混濁
疲れていた。どうして最近こんなに。何もかも投げ出して眠りたい。
着信音。
「久しぶり。今大丈夫?」
「何の用。つまらない事じゃないでしょうね」
私は声を荒げる。
「いや、元気にしているかなと思って」
切電。
ふざけないで。
起きてしばらくぼうっとしていた。今日は休みだし、ゆっくりしよう。この頃なかなか疲れが取れない。一日中家でごろごろしていようかな。洗濯や掃除は明日にして、……電話! 唐突に昨夜の電話を思い出した。でも、あいつが電話なんかしてくるとは思えない。夢? 夢を見たの? 着信記録を確認する。無い。電話は無かった。夢だったんだ。そう、連絡してくる訳が無い。あんなに酷い別れ方をしたのだもの。今思い出してもはらわたが煮えくり返る。
◇
着信音。
もう、眠いのに。
「香織、俺だよ。会えないかな?」
「何言ってるの。馬鹿にしているの」
切電。
朝、目覚めてすぐに確認する。着信記録は無かった。夢だ。続けて嫌な夢を見た。思い出したくもないのに。一年前に別れた直人の事は、やっとふっ切れた。ずっと辛くて泣いていた。やっと平常心を取り戻せたのに。
◇
着信音。
「会いたいんだ」
「私は会いたくない」
切電。
起きて、ある筈が無い着信記録を確認する。やはり夢だ。このところ毎日のように、直人が「会いたい」と電話をしてくる夢を見る。何か許せない。いけしゃあしゃあと、会いたいなんて。私を捨てたくせに、たとえ夢だって図々し過ぎる。
◇
着信音。
「今度の土曜日にQで待っているよ」
「うん。わかった」
力なく起き上がり、ベッドに腰掛け、そして酷い自己嫌悪に陥った。どうして? なんで会う事を了承したのだろう。Qは彼と最後に会った喫茶店。貰った指輪を投げ返した場所。声が、以前と同じ彼の声が私を惑わせた。夢の中では判断力が鈍っているから、魔が差して勘違いしてしまった。今だって許していない。もし本当に出会ったら只じゃおかない。
◇
Qで直人は待っていた。
「久しぶりだね」
「今日は何? どういう用件?」
私は吐き捨てるように言った。
「きちんと話しておかなくては、と思って」
「言い訳はいらない」
すぐに席を立った。
起きた瞬間すごく不快で重い気分だった。何故会いに行ったの。考えられない。許していない、彼がした事。今更なんの言い訳をしたって絶対許さない。軽はずみに会いに行くなんて馬鹿な私。歯がゆいほど馬鹿。不甲斐無く、情けない。
◇
直人が追いかけて来る。
「待てよ。君だって俺の話を聞きに来たんじゃないのか」
「聞きたくない。もう電話してこないで」
わからない。どうしてもっと強く言わないの。逃げないで怒鳴りつければいいのに。あなた、どんなに私に酷い事をしたか分かってるの。どの面下げて私の前に現れたの。今更何の話をするの。私はベッドをドンドンと叩いた。悔しい、悔しいよ。
◇
着信音。
「明日、またQで待っている」
「行かない」
「このまま終わらせたくないんだ」
「……うん」
最近見続ける夢に苛立っていた。現実の私は、今も彼に激怒している。なのに夢では何であんなに優柔不断なの。乗り越えたのに。彼の事はもう終わらせたのに。
◇
「少し歩かないか」
「……」
「悪かったと思っている。あの子とはすぐに別れたんだよ」
「別れたからそれで許されると思っているの」
「思っていないよ。償いたい。これから時間をかけてずっと」
