第91話 悪い夢
〈醤油の瓶を割った口髭を生やした兵士視点〉
大量の食料を手にした俺達は、元々食料庫だった俺達の拠点まで荷車を引いて向かっていた。
口の中がまだイガイガとしていて、気持ちが悪い。
──ちっ、あのバロッサ人……あんな糞不味いモノを飲ませやがって……
俺は口の中を洗うようにして、唾液を口内に満たしてから、石畳に吐き出した。
「おい、誰かワイン持ってないか?」
「ホラよ」
俺は仲間から一瓶貰い、再び口の中を洗浄した。赤いワインを血のように吐き出す。そして、仲間の1人が言う。
「これさ、食材ばっかじゃん?誰か料理する奴も連行した方が良かったんじゃねぇか?」
「あっ……」
「確かに……」
「忘れてた」
俺は言った。
「そんくらい都市庁舎にいんだろ?」
「いや、でもこの高級食材を上手く調理できる奴がいんのか?」
確かにそうだ。
「じゃあさ、俺達の拠点の地下にいる女共にやらせっか?」
「は?バカか?あの女達が高級食材を調理すんのか?だったら都市庁舎の専門の奴にやらせた方がいいだろ?ていうかよぉ、俺はそんな高級食材よりか、そろそろあの女達を味わいてぇけどな?」
「ガハハハハ!!」
「そりゃちげぇねぇ!!」
「ハハハハハハ!!」
「聞いた話じゃ伯爵閣下や宿屋狩りしてる奴らはもう手を出してるらしいぞ?」
「は?じゃあ俺達もやって良いんじゃねぇか?」
「マジかよ!?だから食料調達を譲って来やがったのか!?ふざけんな!!」
すると荷車を先頭で引いていた奴の足が止まった。後ろで荷車を押している奴がそれについて不平を漏らす。
「おい!なんで止まんだよ!?」
荷車を引いていない俺も足を止めていた。その訳を先頭の者が告げる。
「おい、見たか今の女!?」
後方の者が不平を顕にしながら言った。
「女ぁ!?」
俺も口にする。
「見たこともないような美女だったな……」
俺の言葉に激しく同意する荷車を引く先頭の者。
「はぁ~!?なんで捕まえねぇんだよ!?」
その女は俺達の前を横切り、路地裏へと入っていった。それを見て、まるで時が止まったかのような感覚に陥った。だから足を止めてしまうのも必然的だった。
俺は言った。
「捕まえるのも忘れちまうくらいの女だったんだよ」
後方の者達が言った。
「じゃあ捕まえようぜ!?」
「俺達も女をあやかったって良いよな!?」
「そうだそうだ!!」
俺は荷車を引いていた先頭の奴らと顔を合わせ、頷き合い、後方の奴らに指示を出した。
「じゃあ後は頼んだぞ!?俺達はその女の後を追う!」
「は!?そうやって先に手ぇつけるつもりだろ?」
「違う!これは重要な任務だ!お前達にも必ずおこぼれを分け与えてやる!!おい、行くぞ!?」
俺達は女の入った路地裏へと向かった。
「おい待て!」
「コラふざけんな!!」
「マジで行きやがったな」
「アイツらにこの食材は渡さないようにしような?」
不満の声を背後で聞きながら、俺とあと2人の仲間は路地裏へと入った。ここは明るい大通りとは違って、薄暗い。それに急に静かになった気がした。これもこの薄暗い路地裏がもたらす効果であると言える。
仲間の1人が言った。
「どこ行ったんだ、あの女?」
もう1人の仲間が言う。
「その突き当たりの左右どちらかの道に曲がった筈だ!」
路地裏の正面は行き止まりとなっており、左右に道がわかれていた。俺達は急いで突き当たりまで走った。
「しっかし、あんな女初めて見たぞ?」
俺も賛同する。
「ああ、俺もだ……」
俺達は路地裏を走った。早くこの人目に付かない路地裏であの女を捕らえたかったからだ。
俺達は目的の突き当たりまで走り、俺はまず左側の通路を見た。
──誰もいない…ってことは右側か!?
