ。


もう冷たくもなく、苦みだって格別うまいわけではなかった。急いだせいで、袖も少し濡らした。澪はティッシュを差し出しながら、通りがかりに買っただけなのだから、何かを証明するみたいに飲まなくてもいいと言った。


ティッシュを受け取って、ようやく拓也も笑った。


部屋に戻ると、空き缶を流しの脇に置いた。ごみをまとめるとき、その見慣れた色が目に入り、「今日はちゃんと見たよ」と言った澪を思い出した。胸の中が温かく、少しだけ、言いようもなく切なかった。それが何なのかは考えず、缶を洗って資源ごみの袋に入れた。


店の配達で帰りが遅くなった日、二階に上がると、澪の戸口にパンの袋が置かれていた。メモには「本日中」とある。戸の向こうから、二個買うつもりだったのに、五個なら安くなると言われたのだと説明された。その場ではずいぶん得をした気がして、家に着いてから、一人暮らしなのを思い出したという。


「三つは甘いやつ。甘くないの選んで、残りは戻しておいて」


拓也は廊下にしゃがんでパンを選び、澪は戸の内側に立って待っていた。ふいに階段の明かりが消えた。二人とも手を止め、数秒後、同時に点灯ボタンへ手を伸ばした。


指先が触れ、二人とも少し手を引いた。澪が先に笑った。顔は上げず、この明かり、最近すぐ消えちゃうね、とだけ言った。拓也は、今度大家さんに言って見てみると急いで答えた。けれど指は、さっき一瞬触れた温度を覚えていた。


明かりが戻ると、どちらにも隠れるところがなくなった。拓也はパンを拾って立ち上がり、勢い余って欄干に膝をぶつけた。鈍い音がした。痛くないかと聞かれ、即座に平気だと答えたのに、部屋へ入ると、しゃがんで長いことさすった。


さすっているうちに、急に笑えてきた。さっきはずいぶん格好が悪かった。着替え終えてから、工具箱を下の車に忘れたことを思い出した。


もう一度下りるしかなかった。澪の部屋の前を通ると、ケトルの湯が沸く音と、家族と電話で話す声が途切れ途切れに聞こえた。今までは何でもなかった音に、足が遅くなる。人の部屋の前でいつまでも立ってはいられないと、慌てて離れた。階段の曲がり角で、まだ痛む膝にもう一度触れた。


日曜の午後、ケトルを返しに来た澪が、拓也の鼻歌を聞いた。


わずかな音の連なりが、何度も同じところで途切れていた。


「何の歌?」


「わからない。子どものころに聞いたんだと思う」


「続きは?」


つなげてみようとしたが、音が変なほうへ外れた。澪は少しこらえ、それでも笑ってしまった。


「ごめん、下手だって笑ったんじゃないの」こらえようとするほど、説明するほど、また笑えてくるらしい。「最後だけ急に高くなったから、びっくりして……もう一回歌ってみて。私も聞いたことあるかも」


「嫌だよ。そんなに笑ってるのに」拓也も少し笑いそうになり、わざとうつむいてケトルのコードをまとめた。「もともと歌、下手だし。店の飲み会でも、俺は曲を入れる係でいいって言われるから」


「それならいいじゃない。私、曲を入れるのも間違えるよ。この前なんか、同僚がずっと待ってた曲を消しちゃって。全員に見られた」


自分の失敗を話しているうち、澪はようやく、歌の続きを聞くのをやめた。拓也は巻き間違えたコードを一度ほどき、巻き直した。その間も、口元には笑みが少し残っていた。


澪が帰ってから、拓也はテーブルの前で、あの短い旋律をもう一度口ずさんだ。


やはり、続かなかった。


そこでやめた。続きを取り戻そうと焦らなかったのは、初めてだった。


*


六月の終わり、クリーニング店のおかみさんが、息子を連れてお礼参りに来た。


息子は写真より太り、髪を短く刈っていた。襟元には汗が染み、濃い筋になっていた。母の後ろに立ち、慣れない手つきで拝んだ。手を合わせたまま、しわになった切符を握っていた。母にしまうよう言われ、慌ててポケットを探し、今度は出したばかりの硬貨まで落としかけた。


おかみさんは店で客を迎えるときのようには、しゃべり続けなかった。道々ゆっくり歩き、ときどき振り向いて、息子がまだいるか確かめた。それに気づいた息子は、半歩後ろを歩くのをやめた。隣へ並び、供え物を持とうと手を伸ばしたが、渡してもらえるかわからないように、途中で止めた。


「重いから、持って」母が言った。少し声がかすれていた。


男は小さく返事をして、紙袋を受け取った。二人の間には、まだ話せていないことがたくさんありそうだった。並んで立つだけでも、どこか探り合っていた。拓也は見ているのが急に申し訳なくなり、うつむいて、工具を片づける手を遅くした。


授与所に新しい扇風機を取りつけ、外へ出たとき、ちょうど母が息子の袖をつかむところが見えた。男の体が一瞬こわばった。それでも最後まで、振りほどかなかった。


縁守命は鈴緒のそばに立っていた。


人々の視線は彼女を素通りしていく。上げられた手を見ているのは、拓也だけだった。母の袖にかかる淡いひと筋の光を、彼女がゆっくり解きほぐした。ずっと泣くのをこらえていたおかみさんが、不意にハンカチへ顔を埋めた。


「もう、大丈夫」縁守命はそっと言った。


誰に向けた言葉なのか、拓也にはわからなかった。


母子が帰ったあと、宮司は社務所で供え物を数えていた。榊という姓の老人は、去年より背が曲がったのに、いちばん重い箱を千代に運ばせようとしなかった。


「腰が悪いんだから、無理しないでください」拓也が箱を受け取った。


「御縁様が見ておられる。大丈夫だよ」


「見なきゃいけない人、たくさんいるでしょう」


老人は一瞬きょとんとし、それから笑った。「それもそうだ」


箱の下に、修繕の記録帳があった。表紙は角が崩れ、中に何枚も色あせた写真が挟まっていた。一枚には本殿が写っている。黒い御鏡はまだ今の鏡座に替わっていなかったが、周りの結び紐は、今と同じように入り組んでいた。


拓也は落ちた写真を拾い、あの紐は毎年取り替えるのかと尋ねた。


「外側はな。内側には触ってはいけない」宮司が言った。「祖父が父に、父が私に言い伝えてきた。順番も変えてはいけないんだよ」


「どうしてですか」


「昔、父が言っていた。中には、ずっと昔に結ばれた縁が残っていると。誰かを呼び戻すものもあれば、無事を守るものもある……子どもだった私は、触ってはいけないということばかり覚えていてな。今、一本ずつ何のためにあるのか聞かれても、説明できん」老人は写真を顔へ近づけ、明かりに透かした。「ほら、この束。私の若いころには、もうこんなに黒ずんでいた。どうして新しくしないのか、聞いたこともある」