「考えさせて」
まだあの子と交際っているのは知っている。私が最も可愛がっていたあの後輩と。一年前に二人とは連絡を絶った。今では時折り噂を聞くだけだ。別れたいと言われて、その理由があの子と分かった瞬間、信じられなかった。冗談だと思った。でも二人揃って謝られたとき、視界が狭くなり顔がどんどん冷たくなっていった。感情が付いていけず、すぐに怒れなかった。一人になって、だんだん胃が摑まれるように痛くなって、頭が締め付けられるようになって、気付くと泣き叫んでいた。二人が私に隠れて会って、食事して、夜を過ごして、どんな相談をして私の前に現れたの。二人で寄り添いながら私に対する言い訳を考えていたの。呼吸が出来なくなるくらい胸が痛んだ。もしあの子と別れたとして、それで許せる訳が無い。元に戻れる筈がない。私の怒り、悔しさ、悲しみ、どうすれば修復出来るの。ありえない、許さない。今の私が許してもあの時の私が許さない。
◇
高い空と重なる紅葉。
立体的な稜線。
「きれい」
頬をかすめる秋の空気の芳しさ。
はしゃぐ私を彼は黙って見ていた。
初めてのデートで紅葉狩りに行った。あの時の彼は優しかった。彼と見つめ合うと時間が止まった。やわらかい空気が二人を包み込んだ。彼といれば、どんな些細な事にも心が弾んだ。どうして夢の中の彼は出会った時と同じ目をしているのだろう。でもそれは終わった事。過去の、楽しかった過去の思い出。
◇
彼のためにパスタを作る。
いつだって「おいしい」と喜んでくれる。
今日はあさりのパスタ、それとスープにサラダ。
作るたびに彼好みの味になっていく。
スープのだしも手作りのドレッシングも。
食べ終わって、レモンティー。
ゆったりと、余計な事は何も言わずに。
右にいる彼に寄りかかる。
静かな息遣い。
鼓動。
彼の匂いとぬくもりと……。
「香織がパスタを食べるなんて久々に見た気がする」
紗耶が言った。
「そうだっけ」
直人と別れてから一度も食べていなかった。嫌な事を思い出すから。元々そんなに好きではなかったのだけど、彼のためにメモをとって調理法を考えて、喜ぶ彼の顔を思い浮かべて。……なんでパスタなんて注文したのだろう。うっかりして、……別に気にしないで食べればいい。普通においしいから。そんなにムキになって考えなくてもいいの。思い出に罪は無いのだから。
◇
私は映画より直人ばかり見ていた。
光で色々な輝きに変わる陰翳。
穏やかな微笑み、時より私を気遣う表情。
その後、前によく行ったレストラン。
一緒にお酒を飲むのは久々。
私達、やり直せるのかな。
私は彼とよりを戻したいのだろうか。潜在意識の中でそういう気持ちがあるのだろうか。夢の中に現実の気持ちと裏腹の私がいる。彼にもう一度謝られて、……駄目、絶対許せない。
◇
「後悔している。君を失ってこの一年ずっと寂しかった」
「もういい。まだ気持ちの整理はつかないけど、あなたがそう言ってくれて良かった」
「ありがとう」
私は日ごとに混乱を増していた。夢の中の自分は何故心にも無い事を言うのだろう。夢の中に今現在の直人が現れて、あんな風に後悔していて、勿論本当の彼が今どんなだか知らないけど、それでも過ぎ去った思い出と片付けられない感情で、彼と向き合っている私がそこにいた。私は今の彼を求めているの? そんな気持ちを隠し持っているの?
