其ノ三 江戸の陽だまり
ーー朝の庭
紗江は部屋を出た。朝の光が庭を照らしている。
中庭には、池のほとりに立つ葵の姿があった。
風に髪が揺れ、衣の裾が静かに波打つ。
足音に気づいた葵が振り向く。
朝日に照らされた薄藤色の着物。
丁寧に結い上げられた髪。
そして、ふんわりと微笑む紗江。
「葵様! 着物ありがとうございます」
「……ああ、よく似合っている」
葵が返事をするのに一瞬の間があった。
「良かった」
紗江の頬がふわりと染まる。
(なぜだ……目が離せない)
葵は慌てて視線を逸らした。
「着物は好きか?」
「はい、大好きです。小さい頃から自分の作った着物を、たくさんの人に着てもらうのが夢なんです」
「夢か。それは幸せなことだな」
葵の声はやわらかい。
「その想いを、大切にするとよい」
「……はい」
紗江は嬉しそうに頷いた。
ーー仲間たちとの出会い
そこへ、庭の外から声がかかった。
「葵様、お待たせいたしました」
蒼馬が姿を現す。
「紗江殿、昨夜とはまるで別人ですね。私は蒼馬と申します」
続いて、年若い少年が顔をのぞかせた。
「隼人だよ! よろしくね、紗江!」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
紗江は少し頭を下げた。
その後ろから現れた蓮が、紗江を見て――息を呑んだ。
透き通るような肌。大きな瞳。柔らかく微笑む唇。
(……タイプだ)
胸が高鳴る。
「蓮、どうしたの?」
隼人が首をかしげる。
「あ、いや……なんでもない」
慌てて視線を逸らし、わざと明るく笑う。
「俺は蓮! 今日は城下を案内するからな」
蓮は顔の熱を誤魔化すように笑った。
「では、行くとしよう」
葵の一言で、一行は澄月庵を後にした。
ーー江戸の町並み
城下はとても賑わっていた。
魚を売る威勢の良い声、茶屋の軒先から漂う焙じ茶の香り。
反物屋の軒先では、色とりどりの絹が風をはらみ、光を受けてきらめいている。
「時代劇見てるみたい! 着物ってもっと格式が高いものだと思ってたけど、もっと自由なのね! 着物と帯の合わせも上手で本当にステキ」
紗江の瞳が輝いた。
「江戸の町って、賑やかですね!」
「そうか?」
蓮が隣で嬉しそうに笑う。
「あそこが魚河岸。朝はもっと凄いから、紗江は動くことも出来ないだろうな」
「動けますよ……!」
紗江は一瞬怒ったふりをしてみせたが、そんな会話も楽しんでいた。
「紗江は何が好きなんだ?」
「服のデザイン……えっと……着る物の形とか、色合いとか考えて、仕立てるのが大好きなんです」
紗江の声が弾む。
「それなら呉服屋とか好きそうだな!」
「はい! すごく興味あります!」
「よし、じゃあ行ってみようか!」
蓮が笑う。
そのやりとりを、少し離れた場所で葵が静かに見つめていた。
「葵様」
蒼馬が小声で囁く。
「紗江殿、お喜びのようですね」
「ああ……なぜか、あの娘といると穏やかな気持ちになる」
葵の目が、優しく細められた。
「わぁ……この柄、すごく繊細!」
絹地に描かれた細やかな花模様に、紗江の目が釘付けになった。
「お目が高いね、お嬢さん」
店の女将が笑った。
「これは届いたばかりの新作だよ」
「届いたばかりですか……」
紗江は指でそっと布地をなぞる。
(……職人さんって、すごい)
「店の中にもまだ、たくさんあるよ。見ていってくださいな」
女将は笑顔を見せたが、ふと苦笑する。
「ただねえ、お針子が怪我しちまって……仕立てが追いつかなくてね……」
「お針子さんが?」
「そう。せっかくの注文も、お渡しできる目途が立たなくてねえ」
「あの、私、和裁が出来ます。仕立てられます」
女将の目が見開かれた。
「まあ……本当ですか?」
「はい、前に教えてもらったんです」
「それならちょうど探してたんですよ! 武家のお姫様に頼まれている一着があるんだけど、急ぎでね。お願いできますか?」
「はい! お引き受けします!」
女将は寸法書と反物、裁縫道具を手渡した。
「助かるよ。お礼は、はずみますね」
紗江は嬉しそうに頷いた。
ーー茶屋
湯気の立つ甘酒の香りと団子を焼く匂い。
「紗江、江戸の町は楽しかった?」
隼人が尋ねる。
「とても楽しかった! お仕事までみつかっちゃった!」
紗江は弾んだ声で言うと、満面の笑顔を見せた。
葵はその横顔を静かに見つめた。
(松雲様が"その娘を守れ"と仰った。――紗江に、何か特別な理由があるのか)
その時、紗江の背筋を冷たいものが走った。
(……誰かに見られている?)