「お父様は、何て?」


「こっぴどく叱られたよ」宮司は笑ったが、その笑みはすぐに薄れた。「そのうち忙しくなって、もう聞かなくなった。歳を取ると、こういうものは、なおさら勝手に変えられなくなる。何事もなく続いてきたものに、自分が余計な手を出して、もし間違いが起きたら。誰が責任を取れる」


老人は写真を受け取り、元の場所へ丁寧に挟んだ。反り返った角を指で押さえる。


拓也は、澪が尋ねた安産のお守りを思い出した。


その話をすると、宮司は記録帳を置いた。


「それも昔からの決まりだ。千代が説明したと思うが」


「宮司さんも、理由は知らないんですか」


老人はしばらく黙り、本殿に目をやった。


「高橋君。理由を聞かれても、確かに答えられない。隠そうとしているわけではないんだ」膝をこすりながら、宮司は本殿を見つめた。「何代も、そうやって守ってきた。父がいたころ、私も君と同じように聞いたよ。言われたとおりにしていればいい、と言われた。今度は千代に聞かれて、私も同じことしか答えられん……情けない話だな」


午後の風が吹き、軒下の紙垂が柱に触れた。拓也はそれ以上尋ねなかった。子どものころから、この神社のことを聞くと、そんな答えが何度も返ってきた。畏れから口を閉ざす人もいれば、その人自身、一度も尋ねたことがないだけの場合もあった。


縁守命は裏庭で待っていた。


石のテーブルに、古い扇子が置かれていた。骨に一か所、修繕の跡があり、黄ばんだ紙には川岸が描かれていた。拓也はその橋を知っていた。山道の先には今も石積みの橋脚が残っている。橋桁はとうに架け替えられ、もう通る人も少ない。


「この間、雨が続いたでしょう。千代が箱を片づけていたから、少し風に当ててもらったの」彼女は扇子を石のテーブルに置いた。指は骨のそばにとどまり、すっかり離れることはなかった。「昔、あなたが描いたものよ。紙が傷んでしまったけれど、また繕ってもらうのも、怖くて」


拓也は座ったが、扇子には触れなかった。裏庭は本殿の前より静かだった。塀際に細い竹が茂り、風が渡ると葉が擦れ合ってさわさわと鳴った。テーブルの陰では、小さな蟻が、拓也の袖の残した水の跡をよけて歩いていた。自分の息まで小さくしなければいけない気がした。


彼女は、壊すのが怖いのだと思ったらしい。扇面をこちらへ向け、橋のそばの、ほとんど見分けもつかない小さな点を指した。


「これが私。あまりそっくりに描いては畏れ多いからと、こんなに小さくしたの」


その冗談を、たった今聞いたばかりのように笑った。


拓也が墨の点を見つめていると、少しずつ、沢の流れる音が耳に満ちてきた。


その夏、佐吉は橋のそばの石に腰掛け、炭筆で扇面に絵を描いていた。雨の季節より水は浅く、青緑の苔をまとった石が顔を出していた。小さな虫が水面すれすれを飛び、ときどき、流れる光に紛れて見えなくなった。絵はうまくなかった。橋の欄干が二度歪み、こすって消しても灰色の跡が残ったので、その辺りを濃く塗りつぶし、影だと言い張った。


女が傘を差し、午後の日差しを遮っていた。傘を持ってきたのは佐吉だった。初め、神に傘はいらないと言われたので、ずっと自分の手に持ったままでいた。眉から流れた汗が目に入りかけて、彼女が見かねて受け取り、ようやく開いた。佐吉は首の後ろをさすりながら、二人で入るとちょうどいいですね、と言った。


小さな傘だったから、彼女は少し寄らなければならなかった。佐吉の肘がときどき袖に触れ、そのたび筆が横へそれた。緊張していると悟られまいと、でたらめな節を口ずさんでいた。彼女がじっと聞いているとは思わなかった。


「何を歌っているの?」


筆を止め、しばらく口ごもった。「何というものでも。適当に歌っていただけです。家でもやるんですが、母にはうるさがられます。歌というより、誰かにずっと呼ばれているみたいだと」


「私は好きよ。もう一度、歌って」


「どのところを? 自分でも、今のは覚えていません」


彼女は冒頭の旋律を口ずさんでみせた。ひとつも違わなかった。佐吉は彼女を見て、ふと、その口からこぼれただけの音に、まともな言葉をつけたくなった。扇面の余白を筆先で二度つつき、あれこれ考えたが、何を思いついても気取りすぎに思えた。最後には、ただ橋の下の水を見つめて、小さく歌い出した。


山に雨降りゃ 戸を閉めないで


灯りをひとつ 帰りの道に


そこまで歌うと、止まった。うつむいて、扇面の線を一本消した。


「続きは?」


「続きは……まだ。そんなに見ないでください。見られると、余計に出てこなくなる」佐吉は照れ笑いを浮かべ、扇子を彼女へ向けた。「先に絵を見てください。ここが橋で、これが木。その隣が――」


「私。わかっているわ」


彼女はまだ彼を見ていて、そのまま話をそらさせてはくれなかった。佐吉は耳まで赤くなり、仕方なく目を閉じ、さらにいくつか音をつないだ。最後は自分でもうまく続かなかったと思ったらしく、困ったように笑ってやめた。


「今日は、ここまででいいでしょう。続きが浮かんだら、また歌います。次に持ってくるものを、ひとつくらい残しておかなくては」


どの葉から移ったのか、傘の縁から雫がひとつ落ち、佐吉の手の甲を濡らした。彼女は指で拭ってやり、そのまますぐには手を離さなかった。


「忘れないでね」


佐吉は重なり合う手を見て、小さく返事をした。つながりきらなかった音の半分は、川の音にかき消された。それでも彼女は、ひとつずつ覚えた。


拓也は、はっと我に返った。


石のテーブルの縁をつかんでいた。手のひらに少し汗をかいていた。縁守命は隣に立ち、まぶしくて見ていられないほど目を輝かせていた。


「思い出した?」


「少し、そんな気が。川のそばで、傘があって……」拓也は眉間を揉み、もうほどけかけた光景をつなぎ直そうとした。「でも、はっきり見えなくて。ちょっと待ってください。今は聞かないで。もう少し、考えてみます」