◇
「明日、君の部屋に行くから」
「お昼は?」
「作ってくれる?」
「うん」
飛び跳ねるように起きた。大変。急いで掃除して、それから買い物……。何やっているの、来る訳が無い、夢なんだから。夢の中の気持ちは、もう完全に昔に戻っていた。そして彼を許してやり直していた。彼を愛していた。最近、現実の怒りを取り戻すのに時間が掛かる。すごく怒っているのに、怒りの感情は全く薄まっていないのに、気持ちを修正するのに手間取ってしまう。
◇
仕事帰りに紗耶と会った。彼女とは学生時代からの付き合いで、本音で話せる数少ない友達だ。
「ねえ香織。来月の連休だけど、温泉なんてどう」
「ごめん。来月は予定が……!」
……予定は無い。直人との約束は無い。約束したのは夢の中だ。夢と現実が同時進行して時々錯覚してしまう。
「温泉行きたい。ごめん勘違いした」
「香織、何かこの頃おかしいよ。疲れているの?」
「大丈夫。ごめん」
「じゃあ、のんびりと温泉につかりましょう」
「うん」
手帳に予定を書き込もうとして、一瞬めまいがして呼吸が出来なくなった。そこには直人と旅行する予定が書き込まれていた。
紗耶との旅行は楽しかった。温泉に入り、散歩して、お酒を飲み、食事をして。学生時代から今までの様々な事を話した。でも彼女は直人の事を全然話題にしなかった。
「今、直人はどうしているのかな」
そう切り出すと、紗耶は私の顔を窺うように見て
「別に。特に変わった事は無いみたい」
と答えた。
「あの子とはうまくいっているのかしら」
「……秋に結婚するらしいよ」
「そうなんだ」
私と毎日のように会っているのに。
「……許せない」
「そうよね。香織にあんな酷い事しておいて」
頭を整理すれば、冷静に考えれば、どこ迄が現実でどこからが夢か分かっていた。しかし咄嗟には分からない。私は今、直人とどういう関係なのか。やり直したのだっけ? ずっと会っていないのだっけ? 夢の出来事と現実の本当が交錯してしまう。彼を怒っているのか、許したのか、愛しているのか、憎んでいるのか、瞬時に判別がつかなくなっている。現実の怒りの感情に夢の中の感情が滲み込み、混沌として入り乱れてしまう。何故なら夢の中の気持ちは、過去の記憶の再現でなく完全に現在のものなのだから。
彼に会いに行こうと思った。話さなくて良い、遠くから見るだけで。私は最寄り駅で彼が出てくるのを待った。以前はこうやって待っていた。彼の部屋で待ちきれなくて、そして彼を見つけると嬉しくて、でもちょっと照れくさくて、すぐには声を掛けられなくて、そんな日々だった。
改札口から彼が出てくる。見つからないように隠れた。その姿は夢に出てくる直人と寸分も変わらなかった。優しい眼差しも同じだ。でも、それは隣のあの女に向けられていた。
許せない。昨日も愛していると言ったのに。
◇
「ねえ、あの子とは別れたのよね」
「勿論だよ。もうずっと会っていないよ」
嘘だ。昨日会っていた。駅から一緒に出てきた。
「あなたを信じたい。信じたいの」
「信じてくれ。あの子とは気の迷いだったんだ。俺は本当に反省して……」
私は彼を抱きしめた。
彼も私を強く抱き返してくれた。
彼の言葉に嘘は無い気がする。
あれは見間違い?
見間違いだったんだ。
私は一年以上直人と会っていない。一切連絡を取り合っていない。彼はあの子ともうじき結婚する。でも、ふと電話をしそうになる。彼のために何か買ってしまいそうになる。街を歩いていると、つい右手を伸ばしそうになって、何気なく名前を呼びそうになって。
◇
「今日あなたに電話したら、現在使われていませんというアナウンスだったの」
「そんな筈ないよ。今ここでかけてごらん」
「本当だ、繋がる。昼間はどうしたのかな」
「かけ間違いだろう」
「そうね。馬鹿みたい、こんなに不安になるなんて」
彼が消えてしまいそうで、ずっと塞ぎこんでいた。
どうしてこんなに心配したのかしら。
間違いなくここに彼がいるのに。
いつ指輪を外したのかしら、覚えが無い。何故していないのだろう。仲直りして彼が「もう一度してくれる」と言った指輪。胸騒ぎがして無我夢中で探した。化粧台、デスクの引き出し、どこへ置き忘れたの? 大切な指輪、……は投げ返したんだ。彼とは一年前別れたのだった。何やってるの。私はへたり込んだ。
だって残っている、指輪の感触が確かに。彼の記憶、二人の思い出、忘れられない。涙が溢れ出てきた。私は彼とやり直したい。その感情はもう誤魔化せない。今でも愛している。いつの間にか私は、夢の中で直人に会うのを楽しみにしていた。朝目覚めて、現実を受け入れる時間が一番辛い。ずっと眠り続けていたい、もう起きたくないよ。
