第58話 探り
〈帝国宰相マクベスの親衛隊バンコー視点〉
あのまま帝国へ帰ってしまおうかと思った。今思い出すだけで、身の毛がよだつ。目を閉じればあのポッカリと空いた洞窟内の穴が押し寄せてくる気がした。
幻覚や精神魔法の恐ろしい点は、自分がいつその魔法にかかったのかわからないところにある。
馬に乗って暫し帝国へ向かって走ったが、この恐怖心を長い間保っていられることもできず、魔の森から十分距離がとれた辺りで私達は少しだけ冷静になった。
仮にハルモニア神聖国のリディア・クレイルが400人の帝国兵と2千人の騎兵隊に精神支配をかけて、あの穴に落としたのであるならば、ヌーナン村は現在どうなっているのか。それを知る必要があった。
まさかリディアの手に、いやハルモニア神聖国の手に落ちてしまったのか。そうであるならばバーミュラーから派遣された王国騎兵隊と一悶着あった筈である。いや、ハルモニアはそう悟られぬよう平静を保っていたという可能性も。そう言ったことを確かめねばならない。
我々は恐怖を感じつつも、ヌーナン村へ馬を走らせた。
目的のヌーナン村へ到着した。既に陽も沈み、食欲のそそる夕食の香りが仄かにしていた。
──これはなかなか攻め落とすのに苦労する……
木製の壁は約5mの高さで築かれ、壁に傷や日焼け跡があまりないことからまだ新しく、モンスターや人間達によって、未だ襲われたことのない様相を呈している。
我々は村の外で馬を繋ぎ、村の中へと入った。
皆、活気に溢れ、普通に生活している。冒険者の出入りが多い印象だ。
私達はまず村長の邸宅を訪ねようとしたが、思い直す。
──この村は一度、バーミュラーの騎兵隊によって守られている……
その際に、村長が帝国と繋がっていたことが明るみとなっている可能性がある。また、我々が接触してくるかもしれないからという理由で泳がされている可能性も。
──いや、ハルモニア神聖国がそのように仕向けている可能性もあるのか……暗殺者ギルドのアルベールも一枚噛んでいるかもしれない……
考えれば考えるだけ深みに嵌まっていくように思えた。
「と、取り敢えず宿をとることにしよう」
「ああ」と親衛隊の仲間が同意する。
村を探索しながら、宿屋を探していると、この村の掲示板に目がいった。
『魔の森の活性化についての報告』
私達はその張り出された報告書を読んだ。
この報告書ではモンスターの繁殖期と縄張り争いが原因となっているが、私達は先ほど魔の森でハルモニア神聖国のリディア・クレイルのものと思われる精神支配の痕跡を見たのだ。魔の森で事が起きていると私達は思わざるをえなかった。
親衛隊仲間の1人が口にする。
「ちっ、まだ調査中なら俺達も魔の森に入って探索できたんだけどな……」
私は言った。
「ああ、しかしまだ報告がなされて間もない。これから行く宿屋にいる冒険者達に色々と訊いてみようじゃないか?」
我々はこの村で一際大きな建物にして、美味しそうな夕食の香りをたたせている『黒い仔豚亭』という宿屋へと向かった。
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〈セラフ視点〉
アーミーアンツのフェロモンを振り撒いた帝国の者と思わしき者達が、ヌーナン村を散策していた。僕は彼等の行動を監視していた。勿論、母さんやデイヴィッドさんに一言告げてからだ。彼等は初め、村長の屋敷に向かっていたが思い直し、村を徘徊して、村の掲示板に目を止めていた。
その時の彼等の会話では、最近の魔の森について冒険者達に色々と訊いてみようとしか語られなかった。
この会話だけでは、彼等の狙いや考えていること等わからない。しかしこれから彼等は『黒い仔豚亭』へと来店してくる。
空き部屋はなく満室なのだが、リュカとトウリョウさんに急ピッチで通路兼宿泊施設の1室を仕上げてもらった。
これで彼等から情報を得られる。
僕は一足先に監視を切り上げて、もう営業が始まっている宿屋へと帰った。
「ダーハッハッハ!」
「追加のエール入ります!」
「そんでよぉ!」
「キノコとベーコンのソテーお願いします!」