彼女は本当に黙り、そばに座って待った。その静けさは気遣いのはずだった。けれど、どれほど真剣に待っているかがわかるからこそ、拓也はますます緊張した。水の音は消え、裏庭の竹の葉が擦れる音だけが残っていた。ぬか喜びにしたくなくて、もう少し何か言いたかったのに、頭の中は空っぽだった。


彼女が、最初の二行を小さく歌った。拓也が繰り返し口ずさんでいた、あの旋律だった。「山に雨」のところを少し長く引き、帰りの道を歌う声が、終わりで低くなる。


拓也も合わせようとした。


最後の言葉まで来て、止まった。続きの音はすぐそばにある。喉まで出かかって思い出せない名前のように。必死にたどろうとするほど、何も出てこなくなった。


縁守命は長いこと待った。


「すみません」と、自分の声がした。


すぐに彼女の手が、手の甲に重なった。


「焦らなくていいの。もう、たくさん思い出せているわ」


握られた手を見た。親指の付け根の絆創膏は取れ、新しい皮膚が薄い色をしていた。夢の中で炭筆を握っていた手には、この傷はなかった。


「ずっと思い出せなかったら、どうしますか」


彼女が答える前に、自分から首を振った。「思い出したくないわけじゃないんです。何か見せてもらったら、ちゃんと見てますし、考えてもいます。でも、思い出せそうになっても、ちょっと目を離したら、もう消えてて。焦りすぎてるのかもしれないし、それとも……」


続けられなかった。湯呑みを取ってから、空だと気づき、また置いた。


「俺が、ちゃんと思い出そうとしてないって思いますか」


彼女の笑みが一瞬止まった。


風が扇子の端をめくり、彼女はもう片方の手で押さえた。何かを起こしてしまうことを恐れるような、慎重な仕草だった。


「私が覚えているわ」


握った手に、少しだけ力がこもった。


「あなたの分も、全部覚えている。忘れてしまったところは、また話してあげる。あったことは、なくなっていないのよ。そんなにつらく思わなくていいの」


拓也は彼女を見て、とうとう頷いた。少なくとも、怒ってはいない。しばらくしたら、本当に少しはよくなるかもしれない。実際、夢に見たのだから。今うまくいかないだけで、一生できないと決めつけることはない。


手は彼女に預けたまま、肩の力を抜こうとした。彼女は満ち足りた顔で見つめていた。指先が手の甲をそっとなでたとき、拓也の頭に浮かんだのは、午後にはまだエアコンを一台届けなければならないということだった。今出なければ、また遅れる。その考えが恥ずかしくて、もうしばらく座っていた。


*


澪がその怪談を見つけたのは、古いウェブサイトの保存資料を整理していたときだった。


図書館では、土地の伝説を紹介する小さな展示を準備していた。資料室には昔の新聞の切り抜きと、ボランティアが印刷して残したウェブページが、箱にいくつも入っていた。もともと山中の古い橋の由来を探していたのに、書き手の名のない文章に行き当たった。題の下に日付が二つ印字されていた。ひとつは公開日、もうひとつは、改めて保存された日だった。


古いほうの日付は、二〇一一年だった。


「日付だけだと、そんなに昔じゃないんだけど。このサイトに載ったのが遅かっただけかもしれないし」澪は話しながら、風にめくれた紙の端を押さえようとした。膝からスマートフォンが滑り落ちかけ、拓也が慌てて受け止めた。澪はほっと息をつき、まず礼を言い、それから、話しかけていたことを思い出した。


その夜、二人は青葉荘の二階にある共用の物干し場に座っていた。雨がやんだばかりで、軒の錆に沿って落ちる雫が、下に置かれた空のバケツを叩いていた。澪は洗濯物を取り込むつもりで出てきただけだった。帰ってきた拓也に会い、山にまつわるこの話を知らないかと尋ねた。しばらく立ち話をしてから、大家が隅に置いているプラスチックの椅子を引っ張り出し、まだ濡れている座面に新聞紙を敷いた。


拓也は飲み物の缶を二つ持ったまま、澪が写しておいた文章を画面に呼び出すのを待った。髪を洗ったばかりらしく、毛先がまだ少し湿っていた。話す拍子に首筋へ貼りつくたび、彼女は手で払った。物干し場の明かりは暗く、拓也はあまり見つめてはいけない気がして、擦り切れたスマートフォンケースの縁に視線を落とした。


「子どものころは聞いたことないな。大家さんに聞いてみようか。長く住んでるから」


「もう聞いた。今の人は暇だから、ネットでそういう話を作るんだって。そのあと、自分が子どものころに親戚が体験した話をしてくれたの。こっちより、よっぽど怖かった」澪は少し困ったように笑った。「どう記録したらいいのかわからなくて。そっちにも証拠がないって言ったら、きっと怒るでしょ」


「じゃあ、ひとまず聞くのはやめとこう」拓也も笑い、それから付け加えた。「うちの母もそういうところある。俺がだまされないか心配するのに、誰かの親戚が実際に見たって聞くと、急に信じるんだよな」


澪がスマートフォンを渡した。


題は『おかえりさま』だった。帰ってくる人の姿をしたものを、そう呼ぶらしい。


そこには、妻が行方不明になって何年もたつ男の話が書かれていた。ある夜、戸を叩く音がした。開けると妻が立っていた。いなくなった日の服を着て、髪留めまで同じだった。


妻は多くのことを忘れていた。それでも、別れる前に交わした、山の向こうの海を一緒に見に行こうという約束は覚えていた。


男は妻を家に迎え入れた。


翌日、妻が、いつ出発するのかと尋ねた。男は妻を見て、ようやく思い出した。あの海には、結婚して二年目に、もう行っている。写真は今も枕元にあった。妻が防波堤に立ち、風にあおられた帽子を、男が代わりに持っていた。


帰ってきた人は、二人が行こうと約束した場所を覚えていた。


けれど、二人でもう行ったことは知らなかった。


「それで?」拓也が尋ねた。


「この版は、ここで終わってる。別の転載だと、家の中から奥さんに関係するものが全部なくなるの。写真も、服も、本人が書いた字まで。男の人がいなくなったっていうのもある」


「どれが本当なの? いや、本当っていうか、いちばん最初に書いた人は、どっちの話だったのかな」


「それが、まだ見つからなくて。サイト自体がなくなって、誰かの撮った画面の半分しか残ってないのもあるし」澪は目元にかかった髪を耳に掛けた。「新しい話だから調べやすいと思ってたのに、古い新聞より面倒。展示に出すなら、ネット上の噂、としか書けないかな。はっきり書いて、同僚に聞かれても答えられないから」


