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元禄美装録  作者: 月音
第三章

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其ノ一 禁呪と時を超えた運命

寛文6年(1666年)7月14日


ーー江戸城、深夜。


月明かりも届かぬ長い廊下を、お楽の方は急ぎ足で進んでいた。

蒸し暑い夜気が袂を貼りつかせ、かすかな蝉の声が遠く廊下の奥から響く。


布張りの床板を踏むたび、柔らかな足音が静まり返った城内に反響し、胸の高鳴りが湿った空気に溶けるようだった。


裾を軽くたくし上げ、振り返ることもなく、影のように廊下を駆け抜ける。

彼女は密かに江戸城を抜け出し、ある場所へ向かっていた。



結界の森——陰陽師の庵。


その夜、陰陽師・松雲は山の庵で魔術、禁呪の類の書物を読んでいた。

庵の周囲は”結界の森”と呼ばれ、人が迷い込むと必ず同じ場所に戻ってくる。


「松雲様、松雲様!」

松雲の式神・杏が羽を羽ばたかせて飛んできた。


「そんなに慌ててどうした、杏?」

杏が松雲の肩に乗る。

「お楽の方様が、森でこちらに辿りつけず困っておいでです。早く結界を解いてあげて!」


松雲が驚いて立ち上がる。

「こんな夜更けに、お楽の方様が……?」


松雲が手を掲げ、まじないを唱える。空気が揺らぎ、結界が解けていく。


しばらくして、扉を叩く音とともに——

「……松雲様、いらっしゃいますか」

控えめな、しかし切迫した声がした。

扉を開けると、思い詰めたような顔でお楽の方が立っていた。


「これは……お楽の方様」

松雲の胸が、一瞬高鳴った。

月明かりに照らされたその姿——年を重ねられても、気品と美しさは少しも衰えていない。


(……何十年経っても、この方を見ると胸が苦しくなる)

若き日から想い続けてきた人。けれど、決して手の届くことのなかった人。


「こんな夜更けに、どうされました。さあ、どうぞ中へ」

松雲は動揺を隠し、静かに彼女を迎え入れた。



ーー母の想い


「……お願いがございます」

お楽の方が、深々と頭を下げた。


「頭を上げてください」

松雲が慌てて言う。

「まずは、お話を伺いましょう」

お楽の方が顔を上げる。その瞳には、涙が浮かんでいた。


「実は……」

お楽の方が、震える声で語り始めた。

「ご存知のとおり、家綱様にはお子がございません」

松雲は黙って頷いた。


「……このままでは、徳川の血が途絶えてしまうと連日言われ続け、私も心身ともに参っております」

お楽の方の目から、涙がこぼれた。 


「私……私は、家綱様の苦悩を少しでも和らげて差し上げたいのです」

声が震える。


「親らしいことを何もしてやれなかったのに……あの方は幼い頃から将軍として、徳川の為だけに、ただ一筋に生きてまいりました……」


お楽の方の声が詰まる。

「ですが、私は何も力になれず……だから……」


お楽の方が、まっすぐに松雲を見つめた。

「あの方の苦悩を思うと……胸が張り裂けそうなのです」

「もし、徳川の血を引く子がどこかにいたら……」

その瞳には、強い光があった。


「松雲様、お力をお貸しいただけませんか……どうか、私達を助けていただけないでしょうか……」

松雲は、黙って聞いていた。


お楽の方の凛とした姿。その必死な想い。

(……この方は、こんな恐ろしいことを本気で

望まれている……)

松雲の心に、複雑な感情が渦巻いた。


(手段がない訳ではない……しかし、あれは禁呪)

(断れば、この方はどんなに嘆かれるだろう)

お楽の方の涙に濡れた瞳を見つめながら、松雲は思った。


ーーまだ若かった頃、初めてこの方を見た時から、心は決まっていた。


この方のためなら、何でもしよう。

たとえ、想いが届くことはなくとも。

たとえ、この先どんな代償を払うことになろうとも。

(……もし、この方の苦しみを取り除くことができるなら)

(それだけで、私は……)