酒場は既に大盛況であり、僕は直ぐに厨房へと入る。
「どうだった?」
デイヴィッドさんがフライパン片手に訊いてきた。
「まだ帝国の人達だって確信できなかった……でもこれからここに来店してくるみたいだし、宿泊するつもりだよ」
「そうか…緊張するな……」
僕らの緊張を他所に、アビゲイルが注文を読み上げた。
「オークのジンジャーソテー入ります!」
お客さん達の声も次第に大きくなる。
「うめぇ!!」
「ハハハハ!!」
「あの野郎がさぁ!」
ジャンヌも注文を読み上げる。
「2番さんにエールの追加をお願いします」
僕はエール樽よりエールを樽でできた杯に注いで、ジャンヌに渡した。
「ありがとうございます」
ジャンヌはそれをお客さんの声のアーチをくぐりながら2番テーブルに運ぶ。
「アイツがさぁ」
「ダーッハッハッハ!!」
「マリーさんが子持ちなんて……」
「リュカちゃんもアビゲイルちゃんも良い子なんだよなぁ」
次に僕は、母さんが取ってきたオーダー、蟹のコロッケを作る。しかしその時、青みがかった黒髪を揺らしながら、あの冒険者の女性が食事処に入ってきた。髪が少しだけ湿っているところを見ると、大浴場から上がった後だとわかる。
──気に入ってくれたかな?
お姉さんはキョロキョロとこの空間を見渡し、そして厨房が一望できるカウンター席に座る。
この食事処に身体を馴染ませるように暫し後ろを振り返ったり、厨房を眺めたりしていた。僕は揚げ終えた蟹のコロッケをデシャップに出して、次のオーダーであるオークのジンジャーソテーに取り掛かろうとするが、一旦お姉さんの注文を尋ねてみた。
「お姉さん!ご注文はお決まりですか?」
「……」
お姉さんは少しだけ考え、僕が魔力を通すと火が出る魔道具の上に乗せたフライパンを見つめながら言った。
「これから何を作るつもりなんだ?」
僕はお姉さんの視線の先であるフライパンを見ながら答えた。
「これから、オークのジンジャーソテーを作るつもりです!」
「私もそれを頂いても良いか?」
「かしこまりました!」
僕がオークのジンジャーソテーに着手している時に、リュカが滑り込むようにお客さんからの注文を口にする。
「オークのジンジャーソテー入りまぁす!」
僕は返事をする。
「了解!ってことは全部で3人前かぁ……」
食材を足そうと、薄切りにしてあるオーク肉を取っている最中にお姉さんはジャンヌに注文する。
「何か飲み物をくれないか?」
「エールでしょうか?それともワインでしょうか?」
「…いや、水で結構なのだが……」
「かしこまりました」
ジャンヌとのやり取りの最中に僕は、脂をしいたフライパンにオニオンを透明になるまで炒めてからオーク肉を入れた。ジューという音が立ち、両面に焼き目がついたら、砂糖とすりおろした生姜と白ワインと醤油で作った合わせ調味料を入れる。熱されたフライパンに冷たい調味料が加わる為に、焼いていた時よりも大きな音が厨房に響く。そして火の通った生姜と醤油とオーク肉の良い香りが立ち込める。
しかしこの時、僕は違う匂いをかぎ分けた。
それはアーミーアンツのフェロモンの匂いだ。つまり、帝国兵と思われる者が来店してきたということだ。
入り口でローラさんが対応するのが見える。
ローラさんはその帝国の者と思われる3人を案内しながら、先程空いたばかりで片付いていない1番テーブルを直ぐ様片付けるので、このカウンター席で酒でも飲んで待っていてくれないかと言っていた。
帝国の者と思われる3人はそれを了承して、一旦カウンター席に着こうと歩いてきたが、次の瞬間、何か途轍もなく驚いた表情をして、直ぐに踵を返した。そしてそのまま逃げるようにして店から出ていった。
──何故だ?何故帰った?
僕が呆けていると1番テーブルの準備をし終えたローラさんが辺りを見回しながら僕に言う。
「あれ?さっきのお客さんはどこ行っちまったんだい?」
僕は答える。
「か、帰っちゃった……」
僕と同じ厨房にいるデイヴィッドさんが言う。
「セラフ、これもうできてるぞ?」
僕は慌てて作りかけのオークのジンジャーソテーを仕上げた。