拓也は続きを読んだ。


文章の最後には、物語ではなく、言い聞かせるような言葉がいくつか並んでいた。


誰かに帰ってきてほしいと願い続けていると、ある日、その人が本当に戸口に現れるかもしれません。


あなたの誕生日を間違えたり、最後に会った場所を忘れていたりするかもしれません。それでも、あなたがいちばん聞きたい言葉だけは、必ず覚えています。


本当にその人だと確かめるまで、「おかえり」と言ってはいけません。


迎え入れた人は、最後に、あなたがいちばん失いたくないものを持っていきます。


拓也は二つ目の文を見つめ、画面に置いた指を止めた。


「どうしたの?」


「何でもない」即座に答え、自分でも不自然に感じて、もう一度画面に目を落とした。「ただ……記憶違いなんて、普通にあるよなって。そんなに時間がたったら、何もかも同じには覚えていられないだろ。ずっと質問されて、証明しろって言われたら、かえって間違えそうだし」


スマートフォンを受け取ろうと伸ばしかけた澪の手が、後半の言葉を聞いて、少しゆっくりになった。


「うん。それもあるかも。姉とどこへ行ったかとか、私もよく逆に覚えてるよ。向こうは絶対に私がやったみたいに話すし、こっちも、してないって言い切れなくて。そのうち、自分でもわからなくなっちゃう」


拓也は答えなかった。何気なくした怪談の話で、嫌なことを思い出させてしまったのかもしれない。澪はコーヒーを差し出し、読みたくなければいいよ、と小さく言った。


「読みたくないんじゃなくて。ちょっと、思っただけ」飲み物を受け取り、二度目でようやくプルタブを起こした。「今、どこまで話してた?」


澪は画面を戻し、その箇所を指した。「夫婦なら、ほかにも聞けることがたくさんあるよねって考えてたの。一緒に何を食べたかとか、いつもどこに物をしまうかとか。うちの父なんて、いまだに母がどの引き出しにはさみを入れてるか知らなくて、毎回呼ぶの。ある日急に全部わかるようになったら、私、そのほうがびっくりするかも」


今度は拓也も、本当に少し笑った。澪はそれを見て安心し、付け足した。「でも、お話だからね。作者が面倒で書かなかっただけかも。そんなの聞いてたら、一晩じゃ終わらないし」


階下から、母を呼ぶ子どもの声がした。澪が手すりの向こうをのぞくと、大家の孫がボールを追いかけていた。買い物袋を下げた母親が、水たまりに入らないでと声を上げている。


「それと、もうひとつ」澪は文章を下へ送った。「見つけたいくつかの版には、どれも、子どもは遭わないって、わざわざ書いてあるの」


「どうして?」


「理由ははっきり書いてない。最初は、子どもには見えないのかなって思ったけど、前のほうにはそんなことないし」眉を寄せて下へたどった。「あ、ここ。お母さんの帰りを待ってる子どもだったらどうなるのか、聞いてる人がいて……返事がひとつついただけで、そのあと更新が止まってる」


まだ雑談の調子だった声が、その一行を読むうち、少しずつ小さくなった。


「『その子には、もう少し待たせておいてやれ』」


物干し場が静かになった。


下の子どもはボールを取り戻し、母と家へ入った。網戸が閉まり、遠くの車の音が、急にはっきり聞こえた。


拓也は作業着の襟元を引いた。服の内側に掛けたお守りが、少し熱かった。幼いころから身につけていた。白い布は何度も替えたが、中は一度も開けていない。縁守命は、身を守るものだから失くしてはいけないと言っていた。


さっきまで飲み物を持っていて手が冷えたせいで、胸に触れたとき熱く感じただけだと思った。


「こういう話、苦手?」澪が聞いた。


「いや。前は俺も読んでたし」


子どものころから神様を知っているのだから、怪談を怖がることもないはずだと言おうとして、やめた。聞いたあとの澪の顔を想像してみた。どう切り出しても、彼女の話よりすごい話をでっち上げているようにしか聞こえそうになかった。


小学生のとき、山には宿題につき合ってくれる人がいると、同級生に話したことがあった。相手は初めこそ興味を持ち、本当に一度ついてきた。だが、帰るとクラス中に、高橋は誰もいないところに話しかけるのだと言い触らした。そのころは、昼休みに机に伏せて眠ることさえできなかった。起こされたとき、またみんなが机を取り囲んでいるのが怖かった。少しずつ、話さないことを覚えた。澪に説明するなら、そういうこともまとめて話さなければならない。


無理に信じようとする顔を、今はまだ、彼女にしてほしくなかった。


「ここ、蚊が多いね」澪はふいに足首を叩き、うつむいて二度かいた。話はひとまず終わりにすることにしたらしい。「外のほうが涼しいと思ったのに、また刺された。明日も資料室で新聞めくらなきゃ。虫よけの匂いだらけなのに、それでも刺されるんだね」


資料室には扇風機があるのかと拓也が尋ね、話は少しずつ別のほうへ移っていった。澪は、一番上の棚が高すぎることや、脚立が重くてそのたび人を呼ばなければならないことをこぼし始めた。聞いているうちに、拓也の張り詰めた背が、ようやく少しずつ緩んだ。


襟の下のお守りの熱も、ゆっくり引いていった。


物干し場を離れるとき、拓也は下へ目をやった。


通りの向こうの、自動販売機の脇に、人が立っていた。


さっき親子が通ったときには、誰もいなかった気がする。男か女か、わからなかった。背が高く、明かりのすぐそばに立っていたことだけは覚えていた。それなのに、顔はよく見えない角度にあった。


一度、まばたきをした。


もう一度見ると、それほど背が高くないようにも見えた。


拓也は手の甲で目をこすった。自販機の上の反射を見間違えたのかもしれない。機械の低い唸りがし、白い光が水たまりを照らしていた。水面の小さな色のかけらが揺れた。その人は確かにうつむいていたのに、なぜか二階を見ている気がした。


落ち着かなくなり、もう少しよく見ようとした。そのとき、胸元の布が不意に熱くなった。


「拓也君?」


澪はもう部屋の前にいて、椅子に忘れた鍵を持ってきてもらうのを待っていた。


拓也は返事をし、振り向いて鍵を拾った。


下の自販機から、飲み物の落ちる音がした。ただ買い物をしている人だと、自分に言い聞かせた。


その夜、山道も神社も夢に見なかった。


とてもまぶしい、白い光の夢を見た。


光の向こうで誰かが話していた。水越しのようにぼやけた、せわしない声だった。自分は、ひどく狭いところを通ろうとしていた。二人では、とても入れない場所だった。


何かが触れた。


手ではなかった。それなのに、握られたような感触があった。何なのかわからない。ただ、誰かがすぐそばにいて、その恐ろしさまで伝わってくるほど近いのだとわかった。


次の瞬間、何かの力に前へ押された。


中へ入った。


触れていたものが滑るように離れた。落ちる音はしなかった。ただ一瞬、耐え難いほどの空白があった。


それから、泣き声が聞こえた。


目を覚ました拓也も、泣いていた。


初めは、目が覚めたことさえわからなかった。夢の中で触れたものをつかもうと、シーツの上を手で探った。自分の体温で温まった布に指先が触れ、ようやく勢いよく起き上がった。胸に何かが詰まり、何度息を吸っても、いっぱいにはならなかった。