松雲は、心を決めた。

「……分かりました」


「本当ですか!」

お楽の方の目が輝く。


「ですが……」

松雲の表情が曇る。


「その術は、禁呪です」

「禁呪……?」


「それでも……徳川の血を引く者を、望まれますか」

お楽の方が、一瞬顔を歪める。だが、すぐに決意を込めた表情になった。


「はい……私の命と引き換えでかまいません」

松雲が静かに微笑む。

「あなた様の命は必要ありません」

「松雲様……」

「ただ……」


松雲が言葉を選ぶように続ける。

「私達は同じ秘密を抱え、一生苦しむ事になりましょう」

「……覚悟は、できております」

お楽の方が、まっすぐに松雲を見つめる。

「では……」

松雲が立ち上がった。

「……始めましょう」



ーー禁呪の書


松雲は、古い蔵の奥から一冊の書物を取り出した。

黒い革の表紙、金の文字が刻まれている。だが、その文字は——日本語ではない。


「これは……」

お楽の方が目を凝らす。


「禁書とされている、古い洋書……と思われるもの」

松雲が書物を開く。そこには、複雑な図形と、見たこともない文字が記されていた。


「この書には、時を超える術が記されております」

「時を……超える……?」

「ええ。遠い未来から、徳川の血を引く子を呼び寄せる術です」

松雲の指が、ある文字を指し示す。

ページの中央に、一つの言葉が浮かび上がっていた。


“Lay thy hand upon the shikigami of sable hue, and murmur ‘Chronos.’ Then shall tempus itself waver.”

「漆黒の式神に手を置き、『クロノス』と囁け。されば、時そのものが揺らぐであろう」


「クロノス……」

松雲が呟く。

「時の神……」

松雲が立ち上がり、庭に向かう。お楽の方も、後に続いた。



ーー式神の召喚


月明かりの下、松雲が印を結んだ。

「来たれ、我が式」

闇の中から、黒猫が現れた。

「クロ」

松雲が呼ぶ。


黒猫——クロが、音もなく松雲の足元に座った。

「この術を発動するには、二つの条件が必要です」

松雲がお楽の方を見る。


「一つは、時の神・クロノスの名を唱えること」

「もう一つは……」

松雲がクロを抱き上げる。

「我が式である、この黒猫・クロの力」

「この二つが揃うとき——時を超えることができます」


お楽の方が、息を呑む。

「では……」

「ええ。始めましょう」

松雲が書物を開き、呪文を唱え始めた。

その様子を、杏が空から心配そうに見守っている。



ーー禁呪の発動


月が雲に隠れ、風が止まった。

静寂。

松雲の声だけが、夜に響いた。


「——遠き未来より、徳川の血を引く者よ」


「時を超え、この地に来たれ」

「時の神・クロノスの名において——」

松雲が印を結ぶ。


クロの目が、赤く光った。

「——今、時を開け!」


次の瞬間——

空間が、激しく歪んだ。

光の渦が巻き起こり、月明かりがかき消される。風が吹き荒れ、お楽の方が思わず身を屈める。


松雲の体が、まばゆい光に包まれる。

その光は、夜を昼に変えるほど強く——


そして——

光の中から、小さな影が現れた。



ーー幼い葵


地面に、小さな子どもが倒れ込んでいた。

現代風の服装——Tシャツに短パン。年の頃は、三歳ほど。黒い髪、整った顔立ち。


「……これは」

お楽の方が驚く。

「未来から来た……子です」

松雲が膝をつき、男の子に近づく。


松雲の体が、わずかに震えている。

(禁呪の代償……もう始まっている)

男の子が、ゆっくりと目を開けた。

大きな瞳、凛とした顔立ち。


「……ここ……どこ?」

男の子が辺りを見回す。怖がる様子もなく、ただ静かに周囲を観察している。


「大丈夫ですよ」

お楽の方が、男の子を抱き上げた。

「怖くないですよ」


男の子は、お楽の方を見つめた。涙も流さず、ただじっと見つめている。

(……この子が、徳川の血を引く)

お楽の方の胸が、熱くなった。


「この子は、遠い未来からお越しになった、徳川の血を引く者です」

松雲が静かに言う。


だが、松雲の心の中では——

(……本当に、徳川の子孫なのだろうか?)