◇
「ごめんなさい。あなたに貰った指輪、見当たらなくて」
私は左手を隠すようにしてそう言った。
「気にしなくていいよ。そのうち出て来るさ」
彼が手を取り指を絡ませて来る。
「心配なの。何か良くない事がおきそうで不安なの」
「俺がいるじゃないか。困った事があれば二人で協力して解決すればいいんだよ」
「うん、そうだよね」
「今度の週末に旅行しない? 前に行った海なんかどうかな」
「嬉しい。この前は紗耶と約束があったから、ごめんね」
「気にしないで。じゃあ連絡いれるから」
運転席に直人。
車が疎らになってきた道。
長くて緩やかなカーブ。
潮の香りに続いてゆっくりと大きく現れる海原。
まだ夏の光が残っている海岸線。
懐かしいように響く波の音。
靴を脱いで湿った砂の上を二人で歩くと、水がくすぐるように足を濡らす。
「結婚しよう。もう中途半端の事はしたくない。
「ええ。ずっとあなたと一緒にいたい。
◇
紗耶から食事を誘われて、待ち合わせの場所に行くと、思いつめたような暗い顔をしていた。最近自分が幸せすぎて、周りの人に気遣うのを忘れてしまう事が多い。紗耶に最後に会ったのは確か旅行の時で、明るい表情で、そう元気だった。あれから何かあったのかしら。
「ねえ、どうかしたの?」
私は席に着くとすぐに言った。
「実は私、直人の結婚式に呼ばれたのだけど」
紗耶がおずおずと言った。まだ具体的な日取りは決めて無いのに、彼は気が早い。
「出席してくれるでしょ、紗耶」
「いいの?」
紗耶は私を見つめ、低い声で訊いた。
「何言っているの。是非お願い」
「もう紗耶に声かけたんでしょう?」
「うん。君の親友だからね」
「あなたは何でも分かっているのね。誰よりも彼女に祝福して貰いたかったの」
◇
直人があの女と一緒にいた。ずっと会っていないと言っていたのに。親しそうに食事をしていた。あの女、また直人を誘惑する気だ。彼が最近誘ってくれないのは、あの女がまた。そんな事させない。彼は私を愛してくれている。あの女が付き纏って彼を困らしているんだ。あの時のような、あんな思いは二度としたくない。
「なんか元気ないね」
「そんな事ないよ。私、大丈夫だから」
彼はいつも通り優しい。
あの女さえいなければ。
「早く式をあげよう」
「そうね、早いに越した事はないわ」
◇
私は勤務先を退職した。式が近くなってきたから。
「そろそろ式の準備もありますので」
そう言ったら、みんな驚いていた。隠していたつもりはないのに。あの女の件だけ片付ければ、もう何も問題はない。
「新婚旅行は何処にしようか」
「会社はどのくらい休めるの」
「なるべく君との時間を作れるようにするよ」
「面倒な事は私に任せて」
私がすべて始末してあげる。
◇
着信音。
「私、紗耶だけど。ねえ香織どうしちゃったの」
「えっ、何が?」
「会社辞めたんだって。どうして? 何があったの?」
「だって結婚式も近いし、色々準備もあるから。結構面倒なものよ」
そう面倒な事は早く処理しなければ。
「結婚式って、一体誰の? ねえ香織しっかりして。今日、直人と会ったの。あなたの様子が変だから。あなたが直人と会っているような口振りだから、確認しに行ったのよ。別れてから一度も連絡とっていないと言っていたわ。香織、分かってるの。結婚するのはあなたじゃないのよ」
「もう、へんな冗談は止めてよ。いまだって隣に彼がいるのよ」
切電。
「紗耶ちゃん? 何だって?」
「私たちがあまりに幸せそうだから、つまらない悪戯電話してきたの」
「ふふ、やっかまれているのかな」
「そうかも」
彼の背中に頬を付けた。もう離さない、誰にも邪魔をさせない。それがたとえ紗耶であろうとも。でも今は何よりあの女だ。後腐れないようにきちんと処理しなければ。
私は翌日あの女の家を訪ねて行った。
「あなた随分ね」
「どうしたのですか、先輩。……ご無沙汰しています」
「いいのよ惚けなくて。黙って消えてくれれば」
「えっ? どういう事ですか」
血の匂いがした。右手が赤かった。もう一度両手で刺す。思いのほか熱い。こんな女でも、温かい血が流れているんだ。でも、すべて終わりよ。
「直人、もう何も心配無い」
「ありがとう。君のおかげだよ」
「ううん。二人の為だもの」
◇
最近夢で直人を見なくなった。
いつも側にいるから。
もう、私は眠らなくていいの。