涙がこめかみを伝って枕カバーに染みていた。それなのに、悲しい理由が見つからなかった。部屋に白い光はなく、話している人もいなかった。エアコンが時折、小さく音を立てるだけだった。枕元のスマートフォンは静かだった。手探りで取って画面をつけ、まず不在着信がないことを確かめ、それから家族のメッセージを読み直した。午後、母が焦がした夕飯の写真を送ってきて、父が笑顔の絵文字を返していた。みんな、何事もなく過ごしていた。


スマートフォンを伏せてベッドに置き、両手で顔を覆って、長いこと座っていた。


夢そのものは、もうよく覚えていなかった。けれど、体に残った感覚は消えなかった。さっき、誰かがとても怖がっていて、自分はそれを感じただけで、もうその人を見つけられなくなってしまった。そう考えて、馬鹿げていると思った。小さく自分を罵り、顔を洗いに行こうとした。


目を落とし、襟元からお守りを引き出した。


肌に触れていた面は、ただ温かかった。


外を向いていた布だけが、思わず手を引くほど熱かった。


*


翌日、拓也は神社へ行った。


縁守命は夢の話を聞き終えても、すぐには答えなかった。先に額に手を当て、それから拓也の手の中のお守りを受け取った。


「このごろ、よく眠れていないの?」


「少し前から、ときどき目は覚めてました。でも、昨日みたいなのは……」どう言えばいいかわからず、拓也はうつむいて手のひらをこすった。「起きても泣いてたんです。本当に、何でかわからなくて。誰かが死ぬ夢を見たわけでもないし。疲れてるだけかもしれませんけど、前は疲れてたら、目覚ましが鳴るまで起きなかったんです」


縁守命はお守りを手のひらに載せ、絡まった細い紐をほどいた。


「夜に、ああいうものを見るのは控えなさい。眠る前にいろいろ抱え込むと、夢も落ち着かなくなるわ」


拓也は顔を上げた。「ああいうものって?」


「不安になるようなお話よ。昼間聞いたときには怖くなくても、夜に思い出せば、同じとは限らないでしょう」


澪の見つけた文章については、まだ話していなかった。けれど、彼女は神様だ。口にしなかったことを知っているのは、初めてではない。


彼女はお守りを載せた手を開き、布の結び目を指先でそっと押さえた。少しして、返してきた。布はもう熱くなかった。


「もう大丈夫。今夜も眠れないようなら、ここへ来なさい。あの部屋は、ずっとあなたのために空けてあるから」


受け取ったお守りの布が手のひらに触れると、不意に鼻の奥がつんとした。お守りに何か異常があるのか、確かめたかっただけだった。子どものころのように、何かを訴えに来たつもりではない。それなのに部屋がまだあると言われると、夏の畳に敷かれた薄い布団と、夜になると虫の声が入ってくる窓が思い出された。


「もうこんな歳ですから、夢を見たくらいで泊まりには来られませんよ」笑おうとしたが、うまくいかなかった。「宮司さんにも心配かけるし。千代に、またたくさん料理を作らせるかもしれないし」


「あなたが来れば、あの人たちは喜ぶわ」


まだ聞きたいことはあった。けれど、彼女は拓也の目の下の隈を見つめ、悲しそうな顔をした。


「昔、病気になったときも、いつも大丈夫だと言っていたわね」


拓也は黙った。


佐吉が若くして亡くなったことは知っていた。神社の裏手には、どの墓地にも入れられないままの石碑が残っていた。片桐佐吉の名と、宝永三年という日付が刻まれている。十代のころに調べた。一七〇六年だった。


三百二十年前。


自分が生まれたのは二〇〇〇年。二つの日付はあまりに遠く、自分に関係することとして受け止めにくかった。二十六年なら、その長さを思い描ける。小学校の教室の窓。初めて壊してしまった自転車。働くために家を出たときの段ボール箱。けれど三百年以上という時間には、比べられるものがなかった。


「そのとき、長く患っていたんですか」


尋ねたとたん、少し後悔した。佐吉の最期について、自分から聞くことはめったになかった。詳しく尋ねるほど、目の前の人間は本当は何も知らないのだと、彼女に思い知らせるような気がしていた。でも、昨夜の、誰かを見つけられない苦しさがまだ残っていた。そのときの彼女も同じだったのだろうかと、急に知りたくなった。


縁守命は窓の外へ目を移した。


「最後の冬は、ずっと咳をしていたわ。初めはまだ山に来られたの。途中の風で喉がいがらっぽいだけだから、白湯を飲めば治ると」


彼女が佐吉を、拓也とは別の人のように話すことは珍しかった。拓也は口を挟まなかった。


「そのうち、ここまで来るだけで、長く休まなければならなくなった。一度、廊下で眠ってしまって。袖に隠していた手拭いが見えたの。血がついていた。目を覚ますと、私には見えていなかったつもりで、先に手拭いをしまおうとしたわ」


言葉はゆっくりだった。視線は拓也の隣の床板に落ちていた。病人の明かりを遮らないためにはどこへ座ればいいか、まだ覚えているようだった。


「春になっても、よくならなかった。もう、寒くはなかったのに」


窓の外は七月の濃い緑だった。彼女は葉を見ていたが、その向こうに別の季節があるようだった。


「ある日、もう少しよくなったら、あの歌を歌ってあげると言ったの」


そこまで話し、指で袖を押さえた。


拓也の目の前に、不意に薄暗い部屋が見えた。


布団は薄く、部屋の隅には火の消えた火鉢があった。薬の匂いが木に染みついていた。誰かが水を替えたばかりで、たらいの縁の布から、まだ雫が垂れていた。一滴落ち、それからずいぶんたって、もう一滴。障子の向こうの灰白色の光が布団を照らし、細かなしわまで見えた。


佐吉は枕に身を預け、息をするたび、肩を少しずつ持ち上げていた。そばの女を見て、笑おうとしたらしい。だが先に咳が出た。彼女はかがんで支え、背をゆっくりなで下ろした。ようやく息がつけると、佐吉は手を上げた。頬に触れようとするように。