俺は右側を振り向く。しかし右側の通路にも誰もいなかった。俺の仲間が俺とは逆のことをした為に、目が合う。
そして俺達は目を合わせたまま言った。
「消えた?」
「消えた?」
「そんなまさか!?」
すると次の瞬間、俺が見ている正面の通路、つまりは先程走っていた時に見えていた右側の通路の上から何かが落ちてきた。
「は?」
「ん?」
「なんだ!?」
俺達は、その落ちてきたモノ、いや人に焦点を合わせる。さっきの女だ。
どういうわけか空から降ってきた。しかしこの際それはどうでも良い。艶やかで長い灰色がかった茶髪に、真白く輝く柔らかそうな肌。片目が隠れているが、もう片方の顕となった目に気高い品性のようなモノを感じる。この女が目の前にいる、それだけで俺達の胸と股間が熱くなった。
俺は2人の仲間の代表として口を開く。
「なあ、アンタ、俺達専属の料理人になってくれねぇか?」
女は言う。
「臭うぞお前ら…醤油の臭いがする……」
苛立ちを顕にする女。何を言われているのかさっぱりわからないが、俺達にそんな口のきき方をするなんて、後で後悔させてやろうと俺は思った。だがいくら路地裏とはいえ、大声を出されたくはない。最悪、誰かが駆け付けて来るかもしれない。そうなれば面倒だ。
だから俺はゆっくりと女との距離を詰める。しかし、仲間の1人が女の口のきき方に激昂したのか、それとも良い女を前にして我慢の限界に達したのか、女に掴みかかろうとした。
腕を伸ばして、女の肩に触れようとしたその時、伸ばした腕、具体的に言うと手首から指先が消えてなくなった。
「は!?」
「え?」
「ん?」
俺と2人の仲間は女が上から落ちてきた時と同様にして疑問を呈する。手首が失くなった仲間はようやく事態を飲み込み、痛みに喘ぎ始めた。
「いぎにゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
その場で膝をつき、手首の失くなった断面を触ろうか触るまいかと言った身振りをした。俺はそれを見てこれは悪い夢なのかと思った。
何故なら、仲間のその失くなった手の断面から血が出ていないからだ。その代わりに赤黒い煙のようなモノが立っている。
困惑する俺達は完全に出鼻を挫かれた。そして女は眉一つ動かさずに口を開く。
「お前らは一体誰を探している?」
この質問で俺達はこの女がただの女ではないことをようやく悟った。すると、手首を失くした仲間がまたしても悲鳴をあげる。
「うぎにゃぁぁぁぁぁぁ!!!!」
俺ともう1人の仲間は叫び声を上げる仲間に再び焦点を合わせ、驚く。
「うっ!?」
「ッ!?」
なんともう片方の手も失くなっていたのだ。また、同様にして切断された断面から赤黒い煙が立っている。
──何がどうなって……
俺が疑問に思っている間に女は両手を失くした仲間に質問する。
「お前らは誰を探している?」
「し、知らねぇんだぁぁぁ!!だ、男女の2人組としか聞いてねぇぇぇぇぇ!!!」
叫び声に言葉を乗せたような声だった。その時俺は気が付く、大声を出せば誰か助けが、いや誰かが俺達に気が付いてくれる筈だ。
そう思ったのは俺だけじゃなかった。もう1人の仲間がそう悟り、大声で助けを呼びながら女から離れようと走った。
「誰か助けてくれぇぇ!!!」
俺は思った。
──ちっ!?出遅れた!!
俺をこの場に残して、1人だけ助かろうとする仲間に糾弾を込めた視線を送ると、その視線の先の仲間は胴体を切断され、路地裏の地面に倒れる。
「うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
女のソッとした声が聞こえた。
「言い忘れたが、お前達の声は漏れでないように風で操作している」
俺は女の方を振り向いた。女は続けて口を開く。
「お前達は知らないというが、誰なら知っているんだ?」
両手を失った仲間は痛みに喘ぎながら答える。
「ぶ、部隊長が!!部隊長が知ってるぅぅ!!」
「そうか……その部隊長とやらはどこにいる?」
「と、都市庁舎のしょ、食料庫ぉぉ!!」
女はそう言うと、俺に視線を合わせた。俺は恐怖でその場から一歩も動けなかった。
「あ、ぅ、あ……」
震えのせいで、俺の声帯が勝手に震え、自然と声にならない声が漏れ出た。
「お前は誰を探しているのか、知ってるか?」
知らない。これは本当だ。部隊長がそれを知ってる。これも本当だ。だが国王派閥の有力貴族なのではないかと俺達の間では噂になっていた。それを言おうとしたが次の瞬間、俺は宙を浮いていた。そして物凄い速度で上昇すると、路地裏を形成していた2つの建物の屋上を見下ろす程の高さまで到達した。そして上昇が終わり、落下が始まる。
建物と建物の間に入り込み、路地裏に再び侵入する。すると女の声がした。
「誰を探している?」
答えなければこのまま地面に激突して死ぬ。俺は直感でそう思った。だから答えた。
「ゆ、有力貴族──」
しかしもう地面は俺の眼前に迫っていた為、俺は言葉を途切れさせ、息を飲んだ。俺は顔面から地面に激突した。
顔面に激しい痛みが伴った。恋しかった地面に横たわる。しかし自分が生きていたことに驚いた。
これは夢だ。歯が折れ、鼻血を出していて死ぬ程痛いが、俺はあの高さから落ちてまだ生きているのだ。それに先ほどまでいた筈の同じ路地裏なのに両手を失くした仲間がいない。俺は後方を寝そべったまま振り向き、胴体を切断された仲間を見た。
やはりそこには誰もいなかった。
──これは悪い夢だ。
しかし、俺は起き上がれなかった。そして女の声が聞こえる。
「セラフ様の作った醤油の恩恵か……ならば直ぐに死ぬことはない。その身体で自分のした行いを悔いながら死ぬと良い」
女はそう言って何処かへ消えていった。
「ふ、ふざけた女だ!!」
いくら夢の中とはいえ、女にコケにされては腹が立つ。俺が目覚めたら必ずや、この都市にいる女を犯し尽くしてやる。
そう思ったその時、俺の両手の指先に激痛が走った。俺は利き手である右手を見た。全ての指の尖端が徐々に失くなっていく。いや、よく見ると小さな竜巻のようなモノが指先を切り刻んでいるのが見える。
「うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
それは爪を切り刻み、第一関節、第二関節を侵食するように切り刻む。その竜巻は指先だけではなく足先にも出現しており、俺を切り刻んでいた。そしてそこからは切られた肉や骨だけでなく血すら出てこない。何故なら、その小さな竜巻が俺の肉と骨と血を切り刻み塵と霧に変え、それらが煙のようにして蒸発しながら天に昇っていくからだ。
「あ、あぁぁぁぁぁ!!!俺が何をしたっていうんだぁぁぁぁ!!?」
腕が失くなり肩も失くなり始める。こんなにも身体が痛く、血も失くしているのに、俺の意識はまだ残っていた。
「いでぇぇぇ!!!いでぇぇぇよぉぉぉ!!」
太股が消え、下半身が消えていく。これは夢なんかじゃない。俺はこの痛みの恐怖よりも、自分がこの世から文字通り消えていく恐怖に怯えた。
「嫌だ!!消えたくない!!消えたく──」




