其ノ十二 思い出の大島紬
ある屋敷の中庭
志乃は縁側に座り、ただ外を眺めていた。
結った髪は乱れ、薄鼠色の小袖をだらりと羽織ったまま、帯も緩く結ばれている。
四十七年連れ添った夫に先立たれてから一年。ずっとこうだった。
「母上……せめてお味噌汁だけでも召し上がってくださいね」
志乃は答えなかった。
視線は、遠くの空を見つめたまま。何も見ていないような、虚ろな瞳だった。
「また来ます」
百合はかすれた声で言い、立ち上がった。
その背を見送ることもなく、志乃はただ、風に揺れる枝を見ていた。
一年間、これの繰り返し。
数日後、百合は加賀屋を訪ねた。
目の下に薄い影を落としている。
「紗江様……母に着物をお願いしたいのです」
百合の声が震えた。
「父上が亡くなってから、母は私の顔も見ようとしません。話しかけても返事もしてくださらないのです」
そう言いながら、百合の頬を涙が伝った。
「昔のように、装いを楽しんでくれたら……また、母の笑顔が見たいんです」
紗江は静かに頷いた。
「わかりました。奥方様が昔着ていたお着物を見せていただけますか」
志乃の住む屋敷は静まり返っていた。
庭には落ち葉が積もり、閉め切った部屋は薄暗い。
「初めまして、小織紗江と申します」
返事はない。
志乃はただ座り、薄く色あせた裾を指先でつまんでいた。
紗江はそっと部屋を見回した。
大きな箪笥がひとつ。
扉を開けると、美しい着物が幾十も眠っていた。
紅梅、露草、藍、薄紫。
その中から、一枚の深い藍の大島紬を取り出した。
布に手を添えると、かすかに温もりが残っているように感じた。
(大切にされていたのね)
紗江はその布を胸に抱き、志乃のもとへ戻った。
志乃の前に座り、静かに問う。
「この着物、形を変えてもよろしいでしょうか」」
志乃がわずかに顔を向けた。
「……どうせ着ることもありませんから、お好きになさって」
囁くような声。
紗江は深く頭を下げた。
――数日後
紗江の部屋には大島紬が広げられていた。
深い藍色の地に、細やかな絣模様が織り込まれている。
縦縞のような幾何学模様が、光の加減で浮かび上がる。
大島紬ならではの、繊細な美しさだ。
全く古さを感じない。
紗江は大島紬の着物を丁寧にほどいて、ゆったりとしたVネックのワンピースへと仕立てた。
帯ではなく、腰に細い組紐を結ぶ。
襟には志乃の家の家紋を小さく刺繍した。
「あなたがまた笑えるように」――そんな祈りを込めて。
ーーー
一夜が明けて、
紗江は百合と共に、出来上がった衣を抱えて屋敷を訪れた。
「志乃様。昨日お借りした着物が、形を変えて戻ってまいりました」
志乃はしばらく動かなかった。
やがてゆっくりと振り返る。
「これが……あの大島……?」
「羽織るだけですから、お召しになってみませんか」
志乃がゆっくりと立ち上がり、袖を通した。
絹が肌に触れた瞬間、ふっと息をのむ。
袖を通すと、布が体に沿ってすとんと落ちる。
「……あの頃と同じ匂いがするわ」
かすかに残る白檀の香。夫が好んだ香りだった。
志乃の記憶が鮮明に甦る。
結婚して間もない頃。
夫が不器用に肩へ掛けてくれたのが、この紬だった。
その時、志乃は思ったのだ。
(この人と過ごす季節が、永遠に続くのだと)
鏡の前に立った志乃の頬に、一筋の涙が伝った。
「まさか、またこれを着られる日が来るなんて」
廊下に控えていた百合が近寄った。
「母上……お顔を見たいのに、涙でぼやけてしまいます」
志乃は微笑んだ。
「百合……心配かけてごめんなさいね」
二人の手が、そっと重なった。
涙が静かに畳を濡らす。
それは、悲しみだけではない涙だった。
帰り際、志乃は紗江の袖をそっと掴んだ。
「ありがとう紗江様、この衣大切にします」
紗江は微笑んだ。
「この衣は『ワンピース』と申します」
志乃は袖を撫でながら頷いた。
「『ワンピース』……こればかり着てしまいそうだわ」
志乃の頬には、もう生気が戻っていた。
「あなたは、不思議な方ね」
紗江は微笑んだ。
「衣は、心を包むものですから」
障子の向こうに、眩しいほどの日差しが差し込んだ。
――数日後
百合が加賀屋に笑顔で訪れた。
「紗江様、母が外を歩きましたの。『次は、このワンピースに合わせて羽織がほしいわ』って」
紗江は穏やかにうなずいた。
「ええ、次回はぜひ、志乃様もご一緒にお越しください」
外の風が、暖簾をふわりと揺らした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
初めての投稿で緊張していますが、
紗江と葵の物語を温かく見守っていただけたら嬉しいです。
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