その手は途中で落ちた。彼女はすぐに受け止め、自分の頬に当てた。それ以上、力を使わせないように、身を低くかがめた。


佐吉が何かを言った。


唇が動くのは見えたが、拓也には声が聞こえなかった。


女が身を寄せ、耳を近づけた。戸の外では誰かが、またうわ言を言っているのかと声を潜めた。中にはほかに誰もいないのに、と。


握られた手は痩せ、骨の節ばかりが目立っていた。


光景が消えたとき、縁守命がこちらを見ていることに気づいた。


「何か、思い出した?」


話してもよかったはずだった。


でも急に、佐吉は何と言ったのか、聞かれるのが怖くなった。また、わからないとしか答えられないことは、もっと怖かった。


「いえ……昨日あまり眠れなかったので、ぼうっとしただけかもしれません」


彼女の目の光が少し弱まり、すぐにまた笑って、大丈夫よと言った。その笑みを見ると、急につらくなった。少し思い出しただけなのに、なぜそんなことまで隠すのだろう。あんなに喜んでいるのだから、話せばいいではないか。


けれど、口にすれば、彼女がもっと近くへ来ることも知っていた。自分の手を握ったことは覚えているかと、尋ねるだろう。今の拓也には、自分の手を伸ばしていいのかどうかさえ、わからなかった。


その日は、一時間余計にいた。宮司が茶を運んできて、彼女とゆっくり飲んだ。茶葉が開いては沈み、窓からの光も畳半分ほど移った。拓也はときどき、店であった小さな出来事を話した。彼女は聞き、時折笑った。笑ってくれると、少しは埋め合わせができた気がした。帰る前に、明後日、神社の近くの夏祭りの準備を見に来られるかと聞かれた。


拓也は、来ますと答えた。


山を下りてから思い出した。明後日は、展示用の本の箱を運ぶと、澪に約束していた。


山道の途中で立ち止まり、スマートフォンを開いて、予定を変えられないかと送った。返事はすぐに来た。同僚に頼むから大丈夫、とだけ。末尾に、いつもの小さな笑顔はなかった。


夜、廊下で顔を合わせたとき、澪ははっきり話した。


「拓也君、忙しいのはわかってるし、絶対に手伝ってって言いたいわけじゃないの」戸の枠にもたれ、いつもの口調を保とうとしていた。ただ、手の中の鍵をずっと握っていた。「でも、来てくれるって言ったから、同僚にはもう人を探さなくていいって伝えたのね。それで、また頼むのも、ちょっと……うまく言えないけど。箱が運べないっていうより、もう段取りを決めてたから」


「ごめん。本当に忘れてた。神社のほうを後にずらせないか、聞いて――」


「ううん、もう頼んだから。今からまた変えられても、こっちも言いにくいし」


そう言ったあと、二人とも黙った。拓也が用意していた説明は、喉でつかえた。わざとではないと言いたかったが、彼女だって、わざとだとは言っていない。何度も強調すれば、怒らないでくれと頼んでいるようにしか聞こえないだろう。


「うん。俺がちゃんと予定を覚えてなかった」ようやく言った。「次から先に確認する。同じことはしないから」


澪がこちらを見た。張り詰めていた口元が、少し緩んだ。「わかった。私も、責めたいわけじゃなくて……さっきはちょっと、焦ってたから。そんなにずっと謝られると、私もどうしたらいいかわからなくなるよ」


拓也は首の後ろをかき、横へよけた。澪は部屋へ戻り、預かっていた彼宛ての荷物を持ってきた。届いたときから箱の角が濡れていたから、今、中を見たほうがいいと言った。


荷物を抱えて部屋に戻り、座ってからも、さっきはどうしてあんな下手な言い方しかできなかったのかと悔やんだ。澪に頼りないと思われたかもしれない。その一方で、自分はどちらもがっかりさせたくなかっただけなのに、という気持ちも少しあった。恥ずかしさがゆっくり引いてから、ようやく、澪は言いたいことをちゃんと伝えてくれていたのだと気づいた。


スマートフォンを取り出し、この先引き受けた用事を、一つずつカレンダーに入れた。最後まで打ち終えると、少し気持ちが落ち着いた。


*


夏祭りの一週間前、拓也は昼休みに図書館へ寄った。


展示は出来上がっていた。古い橋の写真が数枚、壁に並んでいた。いちばん古い一枚では川幅が今より狭く、橋のそばの木もまだ低かった。隅の小さな一角には、近年のネット怪談が紹介されていた。澪は『おかえりさま』の出典や版ごとの違いを丁寧に示し、あの不安をあおるような警告文は使っていなかった。


小学生に本を探してやっていた彼女は、拓也を見て、頷くだけにした。子どもが本を抱えて立ち去ってから、近づいてきた。


「どうしたの? 今日、仕事じゃなかった?」


「近くに配達があって、昼休みもまだ少し残ってたから。前に話してた展示、見てみようかなって……どんなふうにできたのか」


拓也は紙袋を持ち替えた。先に渡すべきか、話し終えてからにするべきか、わからなくなった。来る途中では言うことをいくつか考えていたのに、仕事用のベストを着て、胸に名札を下げた彼女を見ると、邪魔をしに来たのではないかという気がした。


澪は壁の展示を見て、それから彼を見た。


「本当に見に来てくれたんだ。こういうの、あまり興味ないかと思ってた」


「ないわけじゃないし。それに、ずっと整理してたから……」少し黙り、言った。「この間のことだけど――」


「もう謝ってもらったよ」今度は険しい顔ではなく、少し困ったように笑っていた。「ずっと根に持つつもりはないから。会うたびに言われると、そんなに怖かったのかなって思っちゃう」


「いや。怖くなかったよ」答えが早すぎて、二人とも笑った。


拓也は、小さな惣菜パンの袋を渡した。預かったとか、買いすぎたとか、今回は理由をつけなかった。前に彼女が話していた店を通ったので、持ってきたかったのだとだけ言った。


澪は受け取り、袋の折り目に指を置いて、一瞬動きを止めた。


「ありがとう、拓也君」


二人は並んで、しばらく古い写真を見た。展示が終わったら、昔の川筋に沿って実際に歩いてみたいと澪が言った。もう地図には載っていない地名が、いくつかあるのだという。


「あの辺なら、道はわかるよ。昔、よく行ってたから。ただ、今は草が伸びてるところもありそうだけど」そこまで言って、自分から誘っているように聞こえると気づいた。耳が熱くなった。「まだ誰かと行くって決めてないなら、案内できるかも。一人だと、わかりにくいからっていうか」


