第2話 黒い仔豚亭
〈田中周作視点〉
あれから10年が経った。
僕は母さんと、ここ田舎村であるヌーナン村で暮らしていた。
澄み渡る空と自然豊かな空気、優しい陽光に緑溢れる森。決して裕福な暮らしではないけれど僕はこのヌーナン村が好きだった。
「セラフ~?」
母さんが僕を呼ぶ。僕は田中周作という前世の記憶を持っているが、今はセラフ・エンゲイルという名前だ。
「起きたら早く手伝いなさ~い!」
僕と母さんは今、宿屋『黒い仔豚亭』で働きながらその1室を間借りして暮らしている。宿屋と言ってもただ、客を泊める施設だけではなく、酒場の役割も担っていた。
僕はそんな宿屋で出すエールを買いに行く役割を最近任されるようになったのだ。
「は~い!」
僕は2階の廊下を走り、階段を目指す。
吹き抜けとなっている為、1階で床を磨いている母さんが見える。
階段へ到着し、駆け下りようとすると階段を掃いていたこの宿屋を経営する主人の娘、アビゲイルが僕に不平を漏らした。
「ちょっと!掃いたばかりなんだからドタドタしないの!」
アビゲイルは現在15歳で、この宿屋の看板娘だ。赤毛で可愛らしく、気立ての良い娘である。前世の僕が17歳で死んでいることからほぼ同い年ではあるが、その頃の僕よりもずっとしっかりしていた。
「はいは~い!」
僕は素っ気ない態度で階段を飛び降りる。後ろでアビゲイルの「もう!」という呆れた声が聞こえた。
着地を決めた僕に、今度はこの宿屋の主人であるスキンヘッドで体格の良いデイヴィッドさんが僕に銀貨と銅貨の入った麻袋を投げた。
「いつもの頼んだぞセラフ」
「了解!」
僕は投げられた麻袋をキャッチすると、アビゲイルが言った。
「お金を投げないの!」
デイヴィッドさんは後頭部に手をやって、注意されちったと舌を出す。
「まったく……床下にでも入ったらどうするつもり!?」
「ま、まあまあ、そん時ゃ、そりゃ探すよなぁセラフ?」
「そうそう!」
僕は頷きながらデイヴィッドさんに賛同した。するとアビゲイルは呆れるようにして呟く。
「まだリュカが見つかってないのに……銅貨1枚でも失くしたら大変なんだからね!」
デイヴィッドさんは娘に叱られて、謝った。
「ご、ごめんて……次からはやらないからさ……」
相変わらずだなと思ったが、それよりもと僕は尋ねる。
「リュカがどうかしたの?」
リュカとはこの宿屋で飼っている茶色い毛並みの雌牛のことだ。よく乳を搾っては料理に加えたり、お客さんにミルクとして振る舞っていた。勿論僕たちも飲んでいる。
「それが──」
アビゲイルは説明した。
リュカが早朝から行方不明になっているとのことだ。昨日の夜にはいたらしい。だから陽が昇ってからすぐか、もしくは、いたと確認できたその夜から日が昇るまでの間にいなくなったと推測される。最近この田舎村では家畜がいなくなってしまう事件が相次いでいたが、リュカは今までに何度かいなくなっており、僕やデイヴィッドさんもそこまで心配していなかった。きっとまた、ひょっこり出てくるか、隣のルーベンスさんの牧場に紛れているんだろう。
──取り敢えず、そんなに遠くへは行ってないだろうから、捜索は買い物が終わってからにしよう……
「きっと見付かるって!」
僕はアビゲイルに声をかけて、宿屋を出ようとした。すると床を掃いていた母さんが言った。
「気を付けるのよ?」
「うん!」
僕は返事をして宿屋を出た。宿屋の前ではデイヴィッドさんの奥さんで、アビゲイルのお母さんであるローラさんが宿屋の看板を磨いている。
「セラフ、本当に1人で良いのよね?」
長い赤毛を後ろ一本で縛っているローラさんが僕に言った。僕は首を傾げると、ローラさんは続けて言う。
「いつもは2人がかりで荷車を引いていたから……」
僕がお酒であるエールを買い付ける仕事を任されるようになったのは最近のことだ。エールの入った樽を合計4つもこんな子供が運ぶなんて危険だと思うのも当然のことである。
だが僕には付与魔法があるのだ。付与魔法とはエンチャントとかバフとかデバフとか、ゲームでいう身体強化や精神強化、魔力強化等を武器や防具、人や自分自身に付与することができる魔法のことだ。
そんな力を行使して僕は自分と同じくらい大きなエールの入った樽を簡単に運ぶことができるのだ。
僕は心配するローラさんに言った。
「問題ないよ!住まわせて貰ってるし、このくらい役に立ちたいからさ!」
ローラさんは少し戸惑いながらも「お願いね」と言って僕を見送る。
僕は転生して間もなく、この世界の父さんの渇望していた四大属性魔法を行使する力がないことがわかり、母さんと共に領地から追放されることとなった。父さんは母さん曰く、偉い貴族らしい。
そんなお偉い父さんは女奴隷として働いていた母さんに手を出し、生まれたのが僕ってわけだ。生まれたばかりのころ、神父様から四大属性魔法が使えないと告げられたあの時、あの場に父さんの隣にいたのがおそらく正妻である。なるほど僕と母さんを目の敵にしていたのはそういうことが理由にあるのだろう。
そして母さんと赤ちゃんの僕の長い旅の末、ここに住まわせて貰っている。このヌーナン村は、シュマール王国の南東に位置しており、同じシュマール王国に属する父さんの統べる領地からは遠く離れた地らしく、南のヴィクトール帝国と東から北東にかけて広がる魔の森というモンスターの棲息する未開の森、通称魔の森に程近い。
魔の森では薬草やモンスターの素材集めをこなしに各国の冒険者が、この田舎村に集まる。田舎であるのだが、それなりにここは賑わっていた。
さて、僕はエールの調達をしなければならない。その目的地に今到着した。
修道院だ。