其ノニ 澄月庵
――澄月庵
葵は一軒の屋敷の門の前で立ち止まった。
門をくぐると、きれいに手入れされた庭が広がっていた。月明かりに照らされた池、揺れる竹林。虫の声だけが響く、静寂な空間。
「ここは……」
「月が綺麗に見えるので、昔から澄月庵と呼ばれている」
「澄月庵、美しい名前ですね」
「私の屋敷だが、そなたは、ここで暮らせばよい」
葵は紗江の方を向いた。
その瞳に、何かを確かめるような光が宿っている。
「……ひとつ、聞いてよいか」
「紗江は……どこから来た?」
「私は……」
言葉に詰まる。どう説明すればいいのか。
「光の中から……現れたのは知っておる」
紗江は息を呑んだ。
「……」
葵の声は静かだが、深い悲しみを帯びていた。
「私も光の中から現れた。そして今、そなたも同じように」
「えっ!……葵様も私と同じ……」
「突然この世界に現れたようだ……二十年前になる。私は二歳か三歳くらいだったらしい……それゆえ、その頃の記憶がない」
葵の横顔に、わずかな寂しさが浮かぶ。
「幸い、お楽の方に拾われ、江戸城で育てられた」
「お楽の方?」
「お亡くなりになってからは宝樹院様と呼ばれている、高貴な方だ」
葵の声が、温かく柔らかくなる。
「あの方は、私を我が子のように育ててくださった」
「お楽の方が亡くなられてから、将軍の生母である桂昌院様が私を引き取ってくださった」
葵は長い沈黙の後、静かに語り始めた。
「桂昌院様の愛情は、あまりにも深く」
「……」
「将軍・綱吉様は、病弱でいらっしゃる……後継ぎもまだおられぬ」
葵の声が、わずかに低くなった。
「桂昌院様は、時折こう仰る。『葵を、次の将軍に』と」
紗江は息を呑んだ。
「将軍……!?」
「無論、冗談半分であろう。だが――」
葵は紗江を見た。
「それを聞いた者たちは、冗談と受け取らない者もいる」
「……」
「特に、柳沢吉保という者は」
葵の表情が曇る。
「柳沢は、徳川の血統を何よりも重んじる男だ。『将軍は徳川の血を引く者でなければならぬ』と、固く信じている」
「私は徳川の血など引いていない。どころか、どこから来たかもわからぬ得体の知れぬ者だ」
葵は立ち上がり、庭を見た。
その背中が、月明かりの中でひどく孤独に見えた。
「柳沢にとって、私は脅威なのだ。『もし本当に桂昌院様が私を将軍にしようとしたら、徳川は終わる』――そう考えて、私が成人した頃から命を狙うようになった」
葵は振り返った。
「柳沢は夜鴉という密命衆を使って、これまで何度も私を狙ってきた」
紗江の手が震えた。
「そんな……葵様は何も悪くないのに」
「悪い、悪くない、の問題ではないようだ」
葵は苦笑した。
「柳沢にとっては、徳川を守るための正義だと」
「正義ですか……」
「そうだ。だからこそ厄介なのだが……」
葵は紗江の方へ歩いてきた。
「そして昨夜、そなたが現れた。あの光を――」
「……」
「柳沢に見られていた。おそらく、今頃はそなたのことを調べているだろう」
紗江の背筋が凍った。
「私を?」
「私の恩師でいらっしゃる松雲様が、紗江を守れと仰った」
「それゆえ、何があっても私が紗江を守る」
葵は真剣な顔で言った。
「どこから、どうやってこちらに来たのか、何か知っているか」
紗江は息を整えて、ゆっくりと答えた。
「私は令和七年から……未来から来ました。家にいたら突然、強い光に包まれて……どうやって来たのかは、私にもわかりません」
それ以上、紗江は何も言えなかった。
「そうか。何か思い出したら話してほしい」
クロが二人の足元で、静かに鳴いた。
まるですべてを見通しているようだった。
――朝の目覚め
小鳥の声。
障子の向こうから射し込む柔らかな朝の光。畳の匂い。どこか懐かしいような、でも知らない世界の空気。
紗江は、ゆっくりと目を開けた。
「……ここ、は?」
体の下に感じるのは布団の柔らかさ。見慣れない格子窓から、朝日が庭を照らしていた。
「夢……じゃないんだ」
ふと足元を見ると、黒猫のクロが丸くなって眠っていた。
「クロが居てくれて良かった」
(ん?とても美味しそうな匂いがする)
襖が静かに開き、年配の女性が微笑みながら現れた。
「おはようございます。紗江様のお世話を仰せつかりました絹と申します。どうぞご遠慮なく何でもお申しつけくださいませ」
「おはようございます。あっ、お邪魔しています。紗江といいます」
「はい、葵様より伺っておりますよ。さあさあ、朝ごはん、冷めないうちに召し上がってくださいませ」
茶の間にはすでに朝餉が整えられていた。
一人用の御膳に、湯気の立つ豆腐の入った味噌汁と白く艶やかなご飯。茄子の漬物、焼魚と卵焼き。
「いただきます」
そっと手を合わせる。
(そういえば昨日の夜から何も食べてなかった)
ゆっくりと箸を取ると、一口、白米を口に運ぶ。
ふっくらとした米の甘みとお焦げの香ばしい香りと味噌汁の香り。
焼き魚は皮がパリッとしている。
「美味しい……!」
紗江は幸せそうに頬を緩めながら食事を続けた。
やがて――
「ご馳走様でした」
襖の向こうで、人の気配がした。
「紗江、入るぞ」
襖が静かに開き、姿を現したのは葵だった。
淡い青の羽織をまとい、陽の光を背に立つ姿は、まるで絵巻から抜け出たよう。
「口に合ったか?」
「葵様」
紗江が嬉しそうに顔を上げる。
「とても美味しかったです」
その笑顔を見て、葵も思わず微笑む。
「それは良かった」
柔らかく笑いながら、葵は部屋に入り座敷に腰を下ろす。
「よく眠れたか」
「はい!」
紗江が明るく答える。
「ただ……やっぱり、まだ夢を見てるみたいで」
「無理もない。見知らぬ時代に放り込まれれば、誰しもそう思う」
葵の声は落ち着いていて、不思議と安心感があった。
「葵様が来てくれて本当に助かりました」
紗江がにこっと笑う。
「そなたに着物を用意した――」
葵は穏やかに微笑んだ。
「城下を案内しようと思う。江戸がどんな場所か、知っておいた方がよい」
紗江の顔がさらに明るくなった。
「わぁ、楽しみです! 江戸の町、見てみたかったんです!」
「昨夜一緒にいた者たちも来る。安心して歩けるはずだ」
「はい!」
その無邪気な様子に、葵も自然と笑顔になった。
「そなたは……よく笑うな」
「えっ?あっ、すみません」
「いや……良いことだ」
葵は優しく言った。
「その笑顔を、失わぬようにな」
「はい!」
(不思議な娘だ……この娘といると、心が軽くなる)
――着付け
紗江は自分の部屋に戻り、用意された着物を手に取った。
薄藤色の美しい絹地。
「わぁ……すごく綺麗!」
そっと触れると、柔らかな感触。
(すごく質の良い絹……!)
長襦袢を身につけ、着物を羽織る。
養護施設で教わった着付けの記憶を頼りに、衿を整える。
(少し違うかもしれないけど……)
「あってるかな?」
帯を巻きながら、紗江は慎重に進める。
「この帯、柄がステキだから……お太鼓結びにしよう」
何度か手を動かし、形を整える。
「こうして……こう……よしっ!」
帯が美しく結ばれた。
「できた!」
紗江は鏡を見た。
そこには、薄藤色の着物に身を包んだ紗江の姿があった。
髪も、簡単に結んでみた。
「ちゃんと着られてるかな!」
不安もあったが、鏡に映る自分は、ちゃんと江戸の娘に見えた。
襖を軽く叩く音がした。
「紗江様、お支度はいかがですか」
絹の声だ。
「はい、どうぞ!」
絹が襖を開けた。
「いかがでございますか?」
紗江は不安そうに、でも嬉しそうに尋ねる。
絹は、紗江の周りをゆっくりと回った。
衿元、帯、裾。
すべてを確認する。
「衿の合わせも完璧。帯の結び方も美しい。これを一人で?」
「はい! 昔から、洋服や和服が好きで、着物の着方も独学で覚えました」
「昨夜は少し驚きましたが……これなら、どちらへお出ましになっても恥ずかしくございませんよ」
絹は優しく微笑んだ。
「着付けは私がお手伝いすることはなさそうですね。ではちょっとお座りになってくださいませ」
そう言うと、絹は手早く髪を結い直し、お化粧をしてくれた。
「はい、出来ました。葵様がお待ちでございますよ」
「はい!お絹さん、ありがとうございました」
紗江の胸は高鳴っていた
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
初めての投稿で緊張していますが、
紗江と葵たちの物語を温かく見守っていただけたら嬉しいです。
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