「山の手伝いもあるんじゃない? この間、祭りの前は忙しいって言ってたから」


「それは土曜で、日曜なら、たぶん……待って。先に確認する」


スマートフォンを出し、予定を最初から最後まで確かめた。店長が昨日話していた配達も思い出し、少し迷ってから、はっきりさせようとメッセージを送った。澪は急かさずに待った。視線を画面から、真剣な彼の横顔へ移し、少しずつ口元を緩めた。


「日曜の午後、大丈夫」返事が来ると、拓也はようやく顔を上げた。「今度は、本当に」


「うん。じゃあ、何か食べるもの持っていくね。疲れたら、どこかで座ろう。甘いのは苦手なんだよね。覚えてる」


拓也は頷いた。少しして、余計なことまで言った。「全然食べられないってわけでも、ないけど」


「知ってる。栗のパンも食べてたもんね」


そんなことまで覚えているとは思わなかった。拓也はきょとんとしたまま、もう暗くなった画面に、まだ指を置いていた。


その午後、拓也は延長コードを神社へ届けた。千代は境内にしゃがみ、提灯を仕分けしていた。紙に埃が積もり、鼻の頭にも黒い筋がついていた。拓也はパンの入った残りの小袋を渡し、宮司と分けて食べるように言った。


「高橋さん、今日はご機嫌ですね」千代は袋を受け取り、ついでに鼻をこすった。かえって汚れが広がった。「さっき門のところで二度呼んだんですけど、全然聞こえてなくて。ずっと鼻歌を歌ってましたよ」


「そう? ごめん、考え事してたのかも」


そこで口をつぐみ、今、自分が口ずさんでいたのは山の雨や帰り道の歌ではなく、配達の車のラジオで聞いたCMソングだったと気づいた。ずっと歌っていたのは、洗濯洗剤の宣伝だった。自分でもおかしくなり、千代に鼻の汚れを教えた。右、もう少し右、と。


千代は拭くほど汚れを広げ、とうとう提灯を抱えて、鏡を探しに中へ入った。慌ただしく去っていくのを見送る拓也の口元には、まだ笑みが残っていた。


縁守命が、本殿の戸口に立っていた。


「日曜日、出かけるの?」


拓也の笑みがゆっくり消えた。なぜ知っているのかとは聞かなかった。ただ、無意識にポケットのスマートフォンに触れた。やっと約束できたあの午後が、まだその中にあるように。


「はい。澪と、川沿いを少し歩こうと思って。今、郷土資料を整理してるんですけど、地図にない地名がいくつかあるらしくて。俺なら少しは知ってるので、案内しようかと」


「あの橋も通る?」


「たぶん。でも、ずっといるとは限りません。天気を見て、暑すぎたら早めに帰るつもりです」


言い終えて、違うと思った。帰る時間など聞かれていないのに、先に説明していた。縁守命は何も言わず、見つめていた。さっきまで心地よかった境内の木陰が、急に深く見えた。


まだ結びつけていない提灯が風にあおられ、地面を半回転した。拓也は拾いに行き、紙についた埃を払った。自分が堂々と話せば、これだって普通のことにできるはずだと思った。


「神様も、会ったことがあるはずです。越してきたばかりのころ、安産のお守りを聞きに来た人です。お姉さんの分で。図書館で働いてて、最近、展示を――」


「澪、と呼ぶのね」


提灯を抱えたまま、拓也は口を閉じた。


縁守命の顔に、怒りはなかった。あるのは戸惑いだった。ちゃんと収まっていたものを、拓也が間違った場所へ動かしたように見つめていた。


「この間までは、松下さんだったのに」


「そんなに他人行儀じゃなくていいって言われたので、それで……呼ぶようになりました。隣に住んでて、普段もよく会うし。毎回お客さんみたいに話すわけにもいかないでしょう」


「前に聞いた話とは違うわ。荷物を運ぶのを手伝っただけだと言っていたでしょう」


「そのときは、そうでしたよ。そのあと、少しずつ知り合って、一緒にご飯を食べたり、話したりして。それって、何かいけないことですか」


最後のひと言を、拓也はすぐに後悔した。喧嘩をしに来たのではないし、澪のことを挑発のように話したくもなかった。でも彼女はずっと見つめていた。なぜ、初めのままでいなかったのかと、説明を待っていた。話すほど焦り、提灯の竹骨をつかむ指に力が入った。紙が小さく、くしゃりと鳴った。


「そういう意味じゃなくて」拓也はうつむき、自分の手でへこませたところを、ゆっくり直した。「名前を呼んでるだけです。向こうは拓也って呼んで、俺は澪って呼ぶ。それだけです」


そばで蝉が鳴いていた。提灯を木箱に戻すと、薄い竹骨が底に当たって音を立てた。


縁守命が一歩近づいた。


「また、忘れてしまったの?」


拓也は箱の縁に手を置いたまま、木から浮いた小さなささくれを見つめた。すぐには顔を上げなかった。


「何をですか」


「帰ってくると言ったでしょう。ずっと、私と一緒にいてくれると」


静かな声だった。それなのに拓也は一度に思い出した。夢の中の石段、雨に濡れた紙包み、彼女の手に栗を載せた若者。佐吉は彼女を見ると、あんなに嬉しそうだった。軒下で雨がやむのを待つだけでも、帰りたくなくなっていた。拓也にも、まるでわからないわけではなかった。少しは感じ取れるからこそ、もう少し頑張れば自分にもできると、ずっと思ってきた。


ささくれを親指で押した。小さな痛みがして、ようやく離した。


「日曜に、彼女と出かけるだけです。普段、何か手伝ってほしいことがあれば、今までどおり来ます。照明が壊れたり、宮司さんに何かあったりしたら、放っておきません」言葉を切り、間違えたとわかった。彼女が話しているのは、そういうことではない。それでも、不器用に続けた。「いなくなるんじゃないし、もう二度と来ないって言ってるんでもないんです。そんなふうに、見ないでもらえませんか」


縁守命は手を伸ばし、そっと手首を握った。


「責めてはいないわ。ただ、思い出してほしいだけ」


拓也は振りほどかなかった。手のひらの冷たさに、慣れすぎていた。こんなときにさえ、子どものころ、膝を擦りむいて泣きながら駆け上がってきたことを思い出した。彼女は同じように手を取り、そばへ寄せてくれた。回廊に座り、千代の母に傷を消毒してもらった。痛くて脚を伸ばせずにいる間、彼女はずっと手を握り、傷ではなく、自分を見るように言ってくれた。