疑問が渦巻いていた。


術は確かに発動した。書物に記された通りに、時を超えて子どもを呼び寄せた。

だが——

(呼び寄せた子が、本当に徳川の血を引いているのか……)

(それは、確かめようがない)

松雲の胸に、暗い不安が落ちる。


(いや……今は、そんなことを考えている場合ではない)

(術は成功したのだ。お楽の方様が、こうして微笑んでおられる)

松雲は、その疑問を心の奥深くに押し込めた。

「この子を、我が子のように大切に育ててください」

「……禁呪を使った苦しみが、少しは和らぎましょう」

「……はい、松雲様。ありがとうございます。なんと礼を言ったら良いのか」


お楽の方が、男の子を抱きしめた。

男の子は、静かにお楽の方の胸に顔を埋め、スースーと寝息をたてた。

「まあ……」

お楽の方が、優しく微笑む。

「安心してお眠りなさい」

安心したお楽の方は、その男の子を抱きしめ、城へ戻って行った。



お楽の方を見送った後——


禁呪を終えた松雲は、静かに倒れ込んだ。

「松雲様、大丈夫ですか!」

杏が駆け寄る。

「ありがとう、杏……大丈夫だ」

松雲が苦しそうに笑う。


「ただ……少し、力を使いすぎた」

「今夜はもうお休みくださいね……!」

杏が声を掛けると同時に、フッと姿を消した。


「あの子は、徳川の未来を変えるかもしれん」

松雲が静かに呟いた。

月が、また雲の間から顔を出す。

松雲は、その場に座り込んだまま、動けなかった。



翌朝——江戸城。


お楽の方付きの女房が、御手水を持って参上した。

「お楽の方様、お目覚めでございますか……」

お楽の方の隣に、小さな子どもが眠っていた。


女房が、驚いて立ち止まる。

「お楽の方様、……こちらのお子は……?」

「可愛いであろう?」

お楽の方が、優しく微笑む。


「私の子だ。そのように扱え!」

女房が、目を丸くする。

「お、お楽の方様のお子様でございますか……?」


「そうだ」

お楽の方が、子どもの頭を撫でる。

「この子に、名が必要だな」

お楽の方が楽しそうに言う。

「葵と呼ぶ事にしよう」


「葵……」

お楽の方が、子どもを抱き上げる。

「これからは私が、葵の母だ」

葵が、目を開けた。

お楽の方を見上げて、にこりと笑った。

お楽の方の目から、涙がこぼれた。



ーー別れ


それから、何年かが過ぎた。

葵は、お楽の方に大切に育てられた。


ある日——

お楽の方は、病に倒れた。

「葵……」

お楽の方が、幼い葵の手を取る。

「母上……」

葵が、泣きそうな顔で見つめる。

「葵……お前は、徳川の血を引く者なのだから、泣くでない」


お楽の方が、葵の頭を撫でる。

「どんなことがあっても……生きるのじゃぞ。そして、この徳川の世を繋いでおくれ」


「母上……」

「松雲様が……お前を導いてくださる」

お楽の方が、微笑む。


「すまぬ、葵……」

お楽の方の手が、力なく落ちた。


「母上! 母上!」

葵が泣き叫ぶ。


だが、お楽の方は二度と目を開けることはなかった。


その光景を、別の部屋から一人の女性が見ていた。

お玉の方——後の五代将軍・綱吉の母。


彼女は静かに襖を閉じ、深い溜め息をついた。

「……あの子を、どうすべきか」

お玉の方の瞳に、複雑な感情が浮かんでいた。


哀れみ、疑念、そして——どこか優しい光。

「徳川の血を引く……と、お楽の方は信じておられた」

お玉の方は、葵の泣き声を聞きながら、静かに呟いた。



ーーならば、私が見届けましょうーー





ここまで読んでくださり、ありがとうございます!


初めての投稿で緊張していますが、

紗江と葵の物語を温かく見守っていただけたら嬉しいです。


感想、評価、ブックマーク、とても励みになります。

よろしくお願いします!

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