視線の先、人混みの奥に黒い影が立っていた。
一瞬、風に紛れ、その姿は消えた。
「今の……」
「気づいたか」
葵の声が低く響く。
「――夜鴉だ」
蒼馬が即座に立ち上がる。
「柳沢が、動き始めた」
紗江は唇を噛んだ。
「私……付けられているんですか」
「おそらくな。だが心配するな」
葵の声は穏やかだった。
「簡単に正体が知られることはない。それに――」
葵は仲間たちに目を向ける。
「皆がついている」
「任せてくれって! こう見えて俺たち強いんだぜ!」
蓮が笑い、隼人が胸を張る。
「紗江は、もう仲間だからな」
蓮が言った何気ないその言葉に、紗江の目が潤む。
孤児院で育ち、いつも一人だった。
仲間という言葉で、胸の奥が温かくなった。
「はい、……ありがとう」
涙を浮かべながら笑う紗江に、蓮が照れくさそうに笑った。
「紗江は泣いたり笑ったり忙しいね!」
と隼人も笑った。
ーーお蘭の登場
夜の澄月庵
月が竹林を照らし、影が揺れている。
ふと、庭に気配を感じた。
障子が静かに開く。
「紗江様、失礼いたします」
現れたのは、黒髪を高く結い上げた若い女性。
紅の唇、凛とした瞳。しかしその笑みは柔らかかった。
「お蘭と申します。この度、葵様のご命令で、紗江様の護衛を務めることになりました」
「え……護衛?」
「紗江様をお守りする為に参りましたが、縫い物や掃除も得意にございます」
にこやかに言いながらも、鋭い視線が部屋の隅々を確かめている。
「あの……お蘭さん……」
「どうぞ、お蘭とお呼びください」
「あっ、ではお蘭は……葵様に、何か言われましたか?」
お蘭は真っすぐ紗江を見つめた。
「本日、夜鴉につけられたのを心配しておりました。殿は柳沢吉保に狙われております。いずれ紗江様も巻き込まれるやもしれぬから、用心するようにと仰せでした」
お蘭が去った後、紗江は呉服屋から預かった反物を縫っていた。
(今日は……本当に楽しかった)
江戸の町、人々の笑顔、葵様の優しさ。
ふと、胸が熱くなる。
(葵様……)
思わず針を止め、顔を伏せた。
(だめよ紗江。勘違いしないで。葵様は、松雲様に言われて私を守ってくださっているだけ……それだけなんだから)
小さく息をつく。
夜風が障子を揺らした。
縫い針が月明かりを受けてきらりと光る。
同じ月が、都の別の場所を照らしていた。
ーー夜鴉の本拠
闇に沈む古い屋敷
廊下には人の気配もなく、ただ風が吹き抜けるだけ。
奥の間で、玄斎が立っていた。
窓から差し込む月明かりだけが、その姿を照らしている。
「何か分かったか、鴦牙」
背後の闇から、夜鴉の黒羽、鴦牙が現れる。
「娘の素性は、光の中から現れたとしか」
「ふむ」
玄斎は月を見上げたまま答えた。
「では、もう少し探れ」
「御意」
「それよりも」
玄斎が振り向く。
「葵の動きはどうだ」
「相変わらず慎重に。蒼馬たちが常に護衛しております」
「蒼馬か……、蒼馬から揺さぶるか」
玄斎は冷たく笑った。
「無刄を呼べ」
「はっ」
鴦牙が闇に消える。
しばらくして、夜鴉の黒羽、無刄が音もなく現れた。仮面を着けた無言の姿。
「蒼馬のところへ」
玄斎が言う。
無刄は無言で頷いた。
玄斎の目が光る。
「葵……殺すには惜しい器だ。徳川が不要というなら、ワシが手に入れる」
無刄は再び頷き、闇に溶けるように消えた。
玄斎は再び月を見上げる。
「さて……無刄がどう動くか、楽しみだ」
ーー松雲の憂い
同じころ、都の外れにある古寺
松雲は灯明の下で文を広げていた。
文には、葵の名が記されていた。
「何も覚えておらぬ……か」
低く呟く。
手の掌に浮かぶ護符が微かに光る。
「蒼馬よ、守りを怠るな」
「承知いたしました」
蒼馬は一礼し、障子を閉めて部屋を出た。
古寺の外
「……来たか」
背後に、無刄が立っていた。
「久しいな、無刄」
蒼馬が振り向く。
無刄は答えず、刀を抜いた。
蒼馬も刀を抜く。
月光が二人の刀を照らす。
二人が同時に動いた。
刀と刀が空中で交わり、澄んだ金属音と共に火花が夜闇に散った。
幼い蒼馬と無刄は、同じ里で育った幼馴染だった。
木刀を振り、川で遊び、星を見上げた日々。
やがて二人は同じ師のもとで忍の道を学んだ。
剣の型、呼吸、そして忠義。その全てを共に学んだ。
「何度来ても結果は同じ……無刄、お前もこちら側にこないか!」
風が二人の髪を揺らす。
月が雲に隠れた瞬間、再び火花が走る。
その光景を松雲が遠くから見つめていた。
「葵を守る者たちよ――試されるは、絆の強さぞ」
刀がぶつかる音が止む。
蒼馬と無刄が互いに距離を取った。
「……終わりではない。また来る」
無刄が呟く。
「ああ」
蒼馬の声は静かだった。
月が再び現れ、二人の影を長く引き延ばす。
その光の下、夜風が流れ、ただ戦いの余韻だけが残った。
澄月庵では、紗江がようやく針仕事を終えたところだった。
丁寧に畳んだ着物を見つめ、満足そうに微笑む。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
初めての投稿で緊張していますが、
紗江と葵の物語を温かく見守っていただけたら嬉しいです。
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