この人に、そんなひどいことが言えるだろうか。


「長く待ってくれたことは、わかってます」声が小さくなった。「俺を大事にしてくれたことも。知らないわけじゃないんです」


彼女の目が少し和らいだ。指が手のひらへ移り、その不安をなで消そうとした。


不意に、鼻の奥がつんとした。こんなときに泣きたくなる自分が嫌で、拓也は顔を背け、境内の外に垂れた葉を見た。葉先は動かず、午後の熱が境内にたまっていた。風まで止まったようだった。


「子どものころ、毎日ここへ来るの、本当に楽しかったです。熱を出したときも、親が忙しくて迎えに来られなかったときも、そばにいてくれましたよね。覚えてます。忘れてません。そういうことは……思い出したら、自分が経験したことだって、ちゃんとわかるんです」


そこで止まった。喉が乾いて痛かった。


「でも、扇子を見せてもらったときも、あの歌を歌ってと言われたときも、ちゃんと見たし、うまく歌いたかったんです。わざと知らないふりをしてるんじゃありません。でも、本当に思い出せなくて。毎回あんなに期待されると、また答えられないんじゃないかって怖くなる。悲しませたくなくて。ほんの少し見えただけなのに、思い出したって言ったことも……」


そこまで話して、ようやく彼女を見た。


「ごめんなさい。これは、もっと早く言うべきでした」


縁守命の顔に、読み取れないものがゆっくり浮かんだ。拓也はまた慌てて、急いで付け加えた。「あれが全部、嘘だって言いたいんじゃないんです。夢で彼を見たし、神様のことも見ました。彼があなたを好きだったのは、わかってます。ただ……今の俺は、どうしたらいいのかわからないんです」


彼女はもう片方の手を上げ、頬に触れようとした。


「思い出せなくてもいいのよ。待つと、もう言ったでしょう」


拓也は首を振った。小さな動きで、彼女の手は頬に触れたままだった。


「ずっと待たれるのも、怖いんです」


ようやく言えたのに、胸は少しも軽くならず、いっそう苦しくなった。止まった彼女の手を見ると、取り消したくてたまらなかった。でも取り消せば、何もかも元のままになる。


「俺の何が悪いんだろうって、ずっと考えてしまうんです。今日はあれを飲まなければよかったのかな、とか、これを好きじゃなければよかったのかな、とか。違う自分だったら、もっと喜んでくれるのかなって。そうしろと言われてるわけじゃないのは、わかってます。でも、俺は考えてしまう。もう……どうすれば、帰ってきたって思ってもらえるのか、本当にわからないんです」


本殿の奥で、熱を含んだ木が小さく鳴った。誰かがそっと一度、叩いたような音だった。縁守命は振り返らなかった。


「あの娘のせいなの?」


違う、と言いかけた。このやり取りに澪を巻き込みたくなかったし、自分の苦しさを、ただほかの人を好きになったからという話にもしたくなかった。けれど否定が口に出る前に、図書館でうつむき、自分のために時間を空けてくれた澪を思い出した。


「彼女のことも、あります」言うのがつらかった。「一緒にいるのが好きです。怒られることもあるし、俺が変なことを言うこともあるし、いつも楽しいばかりじゃないです。でも、帰りに、彼女がいるかもしれないって思うと……早く帰りたくなるんです。今まで言わなかったのは、嫌な思いをさせるのが怖かったからです」


目を落とした。彼女の手は、まだ自分の手を握っていた。


「今言ったら、もっと嫌な思いをさせるんでしょうね。それはわかってます。でも、彼女には日曜日に会おうって言いながら、ここでは、もう少し待てば俺が元に戻るって、思わせたままではいられません」


縁守命の指がわずかに強張った。


「佐吉」


拓也は一度、目を閉じた。その名を呼ぶ声には、三百年以上変わらない優しさがあった。ほとんど、いつもどおり返事をするところだった。


それでも、澪が呼ぶのは拓也だと覚えていた。小さいころから、ご飯だと母が呼んだのも、いつ帰ってくるのかと電話で父が尋ねたのも、同じ名前だった。あの人たちの知る自分を、いつか「昔はこうじゃなかった」のひと言だけにしてしまいたくなかった。


「俺は、約束してません」


とても小さな声だった。言ったとたん、彼女の目をよぎった戸惑いが見え、立っていられないほど胸が痛んだ。長いこと耐えてから、ようやく続きを言った。


「約束したのは、佐吉です」


頭上の木で、蝉が急に大きく鳴いた。拓也はその声を聞いていた。手のひらは汗だらけだった。彼女が怒るのか、自分が何もかも壊してしまったのか、わからなかった。ただ立って、言葉を待つしかなかった。


また昔の話を聞く覚悟はしていた。泣かれたら、きっとまた気持ちが揺らぐ。責められても、まるで責められるところがないとは言えなかった。ただ今度こそ、ほんの少しでもわかってほしかった。


長い時間のあと、縁守命は握っていた手を離した。


拓也は息を止めた。


彼女は手を上げ、巻き込まれていた襟を直した。指先で縫い目をなぞり、外に出ていたお守りの紐を服の中へ戻した。左右とも丁寧に整えてから、肩をそっとたたいた。あまりに慣れた仕草だったので、そのあとに続いた言葉を、拓也はすぐには理解できなかった。


「疲れているのね」


呆然と彼女を見た。


「このところ、よく眠れていないでしょう。気持ちが落ち着かなくて、何もかもつらく考えてしまうのよ」起こしてしまうことを恐れるような、静かな声だった。「今は考えるのをやめなさい。こちらで少し座って、何か飲んで。休んでから、また話しましょう」


「いや、今の話は……」


拓也は口を開きかけた。あれだけ長く話した。自分でも認めるのが怖かったことまで口にした。それなのに今、続けられる言葉がひとつも見つからなかった。彼女の顔には怒りも、現れるはずだと思っていた悲しみもなかった。ただ、少しいたわるような色があった。眠れなくて機嫌を損ねた子どもを見るような。


「今、無理に説明しなくていいの」


縁守命が、もう一度手を取った。相変わらずひんやりした手が、汗ばんだ指の節を、しっかり包んだ。


「入っておいで。お菓子を取ってあるのよ」


彼女は一歩下がり、拓也がついてくるのを待った。戸の中の畳には、湯呑みが二つ用意されていた。甘酒から細い湯気が立っていた。皿には栗あんの饅頭。敷き紙はきちんと整えられ、向きまで前と同じだった。


拓也は動かなかった。二つの饅頭を見つめていると、ずっと喉にこみ上げていたものが、ゆっくり冷えていく気がした。


彼女は振り返り、また、あの辛抱強い笑みを浮かべた。


「佐吉」


戸を、もう少し大きく開けてくれた。


「帰ってきてくれた。それだけでいいのよ」


上篇 了



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