其ノニ 初めての日本橋
夜鴉の本拠地――闇に沈む古びた屋敷。
玄斎が月を見上げていた。
背後の闇から、面を着けた忍びが現れた。
黒羽・冥。
「冥」
「はっ」
「無刄が姿を消した今、お前が頼りだ」
玄斎が振り向く。
「このままでは葵の周囲は堅い。おまえのやり方で構わぬ。紗江を連れて来い」
「……紗江一人、でございますか」
「そうだ。あの娘を」
玄斎の目が光る。
「必ず、生け捕りにせよ」
冥は無言で頷き、闇に消えた。
「さて……どう動くか、楽しみだ」
江戸の中心ーー日本橋。
「今日の朝獲れだ! 見てけ見てけ!」
魚屋の威勢の良い声、行き交う籠の揺れ、笑いさざめく町人たち。
越後屋の店先には、紗江が丹精込めて作った小物が並んでいた。
桜の縮緬巾着、花柄の手拭い、金糸の財布。
人垣ができるほどの人気ぶりだった。
「まあ、見て! 可愛らしいわ!」
若い町娘が巾着を手に取る。
「芝居小屋に持って行きたいわ……!」
「じゃあ、わたしはこの赤いの! お揃いにしようか」
その姿を見て、紗江の胸が熱くなった。
「……嬉しいわ」
「おや、紗江殿」
背後から声がかかり、振り返ると越後屋の清之助が立っていた。
「おかげさまで店は大賑わいです」
清之助が品よく笑う。
「これはもう、江戸に新しい風を吹き込んだ証でございましょう」
「清之助様……ありがとうございます。」
紗江は深く頭を下げる。
清之助はふと、紗江の手を見つめた。
「その手で、これほどのものを……。正直、私ども男には到底及ばぬ発想です」
真摯な言葉に、紗江は頬を染めた。
少し離れたところで、葵はその光景を見ていた。
(……近すぎるのではないか?)
胸の奥に、じわりと熱がこもる。
「紗江、そろそろ帰るぞ」
声はいつも通り穏やかだったが、わずかに硬い。
「では、また近いうちに」
清之助がにこやかに応じる。
「ええ……」
紗江は笑みを返し、葵は黙って歩き出した。
紗江は少し不思議に思った。
いつもより、歩くのが速い。
「あのー、葵様?」
振り返った横顔は、変わらず涼やかだった。
西の空が朱に染まり、夕闇が江戸を覆い始める。
路地に入ると、途端に静かになった。
人通りがふっと途絶えた。
――その時
葵は即座に気配を察し、紗江の前に立ちはだかった。
「……」
刀を抜く音。
影が音もなく迫る。
次の瞬間、白い煙がふわりと二人を包んだ。
「紗江、絶対に私から離れるな」
風が吹いた、その途端――
一人が二人、二人が五人、五人が十人。
葵が刀をふるうが、空を切る。
「――ッ!」
(これは……!)
刀を大きく振り、風圧で煙を薙ぎ払う。
その隙に――
夜鴉の手の者が、紗江の腕を掴んだ。
葵は、もう一人に一瞬だけ背を向けてしまった。
背後に殺気。
避けられない。
気付くと、葵の腕が赤く染まっていた。
「……葵様」
「その手を離せ」
葵の声が低く響く。
「私は今、手加減できぬぞ!」
恐ろしいほどの殺気を纏い、葵が襲いかかった。
澄月庵に戻ると、紗江は必死で薬草を当て、布を巻き付けた。
出血はなかなか止まらず、手が震える。
「……葵様……ごめんなさい」
涙ぐむ声に、葵は首を振った。
そしてまっすぐに目を見据え、頬を伝う涙を拭った。
「紗江が無事で……本当に、良かった」
その一言に、紗江の胸が静かに震えた。
その震えを包み込むように、江戸の夜は静かに更けていった